(2)
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
水族館のアシカのモニュメントの前で、俺と梢子は高虎を待っていた。時間通りなら、学園前の分岐路にあるバス乗り場で高虎と合流するはずだったのだが、寮を早く出てしまい、一本早いバスに乗ってしまったのだ。早く着いてしまったことを高虎にメールで連絡し、高虎と会うのが楽しみで急いで出てきてしまったみたいに思われたら嫌だなあ、などと思いながら、俺はひとりそわそわとしていた。隣では梢子が、のんきそうな表情でアシカのモニュメントを仔細に観察している。
「梢子、そんなに見てたらアシカがゲシュタルト崩壊を起こすぞ」
「遅い。もう起こしているよ」
梢子が笑う。俺はというと、カップルの男のほうが、梢子の美しさに目を見張ったり、振り返ったりして彼女をむっとさせている様子を眺めていた。ふたりして梢子に見惚れているカップルもいる。彼らを観察していると、退屈はしない。俺と梢子は、ふたりとも制服を着用している。どんな服を着て行けばいいのかと悩む俺に、梢子が言ったのだ。
「なにを言っている、志信。外出の際には制服を着用のこと、と生徒手帳に書いてあるぞ」
「なんだと。校則か、それ」
「校則だ」
梢子が頷いた。ガーゼ素材の白いシンプルなワンピース、この学園の女子寮指定の部屋着兼寝間着だ。学校から寮に帰ると、みんなそれに着替える。寮での制服みたいなものなのだ。なのでその部屋着さえ夏用と冬用を何着か持っていれば、ここでは事足りる。そのため、女の子っぽい私服を用意していなかった俺にとっては、梢子が教えてくれたそれは、とてもありがたい校則だった。校則に感謝したのは初めてだ。そういえば、この学校に入学する際にも、両親は私服のことだけはなにも言わなかった。今にして思えば、この校則を知っていたからだろう。知らなかったのは入学の手引や生徒手帳を真面目に読んでいなかった俺だけだ。
程なくして到着した高虎も、制服を着用している。さすが生徒会長だ。校則をしっかりと守っている。
「梢子。どうしておまえがここにいる」
高虎が言った。前もって言うと反対されるかもしれないと予想し、梢子が同行することは伝えていなかったのだ。高虎の顔は微笑みを残してはいるが、威圧感がすごい。
「お兄さまが、志信さまを取ってお食べになりやしないかと、わたくし心配で」
梢子が眉をハの字にし、か弱さを演出しながら答える。
「なにを言っているんだ、梢子。取って食べるなどと。誤解が生じたらどうするんだ。よりによって志信さんの前で、おまえ」
ヒートアップしそうな高虎を遮り、
「あ、あの、高虎さま。申し訳ありません、わたくしが梢子さまにご無理を申し上げたんです」
俺は言う。
「志信さんが?」
拍子抜けしたように、高虎が俺を見る。
「わたくし、男性とふたりきりというのが、あの、高虎さまには申し訳ないのですが、どうしても恐ろしくて。ですから、その、梢子さまにご同行していただけると大変心強いと思いまして……」
俺は、たどたどしく説明する。
「そういうことですわ、お兄さま」
梢子が言い、「行きましょう、志信さま」と、俺の手をぐいぐい引いて券売機へと誘導する。こんなにきれいな女の子に手を引かれるなんて、通常時ならどきどきしてしまうシチュエーションなのだが、自分もセーラー服を着用している今の俺には梢子の手が何よりも安心できるもののように感じた。なんて頼りがいのあるやつだ。
「そういや、おまえと手を繋いだのって、初めてだな」
梢子の耳もとでひそひそと言うと、
「そういえば、そうだ」
梢子が笑う。
「驚いたな。異性と手を繋いだと言うのに、なにも感じないぞ」
「安心しろ。俺もだ、梢子」
思えば、同じ部屋で寝起きを共にしているのだから、今さら手を繋いだところで、どきどきなどするわけがない。
「出しますよ」
低めの美声が頭上から降ってきて、俺と梢子はびくりと肩を跳ねさせた。
「高虎さま」
見上げると、端正な顔がそこにあった。
「僕がお誘いしたんですから、僕が出します」
「ですが」
「志信さま。ここはお兄さまに甘えておきましょう」
梢子が言う。それならば、と俺は高虎に頭を下げた。
「志信さま、見てください! あれはなんだ!」
興奮した梢子の口調が普段のそれに戻りつつある。俺は慌てて、答える。
「梢子さま。あれはジンベエザメですわ」
「まあ、あんなに平ぺったいのにサメですの?」
梢子は驚いた表情を見せ、口調を直した。そして、
「水玉模様だなあ」
聞こえるか聞こえないかのボリュームで小さく続けられた一言に俺は思わず、あはは、と声を上げて笑ってしまう。
「梢子さま、ジンベエザメは初めてですか?」
「ええ」
ふたりで手を繋いで水槽にへばり付いていると、
「梢子、ちょっと来なさい」
高虎が梢子の二の腕を掴んだ。
「どうかしましたか、お兄さま」
梢子がきょとんとした表情を浮かべて言う。それには答えず、
「志信さん。申し訳ないが、ここで待っていてください。僕は梢子と少し話がありますので」
「はい」
高虎は梢子を引きずるようにして通路の向こうへ消えてしまった。俺を守ってくれるはずの、梢子の頼もしい手が離れてしまい、俺の中の不安がまた燻り始める。もしかして、俺はなにか失敗をしたのだろうか。高虎が不審に思うような行動は取っていないつもりだが。そこまで考えて、券売機のところでの梢子との会話を聞かれていた可能性を考える。ボリュームは抑えていたつもりだが、もし聞こえていたらどうしよう。不安と恐怖が俺を襲う。しかし、高虎には、俺が男だと勘付いたような様子はなかった。一先ずは安心してもいいだろう。そう結論付け、ジンベエザメの巨大水槽の前の三人掛けの椅子の端っこに、おとなしく座って待っていると、
「あの」
声をかけてきた男がいた。まさかナンパか。そう思いながら顔を上げると、見覚えのあるマッシュルームカットの男が戸惑ったように俺を見下ろしていた。あ、砂村次郎。中学の同級生であるその男の名前を呼びそうになり、俺は慌てて口を噤む。俺の脳内は今後の対応について、フル回転し始めた。プランA、知らないふりをする。プランB、罰ゲームだと言い張る。ぐるぐるとそんなことを考えていると、
「えっとね、間違ってたらごめん」
砂村は言った。彼によく似た小さな女の子の手を引いている。
「浮島くんだよね? 浮島志信くん」
「うん。久しぶり、砂村」
俺は迷った末、プランBを選択した。いくら違うと言ったって、顔は隠しようもないくらいに俺なのだし、砂村とはさほど親しくはなかったとはいえ中三の時には同じクラスで、普通に話をする間柄ではあった。なので、プランBのほうが、この場を自然に切り抜けやすいような気がしたのだ。
「やっぱり。わーひさしぶりー、浮島くん」
間延びした独特の口調でそう言って、砂村は俺の隣に腰掛ける。そして、女の子を抱き上げて膝に座らせた。
「ジロちゃん、だあれ?」
女の子が舌足らずな口調で砂村に言う。
「ジロちゃんのお友だち」
砂村は言って、「どうしたの、その格好」と笑みを浮かべる。
「似合ってるけど」
「これか」
俺は溜息交じりに紺サージのスカートの裾をつまんで見せる。
「見ての通り、罰ゲームだ」
間違ってはいない。これは、浮島の家系全体を巻き込んだ、壮大な罰ゲームなのだ。
「俺は今、お嬢様ごっこの真っ最中なんだ」
「お嬢様ごっこかー。いいなー、楽しそうだねー」
「おい、砂村。本気でそう思ってるのか」
俺が笑うと、砂村もへらりと笑った。
「浮島くんて、青蓮学園だっけ。女子部の制服でしょ、それ。制服もちゃんとお嬢様だ。罰ゲームにしては凝ってるよね」
砂村め。ぼやっとしているようで痛いところを突いてきやがる。
「よくわかるな、おまえ。ちょっと気持ち悪いぞ。制服マニアか」
俺は全力で誤魔化しにかかる。
「うわ、露骨にそんな扱いするのやめてよー。青蓮学園の制服なら、近辺の中高生ならだれでも知ってるって。胸ポケットのところに蓮の刺繍があるんでしょ」
砂村はそう言って、俺の平らな胸を指差し、へらりと笑う。そうだった、と俺は改めて思う。青蓮学園は進学校であると同時にスポーツも盛んで、男子部のテニス部や女子部の弓道部などは全国大会の常連だ。女子に擬態をし始めてから、あまり寮の外に出ないためか、この近辺では結構な有名私立高校だということを忘れてしまいがちだ。
「おれはねえ、子守り」
砂村は言う。話題が砂村のことに移り、俺は、ほっと息を吐く。
「この子、兄貴の子なんだ。姪っ子だね」
砂村の「兄貴」という言葉で、高虎の存在を思い出てしまい、慌てた。そろそろ戻って来るかもしれない。
「まゆちゃん、おにいちゃんに挨拶しよー」
砂村が言い、
「ジロちゃん、だめよ。まちがってる。おねえちゃんでしょ」
まゆちゃんが砂村を叱る。砂村は、ただただへらりと笑って、まゆちゃんの言うことを否定も肯定もしなかった。砂村は間違ってはいない。俺のほうがいろいろと間違っているのだから、なんだか申し訳がない。
「すなむらまゆきです、よんさいです」
はきはきと自己紹介をしたまゆちゃんだが、手は五になっている。俺は笑いながら、まゆちゃんの俺と同じおかっぱ頭を撫で、「浮島志信です。十五歳です」自分も自己紹介をする。
「あのね、おねえちゃん。まゆき、ジロちゃんとアシカショーみるの。いいでしょ」
まゆちゃんがうれしそうに言った。
「楽しそう。いいねえ」
そう相槌を打ちながらも、俺は高虎のことが気にかかっていた。高虎と砂村が鉢合わせた場合、砂村の反応によっては、俺が男だと露見してしまうかもしれない。それだけは、避けないといけない。
「あのな、砂村」
「うん?」
「俺、今日、連れがいて」
「うん」
「もうすぐ戻って来るかもしれなくて」
「うん?」
「ええと、その、つまり」
なにをどう言えばいいのか、こんがらがってしまう。
「お願いだ。もしそいつが戻って来たら、なにも聞かず、俺の言うことを否定せず、俺に話を合せてくれ」
「うん、いいけど」
砂村が、きょとんとした表情でそう言った時だ。
「すみません、志信さん。お待たせしてしまいました」
頭の上から美声が降ってきた。まだ、砂村となんの打ち合わせもしていないのに、と慌ててしまう。
「あ、あ、い、いえ、全然」
高虎の顔を見上げた俺は、きゅっと縮み上がってしまい、受け答えがしどろもどろになってしまった。高虎が、明らかに敵意を込めた目で、砂村のことを見ていたからだ。
「きみは、どちらさま? 志信さんとはどういうご関係だろう」
「え、おれですか? おれは中学の」
高虎の威圧感に気圧されたのか、砂村の咽喉がごくんと音を立てて波打つのが見えた。
「ど、同級生です」
そう言った声は明らかに震えている。まるで、虎に睨まれた草食動物のようだ。
「おにいちゃん。ジロちゃんのこと、いじめないでよ」
砂村の膝の上のまゆちゃんが、勇猛果敢に高虎をキッと睨みつけて言った。高虎は、初めてまゆちゃんに気付いたのか、少し表情を和らげる。
「こんなに素敵な女性をエスコートしているというのに、志信さんにまでちょっかいをかけないでいただけるかな」
高虎の言い回しは、いちいちクサい。俺は背中がむずむずしてしまい、少し身震いをする。
「ちょっかいなんて、おれは、べつに」
砂村は可哀相なくらいおどおどと俺を見て、高虎を見て、そして、まゆちゃんの小さな身体に縋るようにぎゅっと抱きついた。もっとしっかりしろ、砂村。そんな小さな女の子に縋るんじゃない。
「ジロちゃん、こわいの? まゆきがいるからだいじょうぶだよ」
まゆちゃんは、砂村に心配そうな声をかけている。
「あ、そうですわ。あの砂村くん。もうすぐアシカショーが始まってしまいますわ。まゆちゃんが楽しみにしていましたのに」
俺が言うと、
「あ、本当だ、時間」
砂村はなにもない左手首を、まるでそこに時計でもあるかのように見て言った。落ち着け。
「あの、じゃあ、おれはこのへんで」
砂村は明らかにほっとしたようだった。この場から逃げられるという安心感からか、俺の珍妙な言葉遣いにはなんの反応も示さない。ばたばたと慌ただしくまゆちゃんを膝から床に着地させ、自分も椅子から立ち上がった。
「行こっか、まゆちゃん。じゃあね、浮島くん。またね」
「ええ。砂村くん、また。あとでメールを送ります」
俺は頷き、まゆちゃんは砂村の手を握る。そして、空いているほうの手で、「ばいばい、おねえちゃん」と手を振ってくれた。高虎には、あかんべをしている。勇ましい。
「ごきげんよう」
俺はふたりに手を振り返しながら、高虎の視線をちくちくと感じていた。
あとで砂村にはフォローを入れておかないと。ついでに口止めも。確か、卒業式の日に連絡先を交換していたはずだ。
「隣に座りますね、志信さん」
高虎がにっこりと笑みを浮かべて俺の隣に遠慮がちに腰を下ろした。
「ええ。あの、高虎さま? そういえば、梢子さまはどちらに?」
戻って来たのは高虎だけで、さっきから梢子の姿が見当たらない。
「梢子は帰らせました」
「そ、そんな。どうして……」
高虎の言葉に、俺は驚いて目をむく。
「そういうことでしたら、わ、わたくしも。梢子さまがいらっしゃらないなら、わたくしも」
帰らせていただきます。そう言おうとした。梢子がいてくれなきゃ死んじゃう。高虎とふたりきりなんて、俺、今日が命日になっちゃう。誇張ではなく、本当にそんな心境だった。しかし、
「志信さん」
高虎の美しくも優しげな声に遮られた。
「志信さん。あなたも高校を卒業したら、大学へ進学するのでしょう」
高虎は少し背中をまるめ、俺に視線を合わせて言った。俺を怖がらせないよう、高虎なりに気を遣ってくれているのかもしれない。
「ええ、そのつもりです」
俺はおとなしく頷く。
「大学までは、それでいいかもしれない。女子大に進学するということも可能ですから。ですが、大学を卒業して社会に出たら、どうです」
この時、高虎の言わんとすることが、俺にも理解できた。
「社会に出たら、周りは男ばかりです。女性ばかりの職場もあるでしょうが、その取引先も女性ばかりだとは限りません。社会に出たら、どこに行っても少なからず男はいます。志信さん、このままではいけません。このままでは、あなたにとって、社会に出て働くということが苦痛でしかなくなってしまうかもしれない。男性恐怖症を克服しましょう。僕に、そのお手伝いをさせてください」
そもそも男性恐怖症ではなく、高校を卒業したら早々と男としての生活に戻る予定の俺にとっては、余計なお世話といえばそうなのだが、高虎の俺を見る真剣な表情に、胸がちくちくと痛む。罪悪感だ。高虎は、どうやら本気で俺の行く末を心配してくれているらしい。高虎なりに俺のことを気にかけて、俺にとって何が必要か考えて出した提案なのだろう。俺は痛む胸を押さえ、頷いた。
「ありがとうございます、高虎さま」
咽喉が詰まったようになり、高い声が出せない。地声に近く、かすれてしまった俺の声を聞いても、高虎は笑みを浮かべていた。威圧感のない、あたたかみのある笑い方だった。
俺がこわいのは、高虎に俺が男だと知られることだ。溺愛している妹のルームメイトが男であると露見してしまうこと。こんなことがばれたら、殴られるくらいでは済まないかもしれない。だって、俺にもし妹がいたと仮定して、その妹が全寮制の男女別学校または女子校に通っていたとして、そしてその寮でのルームメイトが女のふりをした男だったとしたら。嫌だ。すごく嫌だ。ふたりの間にやましいことがなにもなかったとしても、嫌だ。気に入らない。腹が立つ。絶対、ただでは済まさない。最低でも、一発は殴る。想像上の妹ですらこのくらいのことを思ってしまうのだから、高虎もきっと同じだろう。青蓮学園は浮島の系列の学校なので、もし俺の正体が露見した場合でも転校なりなんなりと学校側で対処してくれるのだろうが、これは気持ちの問題だ。俺は、高虎を騙している。高虎だけではなく、佐和子や、女子部のみんな、大勢を俺は騙している。その事実が、俺に罪悪感を覚えさせるのだ。
「ところで」
高虎が、先程とは打って変わり、表情と声をかたくして再び口を開いた。
「先程の、キノコみたいな彼ですが」
砂村のことだ。
「はい」
俺は身構えながら返事をする。
「彼にメールを送ると、志信さん、おっしゃっていましたね」
そこに引っかかったのか。うっかり口に出さなきゃ良かった、あんなこと。俺は自分の詰めの甘さを呪う。
「彼とは、頻繁に連絡を取り合うような仲なのですか?」
「いえ、そんな。中学校の卒業式以来です。久々にお会いしました」
「でも、連絡先は知っている、と」
「はい。卒業式の日に、クラスのみんなで連絡先を交換いたしましたので」
「彼のことは、怖くないのですか?」
「砂村くんは、そうですね」
俺は先程のおどおどした砂村の姿を思い出し、自然と笑みがこぼれてしまう。砂村が俺と高虎を交互に見るたびに、マッシュルームにカットされた髪の毛がさらさらと揺れていた。
「ええ。砂村くんは怖くありません」
小さなまゆちゃんに縋りつく砂村の姿を思い出し、込み上げてくる笑いをこらえながら、俺は言う。そういえば、俺も高虎と初めて会った時、梢子の後ろに隠れたのだった。砂村だけに、しっかりしろ、だなんてとても言えない。
「もちろん、お話するだけでしたら、ということですけど」
ふうん、と高虎は鼻を鳴らし、むすっと拗ねたような表情になる。
「あの、高虎さま。どうかなさいました?」
尋ねると、
「おもしろくない」
高虎は不満気な様子を隠そうともせずに、そう言った。
「あ……」
俺の口から、自然と落胆の声がこぼれてしまう。
「そ、そうですよね。わたくしといても、つまらない……ですよね」
高虎の言葉に、なぜ一瞬でも落胆してしまったのか、自分でもよくわからない。この外出が楽しいものになる可能性が低いことは、最初からわかっていたことだ。しかし、面と向かって、おもしろくないなどと言われると、やはり傷付く。育ちのいいお嬢様ばかりが集まった女子部にはこんなふうに自分の感情を面に出す人間は少ない。他人に気を遣う、穏やかに諭す、自身の感情は表に出さず、常に笑顔。そういうことが当たり前のことになってしまっていた。短い期間とはいえ、そんなぬくぬくとした居心地の良い環境にいたためか、高虎が俺に向ける感情が、今とても痛かった。
「ごめんなさい。あの、わたくしやっぱり……」
やっぱり帰ります、と再度口を開こうとしたその時、
「違います」
高虎が慌てたように言った。
「違うんです。志信さんといるのがつまらないとか、そういう意味ではありません」
高虎は、うう、と悔しそうに唸り、「僕は、また間違えた」と息を吐き出すように言った。
「違うんです」
高虎は、違うんです、を繰り返す。
「僕はつまり、志信さんが、男と親しくしていることが気に入らない。それが、おもしろくないんです」
なんとか言葉を見つけたらしい高虎が言ったのは、先刻、真剣な表情で俺に語りかけた内容とは真逆のことだった。
「あの、あの。でも高虎さま」
俺は戸惑いながら口を開く。
「先程は、男性恐怖症を克服するお手伝いをしてくださる、と」
その言葉を聞いた高虎が、きょとんと俺の顔を見る。その表情は、通常時の高虎よりも、少し幼く見えた。
「我ながら、矛盾していますね」
高虎は呆けた表情で、ふう、と息を吐いた。高虎自身も戸惑っているようだった。
「志信さんに、男性恐怖症を克服してほしいのは、本当なんです」
俺は黙って、高虎の声を聞く。
「ですが、志信さんが他の男と仲良くしているのを見ると……」
高虎はそこで一旦、口を噤み、
「すみません。また、怖がらせてしまうかもしれない」
そう言って、立ち上がった。高虎は、その続きを話すつもりはないようだった。
「さあ、志信さん。デートの続きをしましょう」
完璧な笑顔を見せた高虎に、
「あの、やっぱり、これはデートだったのですか?」
俺も立ち上がりながら尋ねる。
「少なくとも、僕はそのつもりでした」
その時、真剣な表情でそう言った高虎が、俺の手をそっと握ってきた。
「あ」
思わず声を上げ、勢いよく振り払ってしまう。傷付いたような高虎の表情が目に映り、
「ご、ごめんなさい!」
慌てて謝罪の言葉を口にする。
「大丈夫です。ゆっくり慣れていきましょう」
少し情けないとも取れるような表情で、高虎が言った。
「申し訳ない。今のは、僕が悪い。少し焦りすぎました」
そう言った高虎に、先程と変わった様子はない。高虎は今、直に俺の手に触れた。あの日、梢子が見抜いたように、男だとばれてしまったのではないかと不安になる。そう思い高虎の顔を見上げてみるが、やはり、そんな素振りは全くない。男だと気付いたのか、気付かなかったのか、どっちだ。俺はもやもやと胸の内に渦巻く不安を振り切るように、
「いえ、高虎さま!」
強く声を出す。
「繋ぎましょう、手を」
ばれたらばれた時だ。土下座でもなんでもしてやろう。俺は腹を括る。正体がばれて転校することになったら、梢子や佐和子とは離れることになるな、と、ふと思う。それはすごく寂しいが、それでも、肩の荷は下りるかもしれない。今度の学校では親しい友だちはなるべく作らないようにしよう、などと、前向きなのか後ろ向きなのかよくわからない思考を働かせていると、
「……いいんですか」
高虎が驚いたように言う。
「ええ」
頷いて、俺は高虎に手を差し出した。高虎が、それを大事そうにやわやわと握る。
「いかがですか? どんな感じでしょう」
思わず聞いてしまった。どんな感じだ。この手は明らかに男だろう。少なくとも女じゃない。どうなんだ。梢子の兄ちゃんなら見抜けるはずだ。さあ、言ってみろ高虎。俺の脳内で、なぜかドラムロールが響く。
「いえ、その」
高虎は一瞬、口ごもり、
「どきどきします、すごく」
それだけ言って、俺から目をそらしてしまった。ドラムロールは、ふつんと途切れる。
「なぜ」
声に出てしまった。どきどき? 浮かんだ疑問を考える前に、
「なぜって」
高虎が呟いた。
「すみません。まだ聞かないでください、志信さん」
高虎の赤くなった顔が視界に入り、俺もつられて赤面してしまう。先程までの余裕のある態度とはかけ離れたその反応に戸惑ってしまい、俺は黙る。そして、わかってしまったのだ、高虎の気持ちが。ぐう、と咽喉が押し潰されるように苦しくなった。高虎に握られた手に神経が集中する。俺の心臓まで動きが早くなってしまう。
黙ったまま手を繋いで、ふたりでぎくしゃくと歩き、水槽を覗き込む。時々、高虎と目が合った。照れくさそうに微笑む高虎を見て、なんだか泣きたくなる。男だとばれてもいいと思っていたはずなのに、ここまでばれないとなると、自分から言い出さなくてはならない。しかし、情けないことに、今の俺にはまだその勇気が出ないのだ。ごめん、と俺は、心の中で高虎に謝った。
騙してごめん、高虎。せっかく好きになってくれたのに、俺は女の子じゃない。
昼食は、館内のフードコートで食べた。
「レジで注文をして、先に代金を支払うのです」
先払いのシステムがいまいちよくわかっていないようだった高虎に、俺はひそひそと教えてやる。
「なるほど」
高虎は言い、「ごちそうします」と俺に笑みを向けた。
「そんな、いけません。申し訳ないです」
俺は首を振る。
「入場料も甘えさせていただきましたのに」
「しかし、今日は先日のお詫びも兼ねていますので」
「いいえ、自分で支払いますわ」
ここで押し問答をしても仕方がないので、俺はさっさと自分の分の支払いを済ませ、空いている席を確保する。高虎が座るのを待ち、ふたりでいただきますをし、チキンバーガーにかぶり付こうと口を開けようとしたところで、俺は気付いた。これは、失敗だったかもしれない。外出自体が久しぶりのことで、感覚が狂ってしまい、つい食べたいものを頼んでしまったが、初デートでハンバーガー系のものは難易度が高かった。食べるには大口を開けなければならない。俺はいま女の子なので、そんな大胆なことはできない。どうしようかと考えて、自分の思考に自分で驚いた。初デートってなんだ。思考が完全に女の子寄りになってしまっている。それに、あの時、高虎にあんなふうに食ってかかっておきながら、自分がいちばん、女はこうあるべきだ、という固定概念に縛られているような気がする。情けなく思いながら、俺は遠慮がちにチキンバーガーをちびちびとかじる。
「こういうのは、思い切ってかぶり付いたほうがおいしいですよ、きっと」
高虎が言い、自分のチーズバーガーをがぶりとやって見せた。俺は先程までの上品な所作の高虎とその動作が結び付かず、呆気に取られて瞬きを繰り返す。そして、ああそうか俺に気を遣ってくれたんだ、ということに思い当たり、笑みが込み上げてきた。
「そうですわね」
感謝を込めてそう返事をし、俺も遠慮なくチキンバーガーにかぶり付く。お嬢様だってハンバーガーに思い切りかぶり付いたっていいのだ。笑顔の高虎と目が合い、俺も笑みを返す。先程までの緊張が、少しずつ解けていくのを俺は感じていた。
「キノコみたいな彼は、アシカショーを観ると言っていましたね」
ハンバーガーを食べ終わり、ポテトをつまみながら高虎が言った。
「砂村次郎くんです」
俺は思わず笑ってしまう。砂村の髪型は確かにキノコみたいではあるが、高虎の口から拗ねたように発せられるその表現は、妙に子どもじみていて、少しかわいいとすら思ってしまった。
「僕らも行きましょうか、午後のアシカショー」
「ええ」
高虎の提案に、俺は頷く。
高虎は、アシカショーを思いの外興奮した様子で楽しんでいた。
「見てください、志信さん。アシカは賢いんだなあ」
ブロックで足し算をするアシカを見て高虎がはしゃいでいる。
「志信さん、志信さん、今の見ましたか?」
「ええ、見ておりますわ」
察するに、高虎も梢子も水族館は初めてのようだ。この兄妹は、幼少期にはなにをして遊んでいたのだろう。そんなことを考えながら、俺は高虎に笑みを返す。アシカを見てはしゃぐ高虎の姿は、ジンベエザメを見た時の梢子の興奮した姿と重なり、やはり兄妹だな、と俺は微笑ましく高虎を見つめてしまう。ふと目が合い、高虎があの作ったような完璧な笑顔ではなく、はにかんだように幼げに微笑んだので、心臓がどっくんと大きく脈打った。思わずセーラー服のスカーフを掴むようにして平らな胸を押さえる。これは、良くない兆候かもしれない。微かに不安を感じながら、俺は高虎に曖昧な笑みを返す。
「楽しいですね、志信さん」
高虎が言った。
「ええ、とっても」
俺は自分自身に戸惑いながらも、現在の素直な気持ちを言葉にした。
その後も、手を繋いで水族館内の水槽をひとつひとつ覗いて歩き、無言で青蓮学園前行のバスに乗り込んだ。二人掛けの席に並んで座り、お互いの緊張を感じながらバスに揺られて学園前まで帰った。高虎は、俺の手を、ずっとやんわりと握っていた。
男子部と女子部のちょうど真ん中の分岐路で高虎は俺の手を離して言った。
「今日はありがとうございました。あとで、メールを送ります」
「こちらこそ、ありがとうございました。お待ちしております」
他に何を言えばいいのかわからず、俺はただそう言って頷いた。
ありがとうございました。