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婚儀の席で夫の婚約者を名乗るレディから平手打ちを食らうというスキャンダルを提供したのは、間違いなく私です~私のことが大嫌いな夫に離縁を宣告されるまでは、妻を大満喫させていただきます~

「異議ありっ! この婚儀に全力で反対するわ」


 わたしの、いえ、彼とわたしの前に現れたのは、いままでの人生で見たことのない美しいレディである。彼女のド派手なドレスは、よりいっそう彼女のド派手な美しさを際立たせている。


 その見知らぬ美しいレディは、大教会に駆け込んでくるなり彼とわたしの前にやってきた。それは、司祭が「この婚儀に異を唱える者はいないか?」と問いかけたタイミングだった。


 その見知らぬレディは、喚き散らしてから大教会の天井へと右手を振り上げた。


 そのとき初めて、大教会の天井に立派な宗教画が描かれていることに気がついた。


 それはもう立派な画で、しばし見惚れてしまったほどである。


「バチンッ!」


 が、感動を覚える間もなかった。左頬に激痛が走ったのだ。


「この流浪の物乞い王女、わたしの愛する婚約者を返せ」


 全力の平手打ちをくらったのだ。


 美しいレディの右手は、見事なまでにわたしの左頬をぶった。


 美しいの緑色の瞳は、わたしを燃やし尽くしてしまうほどメラメラしている。


 これまで、さまざまな国をたらいまわしにされ、さまざまな危険や危機に遭遇してきた。その数以上に、さまざまな思惑や悪意や蔑視を向けられてきた。


 こんな怒りは初めてだった。


 彼女のすべてがわたしに向けられている。負のすべてが、わたしを突き刺している。彼女の憎しみが、わたしを貪り尽くそうとしている。


「わたしは、ここではっきり宣言するわ。スタンリー・レッドフォード公爵は、わたしのもの。彼は、わたしの婚約者よ。かならずや返してもらう。この婚儀が王命によるものだろうと、かならずや壊してやる。ロックハート公爵家にできないことはない。ぜったいに彼を奪い返し、彼と結婚してしあわせになってやる」


 大教会内は、しんと静まり返っている。ロックハート公爵家のご令嬢らしき彼女の声だけが音のすべてで、耳に痛いくらい響きまくっている。


 ジンジンと痛む左頬をさすりつつ、彼女のパフォーマンス的宣言を口をあんぐり開けて聞いている。


 彼女は、宣言をするだけして踵を返した。


 そして、彼女は彼とわたしの前から去った。


 大教会の重厚な扉の向こうへと。


 その彼女を、彼女の護衛らしき人たち、それから彼女の取り巻きの紳士淑女が慌てて彼女を追いかけて行った。



 わたしの夫には、愛している婚約者がいた。というか、現在進行形で愛している人がいる。


 わたしは、これでも一応王女である。弱小国ではあるけれど。弱小国であるがゆえに、わたしはずっと人質同然の扱いで大国や超大国や強国を渡り歩いている。つまり、たらいまわしにされている。そのわたしは、今回このフォード王国へ譲渡された。そして、王家から下賜されたのがスタンリー・レッドフォード公爵である。


 その結婚の相手である公爵閣下には、将来を約束したレディがいるのだ。


 そのレディは、わたしよりもずっとずっと美しく、公爵という家柄で知名度や経済力がある。父親は、現宰相で影響力もある。


 そして、彼女自身は嫉妬深くて愛情深いらしい。


 つまり、わたしより彼女の方がよほど妻らしいということ。


 わたしよりよほどレッドフォード公爵の結婚相手にふさわしい、ということ。



 平手打ちを食らうというハプニング後、何事もなかったかのように婚儀は続き、終わった。


 わたしの夫であるレッドフォード公爵は、一度たりともわたしの黒色の瞳を見ることがなかった。彼は、おざなりにわたしの指に指輪をはめ、わたしの唇に形だけの口づけをした。


 これがわたしの初めての婚儀だった。


 そして、離縁決定の瞬間でもあった。



 あてがわれた広い部屋には天蓋付きの大きな寝台を始め、必要な調度品や物が揃っている。


 婚儀を終え、レッドフォード公爵家の屋敷にやってきた。そこでまず与えられたのが、この広い部屋と専属のメイドだった。


 レッドフォード公爵家での生活は、想定外のことばかりである。意外なことの連続で、最初は戸惑ってばかりだった。


 人間というのは不思議なもので、しばらくすると次第に慣れてきた。


 幼い頃から祖国を離れて各国をたらいまわしにされているため、適応力や順応性が養われている。だから、慣れるのは比較的簡単だし、早いのである。


 それはともかく、夫であるはずのレッドフォード公爵は、わたしに好き放題させてくれている。気に入っているのは、彼には愛するレディがいるだけあって別々の部屋であるばかりか、一定の距離より近づいてこないということ。


 それこそ、ふたりの距離が近かったのは婚儀のときだけだった。ふたり肩を並べ、口づけを交わすという近さだった。



「快適ったらないわね」


 夫に顧みられず放置されっぱなしの生活が孤独で寂しいものか?


 というと、そうではない。


 それはそれで自由でせいせいする。


 もっとも夫には放置されているけれど、いままでと違って専属のメイドのメラニーや執事長のジャックを始め、レッドフォード公爵家の人たちはじつにフレンドリーでよくしてくれるので孤独ではない。


 これまでの陰湿で屈辱的でサバイバルチックな生活はなんだったのだろうか? と思えるほどここではみんなとすごしている。


 というわけで、毎日メラニーや他のメイドたちとレディトークをし、ジャックや雑用人や料理人たちに王都やその周辺を案内してもらい、屋敷の家事や雑用をいっしょにこなす。


 そのどれもが楽しくてたまらない。時間などあっという間にすぎてしまう。時間のすごし方、その時間の経ち方もこれまでとは違う。


 ともすれば、自分が婚儀をしたことや公爵の妻であることを忘れてしまいそうなほど、快適で楽しい毎日を送っている。


 とはいえ、レッドフォード公爵と会わなかったりすごさなかったりというわけではない。


 彼とは、朝夕大食堂で食事をしている。それから、レッドフォード公爵家自慢の図書室で読書をしていると、彼もやってきて図書室といういっしょの空間で本を読んでいる。


 わたしの読書タイムと彼のそれとが重なっているようなのだ。


 が、どちらも会話はない。話すどころか、視線さえ合うことはない。


 最初こそがんばってみた。視線を合わせるとか、会話をすることを。


 しかし、なかなかそのタイミングを掴むことができなかった。


 訂正。その勇気がなかった。


 彼は、わたしが大嫌いである。そのわたしと視線が合ったり、わたしに話しかけられるなんて虫唾が走るほどイヤかもしれない。


 訂正。ぶん殴るか平手打ちするくらい、ムカつくだろう。


 そのように考え直した。それからは、努力すること試みることをやめた。


 とはいえ、ときおりチラ見したり盗み見したりしているけれど。


 食べているときの彼も本を読んでいるときの彼も、じつにやさしく穏やかな表情をしている。それから、美味しそうに食べているし、表情豊かに本を読んでいる。


 そんな彼を見るのは、正直楽しかった。


 なにより、自分でも驚くほど穏やかでやさしいひとときをすごせている。


 だから、食事と読書タイムを楽しみにし、実際楽しんでいた。


 この生活も時間の問題で、すぐにでも終わってしまうことが残念でならない。


 ほんとうに残念である。


 ここでダメなら、つぎはまた他のだれかに下賜されるか譲渡られる。あるいは、他国に攫われるか売られる。そこでまた下賜されるか押し付けられるかする。


 いずれにせよ、次はこんなわけにはいかない。


 いまのこの生活は、レッドフォード公爵家の人たちの性格プラス公爵の人柄によるもの。つまり、わたしが穏やかで快適にすごせているのは、ひとえにレッドフォード公爵のお蔭。


 そのことがわかっているだけに、日が経つにつれ不安に苛まれるようになった。不安が苦痛になってきた。


 が、いつまで経っても公爵は離縁を申し渡してこない。


 おそらく、王家への申し立てがうまくいっていないのだ。王家が認めれば、即申し渡される。


 あるいは、例の平手打ちレディが乗り込んで来るか。


 いまのところ、彼女は具体的なアクションを起こしてはいない。


 平手打ちレディは、公爵令嬢である。彼女にはレッドフォード公爵とわたしを別れさせ、元の鞘におさめるだけの力を持っている。しかし、レッドフォード公爵とわたしの結婚は王家の命によるもの。たとえ彼女に強大な力やコネがあったとしても、すぐにはムリだろう。ということは、根回しや準備にてこずっているのかもしれない。あるいは、実行に移すタイミングをはかっているのかもしれない。


 いずれにせよ、彼女がことを起こすのも時間の問題。


 わたしのこの自由気まま快適でお気楽な生活は、明日にでも終わるかもしれない。それどころか、いますぐ終わってもおかしくない。


 だったら、「いまこのとき」あるのみ。


「いまこのとき」を、全力で楽しまなくては。



 予想に反して、平手打ちレディは沈黙を守り続けているし、夫であるレッドフォード公爵も離縁を叩きつけてこない。穏やかで楽しい毎日をすごしているうちに、しだいにつまらなくなってきた。これまでのある意味刺激的でムカつく生活に慣れすぎているせいだろう。退屈で物足りなくなってきたのである。


 その頃には、最初抱いていた不安は疑問へと変わっていた。


 最初は、この生活がいつ終わってしまうのかとつねに不安だった。それがいまでは、トラブルはいつやってくるのだろう。いつここを放り出されるのだろうと、どこか期待してしまっている。


「わたしってば、雑草根性だけはあるものね。それから、卑屈で負けず嫌いですもの」


 さらには、打たれ強くて忍耐強くもある。


 これまでは、どんなに蔑まれ、疎まれ、嫌われ、疎外されようと大丈夫だった。傷ついたのは、まだほんの子どもの頃だけで慣れてくると気にならなくなった。そして、わたしにそんな感情を持ち、行動を起こしてくる者を逆に憐れんだり、脳内でぶっ飛ばしてきた。


 そんな自分が性格の悪いレディだとわかっている。しかし、これは性格だから仕方がない。


 というわけで、これまでにないパターンのこの生活にも飽きてきた。


「いっそ平手打ちレディが攻めてこないかしら」


 この屋敷に乗り込んでき、またしてもわたしに手をあげてくれたらいい。


 そうしたら、わたしもそれ相応の対応をする。


 そうなったら、わたしはここでの生活を失う。終わる。


 これ以上失うことも終わることもなければ、なんだってできる。


 だったら?


 わたしも彼女になにをしたってかまわない。


 目には目を、というやつ。



 期待をよそに、それでもなお彼女はやってこない。


 メラニーやジョージたちに尋ねてもいい。しかし、レッドフォード公爵家の使用人たちである彼女たちでは、やはり答えにくいだろう。なにより、無理矢理にでも、あるいは情に訴えて答えてもらったことによって、彼女達に迷惑がかかるのは本意ではない。


 が、転機がやってきた。


 夕食後、いつものようにレッドフォード公爵家自慢の図書室で本を読んでいた。


 レッドフォード公爵家の図書室は、とにかく本が多い。いま流行りの小説から資料など、分類も多岐に渡っている。

 ただ、レッドフォード公爵家は武門の家系。軍事関係の書物が多い気がする。


 毎日、二、三冊読破したとしても、すべて目を通すのにどれだけの日数がかかるのか想像がつかない。ここの図書室は、これまでたらいまわしにされてきた王宮や皇宮の図書室と比較してもけっしてひけをとることはないだろう。


 もっとも、ここからすぐに出ていくことになる。だから、一冊でも多く読破しようと、毎日夕食後から就寝するまで図書室にこもって読書している。そして、それを心から楽しんでいる。


 ここの図書室は、本を読むためだけでない。おおきくてクッションのきいた椅子。それから、読書専用の灯りや本やお茶やスイーツを置くテーブルが準備されている。日中、おおきな窓を開ければ、小鳥たちの囀りがきこえるし、夜は虫の音がきこえてくる。


 リラックスするのにも最適な部屋といえるだろう。


 わたしの場合、かならずお茶と手作りしたスイーツをここに持ち込み、本を読む。もちろん、本を汚さないよう気配りすることを忘れずに。


 そして、レッドフォード公爵の分も忘れず準備する。


 彼もまた、夕食後就寝するまで読書を楽しむ派なのだ。



 この夜は、いつもと様子が違った。


 もう間もなく就寝時間。が、いま読んでいる本があともうすこしで終わりそう。明日の夜に持ち越すには、続きが気になりすぎる。気になると、どうせ眠れない。ということで、そのまま読み続けることにした。


 じつは、余裕で読み終わるはずだった。しかし、レッドフォード公爵の様子がいつもと違うので気になってしまった。ついつい彼を盗み見する機会が増え、気が散ってしまった。というわけで、いつもにくらべて読むスピードが遅くなってしまった。


 レッドフォード公爵は、この夜はずっと落ち着かないようだった。厳密には、わたしをチラ見したりして、つねになにか言いたそうにしている。


(ああ、ついにきたのね)


 彼は、ついに離縁を切り出すのだ。


 そのように直感した。というか、それしかない。


 だからこそ、彼がいつそのことを切り出すのか気になった。途中からは、切り出しやすような雰囲気を作ってみた。


 しかし、なかなか切り出さない。次第にイライラしてきた。


 が、もう間もなく就寝時間という頃だった。


「すこしいいですか?」


 ついにレッドフォード公爵が切り出した。


 その声は、わたし好みのテノールボイス。


 ついついうっとりしてしまった。彼の問いに慌てて頷き、ごまかさねばならなかった。


「急なのですが、王家主催の夜会に招待されています。あなたとわたし、ふたりそろってです。いっしょに参加していただけませんか?」


 意外だった。


 彼が公式の場にわたしを連れて行くとは、どういうつもりなのだろう。


 もっとも、ふつうなら夫婦そろって招待されるべきだし、夫婦そろってその招待を受けなければならない。


 ふつうなら、だけど。


 わたしたちは、ふつうではない。その証拠に、これまでも公式の場にふたりで出る機会はあったはずなのに、一度もなかった。


 だからこそ、意外だったのである。


 意外すぎて、彼の問いに反応できなかった。


「ところで、ここでの生活には慣れましたか?」


 彼は、無反応でいるわたしに関係のない質問を投げつけてきた。


(いまの質問って、する必要があるのかしら? たとえここでの生活に慣れたとしても、すぐにでも離縁するのだから尋ねるだけムダだと思うけど)


 内心で苦笑してしまった。しかし、これ以上無反応でいるわけにはいかない。


 とりあえず首を縦に振り、「ここでの生活に慣れた」と答えておいた。


「よかった。食事のときとこの読書タイムをいっしょにすごしていて、あなたはどちらも楽しんでいるようには感じています。ですが、わたしはレディに慣れていなくて確信が持てませんでした。ですから、直接尋ねたのです。ジョージやメラニーからもそうするよう勧められましたし」

「はぁ……」


 そうとしか反応のしようがなかった。


 レディに慣れていないって、物は言いようすぎる。というか、「どの口がそんなことを言うの?」、とひそかに呆れてしまった。


「明日、さっそく夜会のために必要なものを準備しましょう」

「ちょちょちょっ、ちょっと待って下さい。その夜会には、あのレディも出席するのですよね?」


 話が勝手に進んでいかれても困る。


「あのレディ?」

「そうです。あの強烈なレディのことです」

「ああ、ロックハート公爵令嬢のことですか?」


 彼は、途端に機嫌を損ねた。


 失言だった。自分の愛している人のことを「あの強烈レディ」呼ばわりされたら、だれだってムカつく。しかも、自分が嫌っているレディから言われれば、さらにムカつくだろう。


「安心してください。彼女は、夜会に招待されていません。あのときのことは、ほんとうに申し訳ありませんでした。あのときは、突然のことで反応ができなかったのです。情けなく、恥ずかしいかぎりです。あなたには、まずそのことを謝罪すべきでした」


 レッドフォード公爵は、形だけそう謝罪した。


 彼にしてみれば、形だけでも謝罪しておけ、という感じだろう。


「まぁたとえ招待されていなくても、彼女なら堂々と乱入するでしょうけど」


 おもわず、口の中でつぶやいた。


 神聖で厳粛な婚儀の場に乗り込んできた彼女である。王宮であろうと天国であろうと、わがもの顔で乗り込んでくるはず。


 公爵令嬢である彼女には、それだけの力があるのだから。もっとも、彼女の力ではなく、彼女の家柄や父親の力だけど。


「わかりました」


 どうせ彼といっしょに参加しなければならない。なぜなら、彼に恥をかかせることになる。だから、了承した。


 心の中で面白くなりそうだと思いながら。厳密には、面白くなることを期待し、祈りながら。



 夜会当日、公爵が購入してくれたドレスを身にまとい、彼とともにレッドフォード公爵家の馬車で王宮に向った。


 ドレスは、レッドフォード公爵と公爵家のメイドたちといっしょに、レッドフォード公爵家御用達の店へ行き、購入してもらった。


 本来なら、ドレスやスーツはオーダーメイドするらしい。しかし、それだと翌日の夜会に間に合うわけはない。というわけで、既製のものを選んだ。


 何百着とありそうなドレスの中から、「これよ、これなのよ!」と一目惚れしたドレスに決めた。


 それは、薄青色の控えめなデザインと襟ぐりのドレス。


 わたしの「不幸の象徴」といわれる黒色の髪と瞳によく合っている。


 と、自分ではそう思っている。


 とにかく、ドレスを選べば靴や装飾品はそれに合わせればいい。


 ひと通り揃えてから、みんなでメイドたちが推すカフェでお茶とスイーツを楽しんだ。


 そのカフェは、上流階級相手のカフェとは違ってフレンドリーすぎてなにもかもが雑すぎた。しかし、お茶もスイーツも最高に美味しかった。


 そこでみんなでしばらくおしゃべりした。


 もちろん、レッドフォード公爵も。彼は、始終ニコニコしていた。


 彼は、ハッとするほどの美貌の持ち主である、ただそこにいるだけで目立つ。オープンテラス席だったので、彼が道行くレディたちの注目の的になったことはいうまでもない。


 そして、彼もそれは自覚しているようだった。


 道行くレディたちに、ずっと愛想を振りまいていた。



 宮殿の大廊下を、レッドフォード公爵とふたりで大広間に向かっている。


 彼がわたしの腕を自分の腕に絡ませ、エスコートしてくれている。


 そのわたしたちを、行き交う人たちが見て顔を寄せ合いヒソヒソ話をしている。あるいは、あからさまであったり意味ありげな視線を向けてくる。


 はっきりいって、彼とわたしは釣り合っていない。それは、外見だけではない。そもそもの持つ雰囲気や印象がまったく異なる。


 うわべだけの夫婦であることが、ハッキリすっきりクッキリわかる。


 たらいまわしにされている小国の元王女を押し付けられうんざりしている夫と、そんな環境や冷遇に疲れきっている妻に見えるだろう。


 それでも、夫婦っぽいことができて満足している自分がいる。購入してくれた高級なドレスに身を包み、同じく購入してくれた装飾品で飾っているお蔭で、それなりにレッドフォード公爵の「妻」でいる。


 自分では、そう信じている。


 だからこそ、いまこのときだけは堂々としていようと思っている。これが最初で最後。一回こっきり。このあとは、すべてを失うだけ。なにも残らないのだ。


 それならば、ウジウジおどおどするのはもったいなさすぎる。


 せめてわたしのために、と彼が購入してくれたドレスや装飾品などの対価に合うだけの妻のふりをしたい。


 わたしは、だれになにを思われようと、蔑まれ嘲笑われようと、王家が認めたレッドフォード公爵の妻なのだから。


 このわたしこそが、事実上の彼の正妻なのだから。


 たとえ彼の心が他のレディにあるとしても、わたしこそが彼の正式な妻なのだから。


 もしかすると、自棄になっているのかもしれない。いいように考えすぎているのかもしれない。


 それならそれでいい。と、開き直ることにした。


 自分でも驚くほど、自然と堂々たる妻でいられた。歩き方や微笑みなど、すべてをそれっぽくすることができた。


 それが功を奏したようだ。夜会の前に国王陛下と王妃殿下に謁見したけれど、ふたりともわたしに満足していた。


 そして、うれしいことにレッドフォード公爵も満足気だった。もっとも、それはうわべだけに違いないけれど。


 謁見が終わると、すでに夜会がはじまっていた。


 夜会の会場である大広間でもまた、如才なく振る舞った。


 ありとあらゆるジャンルの人たちに紹介され、そのたびにレッドフォード公爵の正妻を完璧に演じた。完璧すぎて心の中で自画自賛したほどである。


 宮廷楽団の演奏が流れ、人々は飲んだり食べたり会話をしたりと思い思いにすごしている。


 ひと通り紹介されたとき、事件が起こった。


 というか、それがやってきた。


 まさしく「招かざる客」が、大広間に登場したのだ。


 彼女、つまりシンディ・ロックハート公爵令嬢は、大広間に乱入してくるなり脇目もふらずこちらにやってきた。


 彼女は、今夜もまたド派手な美貌にド派手なドレスを身を包み、腰ぎんちゃくたちを引き連れている。


 彼女のせっかくのド派手な美貌は、憤怒で歪んでいることが残念でならない。


 彼女なら、笑顔より怒りや嫌味な表情の方が多いのかもしれない。


 失言だった。いまのは偏見にすぎない。


 彼女は、あのときのように彼とわたしの前までやって来ると官能的な唇を開いた。


「このちんくしゃ、まだ彼の妻を気取っているの? 厚かましいにもほどがあるわ」


 いつの間にか宮廷楽団の音楽や大広間内のざわめきがやんでいた。


 その彼女の怒鳴り声が、耳に痛いほど響いた。


(っていうか、ちんくしゃ?)


 彼女の表現に苦笑しつつも、すでに歯を食いしばっている。


「パチンッ!」


 案の定、左頬に見事なまでの平手打ちがきまった。


 最初のときと同じように。


 とはいえ、心構えができていたし、歯を食いしばっていた。そのお蔭で、最初のときのように驚きや痛みはなかった。それから、怖気づくこともなかった。


 そのかわり、メラメラと闘志が湧き起こった。俄然ヤル気が出た。


 そのままそっくり平手打ちを返してやろうかという考えが、一瞬頭をよぎった。


 しかし、わたしの瞬発力はふつうのレディと違って強力である。彼女に平手打ちを食らわせれば、彼女の左頬どころか美貌をグチャグチャにしてしまうかもしれない。


 じつは、これまで物理的に狙われる、というか暴力をふるわれることがすくなくなかった。だから、つねに自分なりの方法で鍛えている。


 そこら辺にいる上流階級のおぼっちゃまやじい様より、よほど力が強くてすばしっこいのである。


 それはともかく、いずれにせよ肉体的に傷つける暴力は、自分の野蛮さやバカさ加減を強調するだけのこと。つまり、自分で自分を貶めることになる。だから、やめておいた。


 そのかわり、彼女の美貌に比較したらずっとずっと平凡でのっぺりした顔に全力の笑顔をひらめかせた。


 その瞬間、肩を並べるレッドフォード公爵が息を呑んだのを感じた。というか、おもいっきりひいたような気がした。


 彼は、わたしが彼女に平手打ちを食らったときではなくわたしの全力の笑顔にひいたのである。


 彼には、わたしの笑顔がよほど不気味に見えたのだろう。


「ロックハート公爵令嬢、でしたっけ? わたしを物理的精神的に傷つけたことは、この際目をつむります。ですが、二度に渡り公衆の面前でわたしとわたしの夫であるレッドフォード公爵に恥をかかせたことについては、目をつむることはできません。二度のおおげさなパフォーマンスは、あなたではなくわたしに非があることを強調したいだけのこと。あなたは愛する人を奪われ、わたしがそのあなたの愛する人を奪ったと、人々に宣伝したいからでしょう? それとも、やはりただ単純にわたしに恥をかかせたいからかしら? はやい話が、わたしを笑い者にしたいのかしら? あなたがレッドフォード公爵のことをほんとうに愛していて婚約者の関係に戻りたいのなら、彼と夫婦になりたいのなら、わたしと彼との婚儀からいままでの間に充分時間があったはずです。あなたは、すべてを持ち合わせている。そして、わたしはいろいろな飼い主に捨てられ、街を彷徨う野良犬も同然の存在。婚儀からいままでの間に、わたしをレッドフォード公爵家から放り出すことなど簡単だったはず。それをせず、いまさらまた凶行におよんだのは、あなたが多くの人たちの同情を買いたいのか、あるいは目立ちたいからとしか考えようがありません」


 いっきに言ってのけた。


 自分のハスキーボイスは、自分でも意外なほど落ち着き払っていた。


「な、なんですって?」


 わたしの推測は、見当違いではなかったらしい。


 彼女は、目に見えて動揺した。


 彼女は、まさかわたしが反撃してくるとは思いもしなかったのだろう。


 というか、だれであっても彼女を攻撃することはないに違いない。だからこそ、彼女は自分が攻撃されることに慣れていないのだ。


(だったら、もうひとおしいってみる?)


 心の中でニヤリとしたつもりだったけれど、リアルにニヤリとしてしまった。


 そのとき、わたしの右腕にレッドフォード公爵の手がそっと置かれた。


 ハッとした。


 これ以上彼のほんとうに愛する人を攻撃するのは、彼を攻撃するのも同じこと。平手打ちレディは、どうでもいい。しかし、彼を悲しませたり傷つけることはしたくない。


 闘争心は、一気に萎えた。怒りは、一瞬にして鎮火した。


 レッドフォード公爵に視線を送るよりもはやく、彼が口を開いた。


「ロックハート公爵令嬢。ロックハート公爵家や宰相であるきみの父上に敬意を表し、婚儀のときには遠慮させてもらった。しかし、今回ははっきりさせてもらう。二度に渡って妻を侮辱したことは、ぜったいに許さん。それから、きみは誤解している。というか、きみはクズで愚かなだけでなく、自分の置かれている立場をまったくわきまえていないのか? さらには、記憶力がないのか? わたしたちは、とっくの昔に婚約を解消している。そもそも、わたしたちはまともに婚約をしていなかった。わたしたちの婚約は、その昔わたしの両親ときみの両親が酒宴の席で交わした他愛のない口約束にすぎなかったものだ。それでもわたしは、婚約者として責任を果たし、歩み寄ろうと努力したつもりだ。が、きみは外見のいいわたしを連れまわし、見せびらかすだけでよかった。ほんとうの付き合いは、他の情熱的な紳士たちとすればいい。きみは、常にそう考えていた。一度や二度、ひとりやふたりの浮気なら、わたしも目をつむったかもしれない。しかし、とっかえひっかえ浮気をされ続ければ話は違ってくる。わたしだけではない。両公爵家の恥にもなる。だから、きみとの婚約を解消した。きみにそれを告げたとき、きみは自分で両親に伝えると強引に言いきった。だから、わたしもそのきみの意思を尊重してロックハート公爵夫妻には申し出なかった。そこは、わたしにも非がある。とにかく、きみの度重なる暴挙は許されるべきことではない。きみの暴挙や悪事の数々は、すでに王家や宰相の耳に入れている。いますぐわたしの妻に謝罪の上、ここから出ていきたまえ」


 レッドフォード公爵の口からいっきに語られた内容は、わたしを驚かせたとともに納得させてくれた。


 そして、心から安堵した。


 レッドフォード公爵は、彼女を愛しているわけではないということを。


「ち、違うわ。違うわよ。わたしは、わたしはあなたを愛しているの。あなたのことを、愛しているのよ」


 彼女は、さらに慌てた。というか、レッドフォード公爵に必死にすがりはじめた。


「いいや。きみは、わたしではなくわたしの近い将来に期待しているのだろう? わたしが王家に戻って国王の座を継ぐことを、父上である宰相か現在進行形で付き合っている陛下の侍従にでも聞いたのだろうがね。この夜会は、そのことを王国中に布告する前に貴族や官僚たちに告げるために開かれたものなのだ」

「だったら、なぜわたしは招待されなかったの……」


 レッドフォード公爵がもともと王族だったということも驚きだけれど、国王の座を継ぐということも驚きである。


 平手打ちレディは、レッドフォード公爵自身ではなく王妃の座を狙っていたのだ。


「ハメたわね。わたしにこんなことをさせるために、故意に招待しなかったのね」


 レッドフォード公爵は、わたしが思っている以上に性格が悪いらしい。


「ハメるまでもないだろう? 夜会への招待の有無にかぎらず、きみは大暴れしたさ。きみは、王妃になるためならなんだってするだろうからね。それはともかく、きみは目障りだ。きみは、今夜すべてを失った。悪いが、きみのこれまでの不行跡は暴かせてもらった。いろいろやらかしすぎていて、きみの父上である宰相もきみを屋敷から放り出すだけではすまなくなったようだ。彼は、辞任はもちろんのこと当主の座を譲らねばならないだろう。陛下の恩情でロックハート公爵家が潰されなかっただけよかったがね。さあ、話は終わりだ。目障りだから、取り巻きを連れてさっさと出ていきたまえ。近衛兵たちに手荒く連行される前にね」


 レッドフォード公爵が告げ終るまでに、大勢の近衛兵たちが大広間に現れた。そして、キーキーと喚き散らす平手打ちレディとその取り巻きたちを連行してしまった。


 じつに荒っぽく。そして、容赦なく。


 その騒ぎがなくなると、何事もなかったかのように演奏が再開され、ざわめきが戻ってきた。


「踊りませんか?」


 唖然とするまでもない。


 レッドフォード公爵が右手を差し出していた。


「のんびりできるのも、もうしばらくのことです。申し訳ないのですが、あなたにはわたしを助けてもらわねばなりませんので。わたしにはあなたの助けが必要です。あなたに支えてもらわねばなりません。そして、あなたに愛してもらいたい。もちろん、その見返りはあります。あなたが望むものすべて。それが見返りです。いかがでしょうか?」


 声量を落しても、彼のテノールボイスは耳に心地いい。


 その内容は、もっと耳に心地いい。


 しかし、わたしは自分をわかっているつもりである。自分の分というものをわきまえているつもりである。


 だから、それ以上のものを望むつもりはない。過剰な欲や望みは、身を滅ぼすだけのこと。


 つい先程連行された平手打ちレディのように。


「すべてはいりません。わたしの望むものは、そう多くはありませんので。それから、あなたを助けたり支えたりすることは難しいでしょう。いまのわたしの能力では、ですが。しかし、努力はします。そうできるように。なにせわたしは、あなたの妻なのですから。でも、いますぐできることはあります。それは、あなたを愛すること。だれよりも大切な人だと想うこと、です。こんなわたしでもよければ、生涯あなたの側にいることを誓います。いま、この場でです。もう邪魔をしたり異を唱えたり、それから平手打ちを食らわす人はいなさそうですし」


 自分で言いながら笑ってしまった。


 しかし、笑いはすぐに止まった。というよりか、笑えなくなった。


 レッドフォード公爵に、いや、夫に口をふさがれたからである。


 彼の唇によって。


 婚儀のときにおざなりの口づけはした。しかし、これがほんとうの意味での口づけ。ほんとうの意味での彼との初めての口づけ。


 彼との初めての口づけは、平凡な表現だけど甘酸っぱかった。


 騒動が起こる前、ふたりで葡萄酒がわりにベリージュースを飲んだからに違いない。


 甘酸っぱさは、これからも続いていく。


 永遠に……。


                                  (了)

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