表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月とスッポン ── 銀光の淵で、声を拾う

作者: 108
掲載日:2024/02/11

数ある作品の中から、本作を手に取っていただきありがとうございます。


 舞台は昭和三十年、戦後の傷跡が色濃く残る広島の漁村。  目が見えない漁師の勇、耳が聞こえない幼なじみの幸子、そして主に見捨てられた老犬ポチ。  不自由な身体で寄り添い合う彼らは、世間から「月とスッポン」と嘲笑われていました。


 そんな彼らが迷い込んだのは、夢か現か――。  そこは、障害が消え、言葉が通じ、すべてが手に入る「完璧な月の裏側」でした。


 もしもあなたが、今の自分を「不完全だ」と感じているなら。  もしもあなたが、失ったものに目を向けて立ち止まっているなら。  この二人と一匹の旅路が、あなたの夜を照らす一筋の光になることを願っています。

 昭和三十年、秋。広島。  海沿いの小さな漁村は、いまだ戦争の焼け跡のような、乾いた風が吹き抜けていた。


 勇は、ざらついた網の感触を指先で確かめていた。  彼の視界は、漆黒だ。  戦火の中で光を失ったあの日から、勇にとって世界は「手触り」と「匂い」だけで編み上げられた、ささやかな物語だった。


 その隣には、いつも幸子がいた。  彼女の世界には、一切の音が届かない。  幼い頃、爆風とともに鼓膜が裂け、世界は永遠の静寂に沈んだ。


 そして、老犬ポチ。  戦時中、疎開する家族に置いていかれ、瓦礫の中で泥水をすすって生き延びてきた傷だらけの犬。


 目が見えない勇。  耳が聞こえない幸子。  言葉を持たないポチ。


 三人は、世間から「月とスッポン」と嘲笑われることもあった。  美しい月を見上げる人々に対し、地べたを這い、泥にまみれて生きる自分たちはスッポンなのだと。  それでも、三人はお互いの欠けた部分を寄せ合い、肩を寄せ合って生きていた。


 だが、ある新月の夜。  その穏やかな絶望は、唐突に引き裂かれる。


 海が、発光したのだ。  漆黒の海面から銀色の光が溢れ出し、三人の身体を優しく、しかし抗いようのない力で宙へと誘った。



 次に目を覚ました時、そこは色彩の暴力が支配する場所だった。


「……あ、あ……」


 勇が、喉の奥から絞り出すような声を上げた。  漆黒だった視界に、濁流のように色が流れ込む。  足元に広がるのは、宝石を砕いたようなクリスタルの砂漠。  そして見上げれば、頭上には、青く輝く巨大な地球が浮かんでいた。


「見える……。幸子、お前の顔が……見えるぞ!」


 幸子の長い髪、琥珀色の瞳、そして溢れ出す涙。  勇は生まれて初めて、愛する人の姿をその目に焼き付けた。


 幸子もまた、崩れ落ちるように耳を塞いだ。


「音が……。勇さんの声が……聞こえる……!」


 風が砂を鳴らす繊細な旋律。勇の震える吐息。  音が、凍りついていた彼女の心を溶かしていく。  さらに、足元でポチがはっきりと人間の言葉を紡いだ。


「勇、幸子。俺は、あんたたちに拾われて……本当に良かった」


 三人は泣きながら抱き合った。  ついに手に入れた。完璧な身体。完璧な世界。  もう、泥の中を這うスッポンではない。自分たちも、あの輝く月の一部になれたのだ。


 だが、その歓喜を切り裂くように、巨大な影が差した。



 そこに立っていたのは、星屑の衣を纏い、重厚な甲羅を背負った異形の賢者。  名を、スッポンといった。


「喜びはそこまでだ。地球人よ」


 スッポンの声は、魂を凍りつかせるほど冷酷だった。  彼が杖を振ると、眼前の湖に、三人がひた隠しにしてきた「醜い真実」が映し出される。


 戦火の中、自分だけが助かりたくて家族の手を振りほどいた勇の卑怯さ。  聞こえないふりをして、友人の助けを求める声を無視した幸子の孤独。  飢えに狂い、仲間の餌を奪い取ったポチの獣性。


「ここは救済の園ではない。地球の『負の記憶』を濾過する場所だ」  スッポンは残酷に告げる。 「今、君たちが得た光や音は、その醜い過去を忘れるための代償だ。このままここに居続ければ、君たちは『完璧な人形』となり、二度と地球へは戻れぬだろう」


 勇は激しく惑った。  せっかく見えるようになったこの目を、再び暗闇に返すのか?  幸子も震えた。  再びあの恐ろしい沈黙の世界に、自分を突き落とすのか?


「さあ、選べ。このまま月で『完璧な偽物』として永遠に生きるか。それとも、泥のような醜さを抱えたまま、再び『不自由な地上』へ戻るか」



 勇は、差し伸べられた幸子の手を見て、一瞬、躊躇してしまった。  その迷いを見た幸子が、叫んだ。  声にならない声ではない。魂を切り裂くような、本当の言葉だった。


「勇さん! 私は、目が見えないあなたの『手』が好きだった!」


 幸子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


「耳が聞こえない私を、誰よりも理解しようとしてくれたあなたの『心』が好きだった。光なんていらない。音がなくても、あなたの体温があれば、そこが私の天国なの!」


 その言葉が、勇の胸を貫いた。  完璧な視界があるせいで、一番大切な「心の絆」を見失いかけていた。  勇は強く、自らの瞳を閉じた。   「……スッポンさん。俺たちは、戻るよ。泥の中へ」


 三人がお互いの手を強く、痛いほどに握りしめた瞬間。  スッポンの甲羅が砕け散り、中から眩いばかりの純白の翼が現れた。


「合格だ。人は皆、自分を醜いスッポンだと思い込み、完璧な月を夢見る。だが、真実の救いは、その不完全な自分を愛し、寄り添う心の中にしかない」


 スッポンは自らの翼を広げ、三人を包み込んだ。


「地上へ戻れば、再び暗闇が訪れるだろう。だが、君たちの魂にはもう、月光が染み込んでいる。君たちはもう、不自由な障害者ではない。誰かの心を照らす『光そのもの』だ」



 目が覚めた時、そこはいつもの冷たい砂浜だった。


 勇の視界は、再び漆黒に閉ざされていた。  幸子の世界からは、一切の音が消えていた。  ポチは、短く吠えることしかできない。


 しかし、勇の顔には、かつてないほど清々しい微笑みが浮かんでいた。


「幸子、そこにいるんだろ?」


 幸子は勇の手を握り、力強く三回、握り返した。  ──愛・して・る──  指先から伝わるその「音」は、月で聞いたどの旋律よりも美しく響いた。


 勇は、幸子の手を引き、ゆっくりと歩き出す。  幸子は、勇の歩幅に合わせて寄り添い、ポチがその先頭を行く。


 彼らはもう、自分たちをスッポンだとは言わない。  暗闇の中でも、心に月を宿しているからだ。


 昭和三十年。  広島の海を照らす月は、これまでになく円やかに、そして優しく、彼らの歩む道をどこまでも白銀に染め上げていた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


 勇と幸子、そしてポチが選んだ結末はいかがでしたでしょうか。  「完璧であること」よりも「不完全なまま愛し合うこと」を選んだ彼らの姿に、私自身も勇気をもらいながらこの物語を綴りました。


 誰しも心の中に「醜いスッポン」を飼っているかもしれません。けれど、その泥臭い心があるからこそ、私たちは誰かの温もりに気づけるのだと信じています。


 もし少しでも「心が温まった」「勇気をもらえた」と感じていただけましたら、【お気に入り登録】や【感想・評価ポイント】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります。


 また別の物語でお会いできることを楽しみにしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ