呪い絵の女御
それから一昼夜が過ぎた頃。
典薬寮から出された薬を手に、小蝶々は特別に輿を許されて宮中を退出していった。
医師の見立てはこうだった。
「間違いなく、ぎっくり腰でございます」
血相を変えた女房から引っ張りだされた年寄りの医者は、不機嫌そうに告げて去った。痛いには違いなかろうが、命に関わるものでなかったことに、カノヱは心底ホッとした。
「でも、こんなひどいことになるなんて……」
「小蝶々君は、いつも気が立っておいでですからね…。お疲れが腰にきたのでしょう。すぐお戻りになりますよ。ご不安でしょうが、お支えいたしますので」
沈んだ様子のカノヱを三千風は慰める。
カノヱも普段小蝶々には憎まれ口を叩いてばかりいるが、気安さは嬰児の頃から母のように慕い親しむがゆえだ。
「ありがとう。お小言がないうちに、もうすこし絵を描いていようかな?」
カノヱらしい軽口には寂しさがにじむ。三千風は年若い女御の強がりに微笑んでしまった口元を、若草の単衣でそっと隠した。
そんなやさしく控えめな彼女が、顔を青くして局に飛び込んできたのは、翌々日のことだった。
宮中は、とある噂でもちきりなのだという。
『まるで生きているような似姿を描かれるのですって』
『まあ! なんの取り柄も無い方かと思えば』
『それだけではないのよ! 恐ろしいんだから。なんでも描かれた者は病にかかるとかで。お描きになった桜の木は枯れてしまって、あのやかましやの小蝶々の君なんて伏せって退出なさったそうよ。それに、冬木大納言さまだって近々出家なさるとか』
『いやだっ! 呪いの類じゃないのっ』
『ことによるとあの雪白様が身罷られたのだって……』
女房たちの噂話だけでは留まらなかった。
『帝がずっと塞いでおられるのももしや? あれでは夕月よりも闇夜の方が似合われる』
『闇夜の君の件は、ただの女々しき恋慕でありましょう。なんでも、カノヱの女御様は生まれも元は低く、野育ちで琴も歌もお苦手な方と聞いていますからね、雪白様の代わりにはなりますまいよ』
『はっは、七条大臣もとんだ馬の骨を拾って来られたものよな!』
かくかくしかじかと、三千風が言葉を包むのも忘れ、悔しさに泣きながら語るのを聞き、カノヱは怒るよりも先にあっけにとられた。
「私が? 呪い?」
「小蝶々の君が腰を壊して里に下がられたのを面白おかしくどころか、ひどい言われようで! 悔しゅうございます」
悪い噂ほど疾く走る。
女御の呪い絵という衝撃的な話題は瞬く間に宮中を席巻した。
「闇夜の帝と呪い絵の女御なんて、小侍従は悔しくて悔しくて」
同い年の小侍従が歯噛みしながら半泣きで訴えるのに、カノヱの腹も煮え立った。
けれど、これが己の招いた結果だと、耳元で囁く声がして、振り上げたかったこぶしを冷たい床に押し付けた。
きっと父は、こうなることを見越していたのだ。見慣れぬ振る舞いをする女がいれば、すぐに口さがない女房・公卿の格好の餌食になってしまう。
『月子よ。父は心配でならぬ。宮中はそなたが咲くには狭き場所やもしれぬゆえ』
露顕の披露宴で、酔いに酔った父がカノヱの傍に膝をつき、小声で苦しそうにこぼしたひとことが不意に胸を刺す。
毎日明るく祭りのように盛り上がっていたのも、あるいはカノヱの心を憂鬱に潰さぬためだっただろうか。
今更だ。自分を殺せなかったカノヱの咎だ。
父は謗られ、義父も笑われ、夫である帝さえ蔑まれている。
「この宮中で、雪白の女御さまは、お幸せだったの?」
帝の寵愛を一身に受けてさえいれば、歌を詠み琴を奏で、笑って過ごしていられたのだろうか。喜ばれるような特技を何も持たぬカノヱには、できそうにもない。
「雪白が、どうかしたのか」
ふいに甘い白檀の香りがした。扇を御簾の隙に差してよけると、長身の帝がするりと体をすべり込ませてくる。
「えっ、夕月様?」
先触れのない訪問に、女房たちは大慌てだ。それを尻目に、平伏したカノヱの傍に座り込んだ帝は、重ねて問いかけた。
「雪白のことを話していたようだった」
「いえ、大したことでは」
「呪い絵の女御」
「…………」
「とは、猛々しい二つ名であるな、カノヱ」
からかいまじりの響きに顔を上げれば、すこし意地悪げな顔で笑う夕月がいた。
「お、お笑いになるなんてひどい」
「すまない、可笑しい」
夕月が声を立てて笑っていた。
いつもより表情豊かな彼の珍しさに、苦しいほど張り詰めていた気がふと緩んだ。
「…………」
「カノヱは、いつも絵を描いているのか」
「いえ……。噂がお耳に入ったのですね。――っ?」
カノヱは突然夕月に手を取られて赤面した。このところの絵遊びで花の色を揉んだ指先が染まっている。さっと手を引いて指先を隠す。
「熱心な有様だ。ゆえに私と寝物語もせぬのだな」
「申し訳ありません。でもそれは、主上がすぐに寝入ってしまわれるからで!」
主上を責めるなんて! と、後ろで三千風が青ざめる中、夕月は不思議そうな顔をした。
「そうか。カノヱからは何も問われぬゆえ。特段話すこともないのであろうと」
「ぺらぺらと話しかけるのは慎みがないと教えられ――」
「ふうん、そういうものか」
夕月は、不思議そうな面持ちのまま頷いた。
「なれば、今宵は私がさらに問おう。カノヱの絵を見せてくれないか」
局に緊張が走る。
「このような手遊び、お恥ずかしく。それに」
呪いとも呼ばれるものを――といいかけたカノヱを、夕月は遮った。
「構わぬ」
カノヱは仕方なしに、桜の絵を取り出す。墨で描いた枝に、花で色を施したあの絵だ。ちゃんとした絵の具ではないから、色合いはくすんでしまっていたが、それを手に取った夕月は、感心したように呟いた。
「カノヱが描いたのか」
くまなく眺めた夕月は、棚に何かを書きつけた用紙のひと束があるのを見つけると、手を伸ばして引き寄せた。
カノヱは血の気が引いた。
「あっ、それはっ!」
「これは、私か」
「あああ……、滅相もない」
胸が弾けそうなほどの緊張で、たらりと背中に汗がつたいおちていく。決して見せるわけにはいかないものだった。なのに帝の手は止まらない。
蓋のない木箱の中から、不機嫌な顔の帝の似顔絵が次々と取り出されていく。
「なるほど」
なにを思ってか一枚一枚丁寧な検分に、カノヱは卒倒したいのをようようこらえて、言い訳を探すために必死に頭を回転させた。
絵にあるのは、そっけない表情、ツンと取りすました立ち姿。そして、静かに眠る夕月の横顔だった。
(ダメだ、なにも言い訳できない)
もう須磨に流されても、隠岐に配流になってもなんの文句が言えるだろう。
「私でないとすれば、いずれの公達を絵姿にした。私以外に心を寄せるものがいるのか」
「えええ? いえ、いえっ、いるはずも」
予想外の問いかけに、泡を食ってカノヱは唾を飛ばし、口元を扇で隠そうとして道具を取り落とした。いいところがない。
「なれば私であろう」
別の公達だというのも問題があるし、帝の装束である引直衣姿まで描いてしまっては、やはり言い逃れできない。
「……はい。申し訳ありません」
しおれたカノヱは、深々と頭を垂れる。
「そうか、カノヱの中で私はこのような顔をしているのだな」
「…………」
「呪い絵が真実であれば、私もやがては倒れような」
慌てるばかりだったカノヱだったが、揶揄含みの夕月の言葉にきっぱりとこう返した。
「いいえ」
ただそのひと言のために、カノヱは居住まいを正し背を伸ばした。指を揃え、黒い瞳と青白い顔ををまっすぐに夕月に向け、はっきりと言った。
「私はただ、絵を描くことが好きなだけでございます」
そうか、と呟いて表情を消した夕月は、カノヱの絵を手にしたまま立ち上がると、すたすたと振り返りもせずに退出していった。
広い背に滲む確固とした意思が、カノヱには拒絶に見えた。
「カノヱ様……」
女房のかける声に気づかずに、半ば呆然としたまま、カノヱはそっと扉のついた厨子に手をかけて、文箱に収めていた絵を取り出した。
しまいこんでいたのは、おだやかなほほえみを浮かべた夕月の絵姿だ。
「いつかこんな顔、見られればと思ってたけど」
叶わないと思い知ったことが、驚くほど胸を締めあげた。