奥様、領地経済は「じり貧」です!
時刻は午前。
窓から柔らかな日差しが差し込み、部屋を明るく照らしている。外では小鳥たちがチュンチュンと軽やかにさえずり、穏やかな時間を告げていた。
コーデリアが正式に辺境伯夫人となってから、一か月が過ぎた。
いま彼女は、私室の隣に用意してもらった執務室で、非常に渋い顔をして帳簿を見つめていた。辺境伯邸の中では日当たりが最も良いとされる部屋だが、豪華というよりかなり質素で、機能性を重視した造りである。
かつては豪華そのものだったと思われる壁紙も、既に色褪せて黄ばんだり、あちこち剥がれたりしていた。壁の一部には雷のようなひび割れが目立ち、お世辞にも美しく整えられた部屋とは言えない。
雨漏りの痕跡が天井や壁のあちこちにシミを作り、かつての栄華を遠い記憶に追いやっていた。
だが、そんなことはどうでもいい。
もっと重要で切迫した問題が、目の前に山積みになっていた。
(お金が、ない――!!)
だん、とコーデリアは軽く拳を机の上に叩きつけ、項垂れた。頬を机の上にぺたりと貼り付け、口から魂が抜けるような吐息を漏らす。
「はぁああああああ……」
机の上には、領地の経理に関する帳簿や個人資産用の会計手帳が散らばっていた。
コーデリアはゆっくりと顔を上げ、帳簿と手帳を交互に睨んだ。
「どうしたらいいのよぅ……」
コーデリアが動くたび、濃紺のドレスには心情と同じような深い皺が入る。艶やかな黒髪は、結婚後の貴婦人らしく複雑に編み込まれ結い上げられているが、疲れ切った心を表すかのように、幾筋かの毛束が飛び出ていた。
机を挟んで真向かいには、領内の経理責任者であるスヴェンと執事のアルマーが立っていた。二人とも何とも言えない複雑な表情で、沈黙を保ちながらコーデリアの様子を見守っている。
「この収支バランスじゃ、次の冬を越せない……」
コーデリアが静かに呟くと、スヴェンは顔を曇らせ、手元の資料に視線を注いだ。
彼は瘦身のひょろりとした男性で、白いシャツにチェックのベストとズボンを身に着けている。卵色の髪に若草色の瞳を持ち、左目には黒い眼帯をしていた。フェンネルの幼馴染で、アルマーの孫だという。
「ライグリッサでは、魔獣討伐で得られる報奨金と、わずかな作物からの収入が頼りです。さらには、修繕を続ける魔道具が旧式で、効率が悪い上に維持費が高く、村々の結界維持が限界を迎えつつあります」
「そうよね。しかも、新しい魔導具を買い換えるお金もなくて、壊れかけの装置をずっと使い続けているんですもの。国中探しても、こんな状況の領地はライグリッサくらいでしょうね」
コーデリアは前髪を掻き上げ、水色の瞳を鋭く細めた。
「あー、本当に困ったわ……」
破綻寸前の領地の経営に頭を抱える日々を送ることになるとは、コーデリア自身、予想もしていなかった。
(そもそも結界用に使う魔石はここ数年急騰していて、小粒のクズ石でもそれなりの価格がするもの。消費が激しい旧式の魔導具に使えば、あっという間に魔力切れ。でも、魔獣や瘴気から命を守るためにはどうしても必要なもの。衣食より、住の安全性が確保できていないなんて)
ぐるぐると思考を巡らせて思い悩むコーデリアの目の前に別の資料が差し出される。
受け取りながら全体に目を走らせて、コーデリアは「ぐぅ」と唸った。
「特産品がないのも問題です」
静かに付け加えたのはアルマーだ。
(土地もダメ、特筆すべき産業もなければ特産品もない。温泉のような保養地としての価値も見込めなければ、夏の間の避暑地として観光地化することもできないなんて……不毛すぎる)
この一か月間、コーデリアは領地の状況を把握するため、カイルに許可をもらい調査を進めていた。
魔獣の被害がひどく、身の安全の確保も難しい財政状況。
そもそも痩せた土地な上、農作業がはかどらないため悪循環を引き起こし、実りの少ない土地。
高地で気温が低いため、生育が不十分で一般的な作物が育ちにくく、出荷基準を満たさない商品ばかり。
結界を維持する魔道具は高価なうえに破損しているものが多く、瘴気に蝕まれた場所では魔物や魔獣が跋扈し、新しく開墾する余裕もない。
何より、「聖女に見放された土地」と揶揄されるほど結界のない場所の瘴気が濃く、その淀みから這い出た魔獣によって日常の安全すら確保が難しい状況だった。
結果、領地の財政はじり貧。
代々の辺境伯邸の修繕もままならず、ライグリッサが貧乏貴族然としているのは、何よりもまず領民を優先していたからだった。
そしてコーデリアは、そんな夫や夫の家族を心から尊敬している。
(婚儀の時お会いした、先代の辺境伯でいらっしゃったお義母様も、婿入りで奥様を支えていらっしゃったお義父様もとても素敵な方だった)
カイルはどちらかというと母親似の容貌だということもわかった。
昔はとても気弱で繊細そうな美青年だったらしいが、魔獣から領民を守るという責務を負う中で屈強に育ったらしい。筋肉が立派に発達したのは良いことである。
そのコーデリアの夫、カイルは現在、領内に湧いた魔獣討伐のため部下を引き連れて出陣している。領主として先陣を切って領民を守る姿勢は尊敬に値する。
(さすがは私の旦那様だわ。……それにあの、剛腕の女傑として名を馳せていらっしゃった先代女辺境伯様にお目にかかれるなんて、私は何て幸せな家に嫁いだんだろう)
コーデリアはうっかりニヤけそうになる頬を両手で押し返しながら、喜びをかみしめている。
カイルには弟がいるらしいが、婚儀の披露目の際は折り悪く、聖女に同行して魔獣の討伐隊に加わっていたためお目見えが叶わなかった。また都合をつけて自領に戻るということだったので、その時を楽しみにすることにする。
「さて。何から取り掛かるべきか――」
コーデリアは窓からちらりと外を望んだ。
結界が張られている範囲は日中は明るく、魔獣の気配はない。しかし、稀に破れた結界から侵入してくるものがいる。小物であれば結界に弾かれて消失してしまうが、それを押して紛れ込んでくるものは手強いタイプが多い。領民も一応基礎的な自衛はできるが、彼らの本分は魔獣退治ではない。
(まずは魔獣から街を守るために、魔道具の修繕が必要ね。本当だったら新式のものに取り換えたいけど、やっぱりお金が……。というか、修繕しても魔石がないと動かないわけで。だったら、人力で魔獣を倒す……っていっても、人力だけじゃ限界があるし。あぁああああああ、どうすればぁああああああ!)
べたり、とコーデリアは机の上に突っ伏したが、そばに控えていたアルマーもスヴェンも、「お察しいたします」とばかりに何度も頷くだけだった。
「これじゃあ、スローライフどころか、サバイバルね……」
呟きながら、濃紺のシンプルなドレスの裾を引き直した。このドレスは、カイルが彼女のために用意してくれた一着だ。本当はもう何着か新調するように勧められたが、屋敷を見渡す限り領内の経済状況が芳しくないと察したコーデリアは、固辞することにした。その代わり、お古で構わないので騎士の修練用の衣服を貸してほしいと願い出て、戸惑われながらも動きやすい衣服を手に入れることに成功している。
(イェニーたちが着ている使用人用の制服でもいいんだけど、魔獣討伐のことを考えるとズボンのほうが動きやすいのよねぇ……)
ちなみに、実家から持ってきた趣味の悪いドレス十着は、到着日の翌日にイェニーに頼んで全て売り払ってもらった。本来なら、宝飾品の一つでもあればもっと助かったのだろうが、そういった価値のあるものは持ち合わせていなかった。
母の唯一の形見である真珠のバレッタを手放すことを考えたが、壊れてしまっており、粒だけの真珠を売ったとしてもまとまった金額にはならないだろう。何より、大切な品だったので、結局手元に置いておくことにした。
コーデリアは左手の薬指にはめられたシンプルで飾り気のない指輪を見下ろした。
それは人生で初めて贈られたものであり、彼女にとっては何よりも大切なものだ。指先でそっと触れるたび、不思議と心が穏やかになる。この指輪を贈られたときの情景が、微かな暖かさとともに胸の奥に蘇る。
そのとき、軽快な足音が廊下を駆け抜け、扉をノックする音が響いた。
「失礼します~!」
軽やかな声とともに現れたのは、フェンネルだった。彼はいつものにこやかな表情で、ほたほたと軽快に歩を進めると、一通の手紙をコーデリアに差し出した。
「お手紙でーす!」
「フェンネル、奥様に無礼だぞ」
「すみません。急ぎみたいだったんで」
アルマーに窘められて肩を竦めるも、悪びれない様子でフェンネルが双眸を細める。その表情は面白がっているというより、手紙に対して少なからず敵意を持っているように感じられた。
コーデリアは受け取ると、まず視線を封蝋に向けた。
「ルゼンティア伯爵家」の紋章だった。
「げっ……」
思わず声が漏れる。差出人は一目瞭然で、さらに宛名には「コーデリアへ」としっかり記されていた。




