第8話「告白」
とりあえず、とにかく自分が今書きたいように書こうと思います。
深く考えすぎてもいい方向に行かないと思いました。
小学校一年生だったころのことなど、たとえ大切な家族との記憶であったとしても、現実は悲しいもので、僕の頭の中にはほとんど記憶として残っていなかった。
僕の記憶の中に確かに残っていたのは、あれは帰り道ということ。そして、高速道路でトラックに挟まれてぐしゃぐしゃにされたこと。そして、目覚めた病室の景色だけだった。
車だけじゃない。なにもかも。
かすかに残っていたのは赤い血が飛び散る無残な景色。おそらく現実では、今平和な日本にいる間では、まずそうそう遭遇することのない光景。それを、小学校一年生の僕はどう受け止めろというのだろうか。
僕は、受け止めることができなかった。だから、現実から逃げていた。
辺り一面に広がっていた美しい世界が、一瞬にして闇に染まり何も見えなくなった。
でも、持っていた明かりで何とかこの世界の出口を探した。
それでも、最終的にはその明かりも消えた。もう、何も見えなくなった。僕はその場に座り込んでただ、時間が流れるのを待った。もう、死んでも構わないとさえ思った。
でも、唯一の光が、はるか空の向こうにあった。
そして、それを無我夢中で追いかけた。
がむしゃらに、ただひたすらに。
その光も、一度は小さくなりかけた。
でも、その光は再び強くなった。
そして、やがて増えた。
でも、今、その光も少し薄暗くなり始めている。どうすればいいのか、僕は立ち止まってしまった。
しばらく、静寂に包まれた。
僕が大樹にどこまで伝えるべきなのか、決めかねていたからだ。
多分、大樹は今までの僕を見てそう思ったのだろう。
明らかにバレバレだったんだと思う。
基本的に遊びは全部断っていたし、バイトも夜5時から朝2時までと極端だというのもおかしな話だ。
そして、僕は嘘をつくことが苦手だ。
でも、もし、大樹に本当のことを伝えたら?
もし、それで失望されたら?
気遣いをされたら?
僕がかろうじて生み出していた日常は、どうなってしまうのだろうか。
今までの何気ない日常が崩れ去っていくことを想像するだけで、胸がいっぱいになる。
やっぱり、僕の答えは結局変わらなかった。
「いやさ、別にいないわけじゃないよ。
実は今一人暮らし中なんだよね」
大樹は、予想外の答えに少し戸惑った。
冷静じゃないからこそ、嘘をつくのは今しかない。きっと嘘は、今しか信じてもらえない。
「ちょっと、喧嘩してさ。それで、まあ追い出される形でここにいるんだよね。
生活も自分で何とかやりくりしないといけないし。でも、ほんとになったときは助けてくれるから。
だからさ、安心してほしいかな」
僕は少し作り笑いを見せる。
大樹には嘘をついた。たぶん、今までで一番の嘘。僕が思いついた中で一番の嘘をついた。
でも、苦しむのが僕だけになるわけじゃないだろう。
きっと、この嘘の事実を知って大樹も少しは考えるようになるんだと思う。
きっと悩み、それで苦しむんだろう。
でも、それでも真実を伝えるよりはましだと、何の証拠もない確信はなぜかあった。
「そっか…。わかったよ」
大樹はそれだけ言ってくれた。変に追及もせずただ話を聞き、理解してくれた。
僕はほんの少し胸をなでおろした。
結局、そのままそれ以上のことはなく、その日は終わった。
また、何かしら考えなくてはならない。その嘘の事実の経緯について。
静かに家に入ってドアを閉める。そして、ドアに寄りかかって上を見ながら息を吐く。
体育祭の疲れのせいなのか、いや、きっともっと別の何かなんだろう。
息を吐くと何かいろいろなものが吐き出されたかのように力が抜けて、僕はそのまま座り込んだ。
体育祭の振替休日の月曜日、僕は病院に行った。
結果は救護の先生の予想通りだった。ある程度の心の準備ができていたからいいものの、結果としては足の薬指のヒビ。だからか、そこまで残念な気もなかった。
よかったことは、お医者さんが優しかったこと。松葉杖は使わなくていいということ。そして、完治まではそこまで時間はかからないということ。
ただ残念なことは、できるだけ負荷がかかることを避けるためテーピングのようなもので固定。そして、同じ理由で完治まではアルバイトは禁止にされたということ。
今回は完全なドクターストップ。
つまり、指が治るまでは僕の収入はゼロということだった。
病院を出て近くの公園のベンチで、空をまた仰ぐ。
今日は、僕のどんよりとした気分と打って変わって、素晴らしいほどの快晴だった。嫌でも少し気分は前向きになる。
どうすればいいのかわからないけれど、まだ残った貯金でやりくりすることにしよう。
そんなにというより、貯金もわずかしかない。でも、もう使うしか生きていくことはできない。仕方がないのだ。
そして、アルバイトは続けることができるのだろうか。
一応、一、二カ月で復帰できるとはいえ、続けさせてもらえるかわからない。
いくら、あの心優しい店長だって僕が抜けたらやめさせて、新しい人を雇う可能性も充分ある。
そう思うと、店長に連絡することに強い恐怖心を覚えてしまう。
いくら店長でも容赦はないはずだ。
いきなり戦場にでも連れてこられたかのように、僕の電話を持つ手は緊張で少し震えていた。
恐る恐るアドレスをたどって、店長の番号にたどり着く。
覚悟を決めるしかない。
僕は大きく息を吐いた。
この時間は、店長は働く時間外のはずだ。
数回の呼び出し音の後、店長の「もしもし」という声に僕は体がビクッと動く。
「あ、あの店長ですか、お疲れ様です。渡辺です」
「渡辺くん!怪我の方がどう?
大丈夫⁇」
第一声に心配してくれたことが純粋に嬉しかった。
「あ、はい…骨折ではなかったんですが、でも、ちょっとしばらくバイトには出れそうもなくてですね…」
「怪我はなんだったの?」
「足の指のヒビです…」
僕の弱い声が伝わる。
でも、店長の声色はいつもと変わらなかった。
「うーんそっかそっか。だいたいどれくらい出れなくなりそうなの?」
「今は…早ければ1ヶ月…。遅ければ2ヶ月はかかるかと…」
「そっか。じゃあ、ゆっくり休んで万全の状態で次来てくれよ!よろしくな!」
その言葉につい腰が抜けた。腰が抜けたというより、気が抜けたというほうが正しいかもしれない。
「え、続けても、いいんですか?」
僕の驚いた声に、店長は笑っている。
「何言ってるの。そんなことで、やめさせるわけがないでしょ。まあ、確かに君がいないと夜人手が少ないから大変だけど、今まで頑張ってきた分ゆっくり休みなさい。
あ、そうだそうだそれとさ。あと今度いつもの出勤の時間でいいからさ、一度こっちに来てくれないかな。渡したものがあるから」
僕は思わず固まって少しの間が生まれる。
はっとなって、慌てて返事をする。
「よし、じゃあよろしくねー」
あっけをとられていて、しばらく固まった。
店長は僕のことを知っているからこんな風に言ってくれるのだろうか。いや多分それは違う。店長は誰にだって優しい。そのことはわかっている。でも、気を使われているんだなと、それはわかった。
少しほっとした様子で、僕はまた空を見た。神様は僕に今までどれほどの困難を与えたんだろう。そして、どれほどの地獄を見せてきたんだろう。でも、神様も鬼じゃない。少しは味方してくれているんだ。
火曜日。僕が教室に入ったとき、クラスメイトから視線を感じた。
でも、怪我をした僕に対するものではなかった。
正しくは、その怪我をすることになった大元の転倒、そのことに対しての僕への視線だ。
非難の視線というものだろう。それが嫌というほど、僕に集まっている。
これは、あとから知ったことだったが、実はうちの青組と優勝した紅組の得点差はわずかに20ポイントだった。
しかも、もし仮にクラスリレーで一位になっていれば、同点で少なくとも負けはなかったらしい。
たかが体育祭ごときでと僕は思ったが、クラスメイトの半数ぐらいはそうでもなかったようだ。二日間行うだけあって、それなりに本気で取り組む生徒も多いようだ。
だからこそ、僕は戦犯扱いされ今回の非難の的になっているわけだ。
嫌われることは慣れているわけではない。
でも、視線を気にしていてもどうしようもない。無視することに決めた。多分中には僕に罪を与えてやろうと思っている人もいるんだと思う。でも、接触しようとする人は誰もいなかった。
僕が席に着くと、大樹は僕のところに寄ってきてくれた。
「よう、航。足の具合はどうだった?」
「うん、ヒビで済んだよ。この間はありがとうね」
「そっか…ならよかった」
大樹は少し安堵の表情を見せていた。
でも、少し顔が強張っている。この間のことをまだ気にしているのだろうか。
何となく、僕と大樹の関係に、歯車がギシギシと異音を鳴らし始めているような気がした。
少し無言が続いたとき、ちょうど担任の先生が僕を呼んだ。
「渡辺、悪いが放課後に俺のところに来てくれ」
先生の顔は心なしか少し強張っている。
今日からしばらくバイトもない。だから、放課後も空いている。
「わかりました」と伝えると、先生はうなずきHRを始めた。
今日は、中島さんの姿はなかった。
学校を休んだようだ。
その日は何かいつもとは違うぎこちなさがあった。罵倒を浴びせられるわけでもなく、かといって誰かが攻めてくるわけでもなく、いつも以上に人との距離を感じる日だった。それは、大樹も中島さんに対しても同様に。
放課後何が待っているのかと思えば、僕は校長室に連れてこられた。
そこには、校長先生、先週の救護の先生、うちの担任、エース君、そして、うちの学校の野球部の顧問の先生。
このメンバーを見た瞬間に察した。
先週の足を踏んだ件について話し合いが行われえるのだと。
向かい合ったソファで、話し始めた。
僕が座っているほうには、救護の先生と担任の先生。
そして、向かいにはエース君と、その顧問。両サイドの間に校長がいた。
すぐに終わると思っていた話し合いも、なかなかすぐには終わってくれなかった。
しかも、僕自身が訴えた訳ではない。救護の先生が校長に文句を言い、今回の形に至ったのだとか。
「いやあ、俺は踏んでないですよ~。ねえ?渡辺君…だったっけ?」
少し、薄笑いを見せながら言う。
僕がどうこう言う前に、救護の先生が発言した。
「あのね、私が言いたいのは踏んだ踏んでないということではないの。
私が言いたいのは故意に踏んだか、故意に踏んでないかということ。
そんな脅迫するように渡辺君に問いかけたって意味ないわよ」
「でも、先生~俺は踏んだ覚えないですし~。なら証拠出してくださいよー」
随分とこの間の野球の時とは打って変わって、ふざけた口調で話している。馬鹿にしているのが見え見えだった。
反省の色も皆無。なんだか、面倒くさくなってきた。
「証拠も何も、この子の足のひびが何よりの証拠なの。とりあえず、踏んだという非を認めなさい」
なぜか、僕と彼の話し合いじゃなく、救護の先生と彼の話し合いになってしまっている。
この対立に口を挟む勇気は僕にはない。
すると、さっきまで黙っていた隣の顧問が、口を開いた。少し太っていて野球部の顧問らしい威厳のある雰囲気だった。
「全く、黙って聞いていれば…、ばかばかしい。こんなことに付き合わされて時間の無駄ですな。
踏んだという証拠もなしにこんな冤罪を敷かれてもねえ。
校長先生、もう今日はお開きにしましょうや。これ以上話をしても、埒があきませんぞ。
我々も、大会が近いのでね。こんなことに時間をつぶしてる暇はないのですよ」
そういって、顧問は立ち上がる。
すると、エース君も立ち上がった。
その時、珍しく担任が発言した。でも、しょうもない発言だった。
「だから、埒が明くとか、明かないの問題ではなくてですね…」
「では、なんというのです?足の指にひびが入ったといっても、入る原因はいくらでもあるでしょう?
この生徒がその転んだ際にできたものかもしれないし、何かにぶつけてできたものかもしれないのに。黙っていればいいものをあなたは偉そうにべらべらと。
こんなこと解決させたところで…」
そして、担任は黙り込む。こういう時は頼りないんだなと知った。
もう、完全にどうでもよくなってしまった。こんなふうに腐ったエース君や顧問がいる状況では、何年たとうが終わらない。
僕は、立ち上がって発言した。
「あの、先生。もういいですよ。
僕自身、別にどうでもいいですし。これ以上話していてもそちらの顧問の先生のとおり埒が明かない。
時間の無駄です。それに、もしかしたら僕自身のせいかもしれないし、こんなことに時間を僕も使いたくありません。
もう結構です。僕ももうこれで失礼します」
その発言に一同が驚いていた。
僕はそういうなりさっさと校長室を出て行った。
扉を閉める直前、エース君に「よわっ」と、嘲笑されながら言われた気がした。
これが、僕の首をさらに絞めることになるとは、僕はまだ知らなかった。
そして、この時の僕を恨んだ。