「身売り」された伯爵令嬢
ライグリッサ邸からやや離れた草原には、なおも戦いの余韻が色濃く残っていた。
長く降り続いた雨がようやく止み、雲間から覗く夜空には無数の星が瞬いている。
遠くでは、夜行性の猛禽が獲物を求める鋭い鳴き声を響かせている。
白い靄がそこかしこに立ち昇る中、人々はせわしなく動き回っていた。
アルマーは的確に指示を飛ばし、負傷者の搬送や陣の整理を迅速に進めている。
その傍らでは、蒼白な顔の聖女エルウィザードが、聖女候補たちを励ましながら先頭に立って治療に奔走していた。
イェニーは、包帯を巻く手を緩めることなく、焚火を見張る騎士に湯を絶やさぬよう声をかけている。
屋敷からコーデリアを抱きかかえて合流したカイルは、《《妻》》を焚火の傍に下ろすと、自らの治療を後回しに状況の把握のために、アルマーの所へ足を向けた。
コーデリアは治療を受けるようにカイルに念を押されたが、やるべきことは山ほどある。
道具を借り受けて自分で応急処置をし、何かできることはないかと治療を待つ人々の列に向かった。
「奥様!」
処置を手伝っていると、泣きそうな顔をしたイェニーが駆け寄り、コーデリアを思いきり抱きしめた。ややあって体が離されると、上から下まで入念にチェックされた後、説教が始まる。
面目ないと肩をすぼめていると、誰かが背中の服をつんと引いた。
驚いて振り返るとキャリーンが涙を堪えきれず、ボロボロとこぼしていた。
ぎょっとするコーデリアに、満面の笑みで腰元に引っ付いたミレッタが、キャリーンをからかった。次の瞬間、容赦なくその脳天に拳を振るわれ、押しも押されぬ喧嘩が始まる。
そんなやりとりの最中、エルウィザードが片手を上げて、気安げに近づいてきた。
「怪我の具合はよいのか」
簡単に消毒をし、適当に巻いただけの足首の包帯を示され、コーデリアは「あ」と息を呑む。すぐ背後に控えていたイェニーが悪鬼が如く顔を怒らせた気がしたからだ。
誤魔化すように視線を彷徨わせていると、エルウィザードに呼び止められた聖女見習いの女性の一人が、聖術で治療してくれた。礼を述べる間もなく、彼女は一礼をして、また治療に戻っていく。
コーデリアは改めて聖女に向き直ると、「聖女様の祝福のおかげで魔物を倒すことができました」と礼を述べた。のだが。
「え――?」
エルウィザードはまるで信じられないことを聞いたかのように、眉を寄せ、何度も首を傾げる。しまいには「祝福にはそんな力はない」とか「お主は何か、重大な勘違いをしておるのでは?」などと顔を覗き込まれ不思議そうに視線を注がれ続けることになってしまった。
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一方、篝火が赤々と燃える陣の端では、泥まみれの女が縄を掛けられたまま喚き散らしていた。
「離しなさい! 私は聖女候補なのよ!」
アステリーゼは、キンキンと響く声で自分は選ばれし特別な存在であることや、こんな仕打ちは不当だと喚き、伯爵家の名を振りかざし、吠えていた。
さらに、後援者の有力貴族の名をちらつかせたり、自分がライグリッサ辺境伯夫人の妹であることを強調し、解放を訴えた。
しかし、煙たそうな顔をするだけで誰も取り合わない。
「おい、お前。――自分の《《侍女》》のことはどうでもいいのか?」
フェンネルが片足をついてナイフを手で弄びながら呆れたように問いかけると、アステリーゼは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「侍女?」
「ルワナとか言う、彼女だよ」
フェンネルがナイフの先で示したのは、焚火のすぐ近くで寝かされている女性だった。見える側の横顔に大きな布が張られていた。ぐったりと横になっており、瞳は閉じられている。顔立ちを見ても、アステリーゼの記憶にはなかった。
「知らないわ、あんな女」
「はぁ?」
「あなたバカなの? 聖女候補には侍女はつかない。そんなの、誰でも知っているはずでしょ?」
もっとも、アステリーゼがその事実を知ったのは神殿に入ってからだった。
母親は半ば強引にアステリーゼを神殿に送り込んだ。
聖女候補だと聞いていたはずが、蓋を開けてみれば、候補どころか「見習いの候補」というよくわからない立場だった。「聖女候補を目指す見習い」などという立場は、聞いたことすらなかった。
けれど、どのような端くれでも「聖女」という言葉が持つ影響力は絶大だ。
全てはより良い条件の結婚相手を得、家同士の結束を固めさらに各々が繫栄するため。
耳障りの良いその「肩書」を手に入れるため、貴族たちはこぞって娘たちを神殿に入れていたのだという。
それは多額の寄付と引き換えだった。そんなところは嫌だと、話を聞かされもちろんアステリーゼは拒んだが、ほんの数ヶ月、「聖女」や「聖女候補」の傍で花嫁修業の延長線上として、礼儀作法を身に着けるだけでよい、と母もあの人も言っていた。それなのに。
(まるで《《身売り》》じゃない!)
話が違うと、同じように神殿に入れられた令嬢たちの泣き声を聞くこともしばしばだった。
以前はお金で買えた「肩書」だったのに、数年前新しく聖女に就任したエルウィザードとかいう女によって、実際に就労奉仕をすることになったのだという。
冗談ではないと、神殿から逃げ出したのはそのすぐ後だ。家に戻りたいと母に何度も縋ったが、母は困ったような顔をして「こうするしかないのよ、わかってちょうだい」と繰り返すばかりだった。
おかげで、本物の「聖女候補」たちからは侮られ、見下され、細々とした用事を言い付けられ、時には自分より身分の低い、平民の娘にまで頭を下げなければならない屈辱を味わった。
小間使いのいない生活など経験したことがなかったアステリーゼは、この一か月間、散々な目に遭っていた。
(そもそも私がここに来たのだって、お母様が行けというから――。お母様が言う通り、いつまでもお金を送って寄越さないお義姉様が悪いのよ)
「あのなぁ」
ブツブツと独り言を呟いて、一向に話を返そうともしないアステリーゼに痺れを切らし、フェンネルが声をかける。けれどもマートルが三角眼鏡を光らせながら片手で制した。
「今言っても無駄ですよ、フェンネル。たとえ知っていても、口を割る気はないでしょうからねぇ」
「だから知らないって言ってるじゃない!!」
冷たい視線を正面から睨みつけ、食ってかかるアステリーゼに、フェンネルは母の言葉が正しいと肩をすくめた。
苦々しい表情で唇を噛み締めるアステリーゼは、ふと聞きなれた声に誘われるように視線を上げた。
焚火の向こうで談笑しながら誰かの手当てをしているコーデリアの姿が目に入る。
(あの……、女!)
アステリーゼの顔が瞬く間に憎悪に歪む。
次の瞬間、甲高い罵り声が響き渡った。
「コーデリア! あんたのせいよ! 全部あんたのせいなんだから!」
その叫びに、一瞬、周囲の空気がざわめく。
針のような視線がアステリーゼに向けられたが、彼女はまったく気にしなかった。
湯桶を運んでいたキャリーンが足を止め、手に抱えた煮え湯を見下ろしながら、ゾッとするほど低い声で呟いた。
「浴びせてやろうか」
「激しく同意」
消毒液を交換していたミレッタが静かに頷く。
「どいつもこいつも、ほんとになってない……。やっぱりライグリッサなんて野蛮人の集まりよ。最低だわ。最悪よ!!」
縄できつく縛られたままの両拳を地面に叩きつけ、アステリーゼは大声で泣き始めた。
誰もが呆れ、ため息をつきながら視線を逸らしていく。
「なんなのよ……! なんなのよ!!」
誰か助けてよ。
どうして誰も助けてくれないのよ。
私は何も悪くない。
誰も助けてくれない苦しみを、なぜ誰もわかってくれないのか――。
虚空に向けて、喉が裂けんばかりに絶叫を上げたアステリーゼの姿は、見るも無惨だった。
うずくまるようにしている彼女の衣服が汚泥を吸い上げ、色を変えていく。
じゃり、とぬかるみを踏みしめる音がアステリーゼのすぐそばで聞こえた。
視界が翳り、誰かの姿が視界に入る。
「アステリーゼ」
聞き知ったその声に、舌打ちをし、顔を上げた。
擦り切れた服に、血と泥にまみれた醜い姿。
黒髪に、いつも何を考えているかわからない、鋭い水色の双眸。
目の前には、満身創痍の女が使用人の手を借りながらよろめくように立っていた。




