1話
何か変わったことは無いですかねぇ、と鴉天狗が呟いた行く宛すらない愚痴は誰かに届くことも無く空に溶けた。
人の一生すら瞬きに劣るとも勝らない永い時を生きてきた彼女は、今まさに暇を持て余している。暇で商売をするつもりは毛頭ないだろうが、もし僅かな一時でさえ買い取る者がいたならば彼女は喜んで手放すだろう。
「最近は異変も無いですし、平和ですねぇ...」
「あんたのために異変が起こったら真っ先にあんたを始末しに行くわ」
「ややっ、そんな顔合わせてすぐにそんな事言うなんて霊夢さんは意地悪なんですから」
「こないだの紅霧異変の取材に来た時に流れ弾に当たった風にして始末するべきだったわね」
「あんな遅い弾に私がぶつかるとでもお思いですか?」
鴉天狗―射命丸文はふふん、とわざとらしく自慢げに鼻を鳴らした。自称幻想郷最速を誇る彼女は実に清々しいほどの笑みを浮かべている。対する紅白模様の巫女服を纏った霊夢、と呼ばれた少女は今にもその握りしめた拳を射命丸に叩き込みそうな程に殺意に満ちた顔をしていた。
「女の子がそんな顔しちゃダメですよ、ほら笑って~」
「殴りたいこの笑顔」
「あやややや...。流石に私でも霊夢さんの拳は致命傷になりかねないので退散するとしましょう」
「退散する前に一つ、あんたが好きそうなネタを」
「おやおや。お明日は賽銭が入るかもしれませんね」
「...人里に、見慣れぬ男が居たわ。多分外来人だろうけど。ルーミアとかチルノとかがチョロチョロ追いかけてるからわかりやすいと思うわよ」
そう言い残すと彼女は射命丸の後方へと歩を進めて行った。霊夢の背中が豆粒大になった頃、射命丸は嬉々とした表情を浮かべ、文字通りその場から姿を消した。彼女がいたその場は一瞬だけ突風が吹き抜けたような木々の葉が揺れる音が静かに響いていた。
***
「ここの団子うま」
「だろ?私もここは格別に上手いと思ってるんだぜ?」
「霧雨さんすごいなぁ...」
「それ程でもないけど、まあ困ったら私を頼ってくれ」
二十を超えるか超えないか、そんな見た目をした男は齧歯類のように頬を膨らませながら団子を頬張っていた。紹介した店が正解だったらしく、自慢げに無い胸を張る霧雨魔理沙。
「なー魔理沙、こいつは食べてもいい人類なのかー?」
「目の前じゃないから取って食べちゃ駄目だ」
「目の前に行けばいいのかー?」
「慧音の頭突きと引き換えになるかな」
「痛いのは嫌」
「僕を食べずに我慢してくだしゃあ...」
ゴスロリ魔女っ子を盾にして男は身を隠す。ルーミアは口から零れそうになる唾液を残念そうに飲み込んだ。人を食べる妖が「ここ」で唯一人々が集落を成しているこの場にいる事自体が変な話ではあるが。
「そうか、もう...」
「ん、どうした?」
「ただの独り言。それよりも僕を狙うその子を何とかしてくれぇ」
「ほっときゃなんとかなる」
「それで食べられたら末代まで呪うから」
「霊夢に祓ってもらうから問題ないぜ?」
男は呆れの混じった溜息を吐いた。しかし、表情は相反して嬉しそうな笑顔を浮かべている。魔理沙を軸にして右へ左へと顔を見合わせてはおどけた振りを繰り返す。のを、数分続けた後に男はふと立ち上がった。
「お、どうした?」
「ちょっと用事ができたんでね。僕はこれで」
「そうか。と言ってやりたいところだがここの外に出たら命の保証はできないぞ」
魔理沙は目を細めてそう言った。あくまで止めはしない、しかし外に出ては欲しくない。そんな微妙な感情が彼女の内部に渦巻いていることは食欲にまみれたルーミアでも気づけるほどに明瞭的だった。
しかし、そのまま外に出てくれた方が好都合故にルーミアは何も言わない。彼女にとって人里の外は自らの食卓だからだ。
「心配してくれてありがたいけど、それがここの。外から来た人間への摂理なんでしょ」
「...分かった」
「大丈夫。また会おう」
できない約束はするな、小さく呟いたその言葉は彼に届くはずは無く。ご馳走の如く見つめる視線だけがその背中をゆっくりと捉えていた。