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初めてのお使い

 すぐにでも働いて欲しいと、面接日から数えても三週間あまりで私の社会人生活は火蓋を切った。

 面接官は絶望的なまでの人格破綻者と見えたが、腐ってもビルが建つほどの企業なのだ。あの人のいる部署にさえ配属されなければそれでいい。面接であんな諍いを展開してしまったのだ。わざわざ同じところに私を置くわけもない。そんな想像をしながらママの用意してくれた新しい洋服に袖を通す。


 定時よりだいぶ早く向かったのは二十四階、自社ビルの天辺だ。

 事務室の入口で右往左往していたら、トイレから戻ってきたところだろうか。同世代の女性社員がハンカチ片手に声をかけてきた。

「もしかして新人さん?」

「はい。よろしくお願いします」

「うそ、どうしよう。女の子だったなんて」

 目を丸くさせた彼女の真意を、私はまだ理解出来ずにいた。

 その彼女、石鍋いしなべさんは入社三年目だと言った。三年目にして私が初めての後輩となるらしい。そして私の教育担当であることも知り、心底ホッとした。僅か数分のやりとりでも伝わるほど彼女は聡明で、モヤモヤを抱えたままの私を明るく晴らしてくれる心地だった。

「面接、大変だったでしょう?」

「あ、はい……」

「これからもっと大変よ」

 石鍋さんは眉尻を下げてそんなことを言った。

 私の座席は石鍋さんの真横に用意されていた。八組のデスクで構成された島が十もある大きめのフロアの、そこは一番真ん中に近いところ。部屋の隅々まで見渡せる位置取りだ。

「朝礼で自己紹介してもらってから、他部署の案内と挨拶回りをするね」

「あの、私を面接した人の部署にも行きますか」

「あれ、聞いてなかったの? うちの部長だよ」

「えっ!」

 二度と来るなと言ったくせに!

 ヘナリと椅子に座り込むと、石鍋さんは心配気に私の顔を覗き込む。あんまりだよ、なんて初対面の彼女に言っても仕方なく唇を噛んだ。

「部長に相当やられちゃったんでしょう。でもみんなそうだから、そういう奴なのよ。パワハラって奴。真性サディスト。まさにサド部長って感じ」

「パワハラなんてもんじゃなかったです、人権侵害でしたっ」

「あはは、そうだよねえ」

 笑い事じゃないのに、胸は震え始めていた。

 そして始業の合図を待たずにアイツは現れた。不幸にもフロアの中心窓際に据えられた部長のデスクから私の島は最も近い。部長の座席があって通路を挟み石鍋さん、そして私の座席という具合だから、これから先石鍋さんと何かやりとりをするとなれば嫌でも部長まで視界に割り込んでくることになる。

 部長がアイツというだけで憂鬱の極みなのに、朝礼でみなの前に立たされてからそれはますます酷くなる。


辰巳園夏たつみそのかです。よろしくお願いします」

 名乗りだけで頭を下げた。まばらな拍手を聞きながら面を上げてすぐに席へ戻る。鬱々とした気持ちはさらなる深みへ潜り込む。

「お嬢ちゃんじゃない」

「信じられない」

「部長の趣味でしょう」

 私は音に敏感な方だ。地獄耳というやつだと思う。どうせ本人には聞こえていないだろうという思い込みで発せられる呟きはスルスルと私の脳に刻まれた。

「石鍋さん」

「どうしたの?」

「なんで私、採用されたのでしょうか」

「うーん、私も不思議に思ってる」

 数ヶ月前まで、ここは余ってるわけでもないが不足もしない程度に人材が確保されていたそうだ。

 しかし春先に立て続けて二人、余所に引き抜かれ転職してしまった。同時期にかねてより出産予定だった若手社員が休職に入り、急な夫の海外転勤で中堅社員までも辞めてしまった。

「その四人の代わりってことですか」

「そういうわけでもないの。転職組は前々からそんな話聞いてたし、うちより給料も良い所じゃあ仕方ないよねって。もちろん引き継ぎも完璧。他の二人もさ、なんとか残った人間でカバー出来てるし」

「だったら慌てて私みたいなの採らなくても……」

「それだけじゃなくて私の先輩が五月に突然辞めちゃってもう大変。穴が開いたなんてもんじゃない、ブラックホール出現って感じ」

 そういえば大学の就職支援課からここの求人情報が送られてきたのは六月に入った頃だった。私はその穴埋めということか。大袈裟すぎる溜め息で石鍋さんは続けた。

「先輩に関してはなんの前触れもなかったし、辞める素振りなんて見せたことなかった。あの部長とも上手くやってたしね。部長も一番お気に入りだったんじゃないかな、一番いじめてもいたけど」

 その言葉を聞いてギョッとした。私は第二のサンドバッグにでもされてしまうのだろうか。

 石鍋さんに連れられて行った挨拶回りでも、どこも似たり寄ったりな反応だった。

 新人の女の子があの部長のところなんて可哀想に。実際口には出されなかったけれど、裏腹の意味を読み取れてしまうのだ。

「私も新卒で入ったとき、似たようなこと言われたよ。でもなんとかやってるし大丈夫だって」

 大丈夫などという台詞は何の励ましにもならなかった。全フロアを一巡りして事務室に戻ると、部長の前に立たされた二人組が壮絶な言葉のスパーリングを浴びせかけられていた。室内の空気は最悪、私は思わず固まってしまう。


「大丈夫、怖くない怖くない」


 ズイと石鍋さんに手を引かれて自席に強制連行されてしまった。全部の会話が丸聞こえなのだ。働き始めて三日目には何も珍しくない日常の風景なのだと解したが、そんなものに染まりたくなんてない。

 対して石鍋さんは女神のような人だった。男性には、部長にすら臆さず意見してみせるほどの手厳しさや豪胆さがあるけれど、同性にはとても優しい。私には、新人という贔屓目抜きにしても優しい。

 私が部長に怯えていることは十分理解してくれて、本当なら下っ端の私がやるべきコピー取りだって、部長が関与する分については上手いこと遠ざけてくれた。

 十日もすると、八十人いるはずの社員が一度は公開処刑されていたことに気付く。例えば呼ばれた時の返事が遅いだとか、そんな些細なことでも眉を吊り上げる。私に対して過剰な詰めは今のところない。せいぜい部長宛の内線を回すのに手間取ったとき少し睨まれた程度だ。それすらも石鍋さんが直後に猛抗議してくれたお陰で暗い気持ちは残らなかった。部長を除いて悪い人はいない、むしろ部長という仮想敵と共闘する仲間の様相を呈していた。



「ここのレイアウトは直した方がいいかな」

 働き始めて一週間あまり、文書作成程度の仕事なら少しずつ私にも振られるようにもなり、石鍋さんの用意してくれた見本を参考に四苦八苦しながら打ち込んだ。それを石鍋さんに点検してもらう。そのために手を止めた石鍋さんの仕事を覗き込めば、目が回るようなプログラミング言語がモニターを埋め尽くしている。以前は先輩がやっていたのだそうで、それがいつか私にものし掛かるのかと思うと気が遠くなった。

「私、そういうのズブの素人です。昨日本屋で初めて入門書を買ってみたけど、全然分からないんです」

「プログラミングついては新人には一年かけて教えるし、辰巳さんはあくまで先輩の後任だから今はできなくて大丈夫よ」

「その先輩って人の話、あちこち聞いてみたんです。とてもパソコン詳しい人だったらしいじゃないですか。十年もやってた人の穴埋めなんて出来るわけないです」

「ああ、そのことね」

 石鍋さんが向き直り、困ったような顔をした。

「社内業務はほとんど私と分担してたし、先輩もいなくなった今は大幅に減らしてもらってるから問題ないの。ただ、先輩がひとりでやっていた社外業務があってね。それを任されるんじゃないかしら」

「社外業務ですか」

「先輩はお使いだって言ってたよ。たまに書類持って出掛けるの。どこに何しに行くのか絶対教えてくれないんだけど、残業だらけで死にかけてるときに問い詰めたらやっとお使いだって吐いたから、どこかにそれを届けてたんじゃないかしら」

 言葉通り書類配達だけなら、新人だってベテランだって関係ないかもしれない。なにより部長のいるこの空間を正当な理由で抜け出せるならそんな喜ばしいことはないだろう。

「先輩ね、結局なにしてるのか教えてくれなかった。そもそもそんな仕事があると知ってるのは私と指示してる部長くらいじゃないかしら」

「ぶ、部長の指示なんですか!」

「特命業務ってやつかな。内容をバラしたら殺すくらいは言われてたかもね」

 その仕事が来たらどんなのか教えてよ。何のことはないように石鍋さんは言うけれど、さっくり死刑宣告なんてされたら身が持たない。

 誰も知らない仕事なら、きっと石鍋さんの知らないところで密やかに引き継がれているのだろう。それを祈った翌日、そのお使いが突然にやってきた。


 まだ始業前、自席についてパソコンを立ち上げようとした瞬間だった。部長に名を呼ばれて飛び上がる。おずおずと向かうと厳重に封緘された書類を手渡された。

「今からこの住所いるツカサくんのところまで持っていって。終われば直帰して構わない」

 受け取った封筒に厚みはなく、入っているのはせいぜい数枚のようだ。指定の住所はさほど遠くなく、一時間もあれば行って帰ってこれそうなところだった。それなのに直帰って、何故だろう。これから行くところに何があるんだろう。ツカサって、誰だろう。そんなことは聞けず泣きそうになりながらカバンに封筒を仕舞っていると、石鍋さんが出勤してきた。

「おはよう。あれ、辰巳さん外出?」

「お使い、かもしれません」

 私の返答に石鍋さんが反応するのと、部長の「さっさと行け!」という怒号が轟くのはほとんど同時だった。部長に反抗してみせる勇気が私にあるわけもなく、石鍋さんに頭を下げて私は会社を飛び出した。

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