桜、月、猫、江戸浪漫
時代考証なぞくそくらえです。
「どうしてこんなことになっちまったんだろうねぇ」
口から零れた情けない言葉に我ながら辟易としてしまう。
両親の反対を振り切って、江戸に出てきた。三年間贅沢を我慢した。酒も甘味も控えた。ひもじい思いをしながら汗水垂らして働いて、ようやく自分の店を持てた矢先、江戸が大火事に見舞われた。そしてあたしの店も綺麗さっぱり跡形もなく消えてしまった。
鎮火した江戸の町には、同じような境遇の人間が大勢いた。うつむいて宛てどなく彷徨っていたり、炭となった家を目の当たりにして大泣きしていたり。見るも耐えない無残な有様。もしあたしが人通りの少ない立地に店を建てていたら、同じようなことをしていたかもしれない。けれども、他人の哀れな姿を見て、少なくともその場では気丈に振舞うことができた。炊き出しの手伝いをし、怪我人の手当てをし、親を失った子供の面倒を見た。そんなあたしを見て、天女様だなんて言うやつまで現れて莫迦莫迦しいたらありゃしない。
避難所は不幸の巣窟だった。真っ暗な未来を憂いてそれが人々の体から滲み出ていた。そんな陰気な空気に充てられてあたしは夜道を散歩することにした。数日経った今、火事場泥棒もあらかた仕事を終えた後だろう。失うものは何もないのだ。気兼ねなく夜道を女独りで歩こうぞ。
橋の上で月を見た。あたしの身に何が起きようとも、月は美しい。いつにも増して美しく見えるのは、あたしが感傷に浸っているからで、物の怪が見えるのはあたしがついに正気を失ったからに違いない。と思い、頬をつねってみたものの、確かに痛い。これはどうやら現実らしい。
圧巻の光景が目の前に広がっていた。川の上を百もの物の怪が悠々と歩いている。これが噂に聞く百鬼夜行ってやつだろうか。魑魅魍魎が川上目指して歩き行く。周りのあれは、人魂だろうか。火事で死んだ者たちもああして極楽浄土へと行くのだろうか。いずれにせよ、面白い。
しんがりを務めるのは黒猫だった。よく見れば尾が二つに裂けている。成る程、あれが猫又か。一番小さい姿をしているくせに、周りの鬼やら物の怪に物怖じする様子はない。威風堂々と歩いている。その姿は凛として美しい。
眺めていると、猫又がこちらを見た。ばっちりと目が合った。奇妙な感覚だった。心の中を見透かされているような気がして、思わず目を逸らしてしまった。ほんの一寸目を離していただけなのに、もう物の怪共は見えなくなっていた。狐につままれるとはこういうことか、興味深い体験だった。すっかり身投げする気持ちも薄れていて、あたしは避難所に帰ることにした。
帰り道、猫の鳴き声がした。瓦礫の中から聞こえるようだ。先ほどのこともあってか、あたしは猫に話しかけてみる気になった。
「おうい、猫よ」
なんて人間の言葉で声をかけてみたって、どうして返事がくるものか。自分のしていることの滑稽さに可笑しくて嗤ってしまう。それなのに
「なにか用か、人間よ」
と返事があったものだから、あたしはひどく驚いてしまった。よくよく考えてみても、こんな隙間に人間がいるとは思えない。悪戯ではないだろう。これは空耳なのかしらと、もう一度話しかけてみる。
「あんたは猫かい?」
「そうだ、猫だ。人間よ」
なんてこと。あたしは今、猫と会話をしているのだ。百鬼夜行を見た宵に猫と話せるとは、運に見放されたわけではないのかもしれない。例えこれが夢であっても、もう暫し浸っていたい。
「あんた、どうして人間の言葉がわかるんだい?」
「人間よりも長く生きているからだ」
「姿を見せておくれよ」
「魚を持って来たら考えてやる」
なんともまぁ生意気な猫じゃないか。人間様に向かって魚を持ってこいなんて。とんだ銅鑼猫だ。ふてぶてしくて、図々しい。でもあたしは久しぶりに自然な笑顔ができた。
人間様より長生きをしているお猫様だ。あたしに魚を持って来いと言ったって何も不思議はありゃしないじゃないか。今は何処も彼処も火事の後始末で大忙しだが、魚を探してきてやろうじゃないか。そんな気持ちになっていた。
「よし、約束だよ。今度来る時には魚を持って来るから、姿を見せておくれよ」
「にゃあ」
おやおや。急に猫みたいな声で返事をしちゃってまぁ。猫が猫を被るなんておかしなこともあるもんだ。おかしなことは重なるもんだねえ。おかしいついでだ、あたしは明日、魚を探すことを決めた。
避難所で迎える朝は、いっそのこと厠を床にした方が幾らかましに思えるほど最悪なものだ。お天道様がどれだけ景気良く輝いていても、ここはじめじめと辛気臭い。元気を大盤振る舞いできるような人たちはさっさとここから出ていっちまったからだ。やれ次の仕事だ、やれ困っている人を放っておけねぇとてんやわんやと忙しい。
「まぁここに残ってるあたしが言うのもなんだけどさ」
住めば都とはよく言ったもので、滅入っちまうのは本当なのにそれが逆に心地よくなってしまっている。こんなことはやはりいけない。早くここからで出ていかなくては。だけど
「どこへ行けばいいんだろう」
おっかさんは元気にしてるだろうか。おとっさんは腰を悪くしてないだろうか。そろそろ田植えが始まるななんて考えていると涙がほろほろと落ちてしまった。大人しく嫁に行って、親孝行をしておけばよかったのかな。
あたしらしくもないと頭をぶんぶんとふり、肩で風を切って歩き出した。今大事なのは魚。手に入れるべきものはあたしの先のことじゃない。花より魚だ。
巾着の中を見るのも恐ろしかったが、先立つものがないことには魚は得られない。これだけ気持ちも軽けりゃいいのにと思わずにはいられない。それだけ巾着は軽かった。
「まあ、鰯の一尾くらいなら」
胸を撫で下ろす。たんまり銭があるわけじゃない。でも一日二日食べなくたって死にゃしない。あのお猫様の姿を見ないと死んでも死に切れないじゃないか。お猫様の機嫌が変わってしまう前に、なんとしても魚を手にいれよう。それにしてもどうして手に入れたものかね。魚屋が開いているはずもない。
ううむと悩んで立ち往生。いっそ釣りにでも行こうかと思ってみたはいいものの、竿も針も糸も餌も網もない。魚だって生きることに必死だろう。あたしなんかに捕まる間抜けな魚が果たしているのやら。
「おや、お百合さんじゃないか」
店の常連の総兵衛だ。たいして食べもしないくせに毎日のようにやってくる。大方あたしに惚れているんだろう。面は好みじゃないが、宵越しの銭は持たないという心意気は嫌いじゃない。
「あら、総兵衛さん。こんにちは」
江戸っ子のくせに華奢な体、陰気な顔で如何にも頼り甲斐がない。けれど下手な鉄砲も数打てばと言うくらいだ。最初の一発になってもらおうかしらね。
適当な理由をでっち上げ、魚が欲しいと頼んでみた。総兵衛はうんうんと聞いて韋駄天の如く駆けて行った。精々気張っておくれよ。
さてさて、あたしはあたしで魚を見つけなくっちゃあいけない。総兵衛の後も何人か声をかけられた。その都度魚を頼んでおいたが、どうやら期待できそうもない。色よい返事はなかったのだから。先に銭を寄越せと言ってきた莫迦もいた。
毒づいたところで、魚は手に入らなかった。いくら下手な鉄砲と言っても弾がなくてはどうにもならないらしい。魚の影も見えやしない。一日中探し回ったが手に入れられたのは鰹節だけだった。これであのお猫様は満足してくれるだろうかね。
昨晩と同じ頃合に、同じ場所に行ってみると、猫はそこできちんと待っていた。案外律儀なところもあるじゃあないかと感心したが、あたしが持っているのは魚には程遠い姿をした鰹節だ。それでも元は魚だ。最悪ではないと自分に言い聞かす。
「おうい、お猫様よ。いらっしゃるかい」
「魚は持って来たのか」
なんだいなんだい、一言挨拶があってもいいじゃないか。と思ったけれど、ぐっと飲み込む。ここで機嫌を損ねられては骨折り損だ。
「それがねえ、どれだけ探しても魚は見つからなかったんだよ。こいつで我慢しておくれ」
そういって、鰹節を放り投げた。しかし猫は姿を見せるどころか
「去れ、人間よ。落胆した」
と吐き捨てた。なけなしの金で買った鰹節も突っ返された。それ以降、幾度声をかけようともうんともすんとも返事はなかった。あたしだって一生懸命探したっていうのに。見返りのためだとはいえ、腹が立った。腹が立ったが、どうすることもできない。あたしは避難所に帰ることにした。
「やっぱり猫っていうのは、所詮猫だねぇ」
苛立ちが収まらず、ぐちぐちと歩いていた。今日も月が綺麗だったが、それがいったいどうしたっていうのさ。月から魚が降ってくるわけでもあるまいし。あたしはすっかり自棄になっていた。
避難所で顔なじみから声をかけられをたが返事もせず床についた。
今日のことを思い返すと柄にもなく涙が溢れ出した。何もかも上手くいかないんだ。店も猫も、努力したってどうしようもないことだってあるじゃあないか。あたしが何をしたっていうんだ。誰に当たればいい。泣きっ面に蜂もいいとこだ。
ひとしきり泣くと眠気が襲ってきた。
……。
けれど大声でその眠気を吹き飛ばす者がいた。まったくこんな時間にいったい何処のどいつだい。迷惑たらありゃしない。叱ってやらねばあたしの気が収まらないと勢いよく立ち上がってから、その者が何と言っているのか気づいた。あたしの名前を呼んでいる。
「お百合さん!お百合さんはいるか!」
声の主は総兵衛だった。
「総兵衛さん、こんな夜更けに何のご用だい?」
あたしは苛立ちを隠そうともせずぶっきらぼうに言い放った。総兵衛はひどく悲しそうな顔をしたが、知ったことか。なんだい木桶なんて持って。
……あら、木桶だって。
「遅くなってしまってすまないね。これを持ってきたんだ」
木桶の中には鯵、鯖、泥鰌などがたくさん入っていた。
「これ、どうしたんだい?」
総兵衛の顔が汗だくになっていることに初めて気づいた。服もびしょ濡れ泥だらけで、草鞋はぼろぼろだ。
「これで足りるかい?」
まったく訊いたことの答えになっていないじゃあないか。こんなぼろぼろになっちまって。
「あたしもこの辺りを探して回ったけど、どこにも魚なんてなかったよ。随分と遠くまで行ってくれたんじゃないのかい?」
「なに、ちょいと体を動かしたかったからね」
「火事の後で、これだけの魚だ。幾らしたんだい?足元見られたんじゃないかい?今手持ちが少ないのだけど…」
「莫迦いっちゃいけねぇよ、お百合さん。こいつは俺っちからの贈りもんだ。いつも美味い飯を食わせてもらってるお礼だよ」
「それがあたしの仕事なんだよ」
「ああそうだね。けど俺っちはいつか美味い飯の恩返しをしたいって思ってたんだ。こいつで精をつけて、また美味い飯を食わせておくれよ」
「でもこの魚は…」
猫にあげるためだなんて言えなかった。この男の頑張りは、一心にあたしを思ってのことだとわからないほど莫迦じゃあない。けれどここで正直に話さなければ今後、この男に顔向けできないんじゃあないか。どうでもいい男だって思っていたのに、まったくしてやられた気持ちだ。なのにまるで不愉快じゃあない。それどころか清々しい気持ちでいっぱいってのはどういう了見だろうか。
総兵衛はあたしが口を開く前にこう言った。
「おっと、お百合さん。この魚をどうするかなんて野暮なことは聞かねぇよ。俺っちも江戸の男だ。そんな無粋な真似はできねぇ」
「でもそれじゃああたしの気持ちが許しやしないよ」
「だったらお百合さん。いつか俺っちと一杯やってくんねぇかい?それだけでいい」
「そんなことでいいのかい?」
「お百合さんにお酌してもらえたってなったら、江戸中の男に自慢できらぁ」
総兵衛は歯を見せて笑った。あたしもつられて笑ってしまった。この男は大莫迦だ。格好つけて、努力を隠して、へろへろになって、それが粋だって思ってる。救いようのないほどに莫迦で、愛おしい。
総兵衛は満足したのか、長居せずに帰って行った。あの男は振り返って手を振りたいのを我慢している。そんなことが雰囲気でわかってしまう。それも可笑しくて、あたしはしばらく笑顔のままでいた。
折角こんな夜更けに届けてくれたんだ。このままあの猫の元に持って行かないと悪いと、駆け足で猫のいた場所に向かった。総兵衛みたいに汗だくになってしまったけれど、こんな御揃いも悪くないなと思った。
「おうい、猫よ。まだいるかい?」
「なんだ、人間か。何しに来た」
「魚を持ってきたよ。どうだい、正真正銘立派な魚だろう」
あたしが手に入れた魚ではないが誇らしかった。これでももしこの猫が満足しなければ、引っ張りだして八つ裂きにしてやろう。木桶を置くと匂いで魚とわかるのか猫が出て来た。案の定尻尾が二つに裂けていた。百鬼夜行の時の猫とは違って、白猫だった。
黙々と魚を食らっている。見ているこっちまで、腹が減ってきそうなほど見事な食べっぷりだった。
「どうだい。美味かったかい?」
「うむ。魚の味も、この魚に込められた思いも、上質で美味であった」
魚に込められた思い、ねぇ。あたしが手に入れたものではないって見抜いているだろう。でもこうして姿を見ることができて満足だった。こんな近くで見られたのだから。総兵衛には感謝しなきゃあいけない。心からだ。
「褒美をくれてやる、人間よ」
何処から出したのかわからないが、いつの間にか猫の前には瓢箪があった。
「こいつはなんだい?」
「人間には勿体ないほどの酒だ。大切に味わって飲むのだぞ」
へえ酒ねぇ。渡りに舟とはこういうことだね。お天道様が見ていたのかもしれないねぇ。そんなことを考えていると後ろから声がした。
「兄さん、こんなところにいたのか」
振り返ると、いたのは黒猫だ。今度こそ百鬼夜行にいたあの黒猫だった。黒猫はあたしと白猫をじろじろと見て、合点がいったようでべらべらと喋りだした。喋る猫にも慣れたものだった。
「なるほど。兄が世話になったようですね。兄はある事情で力が弱くなっていました。しかしどうやらもう大丈夫みたいですね。これで百鬼夜行にも戻ることができるでしょう。人間よ、感謝します」
猫に感謝されるってのは人間に感謝されるよりも嬉しいものなんだと初めて知った。どうにもくすぐったくていけないね。あたしの手柄じゃあないのにこんなに感謝されちまって。同じだけ総兵衛にも感謝してやろう。
「人間よ、何か望みはありますか?兄のお礼に叶えてあげましょう」
「おい、弟よ。それは必要ない。既に酒をくれてやったのだ」
「生きるか死ぬかの瀬戸際だったくせに酒だけなんて、けちにも程があるってものですよ。兄さん。猫の額より心が狭いのも困りものですね。どうですか、人間。何か望みがあるのではありませんか?江戸は近頃火事があったみたいですし何かと入用でしょう?我々にとって小判がどういう価値か人間の諺にもあるでしょう。何でもいいのですよ。愚兄のお詫びとお礼です。猫にも面子というものがあるのですよ」
弟はよく喋る猫らしい。あたしが口を挟む間もなく喋り続けている。
「何でもいいのかい?」
「物によりますがね」
「それだったら…」
猫の恩返しを受けた翌日。あたしは総兵衛と一緒にいた。あたしは包み隠さず総兵衛に魚のことも猫のことも話した。そんなことあるわけがないと莫迦にされるかと思ったが総兵衛はうんうんと黙って聞いてくれた。いや、あたしはそんな気がしていたのだ。この男なら、多分信じてくれるんだろうと。ついぞ最近までただの小食の根暗な男だと思っていたのに、まったく人生ってのはわからないものだ。
全て話し終わった後、総兵衛は
「よかった」
と言った。あの日のあたしの顔が今にも死んでしまいそうに見えていたらしい。見た目によらず鋭い男だ。それが今は本当に楽しそうに笑っていて安心したと言われた。
「あら、なんだろうね」
「どうしたんだい、お百合さん」
やけに胸の鼓動が早い。顔も火照ってまともに総兵衛の目を見られない。いやだわ、あたしったら。生娘じゃああるまいし。兄猫からもらった酒が強かったに違いない。弟猫にもらったお猪口に注いだその酒は、桜色をした美しい酒だった。
「こいつはよく回る。顔が火照って仕方ねぇや」
と総兵衛が言った。妙なところで御揃いになる。馬が合うってこういうことかしらと、あたしはまた、笑えた。