捜索
〈ジッ──ガッ──ジッ────ジジッ────さぃ、────〉
「え……?」
ノイズの中に、何か声の様な音が聞こえた気がした。
〈ジジジッ──ジッ──ジッ──ジッ──ジジッ────〉
しかしもう一度よく耳を澄ませてみれど、聞こえてくるのはやはりノイズばかりで、内容を聞き分けることは出来ない。
〈────ガガガ────……パーンポーンピーンポーン〉
やがて放送終了の音が響いて、鹿島がやれやれと肩をすくめる。
「自動放送か知らないが……そこに電力通しておくなら扉を優先しろよな」
だが気を抜いた様子の鹿島に反して私は手の虫よけスプレーを強く握り身構えた。黒藤も私と綾子を庇う様に側に寄って周囲を見回す。
「……柚弦ちゃん? 黒藤さん?」
緊張が伝わったのか、綾子が不安そうに私を見る。綾子の手を握る掌に、自然と力がこもる。
だって、先ほどは、この放送が流れて────
──────ガルルルァアアアアァアアアァァァァ────
全員の動きが止まる。
【あれ】の咆哮だ。遠く、幾重もの隔たりの先で声が反響する。
綾子が握る手を震わせる。鹿島が苦く顔を顰めて、懐中電灯でクリーン廊下を照らした。
だが硬直したまま一分ほど待ってみたところで、こちらへと駆ける足音は聞こえてはこなかった。
「来ない……な」
「…………脅かすなよな」
鹿島はほっと息をついて、懐中電灯の灯りを床へと下す。
「相手は下手にやりあったら殺されかねない怪物だ……会わないに越したことはない」
そう言う黒藤に、鹿島は「あー……」と声を上げると、一つ息をついてこちらを見た。
「そう言えば一つ確認しておきたいんだが……オタクらは自殺願望者じゃないって事で良いんだよな?」
唐突に出た物騒な言葉に「はい?」とつい聞き返してしまう。
「ああ、今のでキミが違うってのは分かったわ」
鹿島はどこか詰まらなさそうに言い捨てる。
「アンタらも渇根山からここに来たんだろ? あそこは割と有名な自殺スポットなんだよ」
何が面白いのか、鹿島は「はは、」と乾いた笑みを浮かべる。
渇根山が自殺スポット、と聞いて、そう言えば浩も「肝試しで来た」と言っていた事を思い出す。あれはそう言う事だったのか。
何より、初めて出会った時の変なおじさんと、怒りに眉を吊り上げた黒藤の態度が繋がった。2人とも、私が自殺願望者だと勘違いしたと言う訳だ。
「……でもアンタも違いそうだな、黒藤さん。ずっとここから生きて出ることを考えてるっぽいし」
黒藤と、その手の中の本を一瞥して鹿島は一人納得した風に頷いた。黒藤は何も言わない。
「え、じゃあお二人は自殺願望者なんですか……?」
驚きから、つい直球な質問が口からするりと滑り落ちる。そんな私に、鹿島は口の端だけ上げて手を振った。
「違う違う、俺らはシュミ」
趣味、と聞き返せば鹿島はスーツのポケットから使い込まれたガラケーを取り出した。
カチカチと操作し、画面保存されたページをこちらに見せる。原色の青が目に痛い画面の上に【自殺スポット特選】という字がチカチカと瞬いた。
「俺は休日に自殺スポットを巡るのが趣味でな。人生のレースに負ける連中が集まる場所に来ると、とりあえずそいつらよりは俺のがマシだって気持ちになってストレス解消になるんだよ。所詮生きている奴が勝ちだからな……なんて、学生の『お嬢ちゃん』には分からないだろうけど」
鹿島は手に持つガラケーを軽く振って、鼻で笑うように言う。
確かに私には彼の気持ちは分からない。分からないのだが、それでも何というか、まあ……悪趣味だ。
まさか、と綾子を振り返れば、視線に気づいた彼女が首を振った。
「私はあの山へは供養に参りました。このような土地を訪れて、亡くなった方の死後の旅路を祈って回っているんです。まあ、私はいわゆる『宗教家』というものなのですよ」
そう言って綾子は朗らかに笑んだ。
「知り合いでもない死人のために生きている時間を割いて祈って、それで極楽に行けるのは死後なんだろ? 正直俺には理解はできないね」
ずけずけと無遠慮に吐き棄てる鹿島に、綾子は「考え方は人それぞれですから」と返す。
「私も死後を特段信じているわけではありません。生きている時間こそが大切である、という鹿島さんの考え方も分かります。ですが、それと同じように亡くなった方にも確かに『生』があったのですから。そこに想いを馳せ、幸いを祈る事が、無意味であるはずがない……と、私はそう信じているのです」
その考え方は、私には彼女の優しさと思慮深さを表しているように感じた。だが鹿島にはやはり理解しがたいらしく、特に響いた様子もなく黒藤を振り返る。
「まあ死ぬ気がないなら何でもいいさ。アンタら二人もその点はマトモそうで良かった。死ぬ気満々の奴と一緒に居て心中に巻き込まれたら堪らないからな」
それはまあその通りなのだろうけれど、もう少し言い方という物はあるだろう。綾子は頬に手を当ててため息を吐いた。
***
クリーン廊下は、前方と右手の二手に分かれていた。真っ直ぐ行った突き当りの引き戸は、おそらく洗浄室で通ろうとした【PR2】へと繋がるのだろう。左の壁にはエレベーターを挟んでドアが二つあり、おそらくこれも先ほど通ったダーティ廊下で見たドアに出るはずだ。
右側にはドアが三つ。真っ直ぐ進んだ先の右側の壁に二つと、右に曲がった先の突き当りに引き戸が一つ。この辺りの区画は先ほど綾子と話した『見取り図で名称の読み取れない区画』だった。
いったいどこに浩がいるのか分からないから、手前から一つ一つ覗いていく事にする。とりあえず左壁の、一番手近なドアを開くことにした。ドアプレートには【LB1】と記載されている。
すりガラスごしに中に誰もいないことを確認してドアを開く。開いたドアは当然の様に反対側にノブがなくて、綾子が閉まらないようにドアを抑えた。
「面倒な造りだな」
鹿島がぼやくように呟く。
入った部屋は、最初に私が入った部屋とほとんど変わらなかった。備品の整頓されたラックがあるだけの部屋だ。私はその奥の開き戸に手をかけて薄く開く。中を鹿島が懐中電灯で照らすと、ここは実験室で、誰かがいる様子はなかった。
このドアは黒藤に押さえて貰い、私と鹿島は右の壁にある、見取り図によると飼育室へと通じているらしい引き戸に手をかけた。
ほんの少し、掌程が通れるほどの隙間を空けて、ギシ、と引き戸が軋む。鍵がロックされているわけではなく、油が足りていないらしい。
見かねた鹿島が手を貸してくれて、重い音を立ててドアがゆっくりと開く。鹿島が後ろから懐中電灯で中を照らした。
中央の作業台の側に、人の影を見つけた。
私達に背を向けて、しゃがみ込むように丸くなっている。白く長い裾が床に広がっていて、その襟の奥には緑色の作業着が見える。
浩、ではない。服が違う。
「……だれ?」
細く声をかけると、白衣が立ち上がった。いや、立ち上がったと言うには様子がおかしい。
例えるなら、水中でビニール人形に空気を吹き込んだかのように。白衣はボコボコと波打ち、膨れ上がり、人の様な形を成す。だが人に似たそれは、本来あるべき関節も骨も感じられない。何より膨れ上がった白衣の襟の先に、乗っているべき首がなかった。
は、と鹿島が引きつった息を吐く。
ガサガサガサ、カリカリカリと白衣から絶えず何かの蠢く音が微かに響く。
あまりに異様な光景に私達は何も言えず、何もできない。
「……おい、どうした?」
それを見た黒藤が、怪訝そうにこちらへと声をかける。
その声に先に我に返った鹿島が、一歩二歩と後ずさる。私もまた、静かに踏み込みかけていた足を引く。が、私の足が完全に出切る前に、白衣が形を失い床に伸びた。
床に伸びた白衣が激しく波打ち、そして裾や、襟や、袖口から、飛び出すように白い鼠の大群が這い出て来た。
隣では鹿島の素っ頓狂な声を上げていたが、鼠の合唱にかき消される。
ヂヂ、ジュイジュイジュイ
ヂ、ヂヂヂ、ヂ、ヂヂ、
チヂッ、ヂイ、ヂイ、ヂイ、ヂイ、ヂイ、ヂイ、ヂイ
百でも余りある鼠達が、我先にと私達のいる引き戸まで迫ってくる。無数の赤い瞳がライトの光を返して瞬く。暗闇で互いを踏みつけ乗り越え、まるで打ち寄せる波の様だ。
一匹一匹がか弱い小動物でも、これだけ集まれば脅威に映る。咄嗟にドアを閉めようと掴んだ思い切り取手を引いて、しかし立て付けの悪い引き戸はギシ、と音を立てるだけで上手く動かない。
──トン、タン、──トトトトトト、
すぐ真下で、鼠達が次々と軽い音を立て鼠返しにぶつかる。しかしその鼠を踏み台にするがごとく別の鼠が乗り、さらにその背を押しつぶすように鼠が這い上がり、打ち寄せた鼠が膨らみ嵩を増しあっという間に決壊する。ぼと、ぼととと、と溢れ零れ落ちた鼠たちが再び波となって押し寄せる。
私と鹿島は身を翻して黒藤の押さえるドアまで走る。数百の針が床を叩くような音が私達を追いかける。鹿島が先にドアを抜け、追って私の踏み出した足が鼠返しに取られてバランスを崩す。
「紀伊!」
まずい、転ぶ──身体が半分宙に投げ出された瞬間、腹に強い衝撃が走って息が詰まる。強い力が私の身体をぐるりと回して、続く浮遊感と暗闇の中で自分の状況どころか天と地さえも分からなくなる。
キイキイと言う鳴き声に、反響するような耳鳴りが混ざる。
──────さない────
耳鳴りと鳴き声に混じって、電子音の様な声の様な掠れた音を聞いた気がした。
その直後、足元でガンと大きな音が響いて、まるでテレビの電源を落としたかのように、鼠たちの足音も鳴き声も全てがピタリと止んだ。どうやら鼠がこちらに来る前にドアを閉められたらしい。
続けざまに背中を鈍く温かい衝撃が襲い、浮遊感が終わった。
「お二人とも、大丈夫ですか!?」
綾子の焦った声が頭の先の方から飛んできた。
「大丈夫だ」
私の背の下から黒藤のくぐもった声が聞こえて来て、そこでやっと、私は黒藤を下敷きにしているのだと気付いた。
「すみません!」
腰を強く支える腕をどけて貰い、私は黒藤の上から慌てて降りる。黒藤は起き上がると「痛むところは」と短く聞いた。
「いえ、特には……」
私の回答を待たずに懐中電灯で私の手足を照らした。蹴つまずいてプレートに打ち付けた個所に触れ、ほっと息を吐く。
「足……は、折れてはなさそうだな。腫れたらすぐに言えよ」
「手慣れているんだな」
鹿島がそれを感心したように見下ろす。
「あ、この人、獣医さんなんです」
私から伝えると、鹿島は「うえっ、勝ち組かよ」と言って何故か顔を顰めた。
「ったく……とんだ目に遭ったな」
鹿島がぼやく様に言って肩を下げる。私達は綾子の押さえるドアを通りクリーン廊下まで戻った。
「さすがにあの数に向かってこられたら鳥肌が立つ」
「ハツカネズミは二十日で子供を産めるようになると言いますから……『ネズミ算式』なんて言葉もあるくらいですし」
綾子の言葉に「げえ、」と鹿島が眉を顰めて舌を出した。
「鼠ってのは凶暴だから嫌なんだよな……管理室でも噛まれたし」
鹿島が掌を振る。見てみれば、確かに親指の付け根に私のと同じような噛み傷がある。
「あちらからすれば私達こそ大きく恐ろしいものに見えているのでしょう。噛みつくのも無理はありません」
言いながら綾子も細い指で反対の手の指を摩る。もしかしたら彼女も噛まれたのかもしれない。
黙ったままの黒藤を見上げると、黒藤はなんだか浮かない表情で、じっと閉じたドアを見つめている。
「どうかしましたか?」
尋ねると、黒藤はドアに視線を向けたまま「妙だ」と呟いた。
「妙とは?」
「……あの鼠達は一体どう」
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!」
突如、黒藤の言葉を遮ってつんざくような悲鳴が空気を揺らした。
再び緊張が走る。その悲鳴を、私と黒藤は知っていた。
「浩君の声です!」
私は声の聞こえて来た引き戸へと走り出す。
***
PR2の手前、引き戸を開いた先は倉庫になっていた。並列に並ぶ棚には予備のゲージや計測器、ビニール手袋、薬包紙、未開封の段ボールや消毒液の入ったポリタンク等が規則正しく並んでいた。しかし肝心の浩の姿は見当たらない。
すぐに鹿島達も追いついて、私達は浩の姿を探す。
ガタン、と奥で重い音がした。音の方まで駆け足で向かえば、そこには半開きの扉がある。扉には『薬品庫』『毒物劇物取扱責任者:伊藤 雅』とプレートが下がっている。どこか覚えのある名前にはたと止まり、しかし扉の奥からの物音にすぐに意識をそちらに戻す。
「来るな! やめろ!」
扉の奥から再び浩の声が響く。
私が引き戸を開いて鹿島と黒藤が中に足を踏み入れる。そこには左腕から血を流しながらもがむしゃらに本を振る浩と、今にも浩に飛び掛かろうとする犬の怪物の姿があった。
「グルルルルゥルルルルル」
段ボール越しでも扉越しでもない、初めての直での対面。
鹿島と黒藤のライトに照らされた【それ】の姿はこの場にいる誰よりも大きな体を前傾にかがめて浩を見据えている。顔も目も声も何もかもが禍々しい怒りに満ちていて、何より場を支配する様な捕食者の殺意ともいうべき威圧感があった。
【それ】は新たな闖入者である私達に気付くと、振り返り様にそのまま長い足で床を蹴り、跳ぶ様に私達へと迫る。
爪も牙も持たない弱い人間の本能が、逃げるべきだと、そうでなければ死ぬと、脊髄を叩くように訴える。
【それ】は腕を上へと振りかぶった。次の瞬間鹿島の姿が私の視界から消えた。ライトの転がる音と共に光が横向きにくるくると回転する。足元の「いづっ……!」という呻き声に視線を下げれば、肩から胸にかけてスーツを裂かれシャツに血をにじませた鹿島が不格好に蹲っていた。打ち所が悪かったのか、側頭部を手で押さえている。
「鹿島さん!」
鹿島の後ろに立っていた綾子が悲痛な声を上げ、鹿島に手を伸ばす。続いて【それ】は鹿島を跨いで綾子へとその大きな口を開いた。牙がライトの光を反射して白く鋭利に光る。
後ろから、黒藤が手に持っていた本の表紙で【それ】の顔を思い切り叩いた。【それ】は傷みに一瞬怯み、背筋を丸くして左手でマズルを覆う。前へかがんで多少狙いやすくなった【それ】の目に向けて、私は手に持っていた虫よけスプレーを思い切り噴射した。
「ギャンッ」
薬が目に入ったのか【それ】は片手で目を押さえてよろける。その好機に浩が【それ】の脇をすり抜けこちらへ駆け、足元の鹿島もまた、落としたライトを拾い浩の元へと這って逃げた。
浩や鹿島の血の匂いが遠ざかる事を感じたのか、【それ】の鼻がヒクリと動いて唇がめくれ黒い歯茎がむき出しになる。低い低い唸り声が牙の隙間から零れる。
私は再び、目元を狙ってスプレーを構えた。もう一度これをお見舞いして、その隙にどうにかここから逃げれば……と考えた矢先、【それ】の身体が前のめりに傾いて黒い影が私の前を過ぎ去った。
カラン、と軽いものが床に落ちる音が鳴って、その数瞬後にびりびりとした強い衝撃が手の甲を襲う。
──何が起きた?
分からない、けれど今はとにかく【それ】の目を、とスプレーを構えようとしてやっと手元にあった金属の感触がない事に気が付いた。虫よけスプレーを叩き落とされたのだ。
途端に私は無防備で、ここはこの捕食者の容易に手が届く範囲で、その事実にバク、と心臓が波打つ。
傷みにまだ少し歪む黄金の瞳がそれでも真っ直ぐ私を捉え見下ろす。【それ】の足が大きく一歩、前に踏み出される。
──────殺される!
鋭い爪が私の咽喉を切る最悪の想像が頭を過って、それが私を更に怯ませる。私は蛇に睨まれた蛙のごとく、どうにも動く事が出来ない私と【それ】の間に薄汚れた灰色の布地が割り込んでくる。
私の前に立った黒藤は両手に持ったパイプ椅子を【それ】へと振りかぶった。ガッと鈍い音を立てたパイプ椅子はだがしかし【それ】に捕まれ、奪われ、背後に放り投げられる。
パイプ椅子の当たった薬品棚の中からガラス瓶の落ちて割れる音がいくつも重なり響く中、【それ】は更に足を強く踏み出して────姿勢を低く駆けだすと私達ではなく浩達へと襲い掛かった。
振り返った先で腕を取られた鹿島の首に【それ】の牙が迫る。
「クソ野郎!」
鹿島が側のキャビネットを掴んで引き倒す。倒れたラックが【それ】へと直撃し鈍い音を立てた。倒れた棚から備品の詰まった段ボールが雪崩れて【それ】に降りかかる。少し巻き込まれた鹿島が這いずり出ながら叫んだ。
「今だ、逃げるぞ!」
先に綾子と鹿島と浩が部屋を出て、私もその後を追う。しかし黒藤だけが棚からポリタンクを手にし、蓋を開けて中身をドボドボとまき散らした。咽かえるような消毒液の臭いに口元を押さえる。
「黒藤さん何してるんですか、早く!」
掌の下で叫ぶ私に「嗅覚対策だ」と短く応えた黒藤が廊下に駆け出て後ろ手に倉庫の引き戸を閉める。すぐ目の前の扉──中心にバイオハザードマークが黄色く鮮明に描かれた扉の中から綾子が私達を手招いている。
黒藤が私に続いて部屋へと入り、私達はなるべく静かにドアを閉める。鹿島と黒藤が示し合わせたようにライトの光を消す。
ここもまた一方通行のドアで、鍵もない。私達はドアを体で強く押さえながら、耳を当てて廊下の様子を伺う。
この部屋も実験室へつながる前室で、今までと同じく棚と実験室への扉があるだけで他に何もない。もしも【あれ】に真っ直ぐにここへと入って来られたとしたら、今度こそ抗える武器がない。
廊下からは何の音も聞こえない。恐怖を抑えた呼吸音だけが細く長く、静かに部屋に零れている。
廊下からは何の音も聞こえない。静けさがむしろ耳にうるさくて、掌が嫌な汗でじとりと濡れる。
廊下からは何の音も聞こえない。そんな時間が長く長く続いて、不安と恐怖が首を絞めて、息苦しさに意識が遠のきそうになった時、ドアの向こうから引き戸の開けられる音が聞こえた。
全員に緊張が走る。息が止まる。ドアを押さえる身体に力が入る。
自分の心臓が胸を内側から殴打してくるから、その音が聞こえてしまうのではないかと怖くて、服の上から掌で胸をぐっと抑える。
────ゥルルルルルル……
【あれ】の咽喉を鳴らすような唸り声がドア越しに聞こえる。唸り声は移動している様だが、ドアが厚いのか声がくぐもっていて【それ】の足音までは聞こえない。だから【それ】が遠のいているのか近づいているのか判断ができない。
お願い、この扉を開けないで────
祈るような気持で、耳を澄ませていると、ドアを伝ってドアノブの回される音が聞こえた。
音は遠い。このドアではない。
ドアはそのまま開いて、閉じる。唸り声は聞こえなくなり、再び静寂が部屋へと落ちる。
誰かが、大きく息を吐いた。それにつられて、私もまた息を吐く。
黒藤か、鹿島か、どちらかがライトの光を浸けて、追ってもう一つも点灯する。眩しさに目がくらむと同時に、もう大丈夫であると言われた気がして、ドアを押さえていた力を抜く。
「こ、わ、かった……」
緊張の糸が切れて腰も抜けた。ずるずると床にへたり込むと、全身からどっと汗が噴き出す。
今更恐ろしさがぶり返して、立ち上がることが出来ない。掌を見るとガタガタと震えていた。
「た、立てない……」
「……アドレナリンが切れたな」
そんな私を見下ろす黒藤もひどく疲れた顔をしている。黒藤だけではない。皆、精根尽き果てたような顔をしていた。
ふと鼻先を、鉄の臭いが通り過ぎる。
「あ、そうだ、浩君、鹿島さんも、怪我、大丈夫ですか?」
怪我人の事を思い出してノロノロと振り返る。舌の根も震えているのか口がうまく回らない。浩は泣きそうな顔で舌足らずに「すごいいたい、けど、だい、じょうぶ」と頷いた。綾子が浩の左腕の傷をハンカチで押さえようとすると、浩は痛そうに顔を歪めた。
「俺は傷よりスーツの方が問題だ……結構高かったんだぞコレ」
鹿島もまた痛みはあれど傷は深刻ではないらしく、スーツの破け目を見ながら忌々しそうに頷いている。
「一応診ておくぞ」
黒藤はそう言うと、先に浩の左腕の傷を診て、次に鹿島の方の傷を見る。脂汗の浮く浩の額を綾子がそっとハンカチで拭った。
「欅田はこれ思いきり噛まれたな……折れてはいないがヒビ位はいったかもしれないぞ。鹿島の方は服のおかげで傷は深くない……が、パスツレラが怖いからな、二人とも一応消毒をしておいた方が良い」
そう言うと黒藤は、先ほど倉庫からかっぱらって来たポリタンクを持ち上げた。たぽん、と中のエタノールらしい液体が音を立てる。
すると、浩が嫌そうに首を振った。
「い、いらない!」
声が部屋に響いて、「馬鹿」と鹿島が浩の口を塞いだ。塞がれた口の中で「いらない」と浩が小さく繰り返す。
「……俺もそれは遠慮しておく。こんな得体のしれない場所の消毒液を使うってのは……生理的に無理だ」
鹿島も黒藤から少し距離を取るように後ずさって首を振る。見れば、綾子も何やら顔色が悪い。
「鹿島さんの言う様に、安全かもわかりませんし」
皆の言いたい事も分からないでもない。黒藤だけが分からないらしく「使用期限切れていても気休め程度の効果はあると思うが」なんてブツブツ言いながらも仕方なさげにポリタンクを置いた。おおらかなのか、大雑把なのか。
仕方なさそうにポリタンクを床に置くと、黒藤は棚を漁り始める。白衣を手にとったり、スリッパの底板の硬さを確かめる黒藤に、鹿島は合点が行ったように鞄を開いた。
「おい、これ使えよ」
鹿島が出したのはA4の時計雑誌で、顎で浩を指す。綾子も高そうなそのハンカチを裂いて「包帯にしてください」と黒藤に渡す。
それらを受け取った黒藤は、手早く浩の腕を雑誌で巻く様に固定すると白衣の袖を結んで胸の前で吊れるようにする。余った白衣がマントの様に不格好ではあるが、それなりに形にはなった。
「……ありがとうございます」
やっと泣き止んだ浩が、それでも涙の滲む声で礼を言う。
一通り応急処置を終えたところを見計らって私は黒藤に声をかけた。
「黒藤さんは消毒しておきます? するなら私手伝いますよ?」
黒藤の肩の傷を指さして言えば、ほんの少しの間の後に「頼んだ」とポリタンクを渡された。
部屋の棚を見ても残念ながら脱脂綿は見当たらず、私はポケットティッシュに消毒液をたっぷり浸して傷口に当てる。乾いて止まっていた血がまた少し滲む。
いかにも沁みそうな手当なのに、黒藤は眉一つ動かさなかった。
私が手当てをしている間に浩と鹿島と綾子の間で名前の交換が終わったらしい。
「綾子さん、さっきは庇ってくれてありがとう」
浩が礼を言うと綾子が首を振った。
「いいえ、私は年長者として当然のことをしただけです。だから感謝ではなく、どうか繋がりを。いつか貴方も誰かの助けになってあげてください。その輪が広がる事こそが私の喜びです」
浩はその言葉に少し不思議そうに綾子を見つめている。
「あの……何か?」
そんな浩に綾子も不思議そうに首を傾げると、浩は「えっと」と困ったように口ごもった。
「その、俺、綾子さんと前に会ったことありましたっけ?」
途端、ブフ、と鹿島が吹き出す。
「いえ、特に覚えはないのですが……いつのお話ですか?」
「分からないんですけど……前にもそれ言ってもらった事があった気がして……いや、気のせいか勘違いだとは思うんですけど」
鹿島が押し殺すように低く笑った。
「少年、勇気は認めるがセンスがないな。ハッタリ言うなら『俺が助けた』くらい言っとけ」
その言葉に浩は何の事か分からない顔をして、次の瞬間耳まで真っ赤にして「ちっ、違うし、やめろよおっさん!」と吠えて、すぐ後に痛みに背を丸めた。
「だから声がでけえ馬鹿、犬に聞かれるだろ」
「……話は終わったか」
手当が終わった黒藤が両手に白衣を抱えて三人の会話に割り込む。
「暑いかもしれないが、服の上から着ておけ。また犬に引っかかれても少しはマシになる」
私も渡されて、ショルダーバッグの上から着込む。浩だけは固定した腕が邪魔で着られなかったが「学ラン丈夫だし、下にトレーナー着てるから多分大丈夫」と弱く笑った。
「……あとはこの先が鼠の巣窟になってなきゃ万々歳なんだがな」
ドアを見ながら鹿島が呟いた。
確かに、この先が先ほどの『鼠部屋』の様な惨状だったら私達は逃げ場がない。
「鼠の大群に飲まれたって死ぬわけじゃない」
しかし鹿島の言葉をばっさりと切り捨てた黒藤が、躊躇なくそのドアを開けた。
中をライトで照らす。床を見ても天井を見ても幸い蠢く小動物は見当たらなくて、ほっとする。
中はやはり実験室で、だがそれまでの様相とは異なっていた。
奥にドアがあって右側に飼育室に繋がる引き戸があって、足元には鼠返しが付いていて、そう言う間取りは同じなのだが、中の設備が全く違う。
洗浄室で見た電子レンジの様な機械や、それをさらに大きくしたような洗濯機の様な機械が壁際の台に並んでいた。作業台と思われる台は全てガラスで覆われていて、手だけを差し込める穴が側面についている。その足元には赤や黄色のバイオハザードマークの付いた白いボックスが並んでいた。
「セーフティレベル3ってところか……何かあの犬に対抗できる武器でもありゃ良いんだが……」
黒藤は相変わらず物騒な事を言いながら我が物顔で棚を漁る。その物騒さのおかげで生き延びているから最早頼りがいがある。
「足元の白い箱は開けるなよ。汚染された医療廃棄物だ」
汚染、と言う言葉に鹿島ではないが「げえ」と思う。案の定鹿島なんて近寄りたくもない様子だ。
「そもそもあの犬何なんだよ……? 人体実験で生まれた怪物とか、実験の恨みで化けた犬とか?」
片手で反対の棚を探しながら浩が言う。
「アニメの観過ぎ……と断じれない辺り嘆かわしいぜ」
鹿島がため息を吐くように言った。
確かに、私達のこの状況そのものがアニメや映画のような話だ。
そもそも私はただ父に会いに来ただけだったはずなのに、それが一体どうしてこんなことになってしまったのだか。
「もし彼が恨みを持ってここに囚われているのであれば、恨みを晴らせば彼もあるべき場所へ還れるのでしょうか?」
綾子の言葉を鹿島が鼻で笑う。
「それこそアニメの観過ぎだ、バカバカしい。それに他人のために安易に身を危険にさらす奴は自殺願望者と変わりないぞ。どうしてもやりたいって言うなら一人でやれ」
鹿島は棚の引き出しから透明な封に入れられた鋏をいくつか取り出すと封を切り、一本ずつ配って白衣のポケットに入れた。
言い方は冷たいが、彼の言っている事も分かる。
「一先ず、ここに何があったとかアイツが何なのかとかはどうでもいいだろ。俺達はシャッターに電気を通して外に出る。ただそれだけだ」
「同意見だな」
黒藤も備品をいくつか白衣のポケットに入れて、折り畳みのパイプ椅子を肩に担ぐ。
「こんな化物施設はさっさと出るぞ」
***
〈ピーンポーンパーンポーン〉
実験室を出て、ダーティ廊下へ戻ってくると同時に、放送が流れた。三度目ともなると慣れたもので、私達は【あれ】が飛び出してくるかもしれないもう一つのドアを気にしながらも急ぎ足で洗浄室へと出る。
〈ジジッ──ジジッ────ジジッ────けた〉
今回はノイズの中にはっきりと電子音の声が聞こえた。
〈──な──、────ば、に──さ──、こ──なけ──、────パーンポーンピーンポーン〉
放送が終わる。声は聞こえても内容が分からなかった。だんだんと聞こえるようになっているという事は、録音テープのこの先は劣化もマシなのかもしれない。電気室に辿りついたらこの電気をシャッターに回してしまうから、もうこの先を聞くことはないのだろうけれど。
放送が終わっても【あれ】は咆哮を上げず、飛び出しても来ず。だから私達は洗浄室を速足で突っ切って、階段の裏にある電気室への扉を開いた。
重いドアの先は埃っぽくて、何より今までで一番狭かった。ぎゅうぎゅうに詰まる様にして中に入りドアを閉める。
ドアの先には大きな扉があって、開くと沢山のスイッチが規則的に並んだ盤が出て来た。
「分電盤だ」
家の小さなブレーカーとは異なる規模に、どこをどう見ればいいのか全く分からない。
鹿島は綾子から見取り図を受け取ると、手慣れた様子でスイッチの横のプレートと見比べる。
「エントランスのシャッターは、と……これは廊下の照明で、こっちが出入り口の空調だから……これか……いや違うか、こっちだな」
見つけたらしく、スイッチに手を伸ばして、しかし鹿島は手を止めた。
「…………ん?」
どうしたのだろうと横から覗くと、『正面出入口』と書かれたプレートの隣のスイッチが既に『ON』となっている。
次に上の大きなスイッチを見る。大きなスイッチは二つあって、そのいずれも『ON』だ。それからさらに鹿島は上にある計測盤へと光を当てた。
「……おかしいぞ」
鹿島の声が引きつっていた。
「どう、しました?」
その声色に、不味い事が起きているのだと、それは分かってしまい、私の声もまた引きつれる。
鹿島の持つライトが照らす計測盤の針は『0』を指している。
「……この施設、一切電気が来ていない」
鹿島の声が冷え冷えと響き、私達は顔を見合わせる。
「でも、廊下の足元灯とか、さっきの放送だって……」
〈ピーンポーンパーンポーン〉
浩の言葉を遮る様に、再び放送が流れる。
〈ジジッ──ガッ────がさない〉
唐突にノイズが綺麗に消えて、電子音声がはっきりと響く。
〈────逃がさない────逃がさない──逃がさない──
逃がさない、逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない〉
電子音はだんだんと早くなり、大きくなり、轟音のように降り注ぐ。あまりの音量に耳を塞ぐ。それでも音は掌を突き抜けて襲い掛かる。
鹿島が片耳を塞ぎながら、分電盤の『放送・警報』と記載されたブレーカーを『ON』から『OFF』に切り替えた。
────しかし放送は終わらない。
〈逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさな逃がさな逃がさ逃がさ逃が逃が逃が逃が逃がががががががががががががががががががががががががががががががががががが〉
壊れたレコーダーの様に音が跳ねて繰り返し、そして行き詰る。
〈────────────逃げるなら、殺さなければ〉
ブツリと切れる音と共に、呪詛の様な放送が終わった。