あさぼらけのつぼねにて
シュルリ、と衣のこすれる音がして、カノヱは目を醒ました。
顔を合わせるように寝返りを打った隣の男を、ちらりと盗み見て、ふうと息をつく。月夜野御所で寝起きするのもずいぶん慣れたが、隣にこの人がいるのだけはまだ慣れない。
『カノヱは、花は好きか』
『花ですか。はい、好きです』
『そうか』
入内して初めての夜の会話は、たったこれだけだった。
もうあれからしばらく経つ。
(昨日は楽の音が好きかだったかな。嫌いじゃないけど、弾けないから聴くだけだし……)
夫であるはずの夕月の帝は夜も更けた頃に訪れ、またひとつ尋ねごとをして、それきり寝入ってしまった。
美しい寝顔をひととき眺めて、カノヱは髪箱に納めた己の長い黒髪をひと筋指先に絡めた。眠りの深い夕月の帝は、相も変わらずカノヱの寝所に文字通り「寝に来る」だけだ。
気楽だが、気が重い。
やがて夜が白む。彼も目を覚ますだろう。
(一応は、ちゃんと見送ろう)
思い定めて起き上がったカノヱは、御帳台からすべり出ると、乳母の小蝶々を呼んだ。
「カノヱの女御様、いつもよりお早いお目覚めで」
「夕月様の横、よく眠れないから」
「まあ! 滅多なことをっ!」
シッと口元に指を当てる、神経質な小蝶々にカノヱはいたずらっぽい笑みを向けた。
「聞こえたら、別のところで寝てくれるかもしれないし」
「主上のお渡りに、もったいないことをおっしゃるものではありません」
「お渡り……。やだな小蝶々、わかってるくせに。名ばかりの女御様を「あはれ」とも思ってくれないなんて、小蝶々は冷たい」
「いやだ、しおらしくなすって! 物の怪でも憑いたかと皆が疑いますよ。さあ、今日のお支度はいかようになさいますか?」
大仰にしおれてみせたカノヱを一笑に付して、小蝶々は若き女主人の前に、目星をつけていた美しい衣を引き出した。
「春でございますから、このような……」
あざやかな袿を見るのに薄暗い光が物足りなくて、カノヱは頼んだ。
「御簾を上げて、三千風、小侍従」
すでに侍って朝の準備を整えつつあった女房たちに命じ、局に朝の白い光を招き入れる。
颯爽と立ち歩く行儀悪さを小蝶々が嘆くのも構わずに、御簾が巻き上がるなり端近に立ったカノヱは、まっすぐに空の色を見つめて言った。
「紅の薄様の襲にして。前に義父君がくださった、明るい縹の単衣をちょうだい」
カノヱが軽やかな声で決定を伝えると、御帳台の奥で誰かの動く気配がした。
あのそっけない帝も光に当てられて目覚めたのだろう。
「縹に紅の薄様の襲。青みがパッと映えて美しい取り合わせに思います。今日などは、春のやわらかな匂いがして薄様の景色によく合いそうです。七条大臣の下すった縹は本当に美しい染めで……。あっ! カノヱ様早うお戻りください。角だらいに水が参っておりますよ。お顔を洗って、お歌もお作りになって、今日は箏の稽古も――カノヱ様!」
小声なのにきいきいと響く小蝶々の声を背に、カノヱは朝焼けの空をいつまでも見つめていた。庭には、カノヱの好きな花がいくつもある。桜も菫も、みな春の陽気に当てられて美しく生い繁っていく。
日毎に花開くその様を、カノヱは少し切ない気持ちで見守っている。
御所の人々はみな、四季の息吹を歌に描く。
けれどカノヱは歌でないもので、この世界を写し取りたかった。
カノヱは、指先を出して空をツーっとなぞって見せた。
まるで絵筆を、走らせるように。