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荒井 修馬……あらい しゅうま

谷村 松穂……たにむら まつほ

山寺 星乃……やまでら ほしの

(石井 康彦……いしい やすひこ)

(高山 翔太……たかやま しょうた)

(夏川 葵……なつかわ あおい)

飯島 宗太郎……いいじま そうたろう

夏川 桜……なつかわ さくら

 何故明日はやってくるのだろう。

 何十年と忘れていた疑問を、ぽつりと口にした。

 真っ暗な自宅の寝室。

 聞き手は、五十になった俺だけだった。

 明日なぞ来なければいい。すぐに帰りたい。

 こんな気持ちを、ずっと昔、抱いていたことがある。

 ああ、そういえば、あの頃は日常的に考えていたような。

 教師であっても、大人になれば子供のことはすっかり忘れてしまうのだ。

 俺だって高校生の時は、こうやって倦怠感に包まれながら生きていたのだ。

 ……苦しみが混じったノスタルジーに浸りながら、今夜は眠らなければならない。

 明日は七月十五日。

 様々な因果が絡み合う予感に、ひどく寒気がした。


 それは、全然勉強してない定期テスト前夜に味わう苦しみと、ほんの少しだけ似ていた。


 貰ったものは、小さな手紙だった。

 小さな文字で、俺の予想していたことが、つまびらかに綴られていた。


 それは、小ぬか雨と戯れる草木のように清らかな、小さな思慕の情であった。


 ……飯島が夏川と接触する前に、何かしなければならない。

 そうでなければ、何か良くないことが起こるはずだ。

 ……でも、何をすればいい?

 素人の俺でもできることなのか、それは。

 恋愛の専門家、なんてものがあるのなら、尋ねてみたかった。


 ひどく快晴だった。

 雲一つさえない空が、かえって世界の不安定さを主張しているような気さえした。

 今日もいつもの時間に起きていた。

 今から学校へ行けば、五時には着くはずだ。


 自転車で平坦な道を走行する。

 人通りはまばらで、思考を重ねるのには持ってこいだった。

 これからなすべきこと。予想される悪夢。淡い後悔。

 幾十にも塗り重ねながら、タイヤを回していく。


 学校に着いても、当然のように飯島はいなかった。

 夏川桜も。

 つまり、早く学校に着くこと自体には何の意味もなかった。

(今のうちに、考えるんだ)

 うまくいかなければ、よくない。

 逆に、うまくいけば何の問題も起きないのだ。

 でも、どうやって、うまくやる?

 具体性の欠けた抽象絵画のような心の中を整理して、事実を真っ直ぐに受け止める必要があると思った。

 俺は夏川桜とお付き合いする権利はない。

 仮に権利があったとしても、意志もない。

 だから、まず俺がなすことの一つは、手紙の内容にかぶりを振ることだ。

 それをいつ行うかが問題だ。

 職員室の自分の席を見て、時間割を確認した。

 一時間目から、一年B組、二年A組、二年C組、……。

 昼休みまでに、一年A組のコマがない。

 これは由々しき事態だ。

 飯島は間違いなく、早朝か、昼休みか、放課後に行動するだろう。誰だってそうする。

 早朝なら間違いなくアウトだが、昼休みでもやばいということが、今しがた証明された。

 飯島が同じ一年A組でさえなければ……。

 それ以外にも問題はある。

 飯島の、夏川に対する想いの行方はどうなるか。

 俺は飯島に、何でも協力すると誓った。

 だが現実は、夏川の想いは俺の方に傾いているという。

 飯島の恋を達成させるのは、強い磁力に閉じ込められた磁石を百八十度回転させる苦行に等しい。

 ……俺へ向けられた磁石を、彼の方へ。

 飯島は、おそらく持てる勇気を余すことなく振り絞って、菓子を渡すことだろう。

 俺が先に夏川桜に接触して、俺への想いを諦めさせておかなければ、菓子を渡した時の進展は小くなってしまうはずだ。

 それが本当に正しい考えかどうかは分からないが……。

 ここまで思考して、ふと思い出した。

 夏川桜は、何かしら早く学校に行く必要があった気がする。

 卓球部に朝練はないが、学級委員長として、何か。

 ……ああ、確か、その日の学級の様子を書き残しておくノートを取りに行く義務があった。

 そのために、彼女は他の生徒よりも早く学校へ行くはずだ。

 ……その時を狙おう。


 つまり、こういうことだ。

 まず、早朝に夏川桜を捕まえて、告白の内容を断る。

 俺が中途半端に関わらなければこんなことにはならなかったのかもしれないが、後悔先に立たずだ。

 この状況から、ベストを尽くすしかない。

 その後は、うまく飯島をサポートしてやる。

 こうしてまとめてみると、俺がやるべきことはあっさりしている。

 両肩にのしかかったずっしりとした重みも、だいぶ小さくなってきた。

 いつの間にか、まばらに人が増え始めた。

 ……決行だ。


 空は、相変わらず不安定に明るかった。

 絡み合った因果は解けたように思われた、この時は。


 少ない生徒から、夏川桜を特定するのは容易だった。

 心臓が不穏に鼓動する。

 一年A組のプレートの下。

 中にいるのは一人だけ。扉を境界線にして、俺はその外側から機をうかがっていた。

 決して遠くはない距離。

 しかし、俺は彼女の今の心情を全く想像することができない。それほど遠い。

 なら、うずくまってないで、近づくしかない。

 もとより、他に選択肢はなかった。


 だがしかし、弱い心の全てを叩き潰すだけの勇気を持てなかった。

 生じたためらいは時間的湾屈となって、新たな悲劇へつながる扉をしなやかな動きをもって打った。


「先生……?」

 俺は言って聞かせた。

 俺の胸に秘められた真実を。

 事はつまらない夢物語のように、緩やかに進んだ。

 彼女はそうですかとだけ言った。

 彼女の胸の内の様子は、俺にはわからなかった。

 早く終わってほしい、と思った。

「俺はいかなる理由があろうとも、あなたとは付き合えません」

 もう一度、教師としての立場を理解させるように念押ししてみた。

「……はい」

「なんで俺のことが好きになったんだ」

 あまり時間はないのだが、それだけ聞いてみようと思った。

「……先生の明るさに、惹かれました」

 明るさ?

 そんなものを俺は持っていたのかもしれないが……。

「多くの先生は、あくまで『先生』でした。でも、荒井先生は違ったんです。ご自身の中に強い意志があって、生徒と分け隔てなく交流する姿が、魅力的だったんです」

「本当にそんな理由で?」

 女が男を好きになる理由にしては、何かずれていると思った。

「……本当はよく分かりません。ただ好きだとしか」

「……俺はそんなたいそうなモンじゃねえよ。教師と生徒との狭間で行ったり来たりだ。俺は『教師』だから。絶対に『生徒』にはなれない」

「そんなことは……」

「世の中の教師のほとんどは自分の立場をわきまえて仕事をしてる。俺はわがままなだけさ。ただわがままで、生徒の目線から物事を見ているフリをしているだけで……」

 途中から、夏川桜にではなく自分自身に話していた。

「でも俺はこんな中途半端なポジションでも、楽しかったんだ。生徒たちもなついてくれるし。俺は多分一生このままだろうな。だから、夏川。俺みたいなやつとじゃなくて、学生と恋愛しろ。な?」

 俺は彼女に目線を注いでいた。

 ただ、小さくうなずいて、どこかへ去っていった。


 何か、小さな音がした。

 石ころが転がるような、石ころが潰れるような。

 振り返ってみた。

 そこには、飯島が立っていた。

「先生。夏川さんに好かれていたんですか」


 俺は激しく動揺していた。

 何だ? 何かまずいのか? この状況はまずいのか?

 考える。

 こいつが最初から最後まで俺たちのやり取りを見ていたとして。

 俺は夏川桜を振った。それだけ。

 こいつにとっては、むしろ吉報であったはず。

「僕じゃダメだったんですか」

 何やら言う。

「何がダメなんだよ?」

「僕じゃ、先生にはかないませんか」

「いや、俺は夏川と付き合うつもりはないぞ? お前も聞いてただろ?」

「聞いてました……。だから思ったんです」

 飯島は目線を少しだけ上げた。

 俺の目がそれをはっきりととらえた。

 それと同時に、彼の右手に収められているモノも見えた。

 ……彼の心のように粉々になったクッキーを。

 彼は苦笑して言った。

「僕、諦めます。今まで相談に乗ってくれてありがとうございました」


「……意味が分からない」

 泣くでもなし、あがくでもなし、訴えるでもなし。

 飯島は全てを諦めたような顔で、俺に背中を向けて、とぼとぼと去ったのだった。

 俺は頭が空っぽになって、追いかけることもできなかった。

 まだ十分に可能性はあると思うのに。

 俺は呆然とした。

 呆然として、そして自虐の念にとらわれた。

 その強さは今までの人生の中で未経験なほどに思われた。

 学生の立場でモノを見るとは、こういうことなのだ。

 ああ、考えてみればいい。

 俺が飯島の立場なら、どう考えるか。

 今の今まで自分以外のことが好きだった相手を手に入れるだなんて、どだい無理だと思うじゃないか。

「何でだよ……」

 中空へ向かって叫んだ。

「何でこうなるんだよ!」

 周囲がざわめいた。

 ああ、そういえばもう普通の生徒が来始める時間か。

 周囲の目線に耐え切れずに、俺は校舎を飛び出す。


 誰もいない場所って、案外少ない。

 グラウンドも生徒が使用している。

 何とか無人の空間を探し当てた。

「はあ、はあ……」

 俺はうなだれた。

 思えば、飯島は俺の過去の姿と似ていた。

 何につけても自信などなく、身を潜めて生きていた。

 だからこそ、飯島が夏川桜に恋したことを、本当にうれしいと思った。

 前向きに生きてくれていることが、本当にうれしかった。

 今、それが崩れてしまった。

 飯島はまた、俺の高校時代のように、暗くひっそりと生きてしまうのだろうか。

「あら、荒井先生。奇遇ですわね」

 見上げると、松穂が立っていた。

「……何だよ」

「何か困りごとでもおありのようで。ここで会った記念として、何か相談に乗ってあげてもいいわよ」

「……いらねえよ。つうか、どうせつけてたんだろ、俺を」

「さあ、どうでしょうかね」

 こいつにだけは、俺の醜態をさらしたくなかった。

「お前には関係ねえよ。それじゃ」

 俺は逃げるように去ろうとした。


「気づいたことはさっさと教えやがれってんだ」

 その声を聞いて、思わず振り返ってしまった。

 発言主が松穂だと理解するまで、時間がかかった。

「前にそう言ってましたわよね、あなた。何かトラブルが起こってるのでしょう? あなたにはそれを伝える義務があるわ」

 相変わらずの微笑のように見えたが、纏う雰囲気は違っていた。

「うるさい。あんたの手なんか借りなくても、俺の力でなんとかしてみせる」

「あら、ならどうなさるおつもりなんですの?」

「どうって……」

「今のあなたのままでは、解決するものも解決しませんわ。絶対に。教師界のカリスマである私に協力依頼した方が良くては?」

「なんでだよ! 俺だって教師としてカリスマで……」

「無理よ」

 ぴしゃりと言われた。

「あなたが教師としてのカリスマなど冗談もいい所。恥を知りなさい」

 目つきも声色も、厳しく変容していた。

 それはまるで、非のある生徒を反省させるときに向けるような……。

「あなたが教師としての立場をわきまえていれば、あの少年に夢を見させることもなく、何の問題も起こらなかった。でもあなたは中途半端に生徒の目線に合わせようとしている」

「……じゃあどうすりゃいいんだよ。お前なら解決できんのかよ」

「それは難しいですわね」

「だったら……!」

「なぜなら、それは完全に生徒の問題ですもの。私という大人が口出しして解決してやれることではありませんわ」

 それはまるで、理想だけ追い求める人間に、現実を突きつけるようだった。

「私が言えることはそれだけですわ。ご自身で解決されたいなら、どうぞご勝手に」

 松穂は踵を返し、凛とした態度で足早に去っていった。

 その後姿を見て、何とも言えない悲しみを覚えた。


「先輩。どうかしたんですか。今日はとりわけ様子が変ですよ?」

 昼休み、職員室で山寺先生に心配された。

「……やっちまった」

「え?」

「前に言ったよくない予感ってやつ。当たっちまったよ。飯島の奴、また理想を失っちまった」

「そうすか……」

 山寺先生は、あまり深く聞こうとはしなかった。

 少しだけ事情を説明した。

 ただ静かに聞いてくれた。

 新人教師相手だというのになぜか、ああいい大人だな、この人は、と思ってしまった。

 子供のいうことを、しっかりと聞く大人……。

「先輩」

「ん?」

「私は、先輩の持つ子供らしさを尊いものだと思います。だから、先輩はそれを絶対に貫くべきだと思います」

「え?」

「中途半端が嫌なんだったら、貫いちゃえばいいんすよ。先輩にはそれができます!」

 何だそれ。

 考えもつかなかった。

 教師じゃダメで、教師と生徒の間でもダメで。

 ならいっそ生徒になれと言っているのだ。

「何だよそれ……」

 ああ俺は笑っている。

「ははは……」

「先輩、何かおかしかったっすか?」

「ああ、おかしかった。おかしいくらい痛快だわ」

 俺は山寺先生を見つめる。

「貫いちゃえばいいって、何だよそれ……」


「最高じゃねえか……!」


『あなたが教師としてのカリスマなど冗談もいい所。恥を知りなさい』

 何だよ松穂。

 もっとわかりやすく言いやがれってんだ。

 おかげでどうすればいいのか見えずらかった。

 教師としてダメなら、生徒として接すればいいんだ。

 俺が三十五年前に味わえなかった、青春というものに。


 俺は走っていた。

 飯島を探していた。

 ああ今俺は、青春を駆けている。

 校舎と風景の全てが一新した。

 不安定に見えた空は、とても快く見えた。

 生徒としての俺となっても、解決できるかどうかは判然としない。

 解決できないかもしれない。

 でも、そんなことに挑戦することが、青春を享受するということなのだろう、きっと。


「飯島!」

 校舎と校舎に挟まれたどこかで。

 寂しげな後ろ姿に向かって叫んだ。

「先生……?」

「諦めるな!」

「え?」

 飯島はきょとんとした。

「俺は諦めかけた。お前と夏川がうまくいくように協力することを。でも、俺は決めた。俺は学生としての立場から、目線から、引き続きお前を協力させてもらう。だから、お前も諦めるな!」

 息だけ取り込んで、また一気にしゃべった。

「俺はお前を他人のようだと思えなかった! だから少しでも協力してやろうと思ったんだよ! 頑張れ! 俺も頑張るから! 一緒に頑張ろう!」

「先生、その、僕なんかじゃ……」

「夢なんだろ? なら諦めちゃダメだ!」

「でも、うまくいくかなんて分からないし……」

「うまくいくか分からないことに挑戦するのが学生の義務であり、権利なんだよ!」

 そう。

「だから、一緒に頑張ろう!」

 夏川桜とこいつとの問題だけでなく。

 すべてがここから始まろうとしていた。


 教師が送る、楽しいスクールライフというものが。

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