うちの「嫁」が可愛すぎて困ります!!
執務室には、ザーザーと土砂降りの雨音が響き渡っていた。
激しく降りしきる雨が、まるで矢のように窓に叩きつけ、空はどんよりと暗灰色に染まっている。
時折、稲光が空を裂き、瞬間的に部屋が明るく照らされた。光と闇が交錯するたびに、室内の影が濃くなり、まるで何かが蠢くように浮かび上がっては消えていく。
その中にあって、「魔獣」と称される黒い塊が、大仰に長いため息をついた。
資料が散らばる机の上で両手を組み、深く思い悩んでいるようだったが、突然大声を張り上げた。
「うちの嫁が可愛すぎる!!!!!!」
部屋にいた執事のアルマー、フェンネル、そして紅茶を供されていたエルウィザードが、一斉にびくりと肩を跳ねさせる。
全員の視線がこの屋敷の主、カイル・ライグリッサへと向けられた。
「なんだアレ、めちゃくちゃ可愛いんだけどっ! 俺の嫁さん超かわいいいいいいいいいい!! なにアレ、反則じゃね? 反則だよな? 反則以外のなにものでもないよな!? 子供に囲まれてるコーデリア、めっちゃ可愛かった。……アレ、本当に俺の奥さんだよね? 俺の、妻、嫁、伴侶! あれ? マジでこれ夢じゃね? 的なレベルなんだけどっ! ああああああああああああ、俺ってなんて幸せ者なんだぁあああああああああ!!!!! 俺もこど――」
バコッ。
あまりの大音量に堪えかね、フェンネルが手に持っていた厚手の本でカイルの後頭部を叩いた。
「なにをする」
「うるさい虫がいたので」
しれッと凶器を隠しもせずにそっぽを向くフェンネルに、カイルは気にする様子もなく、「そうか」と答えると、今度は先ほどよりも小さな呟きをぶつぶつと漏らし始めた。
「……いつもこんな感じなのか?」
長い銀髪をふわりと腕で払いつつ、エルウィザードが呆れたように問いかける。
フェンネルは厚手の本――、辞書を本棚に戻しながら、苦笑混じりに答えた。
「……あー。えーと、その。最近はずっとこんな感じですね。元々こういうところはあったんですが、今日はちょっと、その……刺激が強かったっぽいっすね」
再び稲光が外を走り、一瞬、室内が白く照らされた。
渋い顔をして眉根を寄せるコーデリアの横顔が深い陰影に包まれる。
側仕えの聖女見習いたちがこの場にいなくてよかった――彼女は心からそう思った。
「何故連絡もなしに勝手に来た?」
ひとしきり心の整理がついたのだろう。カイルは気を取り直したように、いつもの仏頂面に戻り、渋みのある低い声で問いかけた。
エルウィザードは酢を呑んだような顔をしながら、半眼でカイルを睨む。
「こやつ……心の声が駄々洩れではないか?」
その指摘に、フェンネルとアルマーは微妙な表情を浮かべ、気まずげに目を逸らしながら、虚空に視線を走らせた。
「何故来た?」
カイルが改めて問うと、エルウィザードは肩をすくめながら、さらりと答える。
「《《聖女》》じゃからな」
油断なく向けられる鋭い瞳を前に、エルウィザードはゆったりと微笑むと、机の上の焼き菓子を一つ指先で摘まみ、そのまま口へ放り込んだ。
ぱらぱらと粉が膝の上に落ちるが、彼女は一向に気にする様子もない。
「瘴気に触れれば、たちどころに《《吐血する》》くせにか?」
「……そうじゃな。妾の体質を考えれば、ライグリッサは毒以外の何物でもない」
エルウィザードは頷き、少し冷めた紅茶に手を伸ばす。
ティーカップをソーサーごと優雅に持ち上げ、喉を潤すように口をつけた。
「とはいえ――」
ティーカップを一度膝の上に置き、揺れる水面に映る自分の歪んだ姿を見つめながら、エルウィザードは自嘲するように続ける。
「妾は公僕じゃ。行けと命じられれば、どこへでも行かねばならぬし、体調や体質の有無にかかわらず、必要とあらば働かねばならない。……それが、聖女という役職じゃからな」
王族に準ずるほどの地位や権力を与えられ、治外法権的に行動できると勘違いしている者たちもいるが――と、エルウィザードは付け加え、静かに息を吐く。
さらりと長い銀髪が肩から零れ落ち、衣服の上を滑り、長椅子の上に柔らかな波紋を描いた。
「《《聖女》》に好き嫌いは許されぬ。個人的な感情を排し、国のため、民の安寧のために自己を捨て、身命を賭して生涯をかけて役割を全うする――。つくづく哀れな生き物よ」
そっとティーカップを机の上に戻し、エルウィザードは紫色の双眸に強い光を宿しながら、カイルをまっすぐに見据えた。
「妾は結界装置の魔道具を調べておる」
凛と響き渡るその言葉に、フェンネルが顔を上げる。
カイルの近くに控えていたアルマーと目を合わせ、互いに無言のまま、静かに緊張を走らせた。
「正確には、魔道具に仕込まれた魔石じゃが――その様子だと、お主たちも気づいておったようだの」
「ヴァドラドへは、神殿の移動装置を使ってまで来たのか?」
「然り。全員の移動のために魔力を消費し尽くしたので、今は役立たずじゃが……明後日までには回復するであろう」
片手をひらりと閃かせ、何でもないことのように言うエルウィザードに、カイルは呆れたように嘆息する。
「いつもは平然と手配させるくせに、言い出さなかったところを見ると――間者か?」
カイルの問いに、エルウィザードは言葉で答えず、代わりに微笑みを深くする。
その態度に、フェンネルの表情がさっと引き締まった。
「カイルよ。お主、ライグリッサが『聖女に見放された土地』と言われておることは知っておるな?」
誰ともなく言い始めた言葉に尾ひれがつき、あたかも事実のように広まった噂。
それを示唆するように、エルウィザードは呆れたように問いかける。
「確かに、妾の場合は体質の問題もあるが――聖女は一介の官員にすぎぬ。自己都合で仕事を怠ることはできぬし、私利のために力を使うことも許されない」
雨音はますます激しさを増し、再び稲光が夜空を切り裂く。その閃光に照らされながら、エルウィザードはゆっくりと目を細めた。
「好むと好まざるにかかわらず、すべての領地を等しく回り、瘴気を鎮めるのが聖女の役割。多少の優先順位こそあれど、『見放した』などという話はあり得ぬ。誰かが意図的に流したデマだ」
静かに告げるその言葉を、カイルは無言で聞いていた。やがて思案するように顎に手を添え、低く頷く。
「……その話の出どころは?」
「調査中だが、はっきりとした発信源は掴めておらぬ。少なくとも半年前から広まり始めたと聞いておる」
「半年前……」
コーデリアの身辺調査と警護を命じられた時期とほぼ一致する、とフェンネルが思考を整理するように呟く。
「カイル様が陛下の命で魔獣討伐を終え、一時帰還された頃ですな」
アルマーが確認するように言葉を零せば、カイルは静かに頷いた。
もともとライグリッサは魔獣が多い土地として知られていた。ダンジョンの影響もあり、瘴気の濃度が相対的に高い領地であることは確かだ。しかし、これまでは「魔獣が多い荒廃した領地」と噂されることはあっても、「聖女に見放された土地」とまで囁かれることはなかった。
文言が広まり始めた時期と同じくして、出入りする商人の数が減少し、取引が激減。領地経済は急速に悪化の一途を辿った。こうした事実を踏まえれば、誰かが明らかな悪意を持ってライグリッサを潰そうとしているのは明白だった。
「陛下は何と?」
カイルが紫の双眸を細めると、エルウィザードは口の端を上げ、静かに頷く。
「いつもの如くじゃ。……カイルには、くれぐれも暴れぬようにとの言づけを承っておる」
「無理だな。で、進捗は?」
バッサリと言い捨てるや、カイルはどかりと椅子の背もたれに体を預けた。




