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カノヱの女御のひらめき

 

「それにしても、衣装のお見立てはカノヱさまに並ぶものはございませんね。ハッとする色目をお揃えになる」


 今朝もなにごともなく夕月の帝を見送ると、小蝶々は感心した様子でカノヱの髪を梳き上げはじめた。


「ありがとう」

「書は幾分かお上手ながら、和歌もお下手で、筝の琴もお苦手にお育ちで、小蝶々は乳母として申し訳なくておりましたけれど」

「事実はやめて。刺さるから。私が残念な女君なのは、小蝶々のせいじゃないでしょ。だって私は――」


 丁寧な梳き上げに少し力がこもって、カノヱは痛いと声をあげた。


「土地の童に混じって野山を駆ける方がお好きで、端近に出ては絵ばかり描いておられたころは、これはどんな姫君にお育ちのことかと、ご心配申し上げたものです。でも、そうしたお遊びのおかげで、ご衣装のお見立てや染め物は、それは見事なお腕前ですし、主上も先だって差し上げたお直衣をそれは褒めてくだすったとかで、小蝶々は誇らしくて――」


(お遊びかあ……)


 言葉数の多い乳母の長話を聞き流しながら、カノヱは御簾ごしの庭を見て思いに耽る。

 カノヱの傍らで眠る人は、美しい横顔をしている。すっと通った鼻筋、伏せられた長い睫毛、ひらけば目を奪われる強い光を持つその双眸。まるで絵物語の主人公のようだ。

 夕月は、初めて出会ったあの夜から、ずっと寂しげな顔をしたままだ。

 いつも彼が寝入ってから綺麗な横顔を見つめているとは、きっと誰も知らないだろう。

 絵姿に起こしてみたい。

 胸の奥からふつふつと湧く欲求をそっと抑えて飲み込んだ。 

 カノヱが手から産むべきは、たおやかな仮名と優美で繊細な歌一首。


「でもね」


 衣を選ぶより色を染めるより、何よりカノヱは絵が描きたい。

 愛されもしない宮中で、好きなことまで封じられたままでいるのは十六のカノヱにはつらすぎた。


 ◇◇◇


 夕月の帝は書物が好きだ。

 カノヱの局に通うときも何か草子を持ち込んでひととき読書に耽る。夕月が今日読んでいる白氏文集などは、カノヱも実は気になってしょうがないが、漢字を読み散らす可愛くない奴とも思われたくなくて、黙ったままでいる。


「変わりないか」

「はい、つつがなく」


 眠る前に交わす言葉は、今日も変わらない。

 夕月は穏やかで耳に残る、やさしい声をしている。名を呼ばれることを、いつしか心待ちにしているのを、カノヱは気づいている。 

 かつては耀(あかる)の日の宮と呼ばれるほど陽気な皇子だったという彼は、今では夕月という名が似合いの静けさで、カノヱに触れずに今日も眠る。


「カノヱは、絵は好きか」

「絵ですか。いいえ……好きでは」

「そうか」


 問いかけに父から言い含められた通りに答えるには、間が必要だった。いつも通り、それきりの会話になる。明かりの絶えた御帳台の中で二人きり、近いのに遠い距離をカノヱは思う。

 まどろめない意識のまま、カノヱは息苦しい気がして喉元に手を添えた。もし、そっと手を触れ合わせたら、始まる何かがあるだろうか。

 なにも始まらなかった初めての夜に戻るように。


『雪白よ』


 胸震わせるような夕月の声音。

 思い出したカノヱは細い首をふるりと揺らした。あんな慈しむような呼びかけをカノヱは知らない。他愛ない寝言で、もういない女性に向けてのものだ。けれど誰にも言えないもやもやとしたものが、カノヱの心をいつも覆っている。

 不意に不安な夜がある。

 夕月は、日々他愛ないことを尋ねながら、あの完璧な雪白の女御の面影を、似ても似つかぬカノヱに探しているのではないのかと。


「似ているところなんて、ないでしょうに」


 薄暗い宙を見つめていたカノヱは寝返りを打つ。

 すでに眠りに落ちた夫の広い背を、飽くまで眺め瞳を閉じた。 


「ことさらに起こすまい」


 帝はこう言って、深すぎるほどに寝入っていたカノヱを置いて局を出たと三千風がいう。

 ひとり目覚めたカノヱは、彼の不在をさみしく思っている自分に驚いた。惰眠を貪ったカノヱが悪いが、あのやわらかい声をひとことぐらい聞いて見送りたかったと、そう思っている。

 夕月からの後朝の文は今朝も届いていた。

 名ばかりの夫婦なのに、こうした手紙のやり取りにはマメさがある。


「ほら、カノヱ様。美々しいひと枝でございますね?」


 夕月の歌には必ず花が添えられていた。

 薄紙をひらけば流麗な筆跡が見え、彼の直衣にたきしめてある白檀の香りがほのかに立つ。

 けれど、添えられた生き生きとした桜の枝は、どんよりした気持ちには眩しすぎる。


「どうぞ一首お詠みください」


 言われてひとときは悩んだものの、幾度書き変えても詠み下手が上手に変わることはなく、やがてカノヱは根をあげた。


「代理でお願い」


 歌上手の女房に頼んで遣いをやってしまえば、今日の局はカノヱだけになった。あまりないことだ。

 小蝶々は母の見舞いだとかで里下がりしているし、宮中ではやがて節会があるとかで、みな準備に駆り出されて忙しい。カノヱにも女楽の練習に臨席してほしいと依頼が来たが断った。聴くだけのつもりで行こうものなら弾いてみてと言われるに相場は決まっている。一弦はじくにもビヨン、と寝ぼけた音を立てる女御様は近寄らない方がいい場所だ。


 暇がカノヱの胸をチクチクと刺した。縫いあげたい夏の衣もあったが気乗りしない。

 むずむずする。

 きょろきょろと辺りを見回した。

 カノヱは、婚礼道具の豪華な二段厨子の中から、特段に装飾のない白い料紙を取り出した。実家からこっそり持ってきた絵に向いた用紙だ。

 以前誤ってこれに夕月への返歌を書き付けようとしたところ、そんな無骨な紙で書くなと小蝶々から叱られた。


「少しくらい、いいでしょう?」


 誰にいうともなく呟いて、嬉々として文机に広げ、細い筆に墨をつけ、何を描こうかと周りを見渡す。

  すると、夕月が手紙に添えた花の枝が目についた。

 枝の端々に楚々とした桜の花が季節を知らせるように誇っている。

 淡い薄桃色。

 カノヱは花を描くのが好きだ。

 紙に慎重に線を描く。枝の分かれ目を丁寧に細い筆でたどる。つやつやとした墨をふうっと吹いて乾かすと、枝ばかりの絵を目の前に掲げてみる。


「いいじゃない!」


 パッと心が明るくなる。

 この枝にあの桜色をあふれるようにのせてみたい。

 入内してずっと重たかった胸に、まるで春風が吹いたかのようだった。

 こうなると、心のままに色を乗せたくてたまらなくなる。

 色絵の具は簡単には手に入らない。家にいたころは父が人づてに手に入れてくれたこともあったが、今ではそれも難しい。

 宮中の絵所には、日々画業に励む絵師が幾人もいるが、女御からの使いなんて騒ぎになってしまうだろう。明日にも戻る小蝶々に気取られるわけにはいかない。

 けれど、色だ。

 色が欲しい。

 口に差す紅では赤すぎる。けれど今は墨一色では耐えられない。

 喉のヒリヒリするような渇望から、ふと、そのひらめきは生まれてきた。

 きゃらきゃらとした、かわいらしい声が渡殿から聞こえて、カノヱは急いで御簾に駆け寄った。


女童(めのわらわ)たち」

「あ、女御さま!」


 突然の声がけに驚いて、廊を歩いていた女童たちは慌ててピッと背筋を伸ばした。


「シッ! あのね、お願いがあるの」


 気軽な調子で御簾から顔を覗かせたカノヱは、彼女たちを見渡してにっこりと微笑んだ。 


「さあ、面白いのができるんじゃないかな」


 カノヱの女御の瞳は、くもりが吹き払われたかのようにきらめいていた。

 菖蒲の色目の五衣を脱いで、長い髪を耳にかけてカノヱは気合を入れる。袖を折り返すと、すんなりとした若枝のような腕があらわになる。かたわらの箱を覗き込んでカノヱは満面の笑みを浮かべた。


『これに、花を摘んできて欲しいの。できるだけたくさん』


 女童たちに持たせた胡蝶の蒔絵の螺鈿の箱には春の花がいっぱいに詰まって返ってきた。


「さて」


 唇を舐めてから、色とりどりの花を楽しげに選び取り、カノヱはてのひらほどの大きさに四角く裁った布に、花びらをぎゅうぎゅうに詰めて包む。指先でよく揉めば白布にじわりとにじむのは、あざやかな花の色だ。

 墨で描いた桜の枝先に、そっと布を押し付ける。紙の上に、少し濃い色味の桜の花びらがひとひら宿った。


「まあ、まあ! これを女御さまが?」


 しばらくして局に戻ってきた三千風は目を見開いた。

 味気なかった料紙いっぱいに咲き誇った桜。すんなりとした桜の枝先に、こぼれんばかりに花が咲き乱れる。花を揉んで出した色は、すぐに色変わりして二藍や鈍色に変わってしまい、思い描いた桜色とはいかなかったが、花々の色が絡んで複雑な色味を出し合い、絵に不思議な奥行きを生み出していた。


「美しく、趣深く感じます。そう、主上にもお見せになってはいかがです?」

「……ダメ」

「でも、こんな見事な」


 褒められ慣れないカノヱは頬を染めた。


「歌も琴も下手なのは、こんなことにうつつを抜かしているからって、バカにされると言われたから」

「そういうものでしょうか」

「だから、黙って――」

「私の父は、かつて絵所におりまして、ですので絵は好きですのよ、わたくしも。あら、少納言、小式部、見て! 女御様の花の絵を」


 呼び込まれて、ひとりふたりとカノヱの手元を覗き込むものが増えていく。

 サッと筆で帝の顔を描いてみせると、女房たちはワッと声をあげた。次は『紫のゆかり』の光る君を、内裏の花の冬木大納言(ふゆのきのだいなごん)をと、女房たちのせがむまま、カノヱは心のままに筆を舞わせた。

 ついには働き者の内侍や典侍まで騒ぎを聞きつけ局に乗り込んでくる。


「ほんと、女御様の絵は素晴らしいわ! みなも見て御覧なさいな」


 それから二日の間。

 皆の褒めそやすまま、カノヱは久しぶりに絵描きを楽しんだ。

 ずっと描きたかった夕月の帝の姿も何枚も描いた。そのうちの一枚は特に気に入り、そっと文箱に隠してカノヱは照れ笑った。

 女房たちにわいわいと囲まれて、抑圧から放たれたカノヱは水を得た魚のようだった。

 そして、ついにカノヱが持っていた白い紙が最後の一枚となった時のことだった。


「よきものを見せていただきました。女御様がこのように絵心をお持ちとは。まるで神仙のごとき筆さばき――」


 局で一番の歌上手の小侍従が言いかけて、アッと言って口元を抑えた。

 開かれた妻戸の先でわなわなと震えているのは、里の土産を携えて局に戻ってきた小蝶々だった。

 いつも美しく整っていた局の中には、カノヱが描き散らした白い料紙が所狭しと散らばっている。

 言葉を失ったまま、垂れた髪を耳にかける仕草をしたカノヱの頬に、ひと筋墨の線が黒々とつく。小蝶々がぎゅっと眉を寄せた。

 不穏な気配に、潮が引くように他所の女房たちは局を去って行く。さらさらとした衣擦れの音が止むのを待ち、小蝶々は口を開いた。


「女御様、絵はおやめくださいと申し上げたでしょう。父君もご心配遊ばしておられます。七条大臣だってご懐妊はまだかと気を揉んでおられるのです。殿方の心を掴むにはとたびたび申し上げておりますのに。このように!」

「ごめんなさい。でも、みんな喜んでくれて。少し遊んでいただけ、こんな具合に」


 さらさらと絵筆をすべらせたカノヱは、余白の残る紙の隅に、いつもの気軽な調子で憤怒の形相の小蝶々を描いてみせた。


「まああ! カノヱ様っ! うぐっ!」


 すっくと立ち上がった小蝶々は途端にうめくと、よろよろと座り込んだ。

 カノヱは飛び上がらんばかりに驚き、うずくまる小蝶々に駆け寄って、背に手を添える。

 乳母は息を詰めて背を丸めたまま返事もしない。


「小蝶々、小蝶々? や、いやっ! 早く、だれか医師(くすし)を! 早く――」

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