walpurgis
文化祭の時期が近づいてきた。クラスでの出し物についてホームルームで話し合う機会がもたれ、とりわけて声の大きいことが取り柄である女子が、この一大イベントをかならず有意義なものにしようと言ってクラスメイトを煽り立てる、あの眩暈のような文化祭の時期が。
こうした実行委員からの呼びかけも形式的なものとはいえ、いまいましい教師の口から語りきかされる教説にくらべればよほど共鳴できるところがあるのだろう、そうだそうだ、と賛同の声が次々と上がり、やがてこの鶏鳴にも似た黄色い声に教室全体がみたされてゆくころ、ひとりの、これがたんなる付和雷同や惻隠の情によるものではないとみずからに証明する意志からか、座席から勢いざまに立ち上がり、みなにむけて発言をかまえる女子の姿があった。
「これが高校最後の文化祭なんだし、サイコーの思い出、つくるっきゃないよね!」
この痩せて小柄な、眼のおおきい生徒の名を観崎映子という。派手好きで通っている演劇部の元カリスマ的存在なのだけれど、おなじみの媚びるような声色を使い、最後、という部分に過剰なアクセントをのせてうたうように話すものだから、男どものなかには容易に感化される者もいれば、これを疎んじて鼻をつまみたくなる者もいるようだった。けれどもだいたいは旗色をうかがうことに優れた生徒たちであり、かれらはまずおのれのうちに惰弱な自我を見出してから、これを打ち消さんとする後出しの良識によりかえって主体的に行動しようとしはじめる。結果的には話は早く、演劇をやる、ということに関して異議を唱える者はだれひとりいなかった。過去の上級生たちの「充実」をその目で見てきたかれらとしても、やはりこうした慣例にあやかることはやぶさかでなかったのである。
準備自体はさほど大きな問題もなく進められており、廊下、それに階段の踊り場といった地帯には(およそそれを見て夢のふくらまない者はいないような)作りかけの書き割りやら大道具やらが無造作に並べられ、連日放課後になると金槌をたたく音が校舎に響き渡るようになった。演劇の要といえる脚本も(およそ二十パーセントほどの満足度で)なんとか初稿が上がり、役者たちはそれをもとに稽古に入っている。秋風が暦をめくり、徐々に日脚が短くなって、チョークで黒板に書きつけられた残り日数も朝登校するとかならずひとつ減っている、そんな風景をたどりつつ、いま目の前で新聞紙上のベニヤ板に色が塗られてゆくさまを眺めることは、総監督を自任する映子にとって、まさに大きな灌漑事業を指揮するのにも劣らないよろこびだ。弱められた日が西から校舎に射しこんで、人工石の廊下を黒光りさせている、特別な感覚。汗をさらっていく乾いた風。彼女はそれらをいとおしく思う。
横からふと声がかかり、ふりむけば、ホームセンターのビニール袋を両脇に提げて例の混野が立っている。彼は袋を踊り場の隅に置き、その中から無造作に缶のコカコーラを取り出すや、まるで嫌がらせのように映子に投げてよこしてくる。それを片手でキャッチして慎重に栓をあけ、噴き出す泡をこぼさぬようまずは一口。それから爽快な息を吐き、ついでに、買い出しごくろうと言った。混野は肩を落とし、脚本係の次は雑用係だよと愚痴をこぼしている。いい気味だと映子としては言いたい。こうして親しく話しながらも、かれらは特別仲が悪かった。そして愚痴には愚痴で返すのが映子である。彼女の不満は、役者たちの練度がなお充分な水準に達していないということだ。それは肉体よりもっと内的な問題であるかもしれなかった。役者たちの動きがかたいのは、かれらが役にたいして無自覚に抵抗しているからではないか。だから役のほうもかれらに反発するのだ。……仕方ないよ、と混野が顔をくもらせて言う。みんなが同じ心を持ってるわけじゃないんだから、と。だがそんなことはもうわかってはいたし、じっさい、今日の稽古にも参加していない生徒はいる。おおかた塾などの用事でいそがしいのだろうが、それならそうと連絡を入れればいいものを、それさえしない。来たら来たでなあなあで演ろうとする。本気を出さない。とくに男子。ほとんどがつまらなそうな、しかも感謝をもとめるような顔をするのである。じぶんの本来の居場所はここではないとでも言いたげに。あたかも立派な自我でも持っているかのように。……映子がここまで苛々しているのにも理由がある。ほんとうは、彼女がいちばんやりたかったのは主役だったのだ、またあの日のように舞台に立ち、脚光を浴びて拍手に包まれたかったのだ。けれども皮肉なことに、相応の能力と気概とを要する監督という役目に彼女ほどふさわしい人物もいなかった。だから意地になってやることにした。だから文句も言わないできた、のに。
「まあようするにさ、リリース・マイセルフができてないってことなんだ、あたしが言いたいのは。みんな自分がかわいくて、そのくせ自分のことをなにもわかっちゃいない。変えることも隠すこともだから無理なんだよ。変わることが、隠すことが芝居なのに……」
「妥協も必要だよ。みんな素人なんだ」
「いや、あたしがやるからには完璧な瞬間つくるよ。で、最優秀賞取るの」
舞台は映子にとって、この世で唯一神聖な場所だ。だからそこに立つ役者はその使命を、生を全的に引き受けるべきであり、軽い気持ちで演ろうなどという甘い考えは断じて許されるものではない。混野の意見では「自由にさせたほうがいい」とのことだが、それさえ彼女には疑問だ。自由を与えれば与えるほど、かれらはそれを持ち腐れさせる。教科書のように台本を読む。そこに魂はない。だから真の自由を発現させるためには、むしろその反対のことをさせねばならないのだと、彼女はそう考えている。これが最後なんだ――映子はじぶんに言い聞かせるようにそう繰り返し、そして、おのれの野心がそこに立つ腐れ縁の男にも共有されたことをひそかに期待して、その眼のうちに同じ思想を読み取ろうとした。……が、当の男はただ抜け殻のような微笑みをうかべているだけであった。
混野の書いた一幕ものの芝居は、文化祭当日のとある高校を舞台にしたもので、生物研究会の展示室から脱走した一匹の〈カメレオン〉が、人の姿に次々と化けていくというあらすじだ。描かれるのは部員たちがだんだん疑心暗鬼になって相互不信に陥ったり、逆に〈ほんもの〉が〈カメレオン〉のふりをした上でじぶんの本心を吐露したりするという滑稽な様子。色恋沙汰があらねば芝居にあらず、というかの劇作家の言葉を額縁どおり受け取って、混野は台本をどろどろの人間模様に仕立て上げたのだった。中にこんな科白がある。
「知らないでしょう、あなたは、わたしが何度あなたを想って泣いたことか、わたしがどれだけこの恋を凍りつかせようとしたことか、わたしがどんな気持ちであなたに気のないそぶりを見せつづけていたことか――」
これがどうしてもうまく言えないのだ、と森本樹里亜は悲嘆に暮れた表情で映子にうちあけていた。彼女はこの言葉で想い人役を演ずる佐藤に愛を告白する手筈なのだ。しかし本人が言うには、たとえ劇中であっても、このような恥ずべき科白を口に出すことには抵抗があるというのだった、しかもそれがあの佐藤相手だからなおさらであると。佐藤は樹里亜がまだ混野とつきあっていたころから横恋慕をいだきつづけてきた男で、これまで幾度となく無謀な求愛を試みては断られるというかなしい運命にあった。決定的だったのは今年の夏休み前、美術部の才を活かしてノートに描きためてきた樹里亜の絵を焼却炉の前でひろげて見せ、だめだというなら燃やして捨てると言い放ったことである。ちょうどそれは蝉たちの相聞歌が響きわたる大掃除の時間だった。けっきょく彼は入魂の絵を焼却炉に捨てざるを得なくなるのだが、それでもまだ諦めていないということは、今回の演劇において分不相応でさえある立役者にみずから名乗り出たことからも明らかであった。そんな次第だったから、樹里亜はますます顔色を変え、挙句の果てにはヒロイン役を降りたいとまで言い出した。そもそも自分は目立つのがきらいなのだと。映子がどんな心境であったか言うまでもあるまい。しかし監督者であるてまえ、そこはぐっとこらえ、樹里亜を元気づけることに精神を費やさねばならなかった。にんげん生きている以上、期待されることは仕方ないけれど、それは考え方しだいで不幸にも幸福にもなるんだよ、すべてを背負い込むことはないけれど……。彼女はそう話した。――あいにくにんげんの評価はなにを背負い込んでいるかでしかきまらない、そしてそれが信用とかいうやつだ――もちろんそこまで言ってはいないが、映子だってよくよく理解はしていた、ヒロインとして求められているのは自分ではなく、あくまで樹里亜だということは。それが器量の差であった。
あとから樹里亜がこう言っていたと混野にもいちおう伝えに行くと、そこは重要なくだりだから変更はできない、と彼は言ってはばからなかった。それは冷淡な態度ではあったけれど、その姿勢に映子はどこか安堵をおぼえたものだ。それに、彼はこうも言っていた。
「そもそもその科白は〈カメレオン〉のときの言葉じゃないか。直後にほんものとまた入れ違いになってごまかされるだろう。だからこそ大仰にやる意味があるんだよ」
それは実際そのとおりなのだった。
稽古が大詰めを迎え、本番同様の舞台装置と衣裳とに包まれて練習できるようになってくると、ようやく役者たちの士気も上がってきて、静寂のつかの間にすべての効果が集中するような、全身に染みわたる心地よい緊張がまれながらにも生まれるようになり、そういうときには、芝居が一匹の蜥蜴になっておのずからおどりだし、かならず高い完成度を見せた。それは映子のストイックな演出指導の賜物でもあっただろう。彼女は紛うことなき劇場の支配者だったから、自分の思い描く絵画的な瞬間が表現されるとすっかり気をよくして、ぬるくなったコーラを豪快に飲み干した。もっとも何かが欠けていたり余分であったりして、全員の息がそろわず、どうにも不格好な蛙になってしまうこともままあるし、そうなるとかならずメガホンを持ってストップウォッチを止め、生きてることを自覚しろだの、腐った己を叩き出せだのと、妙に遠大な言い回しで喝を入れながら何度でもやり直しをさせるので、そんな日の稽古は尾を引いて長くなるばかりであったが。むろんそれで反発がないわけもなく、このいわば潔癖症的な映子の理想は、誰もがすべからく持ちあわせている人間臭さの利害と必然的に対立するものであり、ほとんど生理的とも言うべき嫌悪感を示す生徒の数も少なくなかった。ある男子などは演技中の身体のゆれを何度も注意され、それでも直らないので、すっかり自信をなくしてしまっている様子だ。というよりは、そのあわれな多動症こそ彼の自信のないことの表れだったのだが、歯に衣着せぬ映子にとってこれを切って捨てるのはあまりにもたやすかった。あんた自分に自信ないのか――そんな声が体育館には響きわたっている。
それはもちろん必要上の注意を言ったまでのことではあったが、しかしある種の嗜虐癖がなかったわけでもあるまい。なにせ明確な効果を狙って、他の生徒の目の前で批判されたものだから、このありふれた、クラスの基層をなす繊細な一生徒は、彼が最も回避したかったところの事態に陥る羽目になったのである。よほどの恥辱であったことは、彼が唇を震わせている様子から見ても明らかであった。自尊心をひどく傷つけられたと感じたためであろうか、彼はこう言い返している。
「な、なんだよその言い方。こ、こっちだってこんな役とか、好きでやってるわけじゃあないんだよ!」
この男の発言は明らかに場の空気を無視したものであったし、またそれを意図してもいた点で、彼は間違いなく異分子となっていただろう。だがこの男の考えとは裏腹に、このときそうするほかに残されていなかったという点で、じつのところそれは彼自身の意志ですらなかった、この種の反応は筋肉に刺戟を与えれば痙攣が起こるのとほぼ同じ理屈で、ほとんど自動的に発動される類のものなのだ。しかもそれでいて当の本人を助けるわけでもなく、かえって彼の立場をますます苦しめるよう作用する。映子をはじめ、だれもが口をぽかんと開けて眉をひそめるのを見て、彼は先の失言を取り消したいとさえ願ったかもしれない。しかしこういうとき、肉体はなにより素直である。肉体が彼をして、映子のことを「スターリン」と呼んで非難せしめた。自信がないとまで言われ、彼はおのれの限界におそらく立ち会い、そこでもがいていた。
「……だいいち、やり方が気にくわないね。そう、……なんでもかんでも自分の思い通りにさせようとしてさ。ただの傲慢だろ、それは。……人を、人をなんだと思ってるんだ!」
必死の形相でそう主張してしまうと、彼はどこか勝ち誇ったような、言ってやったぞという顔になった。ただその矛先を向けられた映子について言えば、彼女はすこしも動じてなどいなかった、それというのも、この男が水際で防衛しようとしているものこそ、彼女にとってまさしく唾棄すべきものにちがいなかったからである。彼女は短く訊ねた、じゃああんたは役を降りるのかと。それでもう何者でもなくなるけどいいのかと。彼はなにも答えなかった。だまって背を向け、舞台装置から降りている。感情が昂ぶってしまい、映子は声を張り上げていた、逃げんのか――と。
「そうやって一生逃げてろよ、芝居からも、人生からも!」
またそのとき、ずっと様子を見守っていた樹里亜がにわかに口を開き、去っていく背中に向かって、佐藤くん、と呼びかけた――彼は土壇場で一度だけ振り返った、すぐさまそれを恥じるように早足で出て行ってしまったが、その憎悪に歪められた顔は、だれもが認めるところであった。
後に公開処刑と呼ばれることにもなる佐藤のこの退場事件について、運が悪かったんだ、とつぶやくのは混野である。佐藤なきあと、彼の重要な役柄を新たに演ずる人物をただちに決めなおす必要があった。これまで役者のうち誰かが不在だったとき、主にその代役を務めてきたのは映子であるが、いくらその天稟によって誰よりもうまくその役になりきり、劇の進行をなんら損なうことなく機能させてきた彼女といえども、性差まで偽装することは困難なのであり、また稽古の残り時間が少ないことからも勘案するに、その人物はあらかじめ劇の全体を把握している男でなければならなかった、すなわち必然的に、脚本家みずから代役を務めねばならないということが発見されるのである。これを聞かされたとき、樹里亜はほとんど失神寸前になり、体調を崩してしばらく寝込んでしまった。かれらにはどうしようもない過去があったのである。だが復帰してきたときには、もう覚悟をきめた女の顔になっていた。混野は樹里亜との間に無駄な会話を一言も挟まない。ただ義務的に腕を振り、口を動かすのみである。にもかかわらず、それが舞台の上にのせられると、ふしぎなことに、かれらの間には真のパートナー同士のなかにしかあらわれないような、濃密であり、人を圧倒する、一種媚薬的ななにものかがしばしば見出されるのであった。そして演技がおわると、またいつもどおり他人同士にもどるのだ。そこに映子が介入しうる余地はほとんどといっていいほどない。彼女はただふたりの悪趣味な芝居を母親のように眺め、炭酸を飲み、甘い息を吐き出して、そうだよ、とひとりつぶやくだけである。樹里亜は舞台の上で日に日に美しくなっていった。その様子を見てほかの役者たちの意気も上がる。こうして、芝居はいまや脱皮を重ね、みずからの尾を噛み、その反復強化の毒を全身に巡らせるところの、一匹の蛇だ。ここでついに理想の楽園はひとつの完成を見る。つまりそれ以上先へ進むことはもうなくなった。
ちょうどそのころ、学校では化学薬品の盗難事件が起こっていたらしい。配布されたプリントによると、何者かが理科準備室に不正侵入し、強塩酸入りの壜を一本持ち去っていったということだった。ただ生徒たちの関心はもっぱら文化祭のほうに向けられていたから、次の日にはもう誰も覚えていなかったが。
本番はきっかり三十分、一度きりだ。この日集まったクラスの一同はすでになんらかの欲動にとりつかれており、緊張とさみしさのためか、くだらない冗談を言ったり、異常に友好的な態度を見せたりする者が増えていた。ここまで来ればいかに感受性に乏しい人間といえども、高まってくる潮のような予感がわかるようになるのだろう、かれらはみな、近く確実に訪れる未来において、自分たちの仕事がすっかり完了されていることへの奇妙な驚きにめざめていた。それはあらかじめ乗り越えられることがきまっている儀式であり、かりに自分たちがこのまま停止していたとしても、達成のほうがあちらから舞い込んでくるにちがいなかった。なかには早くも打ち上げの話をはじめている者もいる。そうして、暗幕の裏で円陣を組んでいるさなかであった、そう、役者たちはそれぞれ持ち前の衣裳を着て、それ以外の者は一体感をより高めるために作製されたオーダーメイドTシャツの緑に包まれて、両隣と肩を組み合い、ひとりをのぞいた全員で、巨大なOの字をつくっていたのだが、あふれんばかりの、おさえがたい感慨が胸奥より湧き出してきて、そのとき映子は、思わずこう口にしていたのだった。
ああ、文化祭が終らなければいいのにと。
いったん幕のあいた演劇。それはもはや何の力にもよらず、ただみずからの秩序にしたがってのみ回る独楽だ。パイプ椅子が敷き詰められた体育館は人でみたされ、両端からの照明があたると、ステージは神秘的な磁場をつくりだし、現実からぽっかり浮かびあがって、孤独な燃焼をはじめる。最後の文化祭、最後のステージ。映子は舞台の袖から、祈るような気持ちで劇の様子を見守っている。
はたして、滑り出しはこの上もなく好調であった。よく訓練された役者たちはすでに自分自身であることからの責任から全面的に免れていたおかげで、実にかろやかな身のこなし、実にのびやかな声、そして実に自信にあふれた表情で、かりものの性格、かりものの人生を、それぞれ自分自身になりきるよりずっとうまく演じることができたと言うに難くない。わけても樹里亜の熱演はおよそ他では及びもつかぬ域にも達していた。生まれもっての麗人の血と、その内なる動力とが、彼女をして一柱の美神にあらしめ、多く人々の心を魅了した。ほかにも過去に例を見ない洗練されつくした演出で、芝居は大成功をおさめるかと思われた。ところが、「あなたは知らないでしょう――」と樹里亜が語りはじめた、まさにそのときであった、あの忘れられた男がなんの前触れもなく、ゆらりと舞台に降り立ったのは。役者から脱落し、円陣を組んだときにもいなかったあの佐藤が、手榴弾さながらにこの演劇へと投げ込まれてきたのは。
ほとんどの生徒はみずからに振り分けられた配置に忙しく、その闖入を止める者は運悪くだれもいなかった、樹里亜と混野が会話を交わす短い場面。ステージ衣裳を身にまとい、中央でスポットライトを浴びる二人とは対照的に、紺の学生服をひとりだけ身につけた佐藤は、まるで一箇の染みか、さもなくば影そのものであるかのように、最初しばらくは舞台の端に陣取ったまま、何をするでもなくただ立っていた。たったそれだけのことで、この管理された演劇が深刻な被害を免れなかったことは疑い得ない。いちはやくそれに気づいたのは樹里亜だ。そして彼女からそれとなく指し示されることによって、このあってはならない癌細胞の存在に混野も気がついた。ところで、かれら純正なる舞台の役人たちは、まさに役人であるがゆえに、この異常事態に対処するすべを持ち合わせてはいなかった。かれらは第一に台本を守らねばならなかった、体裁を守らねばならなかった。したがってここでは最善の選択として、見て見ぬふりをきめこみ、かれらはかれらの義務つまり演技を粛々と続けながら、だれかが代わりに手を打ってくれるのをただ待つことになる。
一方、いまだその場にこびりついている佐藤は、感情のない、動物的とも言えそうな眼光をもって、観客席を隅から隅まで睥睨している様子だ。すると観客の側でも、この新たな登場人物の存在に気づく者がちらほら現れてくる。とはいえこれらの人々のなかに劇の筋書きを知る者はいないのだから、この亡霊のような立ち姿に向けられるのも、もっぱら好奇のまなざし以外にはありえない。つまりいま、佐藤には純粋に期待が寄せられているのであり、観客の目は、彼がこれから芝居のなかでいかなる役割を演ずることになるのか、という関心のみに満ちている。
やがて映子を含め他の構成員たちも異変に気づく。まさに冒涜されかかっている舞台を目の当たりにして怒り心頭に発した映子は、しかしなお迷いがあったか、幕の左端から首を突き出して、「佐藤! 佐藤!」と掠れ声で呼びかけるのが精いっぱいだ。佐藤はそれに果実が潰れたような笑みをもって応えると、突然身をひるがえし、ステージの中央に向かって信じられない声量で、ジュリア! と呼びかけている――走る動揺と緊張。さすがに舞台上のふたりもこれに反応しないわけにはいかなかった、無視を試みたところで、すべてが過剰な意味を帯びてしまうこの空間では、無視するということがすでにひとつの反応だったのである。映子はどのようにして秩序の損傷を最低限にとどめつつ佐藤を退場させるかについて必死で思案していた。無理に取り押さえるなどすれば夢が台無しになってしまうからだ。樹里亜は気を取り直し、「あなたは知らないでしょう――」と、混野に向かってまた台本通りに語りかけている。はたして混野がそれに応えるべく口を開こうとしたそのとき、ジュリア! という叫びが再度こだまして、場の空気を無残にも引き裂いてしまうのであるが。佐藤は左手に提げた白い紙袋を怪しく振りながら夢遊病者のような足取りで二人のもとへ歩み寄っていき、困惑している樹里亜の手を右手でとる。そこでふたりは、ついに台本にない科白を言ってしまう。
「ええと……あなたは? ジュリア……なんて人、私、知らないけれど。人違いでは?」
「ああ……そういえばあちらのほうで、誰かを捜している人がおりましたよ」
ここで映子はかれらの連携の意図をすぐさま見て取り、すばやい機転を利かせて、あたかも佐藤と待ち合わせしていたかのような素振りで舞台袖から登場し、適当に場を賑わせながら、彼の腕を引いていこうと考えた。もともと混野の書いた芝居はさまざまな人物が錯綜する群像劇と捉えられていたから、それは可能であった。こうして佐藤は一度、芝居の世界に入り込む。ところがかれらの期待に反し、佐藤は「通行人」という、おのれに付された役割に回収されようとはしなかった……彼は映子を振り払い、一方的に、自分の世界において話し続けるのである。まるでもうひとつの台本でもそこに存在するかのように。
「なにを言う。ぼくのジュリア、ぼくのマルガレーテ、ぼくのルル……なんだっていい。ぼくと付き合え、いや、結婚しろ。結婚すると言え。いま。この場で。それしかない」
三名はそれぞれの目を、耳を疑った。そして樹里亜の足元にうやうやしく跪いた佐藤がその手の甲に口づけをしようとして、「やめてください、人を呼びますよ」と手を振り払われたところで、場内にはどっと笑いが起こった。まだ多くの観客の目には、いま起きていることもたんなる演出の一環であると信じられているのだ。じっさいそれが予定調和のアクシデントならどんなによかったことだろう。だが冗談のようで、これは冗談ではないのだ。佐藤の顔に一瞬、失望のような表情が浮かぶ。それからすぐに立ち上がると、彼は手に提げていた謎の紙袋の中身を明らかにする。おもむろに取り出され、見せつけるように高く掲げられたもの、それは甲虫のように鈍い光を放つ、強塩酸のラベルの貼られた壜だ。思わず半歩あとずさる三人。ほとんど忘れ去られていた例の盗難事件のことと、目の前にあるそれとが、重なり合って像を結ぶ。
「もう一度言う。ジュリア、ぼくと結婚すると言え。さもなくば……」
全員が息を呑んだような一瞬の静寂があったあと、どよめきが沸き立つ観客席。口をぽかんとさせて佐藤に視線を注ぐ者もいれば、思わず隣の顔をぬすみ見てその反応をまねぼうとする者もいる。現実なのか虚構なのかわからない、そんな混乱を視野に入れながら、佐藤は壜の蓋をゆっくりと回していく。極度の精神状態のためか、額には玉のような汗が浮かび、さらに股間のあたりは醜く怒張して、ズボンの下で大きくなっているのがわかる。
「いい加減にしろ」堪えきれず映子が口を挟む。「なんなんだ、なんなんだよ、おまえは」
「なんなんだ、とな? いやいや、それを訊くべきなのはぼくだから。なんなんだ、おまえたちは?」
だれに向けて言ったのかわからなかった。だれもがおのれの身を案じ、この佐藤という男を追い出すことも、歩み寄ることもまたかなわなかった。……やがて、長い沈黙のあと、あきらめたと言わんばかりに、樹里亜は悄然とうなだれて、わかったわ、と口にした。
「とにかく結婚すると言えばいいんでしょう。ええ、しますとも、結婚でも、なんでもね」
投げやりな言葉。だが佐藤はそれでも興奮と愉悦が絶頂に達したときの奇声を上げて、その狂奔する血の勢いを隠そうともしない様子だった、すでに破滅に身をおいているからだろう、彼はその瞬間においてみずからと全的に一致し、すなわち狂気にとりつかれたように変わって、けたけたと笑った。しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間にはあらゆる表情が消え、まるで千の季節が一度に過ぎ去ったかのように、老け込んだ顔になっている。そうして、佐藤は壜の蓋を観客席めがけて投げ込むとすぐ、それを実行した――稲妻のひらめきかと思われるほどの衝撃。それがいつ始まり、いつ終わったのか、観測できた者はひとりもいない、気づいたころには結果だけがそこにあり、みながあっと上げる声も、その効果をより高める演出にしかならなかった、壜の注ぎ口から命あるように迸った液体が、宙で光の幻をみせたあと、嘘のように、瞬く間に樹里亜の美貌をぬらしてしまうとは――目に見えぬ火に皮膚を焼かれる恐怖というのは、人をして苦悶の叫びを上げしむるのではなく、むしろその声を奪ってしまうようだった。樹里亜は両手で顔を覆い、数歩よろめき、しおしおとその場にくずおれている。だがその指の間からのぞき見られる、何が起こっているのかわからない、信じられないといった表情は、およそ語られうる言説を凌駕していた。絶叫したのは観客だ。今こそ虚構はヴェールを脱ぎ捨てる。混沌と化す体育館劇場のなかで、スポットライトを浴びて立つのはまさに佐藤だ。観客席をぐるりと一望し、両手をひろげ、声を大にして彼は告げる。
「見るがいい、これがほんものの絆だ、これがほんものの愛だ、真実だ、理智だ、永遠だ」
だが想像を絶する喧噪のなかで、半分喚き散らすような彼の声をききとれる者はほとんど誰もいなかった。佐藤の身がややふらつく。それは酩酊のおわりの頭痛のようなものである。なしとげた行為の大きさに、彼自身すらも驚いているふうだった。その顔は凄惨に引き攣り、足はなんらかの本能でふるえている。
茫然と立ちつくす映子の横を、ひとつの影が過ぎ去っていく。……混野が拳を振り上げ、佐藤に躍りかかっている。もはや威嚇をものともせず、彼は正面から佐藤の鼻を折った。壜が手許から離れ、床に落ちて砕けるが、それにもかまわず、混野は仰向けに転がった佐藤の腰の上にまたがり、血まみれになるほどその顔面を殴った。報復や制裁の域ではない。彼の表情は不明である。ただはっきりとわかるのは、彼が黙々と、冷静に佐藤を嬲っているということだ。やがてそれに影響されたか、ようやく我に返った一部の生徒たちのほか、教員たちもみな怒りと使命感とをあらわにして、彼を取り押さえるために、また樹里亜の救護のために、舞台の上へわらわらと群がってくる。どこかへ運ばれてゆく樹里亜。いつまでも顔面への打擲をやめようとしない混野。大勢に取り囲まれ、咳き込みながらなにごとか呻いている佐藤。これらすべては、劇の本番最中、きっかり三十分の間に行われた。
照明が落とされ、辺りはまったき暗黒にみたされてゆく。中心を欠いたざわめきが遠鳴りのように低く押し寄せ、慌ただしく走り回る音に混じって、啜り泣く声や、ひそひそと囁く声、あるはずもない哄笑までもが、たがいに呼応しつつ、どこからともなくひびいてくるようだった。いま映子はそれらのものとひとつになり、横死した舞台に膝を折りながら、全身を支配している異常な鳥肌について、闇から訊ねられている。
(了)