前科者
地下鉄に乗っておよそ十五分、目的地そばの駅に降り立った。地上に出てすぐの坂道を下り、その途中で曲がると左手にマンションが見えた。駅前と呼べる距離なのに物静かで人の往来は少ない路地だ。本当にここなのだろうかと何度住所と照らし合わせても間違いなく、オートロックで指定の部屋番号を呼び出す。すぐに応答はなく三回目でようやく「どちらさま?」と男性の声がした。
「私、ミツワ……」
「ああ、どうぞー」
社名を頭しか言わない内にオートロックは解除された。強固そうなセキュリティーなのにそれで良いのか。フロントサービス付のマンションなんて、家賃だけで私のお給料は消えてなくなりそう。エレベーターに乗っただけで緊張で浮き足立ってしまう。
部屋の前に立ちノックすると、開かれた扉の向こうには上下とも長袖スウェットの男性がいた。こんな時期に暑くないのかとその顔を見る。お兄さんともおじさんともつかぬ曖昧な風貌。童顔というわけでもないが、小柄な体躯が年齢不詳に拍車をかけているようにも思えた。
「ツカサさんと、お伺いしているのですが」
「うん俺のこと。こんな格好でごめんね、今まで寝てたんだ」
「書類を届けに参りました」
「ありがとう。とりあえず上がってよ」
リビングに迎え入れられると大急ぎで着替えてくるねとだけ言い残し、ツカサさんは隣の部屋へと消えていった。
残された私は部屋を見渡した。隅にある大きめの机にはノートパソコンや私が持ってきたような封筒が幾束も詰まれている。デスクダイアリーからは大量の付箋紙が顔を覗かせていて、目印の意味を成しているのか定かではない。サイドの本棚には多岐にわたる分野の専門誌や、新聞や雑誌の切り抜きがスクラップされていると思われるファイルがみっちり肩を並べていた。所属していたゼミの研究室を想起させるそこがツカサさんの仕事場なのだろう。
そして私の立つ傍らにはリビングテーブルを挟んでソファーが二組。テーブルの灰皿には吸い殻が山盛りになっていたが、チップペーパーの柄はまちまちでひとりの物ではなさそうだった。
「ごめん、座ってて良かったのに」
ほどなくして出てきたツカサさんは、白いワイシャツと黒のパンツ姿に変わっていた。わざわざ着替えても長袖だなんて季節感はまるで無視しているが、休日の親父然としていたのが随分と若返って見えた。染めるほどではない白髪や唇の乾き具合に時の流れを感じるけれど、お兄さんと呼んで差し支えない。しかしハタチかそこらで止まっていそうなオーラを振りまく彼に対する警戒心は強まるばかりだ。
座ってちょうだいとソファーへ促され渋々腰を下ろすと、ツカサさんは灰皿に手を伸ばした。
「ところでタバコは吸う人?」
「いいえ」
「それは良かった。俺、好きじゃないんだよね。一応客商売だから灰皿なんて用意してるけど」
吸い殻をダストボックスに放り込み向かいのソファーに腰掛けたツカサさんは上機嫌だ。さっきまで気にも留めなかったけれど空気清浄機や消臭ポッドがいくつもあることに気付き、吸い殻の主がいた時はさぞ苦痛だったに違いない。
「あの、封筒を……」
もう本題に入っても良いだろうと、封筒を差し出した。躊躇われるがマナーだと思い直し、諦めて名刺もそこに添えた。
「ソノカちゃんって言うんだ」
封筒は受け取るだけで中身を確認もしなかった。その視線は私の名刺で、いきなりの馴れ馴れしさに身構えた。
「テツオさんから新人だとは聞いてたけど、まさかこんな若い女の子とは思わなかったよ」
「テツオさん?」
「おたくのボスのこと。かなりボコボコにされたんでしょ、歪んでるよねえ」
部長の名前を知り、そしてまた面接の出来事が蘇り、ツカサさんの明るい口調との落差に堪えられず不覚にも目頭が熱くなった。突然に来た波は猛烈な勢いの雫となって溢れて消えてしまいたくなる。
「嫌なこと思い出させちゃったかな、悪かったね」
「そんなんじゃ、ないんで、すう!」
「鼻水拭こう、ね?」
「うーっ」
「あー、泣かないで」
しゃくりが止まらない私の横にツカサさんが移り、背中をさすってくれたりテッシュを差し出してくれる。それがまた情けなさを増長させて別の涙が溢れ出す。
こんなんだから就活も失敗続きだったんです、部長にいっぱい酷いこと言われました、会社のあんな空気堪えられない、でもこんな早くに辞めたらパパとママが悲しみます、そんなこんなを鼻水垂らしながら喚く私に、ツカサさんは遮らず耳を傾けてくれた。変人なんて思ってごめんなさい、ツカサさんも良い人かもしれない。
やっとまともに会話出来るまで落ち着いた頃にはたっぷり三十分も経過していた。ここにきて泣いている時間の方が長かったことになる。柄にもなく身の上話をとうとうと喋りまくってしまい、迷惑じゃなかっただろうかと不安になった。
「初対面なのに、すみません」
「気にしないで。誰にでもくすぶる時期はあるものだ」
「ツカサさんにもあったんですか」
「そりゃあね。死んでやるーとか思ってるくせに飯はしっかり食うんだから笑っちまうよな」
悩み事なんてなさそうな顔をしたツカサさんから想像なんてつかない。あまり踏み込むのは行儀が良くないと気付きながらも好奇心には抗えず、何があったのかと訊ねてみた。
「俺の話なんて聞いたら引くよ」
「引いたりしないです」
「本当にー?」
「本当です」
後出しにするのも厄介なのかな。顎をかきながら逡巡するツカサさんの横顔に釘付けた。男性に対する評価として相応しくないが可愛らしい容貌だと思った。
「うんとね、ソノカちゃんくらいの頃は色々あって自棄でホームレスみたいなことしてた」
「ホームレス!」
「ほら引いた」
「……ごめんなさい」
「ほんの三ヶ月くらいのことだよ。だけどお腹空いてたまんないから仕事してさ、それも続かずクビになってさ」
「まさかホームレスに逆戻り?」
「そんなことないよ。捨てる神あれば拾う神ありってやつ。ソノカちゃんも、似たようなものでしょう?」
「部長が神だとでも言うんですか」
「ちょっと歪んでるだけで根は良い人だよ」
その歪み方が尋常じゃないんだってばと言い返したい気持ちを殺す。恩人だしね、なんて付け足したツカサさんの持ち上げ様は不可解でしかなかった。
「それから今のお仕事を?」
「いやいや。その後もしばらくジタバタしてて……テツオさんと知り合ったのはこの頃だよ。どん底人間を拾う趣味があるのかもしれないね」
趣味、という単語に耳が反応する。部長の趣味って、私も言われた。私って、どん底だったのか。いや、今の方がどん底かも。グルグル回り始めた思考に埋もれかけていた時、ツカサさんから発せられた衝撃的な告白に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「すべてが一度終わっちゃったの。俺の中で。それで十年ほど刑務所に」
「けっ、けーむ、しょ!」
「ほらまた引いたー。もうこの話はお終いね」
立ち上がり元の向かい側に戻るツカサさんを、白黒する目で追いかける。
持参した封筒をようやく開けたツカサさんの表情は一変し、スルスルと紙面を滑る目付きに神経質な性格を感じた。話し掛けるなオーラというやつだ。
大袈裟に言っても三十かそこら、それこそ二十代でも通せそうな風貌なのに、身の上話を照らせばどんなに若くても三十半ばに差し掛かっているはず。彼は一体何才なのだろう。
そもそもそんな長いこと塀の向こうなんて、どれほどの罪を犯したというのか。背筋に冷たいものが垂れ下がる。何度も何度も悪さをするよう雰囲気には見えず再犯を重ねた末の十年ならそのギャップがとても怖い。初犯で一発退場なら余計に質が悪い。記憶の中の判例集をめくれども、十年という歳月が物語るのは強盗とか殺人とかそんなものばかりだ。
居心地の悪さにジッとしていられなくなった頃、ツカサさんがおもむろに立ち上がり机に向かった。持参した書類はそのまま鍵のかかる脇机に、そして何かを書き付けた紙切れを茶封筒に収め、それを私に差し出した。
「はい。じゅりょーしょ。テツオさんによろしく伝えて」
ああ、受領書のことねと両手で預かった。私はお使いに来ただけで、ツカサさんが何者だろうと関係ないんだと思い直す。そしてさっさと退散しようとしたが、玄関までたどり着いたところで呼び止められた。
「ソノカちゃん」
「は、はい!」
「今日のことは誰にも言っちゃダメだよ」
「言わない、言わないです!」
「本当にー?」
「本当、です」
「さっきは引いたくせに」
「それはっ」
真夏だというのに震えで歯の根が合わない。人の形をした恐怖がそこにあった。
「法学部なんだってね」
「……なんで知ってるんですか」
「依頼書の他にソノカちゃんの履歴書も入ってた」
「え、返してください!」
「ダーメ。こっちもね、色々リスクあるから。ちょっとした担保だよ」
一周回りかえって無邪気な笑顔が近付いてくる。後ずさり扉にぶつかり挟まれて、恐る恐る見上げたツカサさんの顔はそこだけ切り取れば優しいものだ。怖がってるのは中身だけで、外見はひとつも怖くない。
「法学部なら先に言ってよー。俺がどのくらいのことやっちゃったか、刑期で推測できちゃうじゃん」
「あの長さじゃ関係ないかと……」
「あはは、それもそうだ」
笑顔と同時にガチャンと解錠の音がし、扉が開け放たれた。
「お家まで送れるけど?」
「結構です!」
「あは、気をつけて帰ってね」
わあ、やっと出所だ。なんてくだらないこと考えてる場合じゃなくて。まだ昼間なのに太陽は高く昇っているのに、私の気持ちは暗く重く沈みがちだ。