シャベルとスコップ
ハイキングと称したそれは翌々日の平日真っ只中に行われた。もうテツオさんには話を通しているからねと嬉々とした声で連絡が入ったのは昨晩のこと。あの瞬間の、冷徹で棘のある口調ではない。まるで遠足前夜にはしゃぐ子どものようなテンションで、汚れても構わない服でと告げられて慌ててクローゼットを引っ掻き回した。
今日は頭にくるほどの快晴で、残暑の名残も感じさせない穏やかな気候。まさしくハイキング日和だった。でもそれが楽しいだけのハイキングじゃないことは明白で、家を出るとき思わずママに「今日中に帰らなかったら警察に届けてちょうだい」と遺言まで残してしまった。
電車に乗って数分、埼玉と東京の県境に差し掛かった時、刑事さんもいる中で事が起きてから通報してもらっても何の意味もない矛盾に気がついた。それでも引き返さなかったのは、私も先輩とやらが気掛かりになっていたからだ。その人が辞めなければそもそもあの会社に挑むきっかけもなく、部長やツカサさんと知り合うこともなかった。その理由が知れるならば最後まで付き合ってやろうじゃないかという気持ちひとつだけ。
待ち合わせで指定された駅に到着しロータリーに出ると、タイミングを見計らっていたようにツカサさんからコールが入った。
「駅前交番があるでしょう。そこまで来てよ。もう糞野郎もいるんだ」
その交番なら友だちとの待ち合わせに利用したこともある。右手に向かって進んで行けば、交番の前で堂々と路駐しているミニバンが目に留まる。その傍らにツカサさんとサラリーマン風の男性の姿。この方が刑事さんなのだろう。切れ上がった目に大きな鼻が放胆な男に見せていて、一見すると好青年に映るツカサさんとは対照的だった。しかし刑事さんはともかくツカサさんまでスーツ姿とはどういうことか。本気のハイキングが出来る格好に仕上げた私ばかり浮いていた。
「おい岩永。彼女は一体……」
「おめえに関係ねえだろ」
行くぞと乱暴に吐き捨てツカサさんはさっさと後部座席に乗り込んでしまう。彼には獣になるスイッチが存在しているのかもしれない。今はもちろんオン状態。単なる脅しやハッタリでなく底から滲むドス黒い気があるから。
残る私と刑事さんは顔を見合わせた。瞳の小さな細い目だとか薄い唇だとか、ツカサさんと真逆のルックスでこっちの方がよほど悪人面だ。それも部長のようないかにもではなく、実は曰わくつきという厄介なタイプに分類される。ツカサさんはどうなんだと問われたら二重人格としか思えぬ破綻ぶりであるけれど、人は見た目が九割なんだから刑事さんに警戒してしまうのは致し方ない。それが顔に出てしまっていたのか、刑事さんはおもむろに懐から警察手帳を取り出した。
二つ折りのそれが目の高さで掲げられ、はあ、なんて間抜けた相槌を打って刑事さんを再び見遣る。その目は私を見定めるように鋭く、私が刑事さんを怪しんでいるように刑事さんも私を怪しんでいることに気が付いた。再び手帳に視線を移す。『田中 慶一郎』と氏名が記されていて、平凡だけれどもいかにも警察官ぽい名前だなという感想を抱いた。階級は警部補。年齢は部長と同じか少し上くらいの印象で、このまま定年を迎えていく人なのだろう。
早くしろとツカサさんが車内から怒鳴る。田中さんはうんざりした面持ちで運転席に乗り込み、私はどちらの隣に座ったものか。初対面だけれど一応正義の味方な田中さんか、スイッチの入ってしまったツカサさんか。それでも刑事は刑事だよねと助手席に向かった私の選択は思わぬ効果を生み出した。
結局名乗るタイミングを逃してしまい、田中さんにとって私は『名も知らぬ謎の女』の域を出ない。その実ただの新入社員だし何の力もないわけだが、信号待ちで停車の度に私をまじまじ見てくるからその居心地の悪さたるや想像に容易い。後ろではツカサさんが殺気立てているし、私にもプレッシャーがのし掛かる。ハイキング前に三竦みドライブが待ち構えているだなんて聞いていない。
「本当にあるんだろうな」
痺れを切らしたのか田中さんが口を開いた。それに対してツカサさんは反応しない。田中さんはただナビに従いハンドルを握っているだけのようで、全てを把握しているのはツカサさんだけ。羽田空港そばに来た頃、このまま東京湾を渡るのかと知ったくらいだ。
ツカサさんは険しい顔のまま何かの資料を黙々と読み続けている。そこには何が書いてあるのだろう。
休憩で立ち寄った東京湾に浮かぶパーキングエリアでは軽食を取った。二人は私に分からない会話をしていて、それが本日の主題らしい。ツカサさんが読んでいた資料はこのことか。
「……現況はさっき見せた資料の通りだ」
「被疑者三人とも自供が噛み合わないってことか」
「くだらん庇い合いに決まってる」
「ガキの遊びに付き合わされてご苦労なこった」
尊大に構えたツカサさんの口角が上がる。ざまあみろという内なる声が聞こえてきそうなほどだ。
「本当に、あるんだろうな」
「うるせえな。そっちの頼みでわざわざ出向いてやってることを忘れるなよ、糞野郎が」
「岩永っ、てめえ!」
荒らげた声が想定外に響いて他の利用客の注目を集めてしまう。しかしツカサさんはそんなの意に介する様子もなく脅迫めいた言葉を口にした。
「お前は最近、調子に乗り過ぎだ。あんたのやってきたこと、この子にタレ込ます用意はあるんだからな」
この子と顎で差したのはもちろん私だった。そんな用意なんて知らないし関わった覚えもない。なんだか重たそうな案件にまるで無関係の私を引き込んだ理由はこれかと気付くには遅過ぎて、逃げ出そうにも洋上では叶わない。
黙らせられた田中さんが私を睨む。謎の女は自身を脅かす存在にチェンジアップしたらしい。きっと彼はツカサさんに弱みを握られていて、世間知らずそうな小娘にそれが渡ろうとしている。そんなシナリオがツカサさんにはあって、これ以上事態をこじらせないために私は黙って人形役に徹していた方が賢そうだ。田中さんはポーカーフェイスを装っていても微かに屈辱的な色が滲んでいた。
運転はツカサさんに交代された。私は引き続き助手席に陣取る。後部座席の田中さんはネクタイを緩め苦虫を潰していた。
千葉県に入り館山方面へ進路を取る頃、いつの間にかナビ案内は終わっていた。この先の道順はツカサさんの脳内にあるだけだ。田中さんは現在地を把握しようと仕切りに車外に視線を注いでいた。地元民しか使わないような山間を抜ける県道に入ってしまえば、もう私にはここがどこだか分からない。高速を君津ICで降りたから富津市よりは手前かなくらいの認識だ。しかしそれも随分前のこと。
前振りもなく車は停まった。ここが目的地というわけではなく、車で乗り付けられる限界ということのようだ。ツカサさんが見る先には猟友会でもなければ踏み込むこともなさそうな雑草の生い茂る獣道が続いている。待ち合わせの時は浮いていた私だけ正しい装備になっていた。
ぼんやり山道に意識を取られていると金属の打ち合う音がした。振り向くとツカサさんがトランクから何かを取り出しているところだ。
「ほら、お前もシャベル運べよ」
一メートル近い長さのあるそれを乱暴に押し付けられ田中さんは露骨に嫌な顔をした。私には「スコップ持っとく?」とガーデニング向きの手のひらサイズが与えられた。
「でかい方がスコップだろ」
田中さんの苛立ちもピークを迎えたのか地面に匙部を突き立てながらツカサさんを睨む。
「片手で持てるのがスコップで両手で振り回すのがシャベルに決まってるだろうが」
「土木現場じゃお前のは角スコで俺のは剣スコって呼ぶんだよ」
「ケーサツはショベルカーをスコップカーとでも言うのか?」
これから山道を歩くのに彼らはいつまでいがみ合えば気が済むのか。二つの違いはサイズでなくて形状だから、貴方達のはそれぞれスコップでありシャベルである。
ツカサさんがシャベルと主張するフライ返しみたいなそれはスコップだし、田中さんが剣スコと呼ぶそれがシャベルなのだ。そして私のはどちらでもなく園芸用の移植ゴテ。歩きながらも続く喧嘩に私も巻き込まれかけたけど「間を取ってシャコップにしときませんか」と答えたらようやく静かにしてくれた。
獣道すらも外れ程なくしたところで先頭を行くツカサさんは立ち止まった。ショルダーバッグから取り出したメモを見ながら木立を行ったり来たりしている。少し進んでは後退を繰り返す内に私達が数珠繋ぎでやっと囲えそうなほどの大木の前に辿り着いた。私はとっくに息が上がっている。
「ここだな」
ピリリと空気が張り詰めた。田中さんがその場所をシャベルで掘り起こし、ツカサさんはスコップで土をすくい上げていく。反目していた二人の動作がようやく噛み合い地面は黙々と掘られていく。邪魔になると思い後ずさると踵に違和感を覚えた。何か固いものが土の中にある感じがして、爪先でほじったら白い石ころが顔を覗かせた。
何だろう。無性に気になり座り込んで土を掻き分けてみる。しばらくすると丸いだけと思っていたそれに穴があって、ただの石ころなんかじゃないことに気がついてしまった。
「ツカサさんっ!」
駆け寄ってツカサさんの腰に飛びついた。喚きながらさっきのところを指差すと田中さんがそれを確認しに行った。
「こっちのも仏さんだ」
「頭か」
「ああ」
こっちのも?
いささかの冷静さを取り戻し二人の掘っていたところを見ると、理科室でしか見たことのない骸骨が散らばっていて卒倒しそうになった。