命の値段
最後の一瓶が始末されて、シンクの空き瓶は溢れんばかりだ。深い溜め息を吐きながら頭を掻きむしる様子から、きっと私がここに来るまでにも灰皿で殴られる以外にもひと悶着があったことは想像に容易い。
「他にも隠してないといいですね」
「大丈夫だと思うよ。なんでもかんでも決まった置き場所があるみたいでさ」
だから少し物を動かしただけでも怒るんだよなと、先輩が苦笑する。
「あのおっさん、マジで面倒臭いよな。神経質過ぎるんだよ」
それは間違いないと私は無言で頷く。また溜め息を残しながら先輩はソファに腰を下ろした。おもむろにタバコを取り出して、さっき自分が殴られた灰皿に燃殻を落としていく。考え事でもしているのか難しい顔をしていて、私も少し距離を置いてソファに腰掛けスマートフォンをいじることにした。
いくらなんでも吸いすぎじゃないかと思ったのはそれからたっぷり一時間後のことだった。その間に換気扇を回してみたり窓を開けてみたりしたのはもちろん私で、先輩はその形で固定されてしまったような渋い表情で眉間い皺を寄せたままだ。換気が追いつかなくなって思わずむせてしまった時になってようやくその火が消された。
「ああ、ごめんごめん」
「こんなに煙たくしていたらツカサさん怒りますよ」
「別にいいって」
八つ当たりの矛先は私に来るんですと、他人事のような顔で開き直る先輩に吹きかけた。謝ってるじゃんと屈託のない声で言われるとそのまま押し通されそうになる。
根拠は何となくとしか言えないけれど、確かに先輩は悪いことする人になど見えなかった。目つきに怪しさも感じなければ、ぶっきらぼうさはあれど口調だってごくごく普通のものだから。
でもこの人逮捕されてたんだよなあとか、しかも殺人容疑だしなあとか、ひとつ屋根の下に経歴の黒すぎる人間がふたりもいる異常な事態に身震いしてしまう。先輩の場合は謎が多すぎて、まるでツカサさんと初めて会った日のような緊張に襲われた。そんな私の警戒心は彼にも伝わってしまったようで、何を言われるものかと身構えた。
「あいつに連れ回されたって聞いたよ、ごめんね?」
他人を巻き込むなんてマジで有り得ねえよと先輩は奥の部屋を睨みつけた。その有り得ない事態を引き起こした張本人がのたまう台詞には思えない。しかしながら私の警戒は解けぬままだ。どこから探りを入れたものかと考えあぐね、まずはツカサさんとの関係性から崩してみることにした。
「ツカサさんとはどういうきっかけで知り合いに?」
「部長だよ部長。ある日急にここに行けって言われて来てみたらあんな頭のおかしいやつがいたわけ」
「最初からあんな感じで?」
「もっと酷かったよ。何言っても物別れにしかならないから、しばらくは口も利かなかったな。でも単細胞だし慣れれば大丈夫だったんだけど」
先輩の分析は遠からずといったところで納得してしまう自分がいた。白黒はっきりしていなければ気の済まない性格は単細胞という言葉がぴたりとはまる。口答えはしないけれど手が出てきたら言い返すんだと言った先輩は、いかにも世渡り上手そうな笑みを浮かべていた。マニュアル皆無なツカサさんを攻略できるなら仕事のことなんてわけもないのだろうと、色々な事柄が少しずつ結びついていく。
「先輩は、ツカサさんのことをどんな人間だと思っていますか?」
「控え目に言っても狂人だよな。でも、中身はまともだと思うぞ」
あれのどこにまともな要素があるのかと思わず聞き返してしまった。
「マジでおかしい奴って、自覚してないじゃん? ホンモノに限って外面は真人間だったりもするじゃん? 自分は変だって自覚しているだけ相当マシだぞ」
裏を返せばこの人が本物の狂人とも言える。もしそんなことにでもなったら何も信じられなくなってしまいそうだ。しかしどこまでも実態不明なのは『事件』のことである。私が山へ行ったことは知っているみたいだし、回りくどい聞き方など今更だろう。単刀直入に切り出してみた反応は、ある意味で予想を裏切るものであった。
「狂ってるかもしれないような人に、どうして死体隠しなんて頼んだんですか」
「そんなことを本気で引き受けるなんて、あいつ以外にいるわけないでしょ?」
「そもそもなんで死体なんかっ」
「理由はあんまり言いたくない」
「自分が殺したわけじゃないから?」
「……まあ、そんなところ」
あっさり認めたところに面を食らった。それはいくらなんでも無責任な頼み事じゃないのかと問えば、困ったように頭を掻くばかりだった。
「そこを突かれると反論の余地もないんだけどさ」
「でも良かったですね、一応疑いが晴れたから釈放されたんでしょう?」
「あんまり良くもないんだよなー」
そう言った先輩の顔は曇る。真犯人が解ってしまうからかと訊ねればこれ以上に下がらないほど眉を下げた。
「こんなことになってしまって今度はツカサさんが逮捕されるかもしれないんですよ!」
先輩の無実が晴れても死体の存在は揺るがない。これは立派な殺人事件なのだから。
「まさかあんな山の中にやられると思わなかったんだ。崖があるなんて知らなかった。それさえなければ全部俺がしたことになったのに」
「そういえば二メートルくらいの岩場ありましたね」
「俺が自力で登れないの分かってそうしたに決まってる。俺、足悪いんだよね」
右膝をさすりながら先輩はまた扉を睨みつけた。でもその目は先ほどのとは違う昏さを宿している。
「私には事情は分かりません。でも真犯人のフリなんかしたって苛まれるだけですよ。ちゃんと、本当のことを言わないと」
「……あいつと同じようなこと言うんだ?」
ツカサさんがそんなことを言ったのか。私も扉へ視線を向けたその時、蝶番が軋むほど乱暴に扉が開け放たれた。白けた顔をしたツカサさんが立っていて「小便だよ!」と吐き捨てながら真横を過ぎていく。
「今の話、聞かれていたでしょうか……」
「どうだろうね」
本当に興味がないのかはたまた、先輩は再びタバコに火を灯した。
「苛まれるってのは多分、本当だと思うよ。あの人ずっと見ていて分かるから」
ひと息分の煙をたっぷり吐き出しながら先輩は続ける。
「突っ張って開き直ってるくせに今でもずっとお金送ってるみたいだから」
「お金を? 誰にですか」
「被害者の家族とか、そういうんじゃないの」
「意外です。反省なんかしてないって言ってたのに」
「反省してねえってのも本当だと思うけど」
先輩は喉を鳴らして笑った。吐かれた煙が部屋に充満し始めるのとツカサさんが戻ってくるのはほぼ同時で、ツカサさんの怒りにも火がついた。
「ここで吸うなって言ってるだろ!」
「はいはい」
返事は口先だけ、火を消す素振りすら見せない先輩に対してツカサさんからブチッと血管の弾ける音がした気がした。危険を察知した私は、ほとんど反射的に先輩から火がついたままのタバコを奪い取る。目を丸くした先輩の視線が追いかけてくるけれど、灰皿に積まれた燃殻の中に押し付けて火も消してしまった。
「こればっかりはツカサさんに一理ありますよ?」
私の言葉に乗っかる形でツカサさんが先輩を煽る。口答えはしないと宣言していただけあって売り言葉を買いはしないけれど聞く耳を持ち合わせているわけでもないらしい。わざとらしく耳を塞いだ先輩に対しツカサさんは完全に爆発してしまった。吸殻が山盛りであることにも構わずにまたしても灰皿に手を伸ばそうとしたのだ。
「もう、依存症同士で喧嘩しないでくださいよ!」
「ニコチン野郎と一緒にするな!」
「俺だってアル中なんかと一緒にされたくない」
「なんだとテメー!」
もう嫌だ、帰りたい。宥めたい気持ちが一周回って空振っただけなのかもしれなかった。ぺち、ぺちと情けなく乾いた音が二発。ふたりの頬に平手打ちを食らわせていた。
「えっ、えー?」
このタイミングで叩くのかと呆気に取られた先輩の顔と、怒りで首まで赤く染めたツカサさんの顔が並んでいる。
「いい加減にしてください!」
きっと部長だったら一時間も前にこうしていたに違いないと思い込むしかない状況だ。ツカサさんから一発くらい反撃を食らう覚悟していたが、タバコ片手に先輩が退室したことでひとまずの怒りは収束したようだ。
ツカサさんは灰皿を引っ掴み、舌打ちをくれながらダストボックスに吸殻を放り込んだ。その不機嫌な表情は完全にお触り厳禁状態。この人が実はまともだなんてにわかにも信じ難い。
「あのクソガキが……」
「誕生日に会うくらい仲良しだって、言ってませんでしたっけ……」
「はぁ? そんなこと言った覚えない!」
いいや、絶対に言っていた。しかしそこは深追いせずに言葉を飲み込んだ。何を言っても物別れというのは私にも心当たりが大有りだから。
「そんなに仲悪いのに、どうして招き入れたんです」
「元々住んでた家、引き払ってんだと。行き場所ないなら仕方ないだろ」
先輩にとっても想定外の無罪放免だったのなら、予めもう帰らない家を処分していても不思議はない。スケープゴートを演じる本気度はかなりの高さであったようだ。
そして、パパの推測が事実であればこの人も。
「自分がやってもいない罪を被るって、どんな気持ちなんでしょう?」
「さあ、知らね」
私がその質問をぶつけた途端にツカサさんは空き瓶の片付けを始めた。時々見える横顔はいつもよりもだいぶ固い。
「ツカサさんは今でも苛まれているんですか? 今でもお金送ってるって、聞いたんで」
「別に。惰性だよ」
その話はお終いだと言わんばかりに威圧的な視線を向けられた。あの日見た裁判資料には賠償金の類にまつわる記述などなく、単なる惰性で自発的な送金を続けるなんて普通あることなのかと首を傾げた。
「誠意とか伝わってるといいですね」
「ふん、どうだろうな。どうでもいいんじゃないの、そういうのは」
「私が遺族だったら、ちゃんと反省してるのかなって思いそうですけど」
「俺は命に値段をつけるみたいな馬鹿にした真似、大嫌いだね」
空き瓶をゴミ袋に放り込むやり方がだんだんと粗暴になり、何本かは割れる音がした。先輩を見た印象は図太そうな男であったけれど、お酒に依存してみたりとツカサさんは存外なもろさがあるのかもしれない。ガラス瓶のように触ればカチコチだけれど弾みでパリンと砕けてしまうそんなもろさだ。
「ところで、しばらく先輩はここにいるんですか?」
何気なく質問を続けただけのつもりが、返ってきたのは鬼のような形相だけだった。




