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(3)完結

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 自分でも信じられないが、なんと俺は、あれ以来ずっと高虎とのメールのやり取りを続けてしまっている。高虎のメールがマメなせいだ。内容は他愛のないことで、今日はこんなことがあっただとか、生徒会での友衛ちゃんの様子だとか、まるで一日一度、報告のように俺にメールを送ってよこす高虎に、俺はその都度、律儀に返信しているのだ。

 あの日、突然帰ってしまったことについては、寮の部屋に戻ってから梢子に半泣きで謝られた。

「ごめん、志信。あいつ、めちゃくちゃ怒るんだもん。久しぶりにあんなに怒られた」

 そう言いながら、べそべそしている珍しく弱々しい梢子を見て、俺は改めて高虎に恐怖を覚える。

「もういいって。ばれなかったし」

「志信。兄は、ちゃんとやさしくしてくれたか?」

 梢子が言う。からかっているのかと思ったが、特に他意はないようだ。

「うん。やさしい人だったよ」

 なので、俺も素直に答えた。

「本気なんだなあ、兄ちゃん」

 梢子がしにじみと発した言葉に、俺はやはり罪悪感を覚えるのだ。



 日曜日、高虎と動物園へ行くことになった。高虎からの誘いを受けてしまったのだ。断るべきだったとは思う。これ以上、高虎といっしょにいると、俺が男だと知られる確率が確実に上がる。それに、高虎の気持ちに応えられるはずもないのに、これ以上誘いを受けるのは良心が痛む。それでも今回、誘いを受けたのは、俺自身がもう一度、高虎に会いたかったからだ。会って、謝りたかった。そして高虎に会うのは、これで最後にしようと思っていた。会って、いっしょに動物園を楽しんで、それから、もう会わないということを謝罪と共に伝えようと、俺は覚悟を決めていた。

「水族館の次は動物園? あいつも発想が貧困だな」

 高虎とメールで約束をしたその日、そのことを伝えると、梢子は勉強机に向かってシャーペンを忙しく動かしながらそんなことを言った。授業の復習をしているらしい。努力家なのだ。

「ちなみに、おまえは動物園には行ったことあんの?」

「ないよ」

 俺の問いに即答した梢子に言う。

「ということは、高虎さんも行ったことないんだろ? 行ってみたいんじゃないのか」

「なんだよ、志信。やけに兄の肩を持つじゃないか」

 別に肩を持ったつもりはなかったが、俺は返答に困り、なにも言い返せなかった。静かな部屋に梢子のシャーペンの音だけがしゃかしゃかと小さく聞こえていた。



 当日、空は曇っていた。前回の水族館は現地集合だったが、今回はバス乗り場で待ち合わせて、いっしょにバスに乗った。ふたりとも当然のように制服を着用している。

 曇り空の下、柵の中を行ったり来たりしているキリンを棒立ちで眺めながら、高虎が口を開いた。

「志信さん。男性恐怖症の原因をお聞きしてもいいですか」

 それらしい理由をなにも考えていなかった俺は言葉が出ない。どんな理由を取り繕っても嘘くさくなりそうだ。ぐるぐると考えながら黙っていると、

「思い出すのがつらいなら、無理に話さなくても大丈夫です」

 高虎が、真剣な表情と声でそう言った。申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、俺はその言葉に甘えて頷いた。きっと俺が、男性恐怖症になるような、なにか怖くてつらい経験をしたのではないか、と高虎は気にかけてくれているのだろう。怖い思いをすることなくのん気にのびのび育った俺は、高虎についているこの嘘に改めて罪悪感を覚える。高虎はやさしい。

 自分が本当に女の子ならばよかったのに。そんなことをふと考えてしまう。俺が女の子なら、なんの問題もなく、なんの葛藤もなく、誰の目も気にすることなく、男性恐怖症などという嘘もつく必要なんてなく、きっと素直に高虎の隣にいられたはずだ。

 俺の様子に、高虎は不安げな視線を寄越してくる。その時、猿の餌やりが始まるという園内アナウンスがスピーカーから流れた。

「高虎さま、行ってみましょうか」

 俺は努めて明るく言い、高虎を促して歩みを進める。

 猿山への移動の途中、驚いたことに砂村次郎にばったりと出くわした。

「あっ、砂村……くん」

 呼び捨ててしまいそうになり、慌てて取り繕う。

「あ、なんだ。浮島くん。なんか、最近よく会うね」

 砂村は落ち着きなく、目をきょろきょろと動かしている。砂村の口から先日の罰ゲーム云々の言葉が飛び出やしないかとひやひやしていたが、どうも様子がおかしい。

「砂村くん、どうかされましたか? おひとりですか?」

 きょどきょどしている砂村を見かねて問い質す。

「あ、あのね、まゆちゃん見なかった?」

 砂村は不安そうに震える声でそう言った。

「いいえ。今日もいっしょなんですの?」

 不穏な空気を感じ、俺の口調も自然と不安に曇る。

「おれトイレ行ってて、出たらまゆちゃんいなくなってて」

 砂村の言葉に、俺の脳裏に最悪の事態がよぎる。きっと高虎も同じだったのだろう、俺と目を合わせた高虎は鋭い目で、深刻な表情をしていた。

「まゆちゃんというのは、水族館でいっしょにいた女の子か?」

 確認するような高虎の問いに、砂村はこくこくと頷いた。

「ど、どうしよう、おれ、まゆちゃん」

 砂村の顔が歪む。俺はとっさに、心許なくぐらぐらと揺れる砂村の両肩を掴んだ。

「しっかりしろ、砂村」

 砂村の目を見て言う。

「俺たちもいっしょに探すから」

 砂村は何度も頷き、「お願い」と泣きそうな声で言った。高虎が、ぎょっとしたような表情で俺のことを見ているのを視界の端にとらえたが、今はそんなことにかまっている場合ではない。

「高虎さまはあちらを、砂村はそっちを。俺はこっちのほうに行ってみる。まゆちゃんを見つけたら、携帯鳴らして!」

 ふたりが頷くのを見て、俺は走り出す。まゆちゃんの名前を呼びながら走り回り、すれ違う家族連れにまゆちゃんを見なかったか聞いて回る。しばらくすると入場口付近にたどり着いた。売店の店員が、ポリバケツに入ったビニール傘を表に出していた。それを見て、ぽつぽつと雨が降り始めていたことに気付き、俺は焦る。

 程なくして、高虎が小走りにやってきた。通路がここに続いていたのだろう。

「いましたか?」

「いない」

 高虎の問いになりふり構わず簡潔に答え、俺はもう一度、ぐるりと周囲を見渡す。まゆちゃんらしき姿は見当たらない。半泣きの砂村もやってきて、「いた?」と問う。俺は無言で首を振った。入場口の事務所や、売店にもまゆちゃんのことを尋ねたが、そのような迷子はいないとのことだった。

 高虎は売店でビニール傘を買い、俺に差し掛ける。いつの間にか雨が本降りになっていた。礼を言う余裕もなく、俺は途方に暮れていた。

「あっちの通路はまだ見てない」

 砂村が言う。俺は頷き、

「もう一度手分けして……」

 園内を見て回ろう。そう言いかけた時、

「あ」

 砂村が小さく声を上げた。

「声が」

 続けて、砂村が言う。

「ジロちゃんほんとにこっちにいるの? って」

 言いながら砂村は走り出した。今から向かおうとしていた通路のほうだ。高虎も、傘を俺に押しつけて駆け出す。俺も渡された傘を畳んでその後に続く。

「まゆちゃん!」

 砂村が叫んだ。家族連れの行き来する中、まゆちゃんは大学生くらいのひょろっとした男に手を引かれていた。

「ジロちゃん!」

 うれしそうに手を振るまゆちゃんの姿を見て、俺はほっとする。親切な人がまゆちゃんを迷子として事務所に連れてきてくれたところらしい。しかし次の瞬間、男はまゆちゃんを小脇に抱えると、向きを変えて走り出したのだ。ひょろっとしたその身体のどこにそんなパワーがあるのか、なかなか素早い。

「やめてよ! うそだろ!」

 砂村が泣きながら後を追う。遅い。俺は歯を食いしばって高虎と砂村を追い抜き、持ったままだった傘の存在に気付いた。周囲は何事かと走る俺を避ける。俺は、中段に構えた傘をジャンプしながら振りかぶり、

「面ッ」

 反射的にそう叫んで、男の後頭部に打ちつけた。正確には面ではない上に背後からの卑怯極まりない攻撃だが、そんなことを言っている場合でもない。男の動きが止まった瞬間に、傘を捨て、まゆちゃんを無理矢理に奪う。男がしていたようにまゆちゃんを抱きかかえようとしたのだが、まゆちゃんは思いの外重く、雨で地面が濡れていることもあり、俺はバランスを崩し転んでしまった。とっさに身体をひねったので、まゆちゃんは俺の身体の上だ。とりあえずよかった。

「志信さん!」

 上から高虎の声がした。

「砂村! 早く!」

 俺は砂村を呼んで、まゆちゃんを砂村に託す。砂村はまゆちゃんを軽々と抱き上げて、「よかったよー」と号泣していた。

「ジロちゃん、どうしたの? まいごになってこわかったの?」

 まゆちゃんの驚いたような声を聞いて、俺は安心して上半身を起こす。

 男は、俺たちの様子を見て駆けつけてくれたらしい飼育員さんや周囲の来園者たちに取り押さえられていた。

「志信さん、大丈夫ですか?」

 高虎が俺の横に膝をついて言った。大丈夫です、と言おうとして、俺は言葉が引っ込んでしまう。制服のスカートが派手に捲れ上がっており、パンツが見えていたのだ。もちろん女性用下着などではなく、男性用のボクサーパンツだ。慌ててスカートを直したが、絶対に見られた。顔面蒼白の状態で、俺は無言のままに立ち上がる。

「志信さん、頬と膝を擦りむいています」

 そう言って、いっしょに立ち上がった高虎がハンカチを差し出す。言われて初めて負傷に気付き、その途端に右頬と両膝がズキズキと痛み始めた。頬が痛いせいか、パンツを見られたからか、そのどちらもか、俺は泣きたくなった。

「ありがとうございます」

 震える声でそう言って、素直にハンカチを受け取り、頬に押しつける。制服も雨や砂でドロドロになってしまった。地面に落ちている曲がったビニール傘に気付き、

「ごめんなさい、高虎さま。傘を折ってしまいました」

 そう言うと、

「気にしないでください。走りながらとは思えない、美しい構えでした」

 高虎は冗談なのか本気なのかわからないことを言った。俺は俯いて、黙る。

 動物園の人が警察を呼んだらしく、男は飼育員さんたちに両腕を掴まれて俺たちの視界の外に連れて行かれた。ざわついていた来園者たちは、またバラバラに目的の方向へ向かい始めた。砂村と俺たちは、警察が到着するまで事務所で待機し、事情聴取を受けることになった。ついでに頬と膝の手当てもしてもらう。


 事務所の応接室で向き合った警察官は、俺たちに名刺を見せ、すぐにそれをスーツの内ポケットに戻した。刑事部と書かれていたので刑事なのだろう。ふたりいた刑事のうち、ひとりの名刺に書かれた名前が浮島姓だったため、俺は驚く。俺の生徒手帳を確認した浮島刑事は、俺に目配せをし、唇の前でこっそりと人差し指を立てた。見覚えのない顔だったが、この人もきっと遠い親戚なのだろう。俺は軽く頷く。

 一通りの事情聴取が終わり、話は俺の暴力行為のことに及んでいた。傘で男の頭をぶっ叩いてしまった件だ。正当な防衛行為だったと胸を張って言えるが、冷静になると急に不安になってくる。「彼に怪我はないようですし、問題にはならないでしょう」と言われ、ほっとした。

 まゆちゃんにも怪我などはないようだが、念のため病院で検査をするらしい。両親が迎えに来るそうだ。

「兄貴に殺されても文句は言えないよ」

 刑事の出て行った応接室のソファで、砂村は膝の上のまゆちゃんをしっかりと抱きしめてめそめそしながらそんなことを言う。

「ジロちゃん、やめて。くるしいよ」

 まゆちゃんは普通に嫌がっている。

「さっき兄貴に電話したらめちゃくちゃ怒ってた」

「おまえに?」

「ううん。連れ去り犯に」

「だったら、殺されたりしないよ。おまえ、まゆちゃんの声にちゃんと気付いて、がんばったじゃん」

 俺の言葉に、「がんばったのは浮島くんだよ……」と、情けない声が返ってくる。

「砂村はがんばったし、まゆちゃんは無事だったし、とりあえずはそこをよろこぼうよ」

「ありがとう、浮島くん。と、えっと……」

「恵庭です」

 砂村が高虎を見、高虎が返事をする。

「恵庭さん。浮島くんと恵庭さんがいなかったら、どうなってたかわかんない。本当に、ありがとうございました」

 砂村は深々と頭を下げた。まゆちゃんも砂村に倣って理解しないまま頭を下げている。

 まゆちゃん以外の三人はぐったりと疲れており、事務所でしばらく休ませてもらった。しばらくするとまゆちゃんの両親が迎えに来たので、俺と高虎はそれを見送った。砂村から事情を聞いたらしい彼らに過剰なくらいにお礼を言われ、こちらが恐縮してしまう。

 この時点でまだ昼すぎだったのだが、動物園を楽しむ心境ではなくなり、どちらが言い出すともなく俺たちは帰ることにした。バスの時間までしばらくある。こんな時間に帰ろうとしているのは俺たちくらいで、人通りはあるものの、バスを待つ人は誰もいなかった。バスが来るまでの間、俺は高虎にぽつぽつと話しかける。

「まゆちゃんが無事でよかったですね」

「ええ、本当に」

「はしたないところをお見せしてしまって」

「そんなことはありません。驚きはしましたが……」

 高虎の返答は穏やかだ。探り探り話していたが、高虎は俺が男だと気付いているのかいないのか全くわからない。しかし、さすがに気付いているだろう。なので、核心をつくことにした。

「高虎さま。先程、わたくしの下着を見ましたね?」

「い、いいえ」

 終始穏やかだった高虎だが、この問いには明らかに動揺した。

「嘘です。見えたはずです」

 そう言って詰めると、

「すみません。見えました」

 心底申し訳なさそうに、高虎は項垂れた。

「でしたら、お気付きでしょう。わたくしは……」

 お嬢様な言葉でそう言いかけて、

「俺は、男です」

 作っていない、自然な声で言い直す。

 怖い。とうとう打ち明けてしまった。高虎の顔を見ることができない。自然と顔が下を向く。しかし、俺は意を決して顔を上げ、隣に立つ高虎の目を、真っ直ぐに見る。

「ずっと騙していて、ごめんなさい。俺は、女の子じゃない」

「……なにか、事情があるのでしょうか」

 高虎は感情を押し殺したように、冷静な口調で問うてきた。

「事情はありますが、複雑です。家のことですし……」

 そう濁すと、高虎はそれ以上問い質してはこなかった。

「今日、俺はあなたにもう会わないと言いに来たんです」

 高虎は黙って俺の話を聞いている。

「そう伝えるつもりでここに来ました。なので、こんなふうに嘘が明らかになったのは必然だったとも言えます」

「どうして、もう会わないと?」

「あなたを騙しているという罪悪感に耐えられなくなったから」

 俺は続ける。

「あなたは、やさしい。男性恐怖症という俺の嘘にも、真摯に向き合ってくれた」

「え、嘘なんですか」

 思わず、という感じに発せられた高虎の言葉に俺のほうが驚く。俺が男だとわかっても男性恐怖症の件はまだ信じていたらしい。心根が真っ直ぐすぎやしないか。

「嘘です。俺は、嘘つきです」

 きっぱりと言い切ると、

「男性恐怖症だからそういう姿をしているわけでは……」

 高虎はそう返してきた。

「ありません」

 こんな時なのに、俺は少し笑ってしまう。なるほど、俺が女子に擬態している理由を、高虎の中では男性恐怖のためと仮定していたようだ。

「あなたはきっと、俺のことを好いてくれていたのでしょう。だけど、俺は性別を偽ってあなたを騙していた。こんなことはやめないと、いつか終わりにしないといけないとわかっていました。だけど俺は、やさしいあなたのことを、一瞬でも好ましいと思ってしまった。俺が女の子ならずっとあなたの隣にいられるのに、なんて思ってしまった。あなたの気持ちを裏切りたかったわけじゃない。だけど、俺の存在自体がもう、あなたに対する裏切りだから」

「志信さん……」

 俺の名前を呼んだ高虎の声はかすれて、弱々しく響いた。

「あなたは、最初から俺が男だと知っていたら、好きになんてならなかったでしょう?」

 その問いに、高虎は答えなかった。その沈黙が答えなのだ。これでよかったんだ、と俺は思う。ずっと騙して裏切り続けるより、こうなったほうがよかったのだ。

 バスの中、制服がドロドロなのを気にして、俺は座席に座ることを躊躇い、吊り革を掴んで立っていることにした。高虎も同じように立っていた。すぐ隣に立っていたものの俺たちは無言だった。時折、高虎の視線を感じたが、俺はずっと窓の外を見ていた。高虎が腹を立てているわけではない様子なのが、不思議で仕方なかった。


 寮の部屋に戻り、

「志信! どうしたんだ、その格好! 怪我してるじゃないか! なんかあったのか! おい志信!」

 矢継ぎ早に飛んでくる心配を含んだ梢子の声に、

「あとで話す!」

 そう答えて、俺は部屋のシャワーに直行した。全身の汚れを洗い流し部屋着に着がえ終わると、俺は梢子に今日の出来事の一部始終をぶちまけた。

「大変だったな。でも、よくやった」

 そう俺を労った後、梢子は言った。

「ところで志信。話を聞いていて思ったのだが、おまえは高虎が好きなのか」

「うん、好きだよ。たぶん」

 俺は素直に頷く。いつものようにからかわれるかと思ったのに、

「なんだ。好きなら、それでいいじゃないか。自分の気持ちは自分だけのものだぞ」

 梢子は意外にも真剣なトーンでそう言った。かと思えば、

「もし、恵庭の跡取り問題を気にしているのなら、心配いらないぞ。恵庭流は代々、女性が家元を継ぐ決まりなんだ。跡取りは高虎じゃない。私だよ。だから、安心して高虎とくっつけよ」

 今度はからかい口調で冗談ぽく言われ、

「跡取りなんて、そんなこと考えもしなかったよ」

 脱力しながら、俺は情けなくそう答える。俺が高虎のことを好きでも、高虎はきっともう俺のことなんて好きではないだろう。そう考えると、目の奥がじわっと熱くなった。

 友衛ちゃんにも報告しなくてはいけなかったことを思い出し、俺はガラケーから、以前登録しておいた友衛ちゃんの番号を呼び出す。

「友衛ちゃん、いま大丈夫?」

「うん。今ひとりだし、平気」

 まゆちゃんの件は長くなるので省いて、今日のこと簡単に話すと、

「あー、ばれちゃったか」

 通話の向こうで、存外にあっさりとした口調で友衛ちゃんは言った。

「高虎さんは、友衛ちゃんのことはなにも言ってなかったけど、もしかしたら迷惑かけることになるかもしれない。ごめん」

 もしそうなったら申し訳ないと思っていたのに、

「あたしなら大丈夫だよ。ばれたって転校するだけだもん。浮島の系列の学校は他にもあるし」

 友衛ちゃんは結構ドライなことを言う。

「でも友衛ちゃん、せっかく生徒会入ってがんばってたのに。友だちだっているでしょう?」

「こういう身の上だからさ、広く浅くで親しい友だちはつくらないようにしてたし、生徒会のことは残念だけどまあしょうがないよ。変な家に生まれちゃったんだから」

 友衛ちゃんはうじうじしている俺とは違い、割り切り方が妙にあっさりしている。性別を偽る覚悟が、もともとできていたのだろう。

「それに、恵庭くんだったら大丈夫な気がするな。あたしたちがこの学校にいられないようなことにはならないと思うよ」

「本当にそう思う?」

 友衛ちゃんの楽観的な言葉に、俺は縋りつきそうになる。

「思うよ。いとこってだけで、あたしがどれだけ恵庭くんに志信くんのこと聞かれたと思ってんの」

「どういうこと聞かれたの?」

「志信くんの男性恐怖症の理由とか。なんて嘘ついてんのさ」

 友衛ちゃんの楽しそうな声が気恥ずかしい。

「友衛ちゃん、なんて答えたの?」

「本人に聞けばーって」

「うん。聞かれたよ」

「うわ、素直! 本当に聞いたんだ!」

 通話の向こうで友衛ちゃんが明るい笑い声を上げたので、俺もいっしょに笑ってしまった。



 月曜日、学校へ行くと、

「まあ、まあ、まあ! 志信さま、そのほっぺはどうされましたの!?」

 俺の頬のガーゼに目を留めた佐和子が、ごきげんようも言わず俺に駆け寄ってきて言った。ちなみに、ガーゼは梢子が貼ってくれた。

「不注意で転んでしまいましたの」

 俺のありきたりで苦しい嘘をあっさりと信じた佐和子は、

「お気を付けくださいませ、志信さま! お友だちが怪我をするなんて、わたくし絶対に嫌ですわ!」

 珍しく強い口調でそう言った。心配してくれていることが伝わってきて、泣きそうになる。

「ありがとうございま……」

「まあ、お膝も! しかも両方とも!」

 感謝の言葉を口にしかけた瞬間に膝の怪我までばれてしまい、ヒッと肩がすくむ。

「本当に、お気を付けくださいませ!」

 佐和子は俺の両手首を掴んで、厳しい口調で言い含めるように言った。

「志信さまは痛い思いをしてはいけないのです。梢子さまもです」

 佐和子は言う。

「わたくしの好きな人たちは、誰も傷付いたりしてはいけません」

「佐和子さま……」

「わたくしは志信さまが好きなのです。志信さまが誰でも、男性でも女性でも、わたくしはきっと、志信さまのことが好きですわ。わたくしの好きな人が怪我をするなんて、許しません」

 きっぱりと放たれた佐和子の言葉に感激すると同時に、この子はもしかしてすべてをわかっていて言っているのではないかという恐怖も覚える。プンスカしながら歩き出した佐和子の後ろ頭で揺れる臙脂色のリボンを眺めながら、

「なあ、佐和子さまのあれ、どういう意味だと思う?」

 梢子にひそひそと尋ねると、

「どういう意味もなにも、聞いたまんまだろ。佐和子さまは志信のことが好きだってことだ。単純な話じゃないか」

 あっさりとそう言われてしまった。

「うれしい。ありがたいよぉ」

 思わず声が滲んでしまう。

「泣くなよ、志信。私は泣いているやつの慰め方なんて知らないぞ」

 俺は改めて、梢子や佐和子と離れることになるのは寂しいと思った。


 その日の放課後、高虎からメールが届いた。明日、会って話したいとのことだった。ついにこの時がきてしまった。思ったよりも早かったな、と思う。昨日の今日で高虎はもう気持ちの整理を付けたのだろうか。俺はやはりこの学校にはいられなくなってしまうのだろうか。それは寂しいけれど、仕方のないことだ。



 高虎から指定された早朝五時半、その少し前に俺は制服に着替え、こっそりと寮を出る。なぜ早朝なのかと思ったが、放課後はどうしても生徒の目があるし、夜中に抜け出すのは難しいので、やはり急ぐなら早朝しかなかったのだろう。

 薄暗い朝靄の中、小走りにグラウンドを真ん中で隔てている金網フェンスまで行く。学園の門が閉まっているこの時間帯、男女が直接会おうと思ったらこの場所しかないのだ。先日の動物園で借りたままだったハンカチを忘れずにスカートのポケットに入れて持って行く。洗濯してきっちりとアイロンがけをしておいたのだ。

 グラウンドの真ん中、フェンスの向こうに高虎が立っている。すでに来て待っていてくれたらしい。

「お待たせしました……」

 俺がそう言い終わるか終らないかのうちに、

「あなたが好きです。志信さん」

 はっきりとした口調で、挨拶もなしに唐突にそう言われた。その言葉によってもたらされる感情よりも、表面的な戸惑いのほうが勝ってしまい、

「気は確かですか? 俺は男ですよ。事情があってこういうなりをしていますが、女装が趣味というわけでもありません。女性になりたいわけでもありません。高校を卒業したら、普通に男として生活をする予定です。それでも、俺のことが好きだって言えますか」

 俺は自分のネガティブキャンペーンを始めてしまう。

「好きですよ。何度でも言えます。僕は、志信さんが好きなんです。あなただから、好きになったのです」

 静寂の中でカシャンと金属音が鳴る。高虎がもどかしそうに両手でフェンスを掴んでいた。

「あなたがセーラー服を着ているからじゃない。その中身が好きなんだ」

 続けられた際どい言葉に、俺は、

「なんだか、エッチですね」

 思わずそう言ってしまう。

「そういう意味ではありません。僕は真剣に言っているんです」

「わかっています」

 高虎が真剣なのは重々承知だ。問題は俺のほうで、俺は未だにこの状況を飲み込めていない。そんな俺に対して、

「昨年の夏ごろでしょうか、僕の母校が出場した中学の剣道の大会を見に行きました。剣道部の友人に誘われたのです」

 高虎が再び口を開いた。俺はそれを黙って聞く。

「試合自体にさほど興味はなかったのですが、相手校にひとり、目を引く人物がいました。彼はとても美しい身のこなしで試合をしていたので、覚えています。名前は、確か浮島志信」

「去年の大会なら、一回戦負けだったはずですけど……」

 言いたいことは、こんなことではない。なのに、世間話みたいな言葉しか出てこない。

「それでも、いい勝負でした。あなたの動きに、僕は目を奪われた。あなたは美しかった。防具で顔まではわかりませんでしたが」

 高虎は続ける。

「もしかしたらとは思ってはいました。動物園で傘を構えたあなたを見て、あの大会で見た浮島志信とあなたが同一人物なのだと確信しました」

 女子部の中庭のベンチで話した時、高虎は俺の同性同名がいるのかを気にしていた。あれはやはり、高虎が中学三年生の俺を知っていたからだったのだ。そんなふうに頭の中を整理していたら、

「志信さん、言いましたよね」

 高虎が妙に勝ち誇ったような声を発した。

「僕のことを好ましく思っているって、先日、確かに言いましたよね」

「言いました」

 最初に感じていた高虎からの威圧感を、俺はいつしか感じなくなっていた。高虎の隣にいることを望むようになっていた。

「だったら、僕たちは相思相愛ではないですか」

 俺の思考を読んだように言われ、俺は高虎の強い瞳を見つめる。鼻の奥がツンと痛み、だんだん視界がぼやけてきた。

「俺のこと、怒ってないんですか?」

 絞り出した声は、やはり湿っている。

「驚きましたし戸惑いもしましたが、怒ってはいません」

「でも、梢子と……高虎さんの大事な妹さんと、男の俺が同室だなんて、嫌でしょう。俺が兄だったら絶対嫌ですもん」

「えっ」

 なんだか間の抜けた声を上げて、高虎は戸惑っている様子だった。そこまで気が回っていなかったようで複雑な表情をしている。

「いえ、でも、志信さんが好きなのは梢子ではなく、僕なのですから……」

 高虎にしては珍しく、うにゃうにゃと語尾を濁している。かと思えば、

「なんの問題もありません」

 きっぱりと言い放ったりもする。この人は、実は結構おもしろい人なのではないか。そう思った俺は、

「俺、高虎さんのことをもっと知りたいです」

 その気持ちを素直に口にする。その瞬間、自分の意思に反して涙がぼろぼろとこぼれてしまい、俺はスカートのポケットからハンカチを出してそれを拭った。しかし、そのハンカチが高虎に返すはずのものだったことを思い出し、慌ててしまう。

「ごめんなさい。このハンカチ、返すつもりだったのに」

「いいんです。次に会う時まで持っていてください」

 高虎は穏やかに言った。

「僕たちは、またすぐに会えるんですから」

「はい。そうですね」

 俺はハンカチをポケットにしまい直し、フェンスを掴む高虎の指に自分の指を重ねる。かさかさしたお互いの指先が、だんだん同じ温度であたたまっていく。

「あなたが男性恐怖症でなくて、よかった」

 フェンス越しに見る、ぼやけた輪郭の高虎は、そう言ってはにかんだような笑顔を浮かべていた。



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