武闘派「元」伯爵令嬢は、今日も最恐です。(完)
渇いた音が空気を震わせ、周囲が静寂に包まれる。
「へ?」
「あ?」
「ん?」
「うそだろ?」
騎士たちが驚きの表情を浮かべ、目を見開いて立ち尽くす。
その目の前で、コーデリアは手のひらの一閃をアステリーゼの頬に穿っていた。
アステリーゼの頬が赤く染まり、顔は叩かれた衝撃で横に引き延ばされるように曲がったままだ。
ただ呆然と動けないでいる彼女を前に、コーデリアは一歩も引かず、さらに間合いを詰めた。
凄絶な笑みを浮かべたその表情は、まるで何も恐れぬ者のそれのようだ。
「これまであなたが私にしてきたことを、百歩譲って許してあげたとしても――」
コーデリアの冷徹な声が、言葉ではなく鋭利な刃となって空気を切り裂く。
「私の旦那様や、私の家族にしたことを、許したわけではないわ」
コーデリアの言葉に、僅かばかり気を取り戻したアステリーゼが侮蔑の入り混じった表情を隠そうともせず、鼻で笑って言い捨てる。
「か、家族? 馬鹿じゃないの?」
コーデリアは困ったように眉根を寄せたが、すぐに冷ややかな笑みで口の端を釣り上げるだけだった。
「だいたい、お義姉様に家族なんていな――」
その言葉が続く前に、コーデリアの水色の双眸がアステリーゼの目の前に迫る。
「私の大切な侍女や、使用人たちに無礼をはたらいたのは、あなたでしょう?」
「使用人風情をかぞ――」
「誰もしゃべっていいなんて、言ってないんだけれど?」
「なによ、コーデリアのふへに!!」
アステリーゼの左頬を、コーデリアは指先で捻るようにして横に引き延ばす。
「先ほどのは、旦那様の分」
コーデリアの冷静な言葉が静かに響く。
「これは、私の家族の分」
ぎゅうう、と指先に力を込めれば、アステリーゼが悲鳴を上げる。
「ふざけないで、ぶっ――」
アステリーゼがさらに言葉を発しようとした瞬間、コーデリアはその頬を片手で無慈悲に鷲掴みにした。
「これは今の私の分」
悠然と笑みをこぼし、静かに語りかけるように言った。
いつもと違う雰囲気を漂わせるコーデリアに、カイルは明らかに動揺していた。おろおろとコーデリアの後ろから様子を窺おうとするさまは、まるで大きな犬のようだ。
確かに、屋敷はほぼ全壊状態で、もはや住むことができる状態ではない。雨は止んだとはいえ、冷たい風が吹き込んで寒さが身にしみ、疲労も溜まっている。今日一晩はここで野営をするか、町に向かって宿を取るかが得策だろう。
そのような状況を考えれば、コーデリアの苛立ちが理解できないわけではなかった。ただそれ以上の怒りが彼女の中で燻ぶっているようで、正体がわからずどうしてやればよいのかがわからない。
だが、アステリーゼの言動を思い返すと、彼女はおそらく本当に「何も知らない」のではないかという気がしてならなかった。完全な無罪ではないにしろ、直接的に手を下してはいないのだろうと推察できる。
だとすれば、今ここで無理に糾弾するよりも、一度冷静になった後で、腰を据えてじっくり尋問をする方が賢明ではないか。
少なくとも、今はコーデリアの濡れた体温をこれ以上奪わせないことが最優先だし、何より、あの綺麗な顔の傷についてはいち早く手当てをしたいところであった。
「コ」
カイルが肩に手を伸ばしかけると、コーデリアが一拍早く振り向く。
コーデリアの目を見るや否や、カイルの動きがぴたりと止まり、表情を固めたまま立ちすくんだ。
「旦那様、あとにしてくださる? 今、アステリーゼと《《大切な》》お話をしておりますので」
カイルは二歩、三歩後退し、思わず目を泳がせる。
「……あ、うん」
間の抜けた返事が漏れる。
その様子を遠くから見ていたアルマーは、鼻をすすりながら感極まった様子で呟く。
「奥様、お強くなられて……。じぃは、じぃは……!」
その横では、マートルが三角眼鏡の奥から涙を止め処なく流していた。
「ご立派でございます。奥様……さすがライグリッサ辺境伯の奥方様にございます……!」
マートルは手にしていた包帯でそっと両頬をぬぐう。
その横では、フェンネルが頬杖をついてため息をついていた。
「あーあ。カイル様、絶対一生尻に敷かれますね」
同意だとばかりに、キャリーンとミレッタが何度も頷く。
「でも、あれくらいで済んだのですから、可愛いものだと思いませんか?」
「あれぐらい? どういうことじゃ」
騒動を聞きつけ、髪を束ねながらエルウィザードがイェニーに尋ねる。
彼女はとぼけた様子で、「さぁ?」と空に視線を投げかけた。
篝火の近くで、それまでアステリーゼを見守っていた男たちが、戦々恐々、喧々諤々と言った様子で体を震わせている。
「カイル様が、引いた……」
「ていうか、嫁、最強じゃね?」
「いや、《《最恐》》だろ……」
「決して怒らせてはいけないという意味では、イェニーより怖いぞ」
騎士たちがその様子を遠巻きに見て、口々に囁きながら顔を見合わせて同時に頷く。
辺境伯夫人を怒らせてはいけない――それは誰もが感じた強い確信だった。




