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日常と非日常

 こんなドタバタ騒動の余波なのか、存在を忘れかけるくらいの期間お使いを命じられることはなかった。その間、己の身に起きたことの方が重要に感じられて気に留める暇がなかったからか、気付いた時には驚くほどの日にちが経っていた。

 ぼんやりしている内に石鍋さんとしてしまった約束のお出掛けで見たのは、筋金入りの腐女子な彼女の姿だったとか。メイドカフェなら聞いたことはあるけれど、そうじゃない種類のカフェもあるんだと思い知らされた強烈なサブカルチャーの数々だとか。そこに集まる趣味仲間に『大手』と崇めたてまつられた石鍋さんのお導きで出会ってしまった人とお付き合いすることになったとか。三年ぶりにできた彼氏の天沼(あまぬま)くんもまた超が付くほどのオタクで、いきなりの自宅デートでやったことは『積みゲー崩し』という行為のお手伝いだったとか。


 あまりにも健全すぎてかえってこちらの方が刺激的で穏やかな日々。会社の外での過ごし方は本来こうあるべきなのだ。私には穴掘りよりも断然ぷにぷにしたモンスターをちまちま倒しながらのレベル上げが向いていた。もし中学生に戻れたとしたら、フーちゃんと一番の親友になれる気がする。

「あ、思い出した。フウコちゃんだ」

 お持ち帰りでレベル上げに没頭していたそのゲームは、奇しくもフーちゃんが伝説の人となったファイナル・クエストの最新作だ。石鍋さんの趣味仲間を辿っていけばその内に出会えるかも、なんて思っている間に本日のノルマ達成。これを一日でクリアするとは確かに鉄人の所業かも。本当に出会えたらフーちゃんに攻略法を伝授してもらわねばなるまい。


 そして今週末には初めてのお泊まりデート。明るい引きこもりだと言って笑う天沼くんと徹夜でノノ鉄をする予定なのだ。その話を石鍋さんにしたら「百年プレイなんてずるい!」と目を輝かせていた。ノノ鉄は大学の頃にサークル仲間と少しだけやったことがある。「ゲーム作者が実際に赴いて気に入った街はお金が貰える駅、嫌いな街はお金が取られる駅、アイテムが貰える駅はどうでもよかった街なんだ」というプチネタを教わったから、自分の住んでいる街がどの駅になっているかとても気になるところ。

 こんなにも充実しているはずなのに、心のどこかでモヤモヤが引っかかっているのはどうしてなのだろうか。ゲームにのめり込んでいるのも、無理やりに気分を盛り立てようと焦っているからではないのか。そんなわだかまりを覚えた頃、平穏が引っくり返る出来事が起きた。



 詳しいことは分からないけれど制御盤だか着床装置だかの不具合で、三台あるエレベーターが全滅してしまったのはまだ朝の十時だった。ここは二十四階、もろとも暗い顔がズラリと並んでいる。

「そろそろ郵便来るー!」

 あと三十分もしない内に一階の受付センターにどさりと郵便物が到着するはずだ。石鍋さんは早くエレベーター動けと祈りを捧げているけれど、三十分どころか今日中の復旧すら怪しい。諦めた私は足首のストレッチを始めていた。

 ひとりで持ち運べる量かもしれないから私が行こうと提案すると、石鍋さんは心なしか嬉しそうな顔をした。単なる親切からの申し出というよりも昨晩ゲームに熱中し過ぎたせいで、身体を動かしていないと眠ってしまいそうなのが一番の理由だけれど。

 受付センターに辿り着くころにはすっかり息が上がってしまっていた。ほぼ同じタイミングで仕分けられた郵便物を係員から受け取った。コンテナボックスいっぱいになる日もあるというのに、今日は封筒が五通ばかり来ているだけで実に幸運だった。


 もしかしてエレベーターが復旧していないかなと、叶うべくもない願望からエレベーターホールを覗いてみることにした。案の定『点検中』の張り紙がすべてのドアに掲げられている。まあ仕方がないと階段へ向かおうとした時、ひとりの男性の姿が目にはいった。片手には小さなボストンバッグを携えており、大きい荷物ではないのに少しだけすり足気味な歩き方だった。その表情は夜勤明けのように濁っている。

 そしてエレベーターが停止中であることに気づいた彼はひどく狼狽えた。その顔に見覚えがないから少なくともうちの社員ではなさそうだ。そして彼もまた私に気が付いたようで、お互いに無言のまま会釈だけを交わした。

「このエレベーター、いつ頃動きます?」

「残念ですが復旧の目処立っていないみたいなんです」

「マジかあ」

 少々猫背気味の背中をますます丸くさせて彼はうなだれている。どこに用事があるのか尋ねたところ、なんと二十四階に行きたいのだそうだ。そこまでは登れないと半ば諦めで表情が曇っている。

「担当を呼んできましょうか。私、これから二十四階まで戻りますので」

「いや、いいんです。ちょっと挨拶だけのつもりで……」

「ではご用件だけでもお預かりできますよ」

「それじゃあ佐渡部長まで、先に行ってますってお伝えください」


 告げられた行き先はツカサさんの住まうマンションの名前だった。返事も忘れて思わず彼を凝視してしまう。どちらともなく「なんでそこを知ってるんですか?」の言葉が重なった。

 そうしてまた暫しの沈黙。彼の正体が例の先輩だと気がつき血の気が引いたが、先輩もまた卒倒しそうなほど青ざめていた。

「もしかして君っ!」

「私は何も知らないです!」

 逮捕されていたんじゃないのとか、なんでここにいるのとか、そんなことはもうどうでもいい。くるり踵を返して二十四階までノンストップで駆け上った。私はもう、その件については何も関係ないんだから。



「ええっ、走ってきたの?」

 前髪に滴るほど大汗をかいている私を見て石鍋さんは目を丸くした。返事もできないほど呼吸は乱れてしまっている。大丈夫なんですと手をパタパタさせるので精一杯だった。

 そして今度は部長と目が合った。郵便物の中には丁度部長宛ての物も含まれている。それを手渡しながら、先輩からの預かりを伝言した。

 思いがけず部長の反応はドライ。私にしか聞こえないくらいの唸り声が返ってきただけで、慌てて追いかけてみせようとする素振りもない。これ幸いとばかりにさっさと自席へ戻ることにした。


 部長が席を外しどこかに行った隙に、石鍋さんに先輩の話を振ってみた。

「最近、先輩から連絡とかありましたか」

「全くだよ。携帯も解約しちゃったのかな、いつの間にかメールすら送れなくなったし」

 返ってきたのは意外な答えだった。ついさっきまですぐ下まで来ていたのだから、石鍋さんくらいには連絡のひとつでもしていたと思っていたのに。そんな違和感から思わず石鍋さんをあのマンションに連れていったらどうなるだろうなんて想像をしてしまう。気が強い彼女のことだから相手がツカサさんであってもいくらでも言い募ることができそうだ。そうなったらいよいよ私などでは対応不可能な激しい応酬が繰り広げられることだろう。

 他にも色々と探りを入れてみようとしたが、どこかから内線が入ってきたために石鍋さんはどこかに席を立ってしまった。ここ最近は本当に忙しく、彼女が自席に留まる時間はとんと減ってしまった。何かあれば「石鍋さん、石鍋さん」と彼女を求める声がする。


 仕事もできて、プライベートも好きにしていて、自由を体現しているような石鍋さんに妬ましさすら覚えたのはごく最近のことだった。私だってもうちょっとなのだなんて思ってしまうのがおこがましいことも分かっている。けれども私だってその辺まで来ている、そのはずだから。

 出来たばかりの彼と反りが合う気がしているのだって、彼もまた私と同じくどこかしら劣等感に苛まれているような雰囲気を纏っているからだった。なんだか満たされない感じがしている原因に気が付くまで、それほど時間はかからなかった。

「辰巳」

 ちょっと来なさいと部長が手招きをしている。もしかして久々に。その予感はピタリと的中した。

 そのピタリが心に張り付いて、言い表し難い満足のようなものを感じてしまった。それは絶対不可侵の仕事があることに対する安心感だったのかもしれない。



 行き方を忘れるといえば大袈裟だけれども、季節は晩秋に差し掛かろうとするくらい久方ぶりのお使いだった。様子を見てきてくれとのことで運ぶ荷物は何もない。先輩は「先に行っている」とか言っていたから、もう既にいるはずだ。その状況を鑑みるだけで過去最高のややこしい事態が想定されるけれど、いつも通りオートロックで呼び出すとツカサさんの声がして解錠された。スピーカーからの音声だけでは中の様子は伺えなかった。

 エレベーターで上昇しながら色々なことをシミュレートしてみる。

『部長は来ることができなくなってしまったから代わりに来たのです。今朝はどうもすみませんでした。』

 自分でもガッカリするほど当たり障りない口上しか思い浮かばなかったけれど、こんな時は余計なことを言わないに限るのかもしれない。



 玄関は施錠されていなかった。前回はこれで扉を開けたらツカサさんが昏倒していたのだ。流石にそれを上回る惨状はなかろうと何の気構えもなしに室内へ入って愕然とした。灰皿を握りしめたツカサさんが振りかぶって先輩を殴りつけていた。部長、この有様を私にどうしろと言いたいのか。

「痛っ!」

「お前、ふざけんなっ」

「灰皿は反則でしょ!」

 大の男が喧嘩中かと思いきや、見る限りツカサさんが一方的にキレているようにしか見えず入りかけた足が後退りしてしまった。二発目をお見舞いしようとまたしても灰皿を振り上げるものだから、戻りかけた身体で無理やり割って入った。

「何してるんですかっ!」

「この野郎イライラすんだよっ」

 灰皿を取り上げたら暴れなくなったけれど、先輩に対する不平不満を喚き散らす姿は駄々っ子のそれで、その内容もあってないような「呼吸をするな」レベルの理不尽極まるものだった。一体何があったのかと先輩に視線を向けると「いつもこうだから」と肩をすくめるばかりだ。

 今度はツカサさんに向き直ってみる。がなり立てる「邪魔すんじゃねえ」の言葉から推測するに、とにかく先輩の妨害行為が気に食わないと言ったところだ。私が格闘している背後でシンクからジャバジャバと流れる音して振り向くと、先輩の手には逆さまに捨て流される酒瓶がある。状況が少しだけ飲み込めてきた。

「酒捨てろって部長に言われた感じですか?」

「そんな感じ」

 ああ、やはりそういうことか。それならばひとまず、どちらに加勢するかは考えるまでもなかった。

「ツカサさん、とりあえずお酒は諦めましょう!」

「何だよお前ら、ふたりして俺に説教しに来たわけか?」

「そういうわけじゃないんですけどっ」

 部屋はいつでも片付いているから分からなかったけれど、次から次にと酒瓶が出てくる。先輩の慣れた手つきから隠し場所はおよそ把握しているようで、なんでそんなところにといったところでもあっという間に探し出してみせていた。

「あー、めんど……」

 思わず零れた先輩の本音。勝手にしやがれと拗ねたツカサさんはとうとう奥の部屋に引きこもった。

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