repeat 1
夏の太陽は不気味なぐらい沈むの遅く、夜になっても涼しくならなくて私はうんざりしていた。それでも吹く風は爽やかに吹いてた。私は邕江の畔でひとり佇んでいた。
その日は真夏日の暑さだったのに不気味な曇りだった。河に石を投げると黒い水が波を立てる。
家に帰ると誰もいない、ついに妻にも息子にも逃げられ一人暮らしになってしまった。最後まで一緒だと約束したことが無力に思えた。
「いつもの」
私は唯一身近で話せる食堂のおばちゃんに料理を頼んだ。
私は貧しい家庭で育ったがゆえに食堂なんて幼少期に入ったことがなく、毎日人参と野菜、少しの肉を炒めたものを一日一膳食べていた。そんな話をすると
「おばちゃんもね、昔は貧しかったんだよ」
そういって励ましてくれるが、おばちゃんの幼少期を私は知っている、彼女は裕福な家庭であった。毎年夏には西の避暑地へ旅行したり、湖や海へ出かけたりしていた。しかし彼女はと突然捨てられてしまった。おばちゃんは私が若いように見えたのか私がそのことを知らないと思っていたのだ。
「私は1982年9月、実業家の父と主婦の間に生まれたの」
その時は高度経済成長で私の父の会社もすべてうまくいってた、私は今の南寧ではなく更に大きな茂名市に住んでた。その時は高層アパートの最高階に住んでいた。しかし転校したときのこと私は過剰ないじめを受け学校には行けなくなった、それに火事の手伝いもしなくなり部屋に一日中こもることが多くなった。すると父が
「立派になれない子供は内にはいらない」
といって家に入れてくれないときが多くなった。最初はすぐに入れてくれるだろうと思っていたが、父はそれから二度と私を家に入れてくれなかった。私はあきらめて母方の知り合いに相談したが、母も同じく私を捨ててしまったため路上生活が続いた。ゴミ箱を漁ったり
「食べ物か飲み物をください」
そんな風に通りすがる人に声をかけたりする日々が毎日続いた、当時中学三年生だった私は考えられないようなことだったが生きるためにはそうするしかなかった。
ここまでは私が知っている食堂のおばちゃんの話だ。
実は私は父として息子を捨てた側であったが、本当に苦労した人にそんなことは言えなかった。私はその父親が憎く思えたが同じことをしている自分に申し訳ないと思った。
「私は10年前、息子と妻がいて、この南寧で楽しい生活を送っていた。しかし息子を家に入れずに追い出したことで妻とも離婚、親とも絶縁して孤独な時期に入った。今も独身で友達もあまりいない。私は収入があっても心は裕福と言えないくらい貧しい貧乏人だ」
ありのままに事実を伝えるとおばちゃんは怒りもせず、ただ子供を追い出してはいけないといったが、
「それは自分の為にも誰のためにもならなよ」
そうそっと言ってくれた。おばちゃんは続けて話した。
「私の父はその後母と離婚して父まで貧しくなったの」
「あなたと全く同じことをすればあなたと同じことになるの」
「私は今、お父さんを憎んでないし、あなたのことも憎んでない、だからやり直して」
そういってくれた。