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子供が毎晩、「もう一人のママ、おやすみ」と言う

作者: あゆと
掲載日:2026/06/22

「まま、おやすみ。もうひとりのままもおやすみ」


...え。


布団の端に手をかけたまま、私は寝室の入口を見た。誰もいない。半分だけ開いたドアの向こうに、洗面所の白い壁が見えるだけだった。

「ん? もうひとり?」

できるだけ軽く聞いたつもりだったのに、自分の声が少し上ずった。

「うん」

美羽は布団の中で足をばたばたさせていた。寝る気はある。でも体だけ、まだ遊びたがっている。

「パパ?」

「ちがうよ」

「じゃあ、うさちゃん?」

枕元の白いうさぎを指でつつくと、美羽は口をとがらせた。

「うさちゃんは、うさちゃんでしょ」

「そっか...じゃあ、どこかな」

「あっち」


美羽は、私の肩の向こうを見た。


「あっちのまま」


「ママはここにいるよ?」

「うん」

「あっちにも、ママがいるの?」

「うん。ねえ、あしたプリンある?」


廊下は静かだった。洗面所も、階段も、いつも通りだった。

「プリンは、あったかな」

「いちごのがいい」

「うん」

「ままも、ねんねして」


そっかじゃない。

全然そっかじゃない。


でも美羽は布団にもぐって、足だけもぞもぞ動かしていた。これ以上聞いたら、寝る前の部屋が変なものになってしまう気がした。


リビングでは、夫が食器を洗っていた。

「ねえ、美羽がさ」

「なに?」

「寝る前に、変なこと言ってて」

「変なこと?」

「まま、おやすみって言ったあとに、もうひとりのままもおやすみって」

夫は水を止めた。

「パパと間違えたんじゃないの」

「私もそう思って聞いたの。違うって」

「ぬいぐるみは?」

「それも違うって」

「じゃあ、ごっこ遊びだろ。四歳だぞ」


寝室から美羽の声が飛んできた。

「ままー! おみずー!」


夫が少し笑った。

「ほら、元気じゃん」

「元気とか、そういう話じゃなくてさ」

「怖がってないなら大丈夫だろ」

「美羽が、私の横にいる誰かにおやすみって言ったのよ」


夫は少し困った顔をした。

「だから、それがごっこ遊びなんじゃないの」

「分かってる。そう思いたいよ」


コップに水を入れたら、少し入れすぎた。廊下に出る前に、私はシンクで半分捨てた。



翌朝、美羽はいつも通りだった。食パンの耳を残して、牛乳をこぼして、靴下のかかとが合わないと怒った。

「これ、ちがう!」

「合ってるよ」

「ちがうの! みうがわかるの!」


片足で跳ねながらテーブルの下へ逃げる美羽に、私は床を拭きながら聞いた。

「きのうの、もうひとりのままってさ」

「うん」

「パパじゃないんだよね?」

「ちがう」

「うさちゃんでもない?」

「ちがう」

「そっか」

「まま、牛乳まだある」

「え、ああ、もう」


美羽はテーブルの下から出てきて、残したパンの耳を一本だけつまんだ。それを、私のとなりの椅子の前に置く。

「それ、ママの席だよ」

「あっちの」

「...あっちの、ね」

「うん」

「それ、いるの?」


美羽はパンの耳をまっすぐに直した。


「いるよ」


夫が冷蔵庫を閉める音がした。

「ほら、ごっこ遊びだよ」

「今、笑わないで」

「朝からやめろよ。美羽の前で」

「だって、いるって言うのよ」

「変って言うなよ。子供が気にするだろ」

「気にしてないのは、そっちでしょ」


美羽は聞いていなかった。また靴下に怒っている。

「ままー! これ、きもちわるいー!」

いつもの朝だった。

だから余計に、パンの耳が邪魔だった。



幼稚園の門で、美羽は先生に抱きついてから、私に手を振った。

「まま、ばいばーい!」

「いってらっしゃい」


美羽は門の内側でくるっと回り、私の横にも手を振った。


「もうひとりのままも、ばいばーい!」


言い終わる前に、砂場へ走っていく。靴のかかとが、また半分ずれていた。

先生が笑った。

「あら、今日も言ってる」


今日も。


私は門の金具を握った。

「先生、それ、園でも言ってます?」

「ええ。おうちにママが二人いるって」

「いつくらいからですか?」

「先週くらいからかしら」


先週。


昨日の夜、初めて聞いたんですけど。

そう言おうとして、声がうまく出なかった。

「先週から、ですか」

「はい。おままごとでも、お母さん役を二人にするんです。あ、すみません」

先生はそこで、私の顔を見た。声が少し小さくなる。

「気になりますよね」

「いえ」

「怖がってる感じはないです。本当に普通で。昨日のお迎えの時も、今日はひとり?って聞いていて」

「昨日?」

「はい」


昨日の迎えは、私が行った。

美羽は私に走ってきて、抱きついて、いつも通りだった。


そのあとに。

私の聞いていないところで。


「ごっこ遊びですかね」

私がそう言うと、先生はすぐにうなずいた。

「そうだと思います。四歳さん、そういう世界を作る時期なので」


そうですよね、と笑った。

先生も笑った。

なのに、門の金具を握った指だけ痛かった。


砂場の方から、美羽の声がした。

「それ、みうのスコップー!」

先生が「あらあら」と走っていく。

私は門の外で、少しだけ取り残された。



夕方、美羽は玄関で靴を脱ぐ前に、リュックをひっくり返した。

「みて! かぞく、かいた!」

「靴、先に脱いで」

「あとで!」

「今」

「もー、まま、いつも今って言う!」

「今だからね」

「じゃあ、片方だけ!」

「両方」

「えー!」


靴を片方だけ脱いで、床に画用紙を広げる。色の線が、あちこちにはみ出していた。

丸。四角。棒みたいな手足。点が二つと、横線の口。

誰が誰かは、美羽に聞かないと分からない。


「これ、だれ?」

美羽はクレヨンの箱を抱えたまま、順番に指を置いた。

「ぱぱ。みう。あかちゃん。まま」

「うん」


そこまでは分かった。


でも、その横にもう一つ、丸があった。

顔はない。黒とピンクと黄色が、ぐちゃぐちゃに重なっている。

「これは?」

「もうひとりのまま」

「これも、ママ?」

「お顔ないけど」

「うん」

「なんで?」

「しらなーい」


美羽はもう絵から目を離していた。

「ねえ、おやつなに?」

「先にこれ教えて」

「えー。まま、しつこい」


四歳にそう言われて、胸の奥が変に痛んだ。

「ごめん」

「いいよ」


画用紙を持ち上げようとして、端を少し折ってしまった。

「まま、そこ折らないで」

「ごめん」

「そこ、て」


言われて見たら、顔のない丸から棒が一本出ていた。手、らしい。

慌てて紙を伸ばすと、美羽はもう立ち上がって、キッチンの方をのぞいていた。

「プリンある?」

「ない」

「えー! あした買って!」


不満そうな声が、いつもの家に響いた。

画用紙だけが、床に残った。



夜、夫に絵を見せた。

「園児の絵だろ」

「そうだけど」

「じゃあ、たまたまだろ」

「たまたまじゃないのよ」


私は画用紙を夫の前に押し出した。

「見て。これ、パパでしょ。これが美羽。これが赤ちゃん。これが私。美羽がそう言ったの」

「うん」

「じゃあ、これ誰なのよ」

夫は顔のない丸を見た。

「それは、美羽にしか分からないだろ」

「だから聞いたの。もうひとりのままって言ったのよ」

「四歳の絵だろ」

「四歳の絵だから怖いんでしょ」

「なんでそうなるんだよ」

「だって、家族の絵なのよ。パパ、美羽、赤ちゃん、私。でしょ? なんで一個多いのよ」

「一個くらい増えるだろ、子供の絵なんだから」

「一個くらいって言わないで」

「じゃあ、どうしろっていうんだよ」

「分かってよ」


夫は黙った。

黙ったまま、絵から目をそらした。


「先生も言ってた。先週から園でも言ってるって」

「じゃあ園で流行ってるんじゃないの」

「うちにママが二人いるって言ってるのよ」

「だから、そういうごっこ遊びだろ」

「ごっこなら、なんで昨日のお迎えのときに、今日はひとり?って聞くの」

「知らないよ」

「知らないで終わらせないでよ」

「終わらせたいんだよ」


言ってから、夫はすぐ目を伏せた。

「悪い」

「なにが」

「美羽の前で、その顔するなってこと」

「私の顔の話じゃないでしょ」


寝室から美羽の声がした。

「ぱぱー! おおかみの本よんでー!」


夫は立ち上がった。

「今日は俺が寝かせる」

「ねえ」

「少し休めよ」


少し休めよ、じゃない。

そこじゃない。



その夜は夫が寝かしつけた。

私はリビングで下の子にミルクを飲ませていた。寝室から、夫が絵本を読む声が聞こえる。美羽が途中で「ちがう、そこおおかみの声!」と怒る。夫がわざと低い声を出して、美羽が笑う。


しばらくして、夫が戻ってきた。

「寝た?」

「寝た」

「何か言った?」

「普通に、おやすみって」

「それだけ?」


夫はリモコンを取ろうとして、手を止めた。

「あと、入口に向かって、ママにもおやすみって」

「私、ここにいたよ」

「リビングに聞こえるように言ったんだろ」

「入口に?」

「……たぶん」

「見たの?」

「見たよ。誰もいなかった」


誰もいなかった。

その言葉だけ、先に胸に落ちた。


「じゃあ、なんで入口に言うの」

「知らないよ」

「あなたも気にしてるじゃん」


夫は黙った。

否定するなら、最後まで否定してほしかった。


寝室から、美羽の寝ぼけた声がした。

「おおかみ、ちがう...」

夫が苦笑いした。

いつもの夜なら、私も笑っていた。



翌朝、夫が言った。

「昨日、途中で代わってくれて助かった」


私は、食器棚からコップを出す手を止めた。

「代わってないよ」

「え?」

「私、リビングにいた」

「いや、来ただろ」

「行ってない」

「でも、美羽の布団、直してただろ」

「直してない」

「...じゃあ、俺が寝ぼけてたのかな」


夫はすぐ洗面所へ行った。

水の音がして、それで終わりにされた。


「ままー! 靴下ないー!」

美羽の声が廊下から飛んできた。

「いつものところ!」

「ないー!」

「ちゃんと見た?」

「見てない!」


洗面所の水音に、美羽の声が重なって、食器棚の扉だけが開いたままだった。



その夜、私は寝室の入口を開けたままにした。

夫には何も言わなかった。言えばまた、こっちが変な顔をしていると言われる。


いつもの絵本を読んだ。美羽は途中でページを飛ばそうとして、「そこまだ!」と怒った。次のページではあくびをして、最後まで聞いた。

絵本を閉じ、布団を肩までかける。

「まま、おやすみ」

「おやすみ」


美羽は私の手を握った。小さい手だった。昼間の粘土の粉が、爪の間に少し残っている。

「ねえ」

「なあに」

「あの絵、覚えてる?」

「かぞく?」

「うん。顔がなかった丸」

「おっきいやつ?」

「そう。それ」

「もうひとりのまま」

「うん。なんで顔、なかったのかなって」


美羽は布団の中で足をこすり合わせた。眠い時にする動きだった。


「まだだから」


「まだ?」


「うん。まだ、おかおないの」


寝室の入口で、床が鳴った。


私は入口を見た。

誰もいない。


美羽は入口を見たあと、ふあ、とあくびをした。


「でも、もうすぐ、本物になるよ」

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