先輩の行方
ツカサさんはこんな顔だっただろうか。唇は真一文字に結ばれ感情が消えている。
「後悔することもないんですか?」
「ムショに放り込まれたくらいで後悔するなら最初からやらないよ」
私を見据える目に憎悪を感じた。その矛先は私に向けられているようでいて、どこでもない彼方を指している。
「反省なんかしてないって意味ですか」
「答えなきゃダメ?」
「そういうわけでは……」
零れ落ちそうなほど大きく開かれた目に堪えきれず視線を背けてしまう。その先に放り置かれたスマートフォンのディスプレイが音もなく点滅し始めた。
「電話だ。ごめんね」
それを手に取り発信元を確認したツカサさんの顔つきが変わる。おじさんにも見えた、最初に会ったときの顔だ。きっとこちらが年相応本来の姿なのだろう。
「ごめんね」
繰り返して申し訳なさそうに眉を下げたのを合図に、私はまたひとつツカサさんの一端を見ることになる。
立ち歩きながら応答した声はとてつもなく高圧的だった。耳と肩でスマートフォンを挟み本棚に手を伸ばす。そこから一冊のファイルを抜き出したが、乱雑に扱うものだから横に並んでいた何冊かが巻き添えで床に落下した。ツカサさんはそれに構わず手にしたファイルだけを持って奥の部屋に籠もってしまった。
扉が乱暴に閉められ、その振動で私の腰まで浮いた心地だ。なにかスイッチが入れられたように突然始まったツカサさんの伝法な振る舞いに冷や汗が落ちる。かすかに相槌を打つ声だけ聞こえるがそれは徐々に荒々しいものへと移り変わっていった。
そして会話のボールはツカサさんの手に。
「眠たいこと抜かしてんじゃねえぞ!」
ドア越しに途切れ途切れ聞こえる言葉は鋭利に研がれた剣のようだ。それに込められるのはある種の追い込み。罵倒はすっかり身に馴染んできているというのに部長のそれとは明らかに異質。いくら失敗し怒鳴られ吊し上げられたって、明日も元気に出勤すればそれでいい。でも扉の向こうの先にいる相手に明日はない。そんな酷薄で危うい香りが満ちていた。
床に放置されたファイルが目に留まる。ダラリとめくれ新聞や週刊誌と思しき切り抜きが見えた。ところどころマーカーが引かれモノクロの紙面を彩っている。このまま座り込んでいると不穏な空気に飲まれてしまいそうで、無意識に立ってファイルのところに向かっていった。
彼の機嫌がすこぶる悪いことは言わずもがなで、部屋から出てこれを見たらまた気分を害するかもしれない。勝手に触るわけじゃない。元に戻すだけなのだ。そんな言い訳を心にしながらファイルを開いたまま拾い上げた。
それは二十年近く前、随分と古い記事だった。ツカサさんの手で書き込まれたと思われる達筆なメモもある。扉の向こうはまだまだお取り込み中だ。腹の底から得体の知れぬざわめきが湧いてくるのを感じながら、私はページをめくった。
初見の予想通りスクラップブックに過ぎないものであったけど、中身は粗雑で禍々しさに満ち溢れていた。ほとんどが性犯罪にまつわる記事で、白目を剥くような酷い事件を取り扱ったものもある。記事全体がバツ印で潰されているかと思えば、丁寧にどこかから引用した文献のコピーや現場の地図が添えてあったりもする。何か目的を持って作られたものであることは間違いない。
もうひとつ落ちていたファイルにも目を通した。一枚目、仰々しい割印が押された目次がついている。インデックスも付いて整頓されてあり、この先は読むべきでないと直感で分かった。ツカサさんの『仕事』に関わるものかもしれない。パタンと閉じるとわざわざテープライターで作ったラベルまで表紙に貼られていた。しかし先に見たほうは何もない。
扉の向こうの会話が止まった。慌てて私はファイルを本棚に押し込んだ。そこで初めて本棚にある全てのファイルが二色に分けられていたことにも気がつく。丁寧にラベリングされた青ファイルと全く無地の黒ファイル。黒ファイルはどれも不格好に膨れていて、とにかくたくさん詰め込まれている印象だ。
会話がなくなりほどなくしてツカサさんが部屋から出てきた。手にしているファイルは青い。
「ごめん、聞き苦しかったよね」
詫びた口調は非常に紳士で、ついさっきまで向こうで獰猛に荒れていたのは隠れ潜んでいた別人じゃないかと疑うほどだ。しかし額に脂汗が浮いているのが見えて、紛れもなくどちらもツカサさんであることを思い知る。
「仕事の関係ですか」
「まあね」
首を鳴らしながらファイルを本棚に戻した背中がひどく疲れて見えた。仕事だと言ってもあんな応酬をする相手がまともなはずもない。
ツカサさんは本棚の前を動かなかった。そして小さく舌打ちしたかと思えば、私がさっき戻したファイルを取り直し順番を並べ変えている。元がどういう並びだったかなんて考慮していない。触らなければ良かったと後悔しても手遅れで、こちらに振り向いた時のツカサさんはどんな顔をしているのか。想像するだけで生きた心地がしなかった。
でもツカサさんは何も言わなかった。再びソファに腰掛けた時にはただひょうひょうとした面構えに落ち着いている。
「どこまで話をしていたっけ」
こんな状況で会話を再開するつもりなのか。言葉を返そうにも喉から空気が抜けて喘ぐような声しか出ない。そんな私をツカサさんは簡単に笑い飛ばした。
「電話の相手、刑事だよ。もしかして変な勘違いしてない?」
「警察の、刑事ですか」
「それ以外にいないでしょう」
「え、でも、思いきり脅かしてたじゃないですか!」
「あいつら、都合良い時ばかりコキ使っていざとなればケツまくるんだからチンピラと変わらない。あれぐらいで丁度いいの」
「……捜査協力してるんですか?」
「好意的に解釈してくれるねえ。そういうの好き」
えへへと顔を崩した彼にはもう、先ほどまでの狂気はなかった。
「もうこんな時間だ」
ツカサさんが顔を向けたところには壁時計が掛けてある。時刻は七時を回ろうかというところ。まだまだ電車は混雑の盛りだ。
「遅くなり過ぎた。家まで送るね」
「まだ七時だし大丈夫です」
「ダーメ。ほら行くよ」
残業でもっと遅くなる日もあるといくら主張しても通らない。半ば強引に敷地内にある駐車場まで連れて行かれてしまえば、もう大人しく送られるしか選択肢はなかった。
乗せられた車はヌルヌルと路地を抜け、大通りに出ればいきなり国会議事堂が見えてしまうのだからとんでもない場所だ。余計な緊張を煽るにはお誂え向きな立地かもしれない。
ハンドルを握っても豹変するタイプだったらどうしようかとも思ったが、それについては模範的とも言えるほど安全運転でホッと胸をなで下ろした。すぐに入った首都高でも流れに乗る程度でほかの荒々しい車と競り合うこともなく、かといって優柔不断にノロノロ走るわけでもない。この瞬間にも無茶な割り込みに遭ってしまったが、顔色ひとつ変えずに冷静な対処をしてみせ、その気になればいくらでもかっ飛ばせる腕前の持ち主であることは確かだった。
車の運転は本性が現れるという。それが事実なら本当の彼は大変穏やかで忍耐強いと言えるのか。せっかちで沸点の低い部長とはまるで正反対だ。
「部長だったらいまの車、きっと怒鳴り飛ばしてます」
「そんなことない。俺が知ってる中で一番運転が丁寧な人だよ」
「運転してるの見たことあるんですか?」
「あるよ。昔交通事故で死にかけたらしくて。それっきり安全運転が最優先なんだって」
安全運転をする部長なんて、抹茶にハバネロくらい想像の及ばない未知の姿だ。
「会社でもそのくらい静かにしてくれたらいいのにな」
「嫌がらせで大騒ぎしてるんじゃないさ。人に怒るのって、本当に疲れるでしょ。愛がなくちゃ他人にエネルギーなんて使えない」
「愛情表現には見えないです」
「ちょっとひねくれてるとは思うけどそれだけだ」
ナトリウム灯で照らされた口元に薄笑みが張り付いている。他人事だと思うから笑っていられるのだ。
「随分と部長の肩を持つんですね」
「テツオさんには借りしかないもん」
「……私の前任者なんですけど、その人も部長に恩義があったそうで」
「ああ、彼もそうだろうね」
「誰ひとり退職理由を知らないんです。部長が苛めたから辞めたんじゃないかと私は思ってますけど」
「へえ、そうなんだ。気になるの?」
「それはまあ、行方すら知ってる人がいなくて。気になりますよね」
「ふーん」
まただ。柔らかくもない超然とした低音が唸る。
「ツカサさんも理由は知らないんですか」
「それじゃあ一緒にハイキング行こうか」
「突然何を言い出すんですか」
「行けば彼の消えた理由が分かる」
「え?」
顔をなめるオレンジ色が、道の先一点を見据え目を尖らす横面を照らしている。有無を言わさずイエスの返事しか待たない表情が固く結ばれた。
「さっき連絡を寄越してきた糞野郎も一緒だからさ」
刑事さんもお供するなら安心ね、なんてそんなはずがない。もしかして私は見えぬ地雷を踏んでしまったのではないか。そんな恐れにも似た予感に身を縮めた。
「行かなきゃダメですか」
「お前さ、勝手に本棚覗いたろ。必ず来いよ」
灯りの届かぬ影に入ってツカサさんの顔は見えなくなる。ドスの利いた声だけが鼓膜をぐちゃぐちゃと抉っていった。