子供が毎晩、「もう一人のママ、おやすみ」と言う
「まま、おやすみ。もうひとりのままもおやすみ」
...え。
布団の端に手をかけたまま、私は寝室の入口を見た。誰もいない。半分だけ開いたドアの向こうに、洗面所の白い壁が見えるだけだった。
「ん? もうひとり?」
できるだけ軽く聞いたつもりだったのに、自分の声が少し上ずった。
「うん」
美羽は布団の中で足をばたばたさせていた。寝る気はある。でも体だけ、まだ遊びたがっている。
「パパ?」
「ちがうよ」
「じゃあ、うさちゃん?」
枕元の白いうさぎを指でつつくと、美羽は口をとがらせた。
「うさちゃんは、うさちゃんでしょ」
「そっか...じゃあ、どこかな」
「あっち」
美羽は、私の肩の向こうを見た。
「あっちのまま」
「ママはここにいるよ?」
「うん」
「あっちにも、ママがいるの?」
「うん。ねえ、あしたプリンある?」
廊下は静かだった。洗面所も、階段も、いつも通りだった。
「プリンは、あったかな」
「いちごのがいい」
「うん」
「ままも、ねんねして」
そっかじゃない。
全然そっかじゃない。
でも美羽は布団にもぐって、足だけもぞもぞ動かしていた。これ以上聞いたら、寝る前の部屋が変なものになってしまう気がした。
リビングでは、夫が食器を洗っていた。
「ねえ、美羽がさ」
「なに?」
「寝る前に、変なこと言ってて」
「変なこと?」
「まま、おやすみって言ったあとに、もうひとりのままもおやすみって」
夫は水を止めた。
「パパと間違えたんじゃないの」
「私もそう思って聞いたの。違うって」
「ぬいぐるみは?」
「それも違うって」
「じゃあ、ごっこ遊びだろ。四歳だぞ」
寝室から美羽の声が飛んできた。
「ままー! おみずー!」
夫が少し笑った。
「ほら、元気じゃん」
「元気とか、そういう話じゃなくてさ」
「怖がってないなら大丈夫だろ」
「美羽が、私の横にいる誰かにおやすみって言ったのよ」
夫は少し困った顔をした。
「だから、それがごっこ遊びなんじゃないの」
「分かってる。そう思いたいよ」
コップに水を入れたら、少し入れすぎた。廊下に出る前に、私はシンクで半分捨てた。
◇
翌朝、美羽はいつも通りだった。食パンの耳を残して、牛乳をこぼして、靴下のかかとが合わないと怒った。
「これ、ちがう!」
「合ってるよ」
「ちがうの! みうがわかるの!」
片足で跳ねながらテーブルの下へ逃げる美羽に、私は床を拭きながら聞いた。
「きのうの、もうひとりのままってさ」
「うん」
「パパじゃないんだよね?」
「ちがう」
「うさちゃんでもない?」
「ちがう」
「そっか」
「まま、牛乳まだある」
「え、ああ、もう」
美羽はテーブルの下から出てきて、残したパンの耳を一本だけつまんだ。それを、私のとなりの椅子の前に置く。
「それ、ママの席だよ」
「あっちの」
「...あっちの、ね」
「うん」
「それ、いるの?」
美羽はパンの耳をまっすぐに直した。
「いるよ」
夫が冷蔵庫を閉める音がした。
「ほら、ごっこ遊びだよ」
「今、笑わないで」
「朝からやめろよ。美羽の前で」
「だって、いるって言うのよ」
「変って言うなよ。子供が気にするだろ」
「気にしてないのは、そっちでしょ」
美羽は聞いていなかった。また靴下に怒っている。
「ままー! これ、きもちわるいー!」
いつもの朝だった。
だから余計に、パンの耳が邪魔だった。
◇
幼稚園の門で、美羽は先生に抱きついてから、私に手を振った。
「まま、ばいばーい!」
「いってらっしゃい」
美羽は門の内側でくるっと回り、私の横にも手を振った。
「もうひとりのままも、ばいばーい!」
言い終わる前に、砂場へ走っていく。靴のかかとが、また半分ずれていた。
先生が笑った。
「あら、今日も言ってる」
今日も。
私は門の金具を握った。
「先生、それ、園でも言ってます?」
「ええ。おうちにママが二人いるって」
「いつくらいからですか?」
「先週くらいからかしら」
先週。
昨日の夜、初めて聞いたんですけど。
そう言おうとして、声がうまく出なかった。
「先週から、ですか」
「はい。おままごとでも、お母さん役を二人にするんです。あ、すみません」
先生はそこで、私の顔を見た。声が少し小さくなる。
「気になりますよね」
「いえ」
「怖がってる感じはないです。本当に普通で。昨日のお迎えの時も、今日はひとり?って聞いていて」
「昨日?」
「はい」
昨日の迎えは、私が行った。
美羽は私に走ってきて、抱きついて、いつも通りだった。
そのあとに。
私の聞いていないところで。
「ごっこ遊びですかね」
私がそう言うと、先生はすぐにうなずいた。
「そうだと思います。四歳さん、そういう世界を作る時期なので」
そうですよね、と笑った。
先生も笑った。
なのに、門の金具を握った指だけ痛かった。
砂場の方から、美羽の声がした。
「それ、みうのスコップー!」
先生が「あらあら」と走っていく。
私は門の外で、少しだけ取り残された。
◇
夕方、美羽は玄関で靴を脱ぐ前に、リュックをひっくり返した。
「みて! かぞく、かいた!」
「靴、先に脱いで」
「あとで!」
「今」
「もー、まま、いつも今って言う!」
「今だからね」
「じゃあ、片方だけ!」
「両方」
「えー!」
靴を片方だけ脱いで、床に画用紙を広げる。色の線が、あちこちにはみ出していた。
丸。四角。棒みたいな手足。点が二つと、横線の口。
誰が誰かは、美羽に聞かないと分からない。
「これ、だれ?」
美羽はクレヨンの箱を抱えたまま、順番に指を置いた。
「ぱぱ。みう。あかちゃん。まま」
「うん」
そこまでは分かった。
でも、その横にもう一つ、丸があった。
顔はない。黒とピンクと黄色が、ぐちゃぐちゃに重なっている。
「これは?」
「もうひとりのまま」
「これも、ママ?」
「お顔ないけど」
「うん」
「なんで?」
「しらなーい」
美羽はもう絵から目を離していた。
「ねえ、おやつなに?」
「先にこれ教えて」
「えー。まま、しつこい」
四歳にそう言われて、胸の奥が変に痛んだ。
「ごめん」
「いいよ」
画用紙を持ち上げようとして、端を少し折ってしまった。
「まま、そこ折らないで」
「ごめん」
「そこ、て」
言われて見たら、顔のない丸から棒が一本出ていた。手、らしい。
慌てて紙を伸ばすと、美羽はもう立ち上がって、キッチンの方をのぞいていた。
「プリンある?」
「ない」
「えー! あした買って!」
不満そうな声が、いつもの家に響いた。
画用紙だけが、床に残った。
◇
夜、夫に絵を見せた。
「園児の絵だろ」
「そうだけど」
「じゃあ、たまたまだろ」
「たまたまじゃないのよ」
私は画用紙を夫の前に押し出した。
「見て。これ、パパでしょ。これが美羽。これが赤ちゃん。これが私。美羽がそう言ったの」
「うん」
「じゃあ、これ誰なのよ」
夫は顔のない丸を見た。
「それは、美羽にしか分からないだろ」
「だから聞いたの。もうひとりのままって言ったのよ」
「四歳の絵だろ」
「四歳の絵だから怖いんでしょ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、家族の絵なのよ。パパ、美羽、赤ちゃん、私。でしょ? なんで一個多いのよ」
「一個くらい増えるだろ、子供の絵なんだから」
「一個くらいって言わないで」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
「分かってよ」
夫は黙った。
黙ったまま、絵から目をそらした。
「先生も言ってた。先週から園でも言ってるって」
「じゃあ園で流行ってるんじゃないの」
「うちにママが二人いるって言ってるのよ」
「だから、そういうごっこ遊びだろ」
「ごっこなら、なんで昨日のお迎えのときに、今日はひとり?って聞くの」
「知らないよ」
「知らないで終わらせないでよ」
「終わらせたいんだよ」
言ってから、夫はすぐ目を伏せた。
「悪い」
「なにが」
「美羽の前で、その顔するなってこと」
「私の顔の話じゃないでしょ」
寝室から美羽の声がした。
「ぱぱー! おおかみの本よんでー!」
夫は立ち上がった。
「今日は俺が寝かせる」
「ねえ」
「少し休めよ」
少し休めよ、じゃない。
そこじゃない。
◇
その夜は夫が寝かしつけた。
私はリビングで下の子にミルクを飲ませていた。寝室から、夫が絵本を読む声が聞こえる。美羽が途中で「ちがう、そこおおかみの声!」と怒る。夫がわざと低い声を出して、美羽が笑う。
しばらくして、夫が戻ってきた。
「寝た?」
「寝た」
「何か言った?」
「普通に、おやすみって」
「それだけ?」
夫はリモコンを取ろうとして、手を止めた。
「あと、入口に向かって、ママにもおやすみって」
「私、ここにいたよ」
「リビングに聞こえるように言ったんだろ」
「入口に?」
「……たぶん」
「見たの?」
「見たよ。誰もいなかった」
誰もいなかった。
その言葉だけ、先に胸に落ちた。
「じゃあ、なんで入口に言うの」
「知らないよ」
「あなたも気にしてるじゃん」
夫は黙った。
否定するなら、最後まで否定してほしかった。
寝室から、美羽の寝ぼけた声がした。
「おおかみ、ちがう...」
夫が苦笑いした。
いつもの夜なら、私も笑っていた。
◇
翌朝、夫が言った。
「昨日、途中で代わってくれて助かった」
私は、食器棚からコップを出す手を止めた。
「代わってないよ」
「え?」
「私、リビングにいた」
「いや、来ただろ」
「行ってない」
「でも、美羽の布団、直してただろ」
「直してない」
「...じゃあ、俺が寝ぼけてたのかな」
夫はすぐ洗面所へ行った。
水の音がして、それで終わりにされた。
「ままー! 靴下ないー!」
美羽の声が廊下から飛んできた。
「いつものところ!」
「ないー!」
「ちゃんと見た?」
「見てない!」
洗面所の水音に、美羽の声が重なって、食器棚の扉だけが開いたままだった。
◇
その夜、私は寝室の入口を開けたままにした。
夫には何も言わなかった。言えばまた、こっちが変な顔をしていると言われる。
いつもの絵本を読んだ。美羽は途中でページを飛ばそうとして、「そこまだ!」と怒った。次のページではあくびをして、最後まで聞いた。
絵本を閉じ、布団を肩までかける。
「まま、おやすみ」
「おやすみ」
美羽は私の手を握った。小さい手だった。昼間の粘土の粉が、爪の間に少し残っている。
「ねえ」
「なあに」
「あの絵、覚えてる?」
「かぞく?」
「うん。顔がなかった丸」
「おっきいやつ?」
「そう。それ」
「もうひとりのまま」
「うん。なんで顔、なかったのかなって」
美羽は布団の中で足をこすり合わせた。眠い時にする動きだった。
「まだだから」
「まだ?」
「うん。まだ、おかおないの」
寝室の入口で、床が鳴った。
私は入口を見た。
誰もいない。
美羽は入口を見たあと、ふあ、とあくびをした。
「でも、もうすぐ、本物になるよ」




