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二つの月が輝く場所で、あなたと二人過ごした日々

作者: 結城 刹那


 1


 目を見張るほど星たちは燦々と輝いていた。

 オリオン座のリゲル、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンと数多の一等星が冬の夜空を彩る。星たちの間で大きく光る満月もとても綺麗だ。


 いつもの散歩ルートであれば、ここで折り返して帰路を歩く。しかし、今日は特別にさらに先へと足を進めた。次に同じ光景が見られるのはいつになるか分からない。だから今のうちにしっかりと目に焼き付けておこうと思った。


 散歩ルートから外れた道を歩いていくと大きな緑地が見えてきた。

 森林、水辺から眺める夜空というのも風情がある。スマホで写真を撮るにはうってつけのスポットだろう。私はパッと閃いたアイデアを採用し、緑地へと入っていった。


 冬夜の自然は極寒だ。厚手の洋服を着てきたのだが、寒さをカバーしきれない。顔などの露出した肌に冷気が突き刺さる。呼吸をするごとに発生する白い吐息が夜空に向かって舞い上がり、自然に溶け込んでいった。


「わぁ〜、きれ〜い」


 緑地の中心部へ渡ると池が見えてきた。池は反転した世界を映し出し、静かに波打つ。小鳥のさえずりや虫のさざめきの合唱が自然に囲まれたこの世界を引き立てていた。

 写真を撮るなら今だろうと私はポケットに突っ込んだ手をスマホと一緒に取り出した。


「こんな人気のない所にいるのは危ないよ」


 画面を操作していると、不意に横から人の声が聞こえてきた。まさか他にも来客がいるとは思いもしなかった。反射的に声のした方へと顔を向けると、ベンチに座るスーツ姿の男性が見えた。


 格好いいというよりは美しいというのが好ましいだろう。男性は月や星の光も相まって華々しく輝いて見えた。存在に気づかないほど、彼は綺麗な自然に溶け込んでいた。

 注意しながらも優しい表情を私に向ける。


「大丈夫ですよ。もう成人済の大人なんですから」

「関係ないよ。可愛い女性は変な男に狙われやすいから気をつけないと」

「そういうもんですかね。いつもここに来ているんですか?」


 彼に『可愛い』と言われたことが照れ臭くて、別の話題へと逸らす。


「まあね。ここから見える月は綺麗だから」


 そう言いながらも彼の見つめる先は前にある池だった。


「実際に月を見てないのによくそんなことが言えますね」

「池に映る月がこんなにも綺麗なんだ。実際の月はもっと綺麗に違いないと思ってね」

「じゃあ、実際に見てみればいいじゃないですか?」

「僕は月を直視できないんだ。毎日見るほど月を愛しているのに皮肉な話だよね」


 私には彼の言いたいことが分からなかった。月を見たら何かが起こるなんて現実にあるわけないのだから直接見ればいいのに。でも、そんなことを言うのは申し訳ないと思ったので何も言わず、彼が羨ましがるように夜空の月を見続けた。


 これが私と彼との初めての出会いだった。


 ****


「ふ〜、終わった〜」


 3限目の講義が終わり、あとは帰るだけとなった。

 私は眠気を緩和するように両腕を天へと上げ、上半身全体を伸ばしていく。


 昼食終わりの講義は眠気との戦いだった。この講義の教授は怠惰な学生に厳しく、寝ているのが見つかろうものなら、今日の質問全てに答えなければならないことになる。人目に晒されるのが嫌いな私には地獄のような罰だ。


「詠月、今日このあと予定あったりする?」

「いや、特に」

「よっしゃ! じゃあ、私と詠月と、あと神奈も誘って3人でカラオケ行こっ!」

「おぉ、いいね。行こ行こ!」


 友人からの誘いを快諾し、私たちは講義室を後にした。

 私のキャンパスライフはそこそこ充実している。最初に友達になったのが、先ほど誘ってくれた美香であったのが功を奏した。彼女は非常にフレンドリーな性格でたくさんの学生と友達になっていた。だから自ずと友達を作ることができていた。


 別室で講義を受けていた神奈と合流し、棟外へと出る。

 大学の敷地は広大なため、建物から出たとしてもしばらくは歩き続けなければならない。


「あっ……」


 3人で歩きながら話していると、私は前方に見知った顔を発見した。

 この前の緑地で出会った男性だ。まさかこんなところで会うとは。スーツ姿だったからてっきり会社員だと思っていた。


 彼は私の存在に気づくことなく淡々と横切っていく。私は彼の歩く姿を目で追った。


「詠月、秋月先輩と知り合い?」


 私の視線が気になったのだろう、美香が私へと問いかける。


「秋月先輩?」

「さっき詠月が見ていた人。私たちより一つ上の先輩だよ」

「あの人、秋月って言うんだ。そう言えば名前聞いてなかった」

「どこで会ったの?」

「自宅近くの緑地。そこで池に映る月を見てた」

「何それ。変わった先輩だね。ミステリアスな年上の美男。そりゃ女性共が惚れるわけだ」

「でも、秋月先輩って、一時期嫌な噂が立ったよね。私、同じサークルの先輩から聞いたんだけど、前のカノジョに暴力を振るったらしいよ」

「うわ怖っ。ミステリアスな年上の暴力男児か。あんまりそんな感じには見えないけどね。人は見かけによらないってやつか」


 2人の会話を聞きながら、私は彼の姿をもう1度見る。

 美香の言うとおり、暴力を振るう感じには見えない。前に話した時もそんな風には見えなかった。だから私はほんの少し彼に興味を持った。


 彼はなぜ自分のカノジョに暴力を振るったのか。それがとても気になってしまった。


 2


 夜。私は前と同じように散歩ルートを延長し、緑地へと向かった。

 冬から春に切り替わるこの時期は気温の調整が難しい。夜の自然は思っていた以上に寒く、私は顔を服に埋めた。部屋に漂った線香の香りが付着したのか呼吸すると煙臭かった。


「やっぱり、いた」


 緑地の中心部まで来ると、あの時と同じように秋月先輩はベンチに座っていた。

 彼の服装は昼に見た時と変わっていなかった。見た感じは薄手のコーデだが、彼の表情や仕草からは寒そうには見えない。私はいつもと同じ足取りで彼に近づいていく。


「お久しぶりです」

「また君か。ここ1ヶ月はまったく来なかったのに、今日はどうしたんだい?」

「ちょっとだけ秋月先輩に会いたくなったので」

「それは口説いているつもり。僕の名前をよく知っているね?」

「先輩は知らないかもしれないですけど、私たちは同じ大学なんです。今日、先輩の姿を講内で見ました。名前は友人から聞いたんです。ちなみに私の名前は美影 詠月です」

「そうだったんだ。ごめん、僕は気づかなかった」

「いいですよ。急いでいた感じでしたから。隣、座ってもいいですか?」

 

 秋月先輩は真ん中にかけていた位置を右端へとずらす。私はベンチの左端へと腰掛けた。

 右端と左端。私たちの間に空いたスペースが今の私たちの関係を示していた。先輩も私も馴れ馴れしいフレンドリーな性格とは程遠い。


「それで、大学で僕を見たからまた会いたくなったの?」

「まあ、そんな感じです。前はスーツだったのに、今日は私服なんですね」

「うん。前会った日は会社の面接があったからね」

「就活、大変そうですね。もう内定は貰えたんですか?」

「悉く不採用だよ。社会が受け入れてくれないみたいだ。でも、そういう学生は多いって聞くからまだ心身を保っていられる」

「私も来年は就活をしなければならないので、それを聞かされると怖いですね」

「もう2度とやりたくないよ。とは言っても、まだ絶賛就活中だけどね」


 自虐するように先輩は皮肉を言ってはにかむ。すぐに笑みを消すと、何かを不安がる様子で池に浮かんだ月を眺める。私は彼とは反対に空に浮かぶまん丸な月を眺めた。この場所には天と地それぞれに月がある。


 春の星空は、冬に比べて湿度の影響で綺麗さが欠けている。それでもこの場所から見える景色は歩く途中に見る景色よりも美しくて趣がある。私は春の空気を強く感じるように深く息を吸い込んだ。肺に空気が溜まるのを感じながら力一杯声を漏らす。


「では、1分で自己PRをしてください!」


 木霊する様に響き渡る私の声に、隣にいた秋月先輩が驚いて振り向く。

 私は口角を上げてニヤリと笑う。「さあ、早く答えて」と目で先輩に訴えかけた。


「いきなり何?」

「私が面接の練習相手になってあげようと思いまして。対人試験って2人で練習した方が身につくじゃないですか」

「ふっ。美影さんは変な人だね」


 強張っていた先輩の表情が柔らかくなる。それを見て安堵するように残っていた空気を吐いた。


「それで、自己PRはどうなりましたか?」

「本当にやるんだね、えーっと」


 秋月先輩は姿勢を正して私を見る。彼の瞳が私の瞳に交差して少しドキッとした。だが、浮かれてはいけないと私もキリッとした表情をして姿勢を正した。模擬ではあるもののこれは面接なのだ。真剣に取り組まなければいけない。


 こうして、私たち二人はこの池で面接の練習をするようになった。


 ****


「秋月先輩、月輪観がちりんかんって知っていますか?」


 面接を明日に控えた日、私はネットで調べた就活に役立つ知識を先輩に話した。


「知らない。言葉からも連想できないね」

「瞑想の一種なんです。胸の中に清らかに輝く満月をイメージして、それを徐々に広げていきます。人、国、地球、最終的には広大な宇宙になるくらいまで広げて、宇宙と一体になるのを感じるんです。瞑想ですので、本番前にそれをすれば落ち着いて集中できるかと思います」

「そんなのがあるのか。知らなかった。ありがとう。やってみるよ」

「毎日ここで嫌になるくらい月を見ていますから。きっとすぐにイメージできるかと思います。明日、そして来週の面接頑張ってくださいね」

「美影さんにずっと付き合ってもらっているんだ。ここらで良い結果を残さないと僕の面子が潰れるよ」


 先輩はいつも以上に身の引き締まった様子で私に目を向ける。先輩の気合いに力を添えるようにして私は今一度「頑張ってください」と励ました。


 ****


 合格が出るまで来る日も来る日も、私は緑地に通っては先輩と面接の練習を行った。

 この練習は来年に就活を控えた私にも非常に為になる練習だった。先輩とやりとりをしていく中で、私たちの友情は高まっていった。互いに笑顔になる回数が増えたのが証だろう。


 天と地の二つの月が存在する中で、美男の秋月先輩と二人きり。小さい頃に夢見ていたシチュエーションに私は胸をときめかせていた。ただ、面接の練習をしていたからかベンチに座る私たちの距離は一向に縮まることはなかった。


 季節は春から夏に変わっていく。

 涼しかった自然は蒸し暑さを際立たせ、穏やかだった虫の声はうるさくなった。

 そんなある日のことだ。緑地にやってくると先輩はいつもの穏やかな笑みを捨て去り、悩ましい表情を向けて池の月を眺めていた。


「こんばんは。どうしたんですか?」


 私はいつものようにベンチの右端に座ると、持っていた『就活の参考書』を取り出そうとバッグに手を入れた。


「美影さん、もう来ないでくれるかな?」


 不意に放たれた一言。バッグの中を右往左往していた手を止めると先輩へと顔を向けた。彼の顔は池を向いたままだった。大事な言葉を私を見ることなく告げたことに少し腹が立った。


「急にどうしたんですか? まだ就活は終わってないじゃないですか?」

「だからだよ。これ以上、美影さんに迷惑はかけられない。だからもう来ないでくれ」


 先輩は依然として私の顔を見てくれなかった。思い悩む彼の姿に過去の記憶がフラッシュバックする。気づけば私は今までまったく縮まらなかった2人の距離を一気に詰めようとしていた。


「まだ夏ですよ。諦めないでください。先輩なら絶対にできますから!」

「無理なんだよ。どれだけ受けてどれだけ否定されたと思っているんだ。僕にはきっと無理なことなんだ。社会に出るだけの力が僕にはない」

「そんなことないですよ。毎日ここで遅くまで頑張ってきたじゃないですか!?」

「頑張ってきたからだよ。頑張ってるのに努力が実らないんだ。ここではちゃんと答えられるのに、いざ本番になると頭が真っ白になる。動悸がして、吐き気を催しそうになる。きっと僕には努力なんて意味がないんだ」

「そんなこと……」


 距離が縮まったことで手を伸ばせば先輩の肩に触れることができるようになっていた。

 だから私は励まそうとして自然に彼の肩に手を触れた。しかし、彼の体温を感じるまもなく私は腕を弾かれた。彼の鋭い目つきが私を睨みつける。


 いつしか聞いた友人の言葉が記憶から溢れ出た。


『前のカノジョに暴力を振るったらしいよ』


 私はそれをされるのかと思って身を震わせた。

 だが、彼は我に返ったように瞳孔を広げると、勢いよくベンチから立ち上がり、私との距離をとった。


「ごめん、今日はこれで終わりにしよう」


 そう一言残して足早にベンチから去っていく。

 私は彼を見るだけで追いかけることができなかった。もし追いかけたら、今度こそ彼に痛い目に遭わされる。そう思うと、体が防衛本能を働かせ動くことができなかった。


 スーッと深呼吸をして精神を整える。こんな状況でも月は綺麗に輝いていた。


 3


 あれから一週間が経過したが、先輩はベンチには来なかった。

 私は相変わらず毎日通い続けた。この前とはすっかり立場は逆転している。

 ベンチに座って月を眺め、一定の時間経ったら、緑地を去る。そんな日々が続いた。


 夏は半ばを迎え、ようやく暑さもピークに達した時だ。


「ずっとこんなところにいたら暑さにやられるよ」


 額から垂れた汗を首に巻いたタオルで拭うと、ふと後ろから聞き覚えのある声がした。


「こんばんは」


 私は喜ぶこともなく、こちらにやってくる秋月先輩に顔を向けた。彼はムスッとした表情を私に向けていた。


「もう来ないでって言ったのに、なんでいつものように来るのかな?」

「よく知ってますね。なんだ、先輩もちゃんと来ていたのか」

「そんなに僕の就活を応援したいの? 君には何の意味もないでしょ」


 先輩は心から湧き上がる怒りを抑えられない様子で私に問いかける。私は彼から視線を外すと池に映る月を見た。前に彼が言ったとおり、池に映る月は綺麗だった。


「意味はあるんです。先輩に関係はないから黙っていましたが、黙ったままでは納得してくれないですよね。だから話します。私は自分の中にある死んだ妹への念を晴らしたいんです」


 私の言葉で場が凍りついたように静寂が走る。まるで呼吸すらも許されないような静けさだった。


「妹は受験終わりに部屋で自殺をしたんです。彼女は不安障害を抱えていました。試験は緊張で良い結果が出せなかったと言っていました。将来に対する不安が障害の影響でさらに増し、追い込まれて死んでしまった。私は妹がそんな状況だったにも関わらず、見て見ぬ振りをしてしまいました。もしあの時、目を逸さなければきっと今も妹は生きていたんじゃないかってずっと後悔しているんです」

「……それが僕と何の関係が?」

「先輩も抱えていますよね、不安障害」

「……」


 沈黙は肯定。やはり、私の予想は正しかった。


「友人から前のカノジョに暴力を振るったと聞きました。優しそうな先輩がそんなことをしたのに驚きましたが、先輩がカノジョとの関係に対して不安に駆られてやったとなれば少しだけ納得できます。想像力が人一倍強いんですよね。月を直接見れないのはムーンマトリックスを気にしているからですか?」

「……よく分かったね。君の言うとおりだよ。僕は精神疾患を患っている。だから面接は苦手なんだ。『落ちたらどうしよう』という邪念が不安を生み出して、本番になると思うように受け答えができなくなってしまう。邪念が現実となり、社会に否定され続ける自分が嫌になっていた。受かることのない僕を君が見放してしまうんじゃないかと思うと怖くて。それならいっそ僕の方から見放したほうがいいと思ったんだ」

「懸命に頑張ろうとしている先輩を私は見放しませんよ。この綺麗な月に誓います」

「……本当に信じていいかい?」

「大丈夫です。今年受からなかったら、今度は私も交えて来年2人で頑張りましょう」

「……分かった。君を信じるよ」


 緊迫した空気が緩まり、私たちは仄かに笑みを浮かべる。それから何だかおかしくなって2人して高らかに笑った。


 こうして私たちの蟠りは解け、また二人で練習を始めることとなった。


 ****


 夏が過ぎ去り、秋がやってくる。緑地は再び涼しさを取り戻していった。 

 季節とは反対に私と先輩は相変わらず、就活の特訓をしていた。


 瞑想による精神の強化、手持ちアロマでのリラックス効果、緊張を緩和できるおまじない、持てる全ての力を使って面接への対策を講じた。一つの面接が終わっても、休む暇なく私たちは夜の緑地で打ち合わせをする。


 先輩の面接に対する感触をヒアリングして、面接官の反応が悪かった部分について検討する。話す内容を変えたり、話し方を変えたりして、あとはそれを自然に言えるくらいまで何度も何度も練習した。多少の緊張は練習量でカバーができる。


 今日もまた2人で緑地に集合し、次に受ける企業の情報をサーチしていた。


「っ!」


 不意に秋月先輩の表情がパッと開く。どうやらスマホに通知が来たようだ。

 先輩はスマホのスリープ状態を解除して画面を灯す。私は先輩の顔に自分の顔を近づけた。シャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐる。


 スクリーンの通知には『結果に関するお知らせ』という件名のメールを受信した旨が記載されていた。私たち2人は同時に顔を見合わせる。互いにすぐ近くにいたことを忘れており、先輩の吐く息が私の顔にあたる。


 私たちはすぐに体を離し、深呼吸をした。心なしか先輩の顔が赤くなっている。そういう私もきっと同じ状況だろう。体が熱くなっているのが分かる。秋の涼しさが漂っているため暑さのせいではない。


 再び隣に並んでスマホの画面を覗く。

 先輩はロックを解除し、メールアプリを開くと先ほど送られてきたメールを開く。

 私はまるで自分のことのように胸をドキドキさせながらメール内容を上から眺める。


『慎重に検討させていただいた結果、採用させていただくことになりましたので……』


 その文言を見た瞬間、心臓が飛び出しそうになった。

 もう一度2人して顔を見合わせる。少しずつ実感が湧き上がっていき、気づけば抱き合っていた。前に感じられなかった秋月先輩の体温が私へと伝わってくる。


 喜びに浸ったことで距離感がバグっていたのか、ふと我に返ると互いに先ほどの距離が嘘のように遠くへと離れた。今度は違う意味で心臓がドキドキしてしまっていた。


「無事合格できてよかったですね」

「うん。それもこれも詠月のおかげだよ」

「私は別に……」


 謙遜しようと思ったが、断言することができなかった。ここで否定してしまえば、先輩にも、妹にも失礼をしてしまうと思ったのだ。代わりに私はふと視線を逸らして空に浮かぶ月を見る。


 もう何百、何千回も見た月。それでも相変わらず、綺麗に輝いていた。


「先輩、漱石の有名な一節って知ってますか?」


 急な話題の転換に対して、うまく反応することができなかったのか、しばらく静寂が続いた。ゆっくりと「うん」と呟く先輩の声を聞きながら私は言葉を続ける。


「漱石は早くから禅に興味を持っていたんです。だからきっと彼は月輪観を知っていたのではないかなって思うんです。心を満月に見立ててあのセリフを発したのかもしれない。そういう解釈もできるんじゃないですかね?」

「それってつまりどういうこと?」


 私は視線を満月から先輩へと向ける。

 そして、恥ずかしさを抑えながらも口を開く。


「月が綺麗ってことです」


 先輩は私の言葉を聞くと、パッと瞳を開く。

 今度は先輩が私から視線を逸らし、池ではなく、空に浮かぶ満月を見た。


「うん。とても綺麗だ」

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