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狂騒の檻  作者: 加香美ほのか
6/9

永遠

 開く扉に私は咄嗟に身構え、黒藤が懐中電灯で照らす。

「きゃっ」

短い女性の悲鳴。光の先では黒のワンピースに波打つ黒髪を泳がせた女性が眩しそうに腕で目を庇い、身を翻して走り去った。その声も、ワンピースも、私は知っている。

「綾子さん……?」

髪型が違うものの、走り去ったのは鼠に飲み込まれた糀谷綾子のようで、黒藤は「無事だったのか」と驚いたように呟く。駆ける足音が遠のいていき、私は慌てて立ち上がった。

「追いかけないと」

黒藤もまた立ち上がろうと身を起こすが、次の瞬間ぐらりと体が傾く。意識を失ったダメージはまだ完全には抜けていないらしい。

「黒藤さんはここで待っていてください」

「おい待て!」

黒藤の声を振り切って、私は廊下へ躍り出る。

 スマホのライトで辺りを照らす。先ほどまで閉じていたはずのドアが半分開いていて、私はその扉の奥へと進む。更衣室、PL室と、開け放たれたままの扉を辿っていくと、私が最初に目を覚ましたクリーン廊下へ出る。

 足元灯に照らされる薄暗い廊下の先で、黒いスカートの裾が一つの扉へ入って行くのが見えた。

「綾子さん!」

私は名前を呼びながら、閉まっていくドアに手をかける。ドアの先は前室で、小さな部屋で奥の扉をくぐっていく後姿が見えた。彼女は追いかける私に気付いているはずなのに、それでもどうしてか止まらずに奥の部屋へと入って行く。

「待って、待ってください!」

急いで私もそれを追って扉を抜けた。

飼育室をスマホで照らすと、中央で立ち止まった彼女が私に振り返る。その姿は紛れもなく糀谷綾子で、私は安堵に胸を押さえて肩を落とした。

「綾子さん、無事だったんですね、良かった……!」

今でも鮮明に思い出される、綾子が鼠に飲み込まれていく瞬間。黒藤に言われて死まで覚悟したが、目の前の綾子は綺麗に結い上げられていた髪は解けてしまったものの、五体満足でしっかりと立っている。その事が、本当に嬉しかった。しかし彼女は頬に手を当て、眉を寄せた。

「全く酷いのね。私だけ、置いて行ってしまうなんて」

責める様に、と言うよりはただただ悲しげに言われた言葉が胸に突き刺さる。どういう状況であれ、彼女を見捨てたのは事実だ。

「それは……、その、ごめんなさい」

私には謝る事しかできず、頭を下げる。綾子は静かにこちらに歩み寄ると、その量の腕を伸ばして私の身体を柔らかくそっと抱き絞める。

「なんて……意地悪を言ってしまったわね、ごめんなさい」

穏やかな声を見上げると、彼女は綺麗な唇で弧を描き、笑みを浮かべていた。

「ちゃんと分かっています、あの状況では仕方のなかったことでした。けれど天のおぼしめしなのか、私はこうしてここにいます。だからどうかお気になさらないで」

柚弦ちゃんも怪我が無いようで良かった、そう言って綾子は私の事をより一層強く抱きしめる。私もその背に手を回してギュウと抱きしめた。彼女の長い髪が私の頬をくすぐる。私達はひとしきり抱擁をして、そして綾子は耳元に唇を寄せた。

「聞いて下さい。私……全てを解決する糸口を見つけました。私達は、この苦しみから脱することができますよ」

静かに告げられた言葉の意味が一瞬分からなくて、私は顔を上げて彼女を見上げる。彼女は身を浮かせて私から離れると笑みを深めた。それを見て私はやっと彼女の言葉を飲み込む。

「出口が、見つかったんですね?」

私はすぐにスマホの画面を切り替えて見取り図の写真を出す。

 どこですか? と聞こうとして、しかし綾子は私のスマホを持つ手に手を重ねて首を振った。

「いいえ、そうではありません」

私を見下ろす綾子は両の掌を合わせ祈る様に指を組むと、言葉を続けた。

「そもそも私達は大きな思い違いをしていたのです。私達が求めるべきは出口ではありません。許されぬ逃避など、最初から目指すべきではなかった」

どうしてか、背筋に嫌な寒さが走る。

「綾子さん……?」

私は彼女の名を呼ぶ。しかし彼女はにこにこと笑みを浮かべるばかりで、私には答えずに言葉を続ける。

「私、やっと理解できたのです。忌むべきは変わること。『永遠』こそが救いなのです」

ふふふ、と吐息を零すように彼女は笑った。

「抗いもがき続けるから私達は苦しむのです。自由こそが私達を苦境へと貶めるのです。あるがまま、成すがままを選んだなら、もはや迷うことなど何もありません」

綾子は何も言えずにいる私を見て、「分かりませんか?」と首を傾げる。

「つまりね、逃げなければ良いだけなのですよ。ずっとずっと、永遠にここにいれば良いのです」

「何、言ってるんですか?」

綾子は組んだ指を解いて私の頬に両の手を添わせる。彼女の目の奥には今までに見たことのない爛々とした何かが光っていて、私は言葉を失ってしまう。

「大丈夫です柚弦ちゃん、何も怖いことはありません。この箱庭は祝福です。×××様が私達の事をこの『永遠』へと導いてくださったのです」

一瞬、綾子の声がたゆんだ。はっきりと話してはいるのに、そこだけまるで獣の言葉を聞くかの様に、何を言ったのか聞き取れない。

 彼女はうふふ、と零すように笑って言葉を続ける。

「欲から己を切り離しましょう。求める事をやめ、天より与えられるがままに全てを享受しましょう。それこそ私達のあるべき姿なのです」

ねえ分かるでしょう? と彼女は私に同意を求める。

 悟ったような考え方を持っていた彼女は、それでも私達にそれを押し付ける事はしなかった。はぐれる前の彼女は、それぞれが違う事を良しとしていた。

 今の彼女は、正気ではない。

「聞いて下さい綾子さん。私達は今、狂犬病に感染してしまっています」

だから私は、彼女に現実を突きつける事にした。

「鼠が狂犬病を持っていたんです。ここにいたら私も綾子さんも黒藤さん達も皆死んでしまいます。でも今なら間に合います。外に出てワクチンを打てば助かるそうです」

私は努めて冷静に、感情的にならないように、彼女へ私達の現状を──ここであるがままを受け入れてはならない理由を話す。恐ろしい目に遭って混乱している彼女が、少しでも現実に、希望に目を向けてくれるように。

「だから一刻も早く出口を探さないと……」

「まあ、まあまあまあ! 私達はやはり救われるのですね!」

綾子は私の言葉を遮る様に声を上げた。

「死こそが最果ての終止符。何にも侵されない『永遠』。何もかもから切り離された箱庭で、天から与えられた平穏の中で、何も分からない内に訪れる終わり──」

ライトに薄暗く照らされた彼女の顔は、恍惚とした表情を浮かべている。私の言葉も想いもまるで彼女には届いていない。

「ああ……ああなんて素晴らしいのでしょう……! ×××様、心よりの感謝を。そして死して続く永遠の祈りを捧げます。さあ、さあさあさあ! 『永遠』では私達はずっと一緒です。皆で仲良く暮らしましょうね」

甘く、うっとりと、言葉を並べ吐息を吐く彼女はもはや私を見ていない。その目は私の顔をうつしているだけで捉えてはいない。

「お父さんに会えないままで良いんですか!? 綾子さんのお父さんも、綾子さんが死んだらきっと悲しみます!」

声を張り上げれば、彼女は不思議そうな表情を浮かべた。

「どうして悲しむことがあるのですか? 父も、きっと私を祝福してくれるはずです。だって、私はもう泣かないで良いんですもの」

何一つ届かなかった。彼女に私に言葉は、何一つ。綾子は「大丈夫ですよ」と言った。

「先に旅立った柚弦ちゃんのお父様だって、貴女が同じ場所で同じ永遠に至ることをきっと喜ばしく思うはずです」

その言葉に、私の思考が固まった。

 ここで働き、そして施設と共に骨の一欠けらまで燃え尽きてしまった私の父。もう永遠に会う事の叶わなくなってしまった父。十年経ってなお、胸を突き刺す大好きな人との別れ。

「……どうして綾子さんが私の父がここで死んだって事を知っているんですか……?」

私は彼女の前で父の死を口にはしていない。父の死を、その理由を知っているのは、ここでは黒藤だけだ。

「…………」

綾子は微笑んだまま静かに私を見下ろした。耳にかけられた彼女の髪がするりと落ちて顔に影を落とす。髪の隙間から見える彼女の虚ろな目は、先ほどまでと違って確かに私を捉えていて、私は生唾を飲み込んだ。

「逃げる事は許されない」

それまでの柔らかな声とは違う、低い声で綾子が言った言葉は鼠たちのそれと同じものだ。

「……それだけが唯一私達に課せられた規律……なのに、たったヒトツ逃げたから──」

綾子の手が頬を撫でてゆっくりと下に降りる。親指が顎を掠め、中指が私の頸をなぞったかと思うと、次の瞬間には首を全ての指が絡める。

「──だから皆死ぬこととなった」

絡めた首を背後の取っ手のないドアに押し付けられて、そのまま上に持ち上げられる。

「逃げることは許されない。生きて外に出る事は許されない。それは何代何十代と続いて来た私達の確かな規律。箱庭を享受すれば定められた死の時まで穏やかに生きられる。けれど逃げてしまったから、全てお終い。私達は死すしか道なかった。そのはずだった」

ぐっと喉を閉められて、息が詰まる。

「紀伊、貴女が最後だ」

踵が浮いてつま先が宙を掻いた。両手で彼女の手を掴んで引き離そうとしたが、腕はびくともしない。

 彼女の瞳に私の姿が映っている。それは私のはずなのに、私を見つめ返してきたのは、瞳の中で首を絞められているのは、母の姿の様に見えた。

 見開かれていた瞳が歪み、目の前の綾子がまた恍惚の表情を浮かべて笑う。

「もちろん、黒藤さんだって仲間はずれになんてしないわ。あの人は頭の良い人だから、この素晴らしさをきっと理解してくれるはずよ」

綾子の腕に一層の力がこもり、息ができない。苦しい。霞む世界の中でキイ、キイ、と四方から声が聞こえる。いつの間にか赤い瞳の鼠たちが、棚の上から、地面から、私を見ている。

 助けてくれる黒藤はここにはいない。私が何とかしなければ。でも酸素が足りない。もう力が入らない。

 私の手が綾子の腕外れてだらりと落ちる。その拍子に固いものが布越しに指に触れた。

「大丈夫よ、怖くないわ。柚弦ちゃんならすぐに幸せに気づける。だって貴女はとっても良い子ですもの。きっと×××様も貴女を気に入って下さる……いいえ、もう貴女は選ばれているからこそここにいるのね。そう、そうよね。これからは一緒に祈りを捧げましょうね」

めちゃくちゃな、彼女の言葉が耳を通り抜けて行く。

 私は最後の力を振り絞る。私は白衣のポケットから取り出したそれを手探りに綾子の脇腹へ力いっぱいに突き刺した。

「あうっ」

それは、研究室から持ち出した解剖用の鋏だ。刃は閉じていたから彼女を深く傷つけはしないものの、抉り入る傷みに怯んだ綾子の手が緩む。私はその隙にドアと彼女の間から抜け出す。

 途端に鼠たちは私へ迫ってきて、足元をあっという間に鼠が這う。よじ登る鼠たちを私は咄嗟に足で踏みつぶした。足の裏から集めた枝を泥と共に潰したような嫌な感触。しかし私は構わずに足を何度も振り下ろし、時に蹴り上げ、這い上ろうとする鼠を弾圧する。大きな足音と小さな断末魔と生き物が死体に変わる音。それらが耳に届くたび、チカチカと頭の中に白い火花が舞った。

 自分がこんなひどい事をできるなんて知らなかった。知りたくなかった。だとしても、生き残りたいのだと心が叫ぶ。

 それでも湧き出る鼠は留まるところを知らない。一匹、また一匹と、私の攻撃を逃れた鼠が私にとりつく。私は背負っていたショルダーバッグを腹側に回して、チャックを開いた。

「離して!」

飲みかけのペットボトルの蓋を外して、中身を撒いた。

────ヂヂィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!

足元の鼠たちが悲鳴を上げて霧散していく。

「あ、あっあっ、あああああああああああああああああああ!!」

直後、私の後ろで鼠の声をもかき消すほどの悲鳴を上げて、綾子はその場に崩れ落ちた。

「ああ、やめて、来ないで、いや、嫌よ嫌嫌嫌! 許して、やめて、お願い、いや、助けて、助けてください、どうか!」

綾子は髪を振り乱し見えない何かに許しを請う。剥いた眼は、濡れた床を凝視していた。

 まるで、濡れた床を──水を恐れているようなその姿に、黒藤の言葉を思い出す。

 恐水症。水を恐れる、狂犬病の症状の一つ。

「でも……どうして……?」

黒藤の話によれば、感染から発病まで最低二週間は時間があったはずだ。

 今、考えている時間はない。私は水を避けて這い寄る鼠たちにもう一本のペットボトルを開けて水をまきながら、逃げ道を探す。

 床に這いつくばる綾子の後ろで、勢いよくドアが開いた。強い光が部屋を照らす。

「おい、何が、……!?」

そこには黒藤がいた。肩で扉を押さえる黒藤の後ろには、クリーン廊下へのドアが薄く開いているのが見える。

 黒藤は中を照らし、足元の綾子に気付くと手を伸ばす。

「黒藤さんダメ!」

私が声を上げたのと、綾子の身体が伸びあがったのは同時だった。綾子はかがむ黒藤の首に抱き着く様に腕を回すと、腕を振り上げる。次の瞬間、黒藤は「ぐっ」と苦しげに息をつめた。

 黒藤の左の二の腕に、開かれた鋏の刃が突き刺さっていた。私が綾子を指した鋏だ。反射的に黒藤は綾子の身体を引きはがし、肩を押さえて後ろへ数歩よろめく。刺さった鋏が抜けて高い音を立てて床に落ちる。

 黒藤は驚いたように目を見開いて綾子を見つめる。私は綾子へと残っていたペットボトルの中身を全てぶちまけた。

「嫌あああああああああああああああああああ!!」

手で顔を覆って金切り声を上げる綾子の横を走り抜けた。私は黒藤の手を取って、そのまま前室へと滑り込む。

「黒藤さん、ドア閉めて!」

私の声に黒藤は身体を捻ってドアを閉めた。大きな音を立ててドアが閉まり、綾子の悲鳴が遮られる。ここは鼠返しの付いた一方通行の扉、つまり綾子の方から開けるすべはない。

 私は肩で息をしながら、黒藤を見上げた。

「だ、いじょうぶですか?」

鋏の深く刺さった黒藤の肩からはだらだらと血が流れている。

「大丈夫だ、太い血管は避けている……が、一応止血をしたい。ちょっと手伝ってくれ」

黒藤は棚の箱からゴム手袋を数枚引き抜くと、傷より高い所できつく縛るように言う。私が言われた通りに縛る。

「それよりこれはどういう状況だ? 糀谷はどうしたんだ?」

「後で説明します……今はとにかくここを離れましょう」

閉まらないように小さな段ボールでつっかえられていた扉を開く。私達はクリーン廊下へと戻り、そのまま走った。


***


 私達はクリーン廊下から先ほどの【犬】の飼育室を通り、最初に浩と出会った資料室に逃げ込む。中に鼠がいないことを確認してから鍵をかけた。

私は先ほど起きた一部始終を黒藤に説明する。

「糀谷の狂犬病の発病……性格の豹変は狂犬病の症状だとして、それだとここで最低でも二週間以上生きていた事になる。食糧は鼠用の餌を食べたとして、飲料水が無い。こんな所でそんな長期間生きられるはずがない……欅田の件と言い、一体どうなっているんだ」

黒藤が頭を乱暴に掻きながら唸る。私は資料室の椅子に腰かけて膝を抱えた。

「……狂犬病が発症した人は、もう、助からないんですか?」

鹿島の言葉を思い出す。『発症したら死ぬ』それは私も聞いたことがあるが、それでも確かめずにはいられない。

「……現状は、そうだ。狂犬病は発病後の治療法がない。発病すれば必ず死ぬ」

膝を抱える手に力がこもる。首を絞められはしたけれど、それはきっと病気のせいで、そんな事より私は彼女が生きていてくれたことが本当に嬉しかった。逃げはしたけれど、見捨てはしたけれど、それでも嬉しかったのだ。だからこそ、もう助からない命だと、諦めねばならないのだという事実が私の胸を突き刺す。

「そう、死ぬはずだ。糀谷もとっくに死んでいるはずだ……それを言い始めたらここの鼠だってとっくに死んでいるはずなんだが……、……、……!」

黒藤が、は、と一つ息を吸う。

「死んでなお……彷徨って、いるのか? 死んだ鼠達と同じように? 燃え尽きたはずのこの施設ごと?」

まさか、と続く言葉は彼にしては酷く動揺していた。

 『永遠こそが幸せ』だと笑った彼女の声が脳裏で囁く。

 だとしたら、八年前の学生証を持つ浩もまた、そうなのだろうか? 最初綾子と行動を共にしていた鹿島は? 彼らは一体いつからここに居る?

 黒藤が椅子を引き、疲れた様に深く座る。さすがの黒藤も精神的な打撃が強いのか、額に右腕を乗せて天を仰いだ。

「それで、死んだら俺達も仲間入りか……?」

逃げる事は許されない。ここに迷い込んだ彼女はそうして殺されたのだろうか? 彼女は既に死人なのだろうか? もしかしたら浩も?

 何もわからない。『永遠』『救い』彼女の並べた言葉を辿ってみても、何一つ分からない。

「綾子さんは、永遠を手に入れて、幸せなんでしょうか? 両親に会いに行くって、あんなに綺麗に笑っていたのに……」

膝の間に頭を埋めて呟くと、かたん、と黒藤が立ちあがる音がした。足音が此方に近づいて来て、私は顔を上げる。

「俺の持論だがな……獣医に向いているのは『命の境界線』を冷静に見極められる人間だ」

黒藤はしゃがんで私に視線を合わせると、そう言った。

「俺達の仕事は常に助けるだけじゃない。家畜の様な消耗されるための動物も診る。一匹でも感染症が発生すれば、拡大を防ぐために健康な動物ごと全て殺す。預けたまま飼い主が引き取りに来なくなった動物を保健所に送る。助からない命には苦しむ前に安楽死を提示する。いつだって生かす選択のすぐそばに殺す決断が存在するからこそ、俺達は助けられる命と助けられない命、その境界線を間違えてはいけない」

「何の、話をしているんですか……?」

「糀谷……場合によっては欅田も、諦めろっていう話だ。少なくとも糀谷について、俺はそう判断した」

冷たい言葉だ。状況を正しく見つめて、皆が生き残れるように必死に立ち回って、治療して、私さえ見捨てた私の命を見捨てられなかった人の、悲しすぎるくらいに冷静な言葉。

 他でもない黒藤にそう言われてしまったら、私は反論が出来ない。

「……判断したのは俺だ。だから、紀伊に責任はない」

ただ、最後に告げられた言葉にだけは首を横に振った。

「見捨てるのは私も一緒です……責任は、私たち二人にあります」

それだけは譲れなかった。私は黒藤から見たら子供なのだろうけれど、それだけは逃げたくはなかった。黒藤はこれ以上ない程眉間に深いしわを刻んだが、苦くため息を吐いただけでそれ以上は何も言わなかった。


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