月夜野御所の花の絵草子
腰を痛めた小蝶々が、なんとか宮中に帰ってきたのはその翌日のことだった。
小蝶々は戻るなり、どんよりとした局で、だらしないなりでいるカノヱを見て眉を寄せたが、ことの次第を聞くと真っ青になってカノヱのそばによろよろと膝をつき仔細を尋ねた。
「なんということ! では、主上はお怒りに?」
「きっと――。小蝶々、私、髪を落とそうかと」
沈んだ様子で落飾さえ訴えたカノヱに、小蝶々は瞠目した。
「なにをおっしゃいます」
「もう、いいの。こんなことになっても、私はやっぱり絵が好き。ここでないなら、きっと、自由に描いていられるでしょう?」
「カノヱ様」
「前は、絵を見せたら小蝶々だって、笑ってくれたもの」
ぽつぽつとしたカノヱの言葉を、唇を引き結んで聞いた小蝶々は、実家からの贈り物だという美しい料紙をカノヱに手渡した。
「和歌と筝をなさいませ。ひとときはお静かに」
「……もう、無理よ」
「いいえ、いいえ!」
小蝶々は苦しげに首を振った。
「カノヱ様にあらぬ噂を立てて追い落とそうとしている者がいるのです。大方、もう一人女御を差し上げようとしている、藤城の内大臣の差し金でしょう。やがて裳着を迎えられそうな、姫を養女に取られたとかで」
「そっか……。じゃあやっぱり私はいらないじゃない」
「お気を確かに! お父上や七条大臣の身の上にも関わるのですよ。噂だってまるで真実のように思う者もいるでしょう」
「でも、どう伝えたら信じてもらえるの?」
もう絵だって自由には描けない。夕月だって遠ざかっていった。
普段明るいカノヱの苦渋に満ちた涙声に、小蝶々は手を震わせ、大切に育ててきた姫君をまるで幼い子どもにするようにヒシと抱き寄せた。
「カノヱ様は、月子様はっ、決して人を呪うような御方ではございませんっ」
小蝶々は悔しさに顔をゆがめて、涙目を隠すように檜皮色の単衣を目元に当てた。
「口惜しゅうございます。歯がゆく」
「ごめん、ごめんね小蝶々。ごめんね、ちゃんと、できなくて。雪白様みたいにはできなくて、本当にごめん」
月のない夜。久しぶりに乳母に甘えたまま眠ったカノヱは、夜が白む頃、尼になる決心をして目覚めた。当然のこと、訪れのない夕月からの文はない。
急な物忌みだと誰かの慰めを聞いたが、真実はわからない。やはり見放されたのだとカノヱは落ち込みを深くした。
枕元に目をやれば、ほほえみの絵姿だけが残っている。
『カノヱ』
呼ぶ声が胸に蘇る。いつも他愛ないことを尋ね、花を添えて文を送り、カノヱの元を訪ねてきた夕月。
「ああ、そっか」
愛されないなら恋もすまいと、願っていたのに。
自分の心のままならなさに、カノヱは小蝶々の選んだ衣に袖を通しながら、目を伏せた。
身の回りの片付けをして一日が過ぎるなか、沈鬱を突き破る素っ頓狂な声が上がったのは日暮れ前のことだった。
「女御さま。なにか局の前にございます」
局を出た小侍従が声をあげる。白木の台を持ち戻ってきた彼女の手元から、チリチリと涼やかな音がする。唐の薄手の焼き物の立てる音だ。台には手のひらほどの蓋のある丸い器が所狭しと並んでいる。食器ではないようだった。
「まあ、いつのまに、誰が。小侍従。中身も確かめずに持ってくるなんて!」
「小蝶々の君、申し訳ありません。なんだか器もひとつひとつ美々しくて……立派なものに思い」
好奇心がうずいたカノヱがそっと身を乗り出し、小侍従の手元を覗き込む。ちいさな蓋物の磁器を開けると、それぞれに色のついた粉が詰まっていた。首を傾げる女房たちをよそに、カノヱは叫び声をあげた。
「これ、絵の具だわ!」
「カノヱさま、料紙もこんなに!」
外に出た三千風が声を上げる。優美な螺鈿細工の文台には、色含みのよさそうな厚みのある用紙が、どっさりと乗っていた。
帝の御渡りの先触れが来たのは、それからすぐだった。
「カノヱ」
驚き交じりに帝を迎えるカノヱに応えて、夕月は静かに名を呼んだ。いつにもまして、親しみのこもった、と感じたのは気のせいだろうか。
「お、おそれおおくも、あの御料紙は」
「好きに使うがいい」
「あんなに! 絵の具まで、よいのですか?」
「好きなら、励めばいい」
「で、でも」
悪名を思って悩ましげな顔をすると、夕月はこともなげにこう言った。
「カノヱ、見ての通り私は大事ない。そなたの絵はただの絵だ。公卿たちにもそう伝えた」
不安げだったカノヱの面持ちがパッと輝いていく。
「あ、ありがとうございますっ」
行儀も構わず大きな声で言って夕月を見上げると、凛とした眼差しは少し細められて、満足そうにカノヱを見つめていた。
「雪白の話をしてもよいか」
「え? ……はい」
「雪白は、いつも好きなことをしていた」
「雪白様がですか」
「歌を詠み、琴を奏で、そして、いつも喋ってばかりいた。うるさいほどに」
カノヱは付け加えられた貴人らしからぬ特徴に驚いて口を開けた。
「私が口を挟むと、まだ話し足りないので黙っていてなどと、不敬な女御で」
慎ましやかな女性だとばかり思っていたのに、夕月の語る雪白の女御の横顔は、自由に楽しげに、いつも楽しいことを探しているひとりの明るい女性の姿だった。
「だが、私はそれが好きだった。ポンポンと歯切れよく、楽しげにその日あった細々を語る。私をもよく叱り飛ばしたのだからな、あの雪白は。私は心通わす楽しみを知り、あれの自由な心映えを愛した。別たれる、間際まで」
声音に滲む色褪せぬ追慕が、ズキリと覚えのある痛みをよこす。震えそうな声を隠すように、カノヱは単衣を口元に当てた。
「そうだったのですか」
「ゆえに、七条が似た姫を見つけたと申した時には、よほど口の回るものが来たろうと」
夕月は、扇の端をこめかみに押し当てて、カノヱの顔を覗き込んだ。
「だが、姿は似ぬし、ひとことも楽しげに語らぬ。私を厭う風に、黙してうつむいている」
「も、もうしわけござい――」
「意に染まぬ入内であったのだろう」
「いえ……」
「そなたの瞳は、私の側ではいつも曇りがちでいた。女房たちとは、いつも盛んに軽口を叩いていたようだったが。そなたはよくしゃべるし、よく笑う。なのに私は、それを横顔しか知れないままだ」
突然衣の袖をとらえられてカノヱは慌てた。
「いつかそれが間近になればと、尋ねごとを繰り返した。なにか語らうものが見つかれば、少しは気安くなるものかと」
「そ、そんなお心遣いを」
「花は詳しくないゆえ語る言葉をもたない。ならばと草花を送るが歌も返さぬゆえ、心持ちを知る術もなく手を焼いた。楽も好きだというから、女楽にも顔を出すよう伝えたが断られてしまったしな」
「あれは、夕月様のお誘いだったのですか?」
「まあ、隠した私も悪かった」
夕月は困ったように笑み、そして静かに言った。
「心赴くままにあれば人は輝く。カノヱ、そなたも絵が好きだと私にはっきり申した折、明らかだった。これからは、望むようにあればよい」
思ってもみない夕月の言葉に胸打たれていると、とらえられているカノヱの袖は不意にクッと引かれた。
「私も、許されるか」
「え?」
「触れても良いかと」
ささやく声に、パッとカノヱの頬に朱がともる。
「ゆ、許されるも何も、私たちは、そのっ」
「契り交わすは、心通わせた時でありたかった」
「心っ、そ、そっ」
「まだか、カノヱ」
夕月のまとう白檀が甘く香る。
「お、お聞きにならないで下さいませ」
途端に、思うより力強く引き寄せられて「あっ」とカノヱは声をあげた。今まで隔てられていた距離がひと息に縮まる。懐に強くかき抱かれたカノヱが思わず見上げると、そのまま息を塞がれてしまう。
体を締め付けるような熱さとめまぐるしさ、カノヱが苦しさに夕月の胸を数度叩いてようやく解放が訪れた。
「そなたの描く絵姿を見て、私は嫌われていないと確信を持った」
「なぜ、です?」
「私は、絵が好きだからな」
首筋まで紅く染め上げ、もう物も言えないカノヱはされるがままだ。言いたいことも聞きたいこともみんな何処かへ霧のようにかき消えてしまった。
軽々と抱き上げられて御帳台へ降ろされる。
今までと違う気配がおそろしくとも、女房たちの姿もなく、誰に助けを求められようはずもない。
戸惑いながらも瞳そらさず、なにか物言いたげなカノヱに、覆いかぶさる夕月が頬にそっと手を添えた。
カノヱはやっとのひとことを、色づいた唇で紡いでみせた。
「ほほえんで、くださいますか」
願いを叶え、夕月はカノヱをゆるやかにほどいていく。 遠くに置き去りにされたままの初めての夜が、カノヱの元に降りてきた。
「願いをかけて、描いたものがありました」
ようやく自分を取り戻したカノヱは、厨子の中にしまい込んだ文箱を取り出すと、かけた紐をそっと解いて夕月に差し出した。納められていたほほえむ己の絵姿を見て、夕月は顔をしかめる。
「ずいぶん美男に描いている」
「そうでしょうか? よく描けたと思っていたのですけど……」
「もう少しよく見るがいい」
「ち、近いですっ」
「もう私は許された」
「ついてゆけません。昨日までは髪を切ろうかとも思っていたのに」
「なぜだ」
「な、なぜもなにもっ。あ、愛されておらぬと思えばっ」
勢い込んで今までのことを語ろうとして、愛おしむように見つめる視線に全部溶かされてしまう。
「そうしなくてよかったと、思っております」
◇◇◇
沈鬱だったカノヱの局に、晴れやかな日々が戻ってきた。
里にいた頃のように明るくからりとしたカノヱの笑い声が、昼となく夜となく局に響いている。
不名誉な呪い絵の女御という名は、あれからたちどころに霧散した。
カノヱに描かれた桜が、実は今も見事に誇っており、出家を撤回した冬木大納言も、次の除目で政敵を抑え左大臣に登ったことで、くるりと評価を違えることになったのだ。
「宮中って面倒なところね」
カノヱのつぶやきも無理からぬことだ。
帝の寵愛日増しに深まるカノヱの女御の元には、日々絶えず贈り物が届くようになった。
その中には、今では「絵心の女御」とさえ呼ばれる彼女のために、地方名産の立派な料紙が届くこともままあった。中でも、唐渡りの新色の顔料が届いた時にはカノヱは狂喜して夕月に喜びをまくし立てた。
「カノヱ、うるさい」
「ああ、でも聞いて欲しいのです。この色合いどう思われます?」
「分からぬ。好きに描いてのちに見せよ」
うんざりした面持ちながら居座って草子を読みふける夕月と、諦めずに話しかける女御を見て、女房たちは声を殺して笑い合う。
「次は、絵巻を描きたくて。春夏秋冬、この庭に咲く花を写し取ろうと」
また話し出したカノヱに眉を寄せながら、夕月はふと思い出したように書物を置いた。
「カノヱ」
「ああでも、七条の義父君に牡丹の絵が欲しいと言われていたのでした……。取りかかれるのは、まだ先でしょうかね」
カノヱの絵は宮中で大変な評判で、女御の手による絵を家に飾る公卿も多い。なかでも、花の絵の評判は抜群だった。
思いに耽っていたカノヱは、夕月が黙して待っているのに気づくと気恥ずかしそうに口を閉じて、そっとそのかたわらに寄り添う。
夕月の帝は、ひとつ尋ねごとをした。
「そなたの名には、いかなる意味を込めたるか?」
「名前ですか……、お話したことありませんでしたか。生まれの鹿江、庚午の生まれ年からつけられた安直な名前で……」
少し残念そうに言う妻の、類稀な絵を産み出す華奢な手を取り、夕月はそっとその手のひらに文字を書く。
「我が絵心の女御には、花ノ絵の意を添えたく思う」
おわり
月夜野御所の花の絵草子 ご覧いただきありがとうございました。
※絵草紙というと時代に誤解が生じてしまいそうな気がするので念のため、
花の絵+草子=カノヱの物語とご解釈いただければ幸いです。