5話
空に流れる雲をいくつか指でなぞり、八雲紫は小さな欠伸を漏らした。彼女もまた、射命丸と同様に暇を持て余し、
「そんなに暇そうにしてるなら手伝っていただけませんか?」
「私は私でやることやってるの」
「いつもそう言って縁側でボーっとしてるだけの様に見受けられますが」
「うぐ...」
ているわけでもなく。自らの式にサボっていないで仕事をしろと戒められていた。旧型のドラム式洗濯機の前で八雲藍は諦めの表情を浮かべる。
「昔は休む暇なく走り回っていたものの、見る影もありませんね」
「平和が一番。これも霊夢のおかげね」
「スペルカードルール...ですか。私はまだ如何せん腑に落ちてはいませんが」
「確かに、幻想郷に行き渡るには時間がかかるわね。でも、最善の策だってことが今にわかるわ...」
「だといいのですが」
「...言いたいことはわかるわ。でも、霊夢が決めたのなら話は別」
不服そうな表情を変えない藍。その思考、主である紫が分からないはずもない。スペルカードルール、通称弾幕ごっこを前の紅霧異変から適用はしてみたが知の無い化け物が本当に黙っているのかは賢者の名で呼ばれる彼女を持ってしても把握しきれていない。知があり、幻想郷に少なからず好意を抱いている者ならば首を縦に振るだろうと。しかし、知もなく獣の如く溢れる食欲と性欲とその他欲求が入り交じった化け物の類ならば話は別だ。外来人にスペルカードルールが適用されないことや、暗黙の了解である人里の人間を襲わないことさえもその頭には入っていないことだろう。
しかし、だからこそ。博麗の巫女という抑止力を用意してある。
「霊夢に任せておけば大丈夫...。そのための博麗の巫女だもの。今回の異変でそれが証明されたわ」
「アレを霊夢に任せても大丈夫だとおっしゃるのですか。流石の霊夢と言えど一介の人間に任せることが出来る事では」
「やけに今日は霊夢に突っかかるわね。そんなにアレの事が心配?」
「無論です。橙の次に心配です」
「そこは橙の方が上なのね」
当然です、と藍は自慢げに胸を張る。一触即発にも感じられた雰囲気が一変し、どこかコメディチックなそれに居てもたってもいられず、紫はやむを得ず立ち上がった。
「外出なさいますか?」
「ええ。橙も連れてくわね」
「は?」
「...え?」
***
時同じくして霧の湖、紅魔館門前。門番と件の男が何故か再び遭遇していた。
「あれ、今日は何の用事ですか?」
「散歩してただけー。それよりまた居眠りしてたの?」
「お恥ずかしい限りです...」
「ほんとに痛々しい見た目だからそれ。十六夜さんも容赦無いな...」
「死なない程度の目覚ましと思えば」
「思えないって」
男は額から抜き取られた銀のナイフとそれが刺さっていた場所を交互に見る。相変わらず理解できないと首を竦め、ナイフを刺された本人に返却した。そして、何かを思い出したかのようにボソリと呟いた。
「そういえばここの主に挨拶してないな...。ノーレッジさんは違うもんね」
「はい。パチュリー様はここの主、レミリアお嬢様のご友人の方です」
「ほへー...」
「お会いになりますか?」
「いいの!?」
気の抜けた表情が突然意気揚々としだした。何がそこまで楽しみなのだろうか、そう疑問を抱く紅美鈴はとあることに気づいた。
この名も知らぬ男は確か外来人だったと霧雨魔理沙から聞いた覚えがある。だからレミリアが紅霧異変を、そしてここに来てすぐ、レミリアが何をしてしまったのかを知らないのだ、と。
「そんなに怖い顔しないでよ、ここの主が何をやったのかはよく知ってる」
「...どういう事ですか」
「気になるなら...。そうだね、ここで永く生きている老人達に話を聞くといい」
この男は外来人で、つい最近この地に意図せず訪れてしまった。繰り返すようだが、美鈴はそう霧雨魔理沙から聞いた。無論、彼女の頭の中で自己完結してる部分があるとは言い難い。だからと言って、外から来たばかりの人間にしては肝が据わりすぎている。本当にレミリアが起こした最初の異変を知っているのであれば、畏怖の対象になるには充分に有り余るほどの理由がある。
しかし、美鈴の視界に映っているのは一寸も変わらぬ笑みを浮かべたままの男の姿であった。幾らこの男の存在に気付いたとは言え、その所以と「何時から」を知らない彼女の目には敵意の無い脅威そのものにも思えた。
「警戒...してるね...。折角気付いた割には表面の湯葉程度しか理解出来なかったのかな」
「全て理解するには接触時間が短すぎるんですよ」
「答えは分かっても公式が違ったんだ。感覚が鋭敏なのも考えようだね」
何かを言い返そうとする紅美鈴の口を指で抑え、男は静かにこう続けた。
「そうだ。ここに来てずっと忘れてたことがあった。紅さん、僕の名前は―――」
門が開く音にかき消されかねない程小さなその言葉を告げた男はメイド妖精によって開かれた門の中へと姿を消した。
門前には何事も無かったかのように紅美鈴が立ち尽くしていた。