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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「志信さま、梢子さま」

 朝の校門で後ろから声をかけられ、俺と梢子は同時に振り返る。きちんと身体ごと振り返り、声をかけてくれたクラスメイト、門之園佐和子と対面する形をとった。

「ごきげんよう」

 佐和子はにこりと笑みを浮かべ、頭を下げる。

「ごきげんよう、佐和子さま」

 梢子も温和そうな笑みを浮かべて頭を下げて挨拶を返した。腰までのつやつやした二本の三つ編みが、前に垂れてゆらゆらと揺れる。

「ごきげんよう」

 地声よりもがんばった、いくらか高めの発声で俺もそれに倣う。おかっぱにしている髪の毛が顎のラインに触れて少し痒いが我慢する。俺も梢子みたいに髪の毛を伸ばして三つ編みにでもしてみようか、と思う。しかし、そうすると登校までの朝寝の時間が髪を編む作業で削られてしまう。それに、髪の毛をここまで伸ばすのにだって苦心したのだ。三つ編みができるようになるまでには、どのくらいの年月がかかるのか想像もつかない。下手すれば伸ばしている内に卒業式の日を迎えてしまう。この学校を卒業した後には、長い髪の毛は意味をなさなくなる。やはり、今の状態がベストなのかもしれない。佐和子はと言うと、肩よりも少し長い、ふわふわした髪の毛の上半分だけを後ろで結び、今日は白いリボンで飾っている。佐和子はおしゃれさんなので、リボンのバリエーションが多数存在するのだ。

「佐和子さま、今日のおリボンも素敵ですわね」

 俺の言葉に、

「まあ、本当に。上品な白が佐和子さまによくお似合いですわ」

 梢子も鞄を持っていないほうの手を胸に当て、嬉々として乗っかる。

「ありがとうございます」

 佐和子はうれしそうに笑う。

「ですが、志信さまや梢子さまには敵いませんわ。おふたりとも本当に所作まで素敵なんですもの……。わたくし憧れておりますの」

 恥ずかしそうに頬を染める姿は、たいそう奥ゆかしく可愛らしい。

「ああっ!」

 そんな佐和子をぼーっと見ていたら、佐和子が突然焦ったような声を上げた。

「そうでしたわ! わたくし本日、日直でしたの! それでは志信さま、梢子さま。また教室で」

 そう言って、小走りに駆けて行く佐和子の後姿を笑顔で見送りながら、

「疲れる」

 梢子がぼそっと呟いた。

「仕方がないだろう」

 俺も梢子にしか聞こえないように小さく言う。

「ここで生活していくには、猫を被っていたほうが都合がいい。おまえがそう言ったんだろ」

「それはそうだが。まだ四月末でこれだけ苦痛なんだ。これが、更にこれから三年間、毎日毎日続くのかと思うと、心底うんざりだ」

 梢子は言葉とは裏腹に温和そうな表情を作り、お嬢様然とした様子で守衛さんに会釈をしながら校門をくぐる。

「そういうこと、佐和子さまの前で絶対言うなよ。あの子は本物のお嬢様だ。他人から向けられる擦れた感情や悪意に免疫がないんだからな。大事に扱わないとすぐ傷付いちゃうぞ」

 俺も笑みを浮かべ、梢子の後にそっくりそのままの形で続いた。

「人聞きの悪い。悪意なんか向けるもんか」

 梢子は温和そうな表情を崩さず言う。

「佐和子さまと話すのは少々疲れるが、佐和子さまのことは嫌いじゃない。あの子はいい子だよ」

 梢子の言葉に俺も頷く。

「ああ、あの子はいい子だ。かわいいし」

「なんだ、惚れたのか」

 梢子がおかしそうに言ったので、

「そんな心の余裕なんてないよ」

 俺はゆるく首を振る。

「だろうな。おまえの抱えている秘密は、殊更に神経を使う」

 梢子はそう言い、俺はため息をつく。


 浮島の家系には、古いしきたりがある。浮島家に生まれた子どもは、青春期を異性として過ごさなければならない、というものだ。現在では、わかりやすく、十六になる年から十八になる年までと決められている。つまり、高校に進学したのなら、その三年間を男子は女子として、女子は男子として過ごさねばならないわけだ。このしきたりには、大昔に浮島家で起こった陰惨な出来事が関わっているらしいのだが、その話だけで長編小説ばりに長くなるので割愛する。簡単にまとめると、「多様性を受け入れ、どんな環境にも順応できる人間になるため」のしきたりということのようだ。とにかく、異性として過ごす期間が存在するということが前提であるため、浮島家の子どもには必ず男女両用の名前が与えられる。

 俺の名前は、浮島志信という。例によって例のごとく男女両用の名前を与えられ、この春から青蓮学園高等学校の女子部に通っている。ちなみに、性別は男だ。

 一六七センチメートルという、男にしては少し低めの身長と、生まれながらの女顔のおかげか、入学してから一ヶ月、俺が男だとはばれる気配はない。コンプレックスがこんなふうに役に立つとは思わなかった。しかし、まだ一ヶ月。これからあと三年弱、俺はセーラー服に身を包み、女学生として過ごさなければならないのだ。梢子の言う通り、心底うんざりだ。

 俺と梢子の通う、この青蓮学園高等学校は、浮島の家系が経営する学校のひとつで、全寮制の男女別学高校だ。女子部、男子部、と銘打ってはいるが、実質、グラウンドを挟んだ同じ敷地内に、女子校と男子校が隣接しているようなものだ。男女共用であるはずのただっ広いグラウンドさえも、その真ん中に背の高い金網フェンスが備え付けられており、朝礼や体育の際の男女の接触を阻んでいる。


「なあ、志信。今日の日替わりランチはエビフライらしいぞ」

 梢子が俺の耳元でひそひそと言った。俺と梢子の身長はほぼ同じくらいで、梢子のほうが少しだけ高い。そのことも、俺が男であることを隠す助けになっているのかもしれない。

「おまえは食堂のメニューチェックだけは欠かさないんだな」

「当たり前だ。この学園の食堂の味は絶品だ。それにこんな閉鎖された空間で、食べること以外になんの楽しみがあると言うのだ」

 恵庭梢子。茶道恵庭流家元の娘であり、俺の寮でのルームメイトである。

 入寮日、受付で告げられた部屋番号の扉を開けると、既にルームメイトは部屋に入っていた。俺はセーラー服を身にまとったおさげの後姿に、「こんにちは」と遠慮がちに声をかけ、部屋の扉を閉めた。日当たりの良い部屋の窓を開け、そこから外の景色を眺めていたその女の子は、ゆっくりとこちらを振り返った。それが梢子だった。梢子の姿を初めて目にした俺は、その美しさに思いきり圧倒された。一目惚れとか、そんなのんきなものではない。恋心を抱くことすらおこがましいと思わせる絶対的な美しさを、梢子は纏っていたのだ。

「こんにちは。浮島志信さまですね?」

 さくらんぼ色の唇からこぼれ出した声は、まさに鈴の鳴るよう。腰までのつやつやの黒髪をきっちりと三つ編みにした梢子は温和そうにふんわりと微笑んだ。姿だけでなく声まで美しいなんて、どれだけ完璧なんだこの女。

「わたくし、恵庭梢子と申します。よろしくお願い致しますわ」

 住む世界が違う。瞬時に思った。

「浮島志信です。よろしくお願い致します」

 俺も咄嗟に頭を下げたが、先行きの不安さだけがもやもやと胸の内を支配していた。

「ルームメイトがこんなに可愛らしいかただなんて、うれしいですわ。仲良くしてくださいませね」

 梢子はあからさまな社交辞令を言いながら、こちらに歩み寄り、そっと俺の肩に手を置いた。その時だった。

「ん?」

 先程の鈴の鳴るような声とは打って変わったワントーンもツートーンも低い声が俺の耳に届いたのだ。

「おまえ、男か。この骨格、少なくとも身体は女じゃないだろう」

 梢子は低い声で鋭く言ったのだ。

 終わった。俺の高校生活、ここで終了だ。まだ始まってもいないのに。そう思い、目の前が真っ暗になった。観念した俺は、自分が男であることや、浮島家のトンデモ事情などを半泣きになりながら、梢子に洗いざらい打ち明けた。騒がれて転校することになってもいいという覚悟の上だったのだが、梢子は黙って俺の話を聞いたあと、「事情はわかった」と重々しく言ったのだ。

「いいだろう。内緒にしておいてやる」

「え、本当にいいのか?」

 俺は驚いて聞き返してしまった。

「その代わり」

 梢子は交換条件を出してきた。そういうのがあるのか、まあそうだよな、と俺は梢子の次の言葉を待つ。

「私はこの部屋の外ではさっきみたいな大和撫子で良妻賢母な完璧超人を演じているのだが」

 やはりあれは演技だったのか。俺は女という生き物の恐ろしさを実感した。

「あのほうがなにかと都合がいいものだから、ああいうふうにしているが、この部屋では、今みたいに素で過ごすことを許してもらいたい」

「うん。いいよ、そのくらい」

 少しほっとしながら言うと、

「本当だな。私が机の上に脚を投げ出していたり、わきの下をかいたり、床に胡坐をかいたりしていても怒ったりしないな」

「しないよ。わきでも胡坐でもいくらでもかけよ。なんで怒るんだよ」

「ならいい」

 梢子は頷いた。まさか、怒られるのがいやだというだけで猫被っているのだろうか、そんなことを思っていると、

「それから」

 梢子はまた続けた。

「まだあんの?」

「あるさ。わかっているとは思うが、志信、おまえ、私に手を出すなよ」

 梢子は重々しい声で俺を威嚇するようにニヤリと笑ったのだ。

「わかりました」

 というか、そんなこと怖くてできない。俺はぶるりと身体を震わせて即答した。

 初対面で俺に恐怖の感情を植え付けた梢子だったが、寮の部屋もクラスも同じということで、なんとなく四六時中いっしょに過ごし、しかもお互いに気安く素で接しているためか、一ヶ月足らずで普通に仲良くなってしまった。周囲にも、「志信さまと梢子さまは親友同士」という認識があるのか、俺と梢子はセットで扱われることが多い。



 教室へ足を踏み入れると、明日の全校集会の話題で持ちきりのようだった。全校集会は月一で開かれ、一時間目をまるまる使って行われる。部活動等での何かしらの表彰式や、行事等の予定の伝達などを主とする、全校生徒を対象とした連絡会のようなものらしい。らしい、というのは、全て佐和子から聞いた話だからだ。今回の全校集会が、俺たち一年生にとっては入学式以来、初めての男女混合のイベントとなる。フェンスに遮られたグラウンドで行われる朝礼とは違い、本当の意味で男女共用である講堂で行われる。集会が始まる前や終わった後の少しの時間を使い、男子部の生徒との短い会話や手紙の交換をするのを楽しみにしている女生徒も多いらしいと、これも佐和子からの伝聞だ。交友範囲の広い佐和子は、いつもどこかしらから様々なことを聞いてきては俺と梢子に教えてくれる。黒板には、「全校集会について」と白墨を使った美しい文字で書かれている。日直である佐和子の字だ。

「佐和子さまの字は美しいなあ」

 梢子が、感心したように言う。

「あら。梢子さまの字だってお美しいじゃありませんか」

 猫被ったまま、からかうように言うと、「おまえの字もな」と、あっさり返された。近い将来のためだから、と両親に無理矢理通わされていた書道教室のおかげで、俺の字もまあまあ整ってはいる。少なくとも、男子高校生が書いた字とは思えないくらいには。両親の言った、近い将来というのは、要するに今、現在のことなのだ、と性別を偽って生活してみてから初めて気が付いた。女の子の書く文字というのは、例外もあるが、だいたいは美しいか丁寧か可愛らしいかのどれかだ。特に、お嬢様の多いこの学校では、字の美しい子が多い。書道教室に通って矯正していなければ、俺の字は間違いなく浮いてしまっていたことだろう。

「梢子さま、志信さま」

 藁半紙の束を持った佐和子が駆け寄ってくる。ショートホームルームで配るプリントを職員室に取りに行っていたのだろう。まるで飼い主に駆け寄るトイプードルのようなかわいさだ。

「手伝いますわ」

 俺が言うと、

「ありがとうございます、志信さま。でも大丈夫です。教卓に置くだけですの」

 佐和子はふんわりと頬を染めて、そう言った。その言葉通り、佐和子はプリントの束を教卓に置く。そして、そのプリントを一枚手に取り、俺たちのほうに見せながら言った。

「ここに書かれているお名前、もしかして梢子さまのお身内の方でしょうか?」

 梢子が、佐和子からプリントを受け取る。俺も横からそれを覗き込む。「全校集会のお知らせ」と書かれたそのプリントには、女子部、男子部で選出された生徒会役員の名前が記されていた。今年度の役員は、昨年度の選挙で選ばれたらしい。

「男子部生徒会会長、恵庭高虎……さま」

 俺は声に出して読んでみた。佐和子が言っているのはこれだろう。恵庭という姓は、そんなにありふれたものではないので、梢子の親戚だと思うのは至極あたりまえの発想だ。

「ええ。高虎は、わたくしの兄です」

 案の定、梢子は頷いた。ていうか梢子、きょうだいがいたのか、と俺はそちらのほうに驚く。こいつの兄貴なんて想像がつかない。実は、俺は梢子のことをなにも知らない。いくら仲がいいとはいえ、梢子は女の子だ。どこまで突っ込んだ話をしていいのかわからないというのもある。しかし、梢子は、話したいことがあれば自ら口を開くやつだ。ということは、兄貴のことは、あまり話したいことではないのかもしれない。

「生徒会会長に選ばれるなんて、梢子さまのお兄さまは優秀なお方ですのね」

 佐和子は何がうれしいのか、にこにこしている。佐和子のことなので、友だちのお兄さんが優秀なことが純粋にうれしいのかもしれない。

「まあ、そんなこと……。なんだかこそばゆいですわ」

 絶対そんなことを思っていないだろう梢子が、はにかむように微笑む。本性を知らなければ、即ノックアウトな微笑みだ。そんな梢子を横目で見ながら、俺は気が付いてしまった。プリントには、見覚えのある名前がある。気のせいかと思ったが、どうやらそうではないようだ。浮島友衛。梢子の兄貴の名前の下に書かれた、男子部生徒会副会長の欄には、確かにその名が記されていた。

「とっ」

 驚きに声を上げてから、慌てて口をつぐむ。なぜ、友衛ちゃんの名前がここにあるんだ。

「そして、こちらの副会長の浮島友衛さまというのは、志信さまのお身内の方でしょうか?」

 会長の名前同様、既に気が付いていたのだろう、佐和子が次の質問です、とばかりに俺に尋ねる。「この方とこの方、あなたたちの身内?」と一度に聞かず、ひとりずつに丁寧に質問するのが佐和子さまの育ちの良さなのだろう。

「ええ、もしかしたら」

 俺は慎重に答える。

「もしかしたら、わたくしのいとこかもしれません。いえ、おそらくいとこです」

 梢子が、何か聞きたそうな顔でこちらを見たので、「あとでな」と視線だけで伝える。

「明日の全校集会、きっと生徒会役員の皆さまが壇上でご挨拶なさるのだわ」

 佐和子が浮足立った様子でうっとりと言った。

「楽しみですわね」

 俺も、それに乗っかって言う。

「女子部の生徒会会長、新堂珠美さまをご存じ?」

 佐和子が俺と梢子を交互に見て言った。

「いいえ。お恥ずかしながら存じ上げません」

 俺が言うと、

「ショートヘアがお似合いで、それはそれは凛とした方なんですのよ。わたくし、ファンなんです」

 佐和子が言った。佐和子さまは、意外とミーハーである。俺たちは三人で顔を見合わせながら、うふふ、と笑い合った。



 授業が終わり、梢子とふたりで一目散に寮の部屋に戻る。梢子は茶道部に入っているのだが、体調不良を理由に今日は休むことにしたらしい。ちなみに、俺は部活動をしていない。入りたかったのは剣道部だ。剣道は小学生のころからやっていたので高校でもやりたかったのだが、男子ということを隠して女子の部活に入るのは、あまり強くなかったとはいえ、能力的にというか体力的にフェアではない。かといって、文化部には入りたい部が特になかったため、授業が終わったら真っ直ぐに寮へ帰るという味気ない生活を送っている。

「あのシスコン野郎、どういうつもりだ」

 部屋の扉を閉めるなり、温和そうな微笑みの仮面を脱ぎ捨てた梢子が憤慨したように言った。

「生徒会なんて聞いてなかったぞ。しかも会長だと?」

「どうしたんだよ、梢子。生徒会のなにがそんなに不都合なんだ」

 なにか気になる単語が聞こえた気がしたが、とりあえずスルーして尋ねる。

「会計や書記なら私も文句はない。だが会長となると非常にまずい」

「だから、なにが」

「志信、知らないのか」

 梢子が言う。

「なにを?」

 そう聞き返すと、梢子は小さく舌打ちをした。やめてくれ。ちょっと傷付く。

「志信、生徒手帳くらい隅々まできちんと読め。擬態するなら徹底的にやれ。その詰めの甘さが命取りになるんだぞ。後悔してからでは遅いんだ」

 梢子の言葉に、ああ、梢子は生徒手帳を隅々まできちんと読んだんだ、と思う。なんだかかわいい。

「女子部と男子部、双方の生徒会、会長と副会長にだけ与えられた特権がある」

 俺の無知さに呆れたのか、諦めたように梢子は説明をしてくれた。

「奴らは、手続きをせずとも、女子部と男子部を自由に行き来できる。非常に厄介な存在だ」

 通常、部活動や何かしらの用事などで女子が男子部へ、男子が女子部へ訪問する際には、書類上の手続きが必要なのだそうだ。

「なにがまずいの?」

 なおも尋ねると、

「あいつが、あのシスコン野郎が、許可がなくとも女子部に自由に出入りできるようになってしまった。これが、どういうことかわかるか」

 先程スルーした気になる単語が再び登場した。

「私の自由は失われたも等しい」

 演技とはいえ、あいつのいない空間でそれなりにのびのび楽しくやっていたのに、と梢子は嘆く。

「あいつに煩わされることに比べたら、佐和子さまとの会話なんて、楽しいガールズトーク以外の何物でもない。ああ、佐和子さまって、癒しだったんだな。近くにいすぎて気付かなかった」

 まるで青い鳥を見つけたチルチルとミチルのようなことを言う。

「おまえの兄ちゃん、そんなにシスコンなの?」

 さすがに、今度はスルーできずに尋ねると、

「ああ、少々特殊だが、あれはやはりシスコンとしか言いようがない」

 梢子は忌々しそうに頷いた。

「私の普段の大和撫子で良妻賢母な完璧超人演技は、対高虎用だと言っても過言ではない。あいつは理想の妹像というくだらないものを自分の中に持っていて、それに私がぴったり当てはまると思い込んでいる。妄想を抱いていると言ってもいい。つまり、あいつが可愛がっているのは自分が妄想した理想の妹なのだ。うわ、今改めて思ったが、可哀想なやつ。私が理想の妹像から外れた言動をすると、ねちねちと説教をしてくる。その煩わしさと言ったら、もう。そんなふうに説教されるくらいなら、と、あいつの妄想に従順に付き合っているうちにあの超人スキルが身に付いてしまった。まあ、今では時と場所を選んで有効に活用させてもらってはいるが、家族の中で唯一私の本性を知らないのが、あの兄だ」

 梢子は息継ぎなしに捲し立てる。

「それって、いろいろしんどそうだな」

 ていうか、おまえの兄ちゃん、まじで可哀相なひとだな、というのは心の中に留めておく。

「しんどいなんてもんじゃないぞ。ストレス地獄だ」

「おまえ、それ、ちゃんと兄ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃないの」

「話してわかる相手なら、とっくにそうしている」

 梢子は吐き捨てるように言い、制服のセーラーのスカーフを抜き取り、ペッと絨毯に投げ捨てた。

「物に当たるのはやめろよ」

 俺が言うと、

「そうだな」

 幾分か冷静になったのか、梢子は投げ捨てた紺色のスカーフを拾い、「ごめんよ」と謝った。うわ、こいつスカーフに謝ってる、と思ったが、言わない。

「そういえば、おまえのいとこが副会長だと言ったな。男子部の」

 梢子が言った。

「私の話ばかりでわるかったな。今度はおまえの話を聞こうじゃないか」

 言葉はこちらを気遣っているふうだが、梢子の目は好奇心にきらきらと輝いている。

「俺の話は簡単だよ。要するに、あっちも事情は俺と同じだ。友衛ちゃんは、女の子だよ」

「やっぱりそうか」

 梢子が言った。

「内緒だぞ」

 一応、と俺は念を押す。

「わかってるさ」

 梢子は頷く。

「友衛ちゃん、まさか同じ学校だったとは思わなかったなあ。小六の時以来会ってないけど、元気にしてるかな」

「元気だろう。なんせ副会長だ」

 ため息をついた梢子は、「明日が憂鬱だ」と、湿っぽくこぼす。

「兄が目立つと、相乗して私まで目立ってしまう」

「今さらだろ、梢子さま。おまえは、元から目立ってるじゃないか」

「自らの美しさや完璧ぶりが目立つのと、兄のせいで悪目立ちするのとは性質が全く違う」

 なおもぐちぐちと言う梢子に、

「もうすぐ夕飯の時間だ。エビフライ食べて元気出せよ」

 そう言うと、

「それは学園のほうの食堂のランチメニューだ。もうお昼に堪能した。おまえもいっしょのテーブルについたじゃないか。観察力も注意力もないのか、おまえは」

 くどくどとそう訂正しながらも、夕飯のことを思い出した梢子は少し元気になった。

「寮の食堂の夕飯は豚のしょうが焼きだぞ、今日は」

 それに、相変わらずチェックはしっかりとしているらしい。どこまでも食い気なんだな、と俺は呆れる。

「よし、着替えよう」

「了解。俺も着替える。あっち向いて着替えるから、おまえは俺が振り向かないように見張ってろ。俺は別に着替え見られてもいいし」

 自分にあてがわれている小さな洋服ダンスから寮指定の部屋着を取り出し、俺は梢子に背を向けて制服を脱ぐ。

「つい前日まで、恥ずかしがってベッドにもぐり込んで着替えていたやつと同一人物とは思えない台詞だ」

 梢子が笑う。

「慣れたんだよ」

 俺も笑いながら言う。確かに最初の頃は、梢子が着替えている気配ですら恥ずかしかったし、自分の着替えるところを見られるのも恥ずかしかった。部屋干しされている梢子の下着が視界に入るのも戸惑ったし、俺のボクサーパンツを隣に干してもいいのかどうか悩んだものだ。しかし、いっしょに生活している内に、家族同然とは言いすぎかもしれないが、そのくらいここの寮生活に馴染んでしまったのだ。そもそも、恥ずかしがっていたのは俺だけで、梢子本人は見られても平気なのかというくらい、いろんなことに無頓着だった。それも良かったのかもしれない。ああ、そんなに気を遣わなくてもいいんだ、と俺は安心してしまったのだ。

「慣れたと言えば、最初は下半身の解放感に全く慣れなかったけど、慣れればらくちんでいいよな、この部屋着。俺、女装卒業しても、パジャマだけはガーゼ素材の買うわ」

 指定の部屋着はガーゼ素材の白いワンピースだ。胸元のボタンをとめながら、なんとはなしに言うと、

「なるほど。そうやって人間は、どんな環境にも順応していくのだなあ。そう思うと、おまえんとこの変なしきたりは、ちゃんと機能しているじゃないか」

 梢子が納得したように言った。否定できないのが悔しい。



 全校集会でも、梢子は目立っていた。普段は忘れがちだが、梢子の容姿は、それはそれは美しいのだ。女子部の生徒は、「梢子さまだわ」という憧れの目で、男子部の生徒は「あの美少女は誰? 本当に人間?」という目で梢子を見ている。

「みなさま、梢子さまを見ていらっしゃいますわ」

 佐和子がにこにこしながら言う。

「あら。佐和子さまのことを見ていらっしゃるのよ。だってこんなに愛らしいんですもの」

 完璧な微笑みを浮かべた梢子が佐和子のふわふわの髪の毛にそっと触れた。その瞬間、ため息のような感嘆の声が周囲から聞こえてきた。どうした女子たち。

「今日のおリボンは群青色ですのね。かわいい……」

「そんな、梢子さま」

 佐和子は顔を真っ赤に染めて、うっとりと梢子を見つめる。どうした、佐和子さま。気をしっかり持て。

「おい、あんまり佐和子さまで遊ぶなよ」

 梢子の耳元でひそひそと言うと、

「遊んでなどいない。癒されていたのだ」

 梢子は俺の耳元で囁き返してきた。声に元気がない。どうやら、本格的に佐和子との会話に癒しを求めていたようだ。梢子にここまでのストレスを与える、兄という存在に少し興味が湧いてきた。

「それにしても」

 俺は、男子部のほうを見ながら、

「あんなに大勢の男の方が集まっている様子は、少し恐ろしいですわね」

 ぽろっと思ったことをそのままこぼしてしまう。濃紺の詰襟学生服を着た混じりけのない男がうじゃうじゃとたくさん群がっている様は、ここ最近では見慣れない光景すぎて本当にちょっと恐ろしかったのだ。

「まあ、志信さまは男性が苦手ですの?」

 佐和子が心配そうな様子で尋ねてくる。

「……ええ、そうですわね。少し苦手かもしれません」

 俺は口許を片手で抑えながら言う。自分も男のくせにどの口が言ってんだ、と自分で自分がわからなくなる。

「わたくしもですの。中学も女の子ばかりでしたから、男の方って少し苦手で。わたくしたち、おそろいですわね」

 佐和子が言う。その言葉になんだか申し訳なくなる。本当は、俺も男なんです、佐和子さま。言えないけど。

「ええ、佐和子さま。おそろいですわね」

 そう言いながら、自分が思っているよりも、俺は女子部に馴染んでしまっているのだと思い知らされた。ショックだ。高校生男子として、明らかに間違っている。

 集会が始まり、壇上に立った生徒会役員たちを眺める。その中で一際目立っていたのが、やはり男子部生徒会長の恵庭高虎だった。一目で、梢子の兄ちゃんだとわかった。顔がよく似ている。と言っても、高虎が女顔というわけではなく、端正な、なんというか、和風の男前であった。

 通りのいい美声で挨拶をする高虎の声を聞き流しながら、俺は壇上に友衛ちゃんの姿を探す。集会が終わったら、少し話ができるかもしれない。しかし、それらしき姿が見当たらず、どういうことだろうと思っていたら、女子部の副会長の隣にいる、小柄な男子生徒が目に入る。副会長の隣にいるのだから、副会長のはずだ。ということは、あれが友衛ちゃんか。え、でも。と戸惑っていると、高虎が他の役員の紹介を始めた。

「男子部副会長、浮島友衛」

 高虎が言い、一歩前にでてぺこりと頭を下げたのは、あの小柄な男子生徒だった。

 声を上げそうになったのを我慢し、俺は息を飲む。本当に友衛ちゃんなんだ。小学生の時、俺が最後に見た友衛ちゃんは、ポニーテールを揺らしながら、はつらつと笑っていた。しかし現在、壇上に立つ友衛ちゃんは、黒縁眼鏡をかけており、おまけに坊主頭だったのだ。

「どうした、志信。気分が悪いのか。ちなみに私の気分は最悪だぞ」

 梢子が後ろからひそひそと言い、俺の背中を軽く撫でた。

「や、平気。友衛ちゃんが坊主頭になってて、ちょっとショックだっただけ」

「志信。大事なのは、あの心意気だ」

 梢子が神妙な声で言う。どうやら友衛ちゃんに好印象を抱いたらしい。

「擬態するなら徹底的にやる。それを実行している友衛さまは素晴らしいじゃないか」

 梢子は言い、「あいつは、きっと私のところに来る。志信、集会が終わっても、そばにいてくれよ」と本題をぶつけてきた。

「俺がそばにいたからって、どうにかなるもんかね」

「いないよりは心強いよ」

 梢子は、珍しく弱気だ。ここまでくると、俺も高虎が怖くなってくる。



「梢子、学校には慣れたか」

 梢子の予言通り、集会が少し早めに解散になった後、高虎は満面の笑みを浮かべてやってきた。梢子に話しかけようとしていた無謀な男子生徒たちは高虎の存在感に怯え、散り散りになる。

「ええ、お兄さま」

 梢子はにっこりと笑い頷いた。俺は高虎を見上げる。近くで見ると結構でかい。一八〇センチくらいはありそうだ。

「梢子、こちらの方々は?」

 高虎は梢子の隣にいる俺と、その俺にくっついている佐和子に気付き、そう尋ねる。

「志信さま、佐和子さま。ご紹介が遅れて申し訳ありませんわ。こちら、わたくしの兄の高虎です」

 梢子が、まず高虎を俺たちに紹介する。

「お兄さま。こちら、浮島志信さまと門之園佐和子さま。わたくしの大切な友人です。いつもお世話になっておりますの」

 俺と佐和子は、高虎にぺこりと頭を下げる。

「志信さまはわたくしの寮でのルームメイトですわ」

 梢子がそう付け足す。その報告いる? と思わなくもなかったが、俺は意識的に笑顔を浮かべた。

「妹に良いご学友ができたようでうれしいです。妹がいつもお世話になっています」

 高虎は俺と佐和子に言う。佐和子と俺は恐縮してしまい、こちらこそ、とかなんとかぼそぼそ言いながら、ただただ頭を下げる。いち男子高校生のくせに、なんなんだこの威圧感は。

「これからも、妹をよろしく」

 そう言って、高虎は俺と佐和子のほうに右手を差し出してきた。俺は、ぽかんとそれを見る。この手はなんだろう。見かねた佐和子が、おずおずと高虎の手を握る。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 それを見て、そうか、握手だったのか、と気付く。俺も手を出そうとしたのだが、その時、梢子と初めて出会った時のことを思い出した。梢子は、俺の肩にさわっただけで俺を男だと見抜いた。どうやら骨格が違うらしい。ということは、梢子の兄である高虎も、もしかしたら手をさわっただけで俺を男だと見抜いてしまうかもしれない。そうなると、どうなる。溺愛している妹のクラスメイト兼ルームメイトが男だと知られたらどうなる。

 殺されるかもしれない。

 俺は、出しかけた手を思わず引っ込めて、梢子の後ろに隠れるようにして縋ってしまう。高虎が訝しげにこちらを見ている。

「お兄さま」

 梢子が俺をかばうように一歩前に出て、きっぱりとした口調で言った。

「志信さまは、男性恐怖症ですの。握手はご遠慮願いますわ」

 梢子の独断で、苦手から恐怖症へと格上げになってしまった嘘に、少し安堵する。その言い訳はナイスだ、梢子。

「そうでしたか。それは失礼しました」

 高虎は納得したように手を引っ込めた。

「本当に、申し訳ありません。お話をするだけでしたら平気なのですが」

 俺は高虎に頭を下げる。芽生えてしまった恐怖心がなかなか消えず、顔から血の気が引いてしまっている。それを見た高虎が慌てたように、

「こちらこそ、怖がらせてしまったようで、すみません。顔色が悪いです。保健室へ行かれたほうがいいのでは」

 などと気遣ってくれる。

「大丈夫ですか、志信さま」

 佐和子があわあわしながら俺の背中をさする。

「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」

 俺は、なんとか笑って見せた。

「あの、わたくし、男子部のいとこと話して参りますわね。この機会を逃すと来月になってしまいます」

 早く高虎の前から逃げたくてそう言うと、

「あ、もしかして従兄というのは浮島友衛ですか。苗字が同じですよね」

 高虎が言う。しまった、食いつかれた。

「ええ」

 俺が頷くか頷かないかのうちに、

「志信さま。わたくしもいっしょに参りますわ。佐和子さまもごいっしょに」

 梢子が間髪を入れずにそう言った。どうやら、梢子も高虎から逃げる隙を狙っていたらしい。

「ええ、ええ。参ります」

 佐和子はこくこくと頷いている。心底心配そうな佐和子の様子に、俺は、ありがとう、と頷いて見せる。

「それでは、お兄さま。ごきげんよう」

 梢子の声が凛と響く。



「友衛ちゃん」

 くりくりの坊主頭の後ろから声をかけると、

「うっそ、志信くん?」

 振り向いた友衛ちゃんは、驚いたように俺の名前を呼んだ。くん呼びは変じゃないだろうか。ばれやしないかとひやひやしたが、佐和子を見ると特に気にしていない様子だったので安心する。

「志信くんも、この学校だったんだねえ」

 友衛ちゃんは眼鏡の奥を細めて笑う。友衛ちゃんの身長は、俺よりも少し低い。その身長と坊主頭のせいか、男子中学生のように見える。しかし、ちゃんと男子に見えているのだから、友衛ちゃんの努力の跡が窺える。

「もう慣れた?」

「ええ。みなさん良くしてくださいますし、居心地がいいですわ」

 俺の返答に、友衛ちゃんの頬がぷっくりと膨らむ。噴き出すのを堪えたのだ。なにそのしゃべり方、とでも思っているのだろう。俺だって普通にしゃべりたいが、今は梢子だけでなく佐和子もいるのだから、擬態を続けるしかない。

「梢子さま、佐和子さま。こちら、わたくしのいとこの浮島友衛です」

 俺は先程の梢子を真似て紹介をしてみる。

「こちら、恵庭梢子さまと門之園佐和子さま。わたくしの友人です」

「よろしくね」

 友衛ちゃんはさらっと言って感じのいい笑みを浮かべる。梢子と佐和子は微笑んで頭を下げた。

「恵庭さんというと、梢子ちゃんは恵庭高虎くんの妹さんかな?」

 友衛ちゃんは梢子に尋ねる。

「ええ。兄がお世話になっております」

 梢子は言う。

「美男美女の兄妹だねえ」

 友衛ちゃんは言い、

「門之園さんは、もしかして門之園グループのお嬢さん?」

 今度は佐和子に質問を向ける。

「え、ええ。友衛さま、よくご存じですのね」

 佐和子が驚いたように言った。

「ぼくは、マルカドのホットケーキが大好きなんだ。寮の部屋にもストックがあるんだよ」

 友衛ちゃんはそう言って笑う。

「うれしいですわ」

 佐和子が頬を桃色に染めている。佐和子の父親が総帥を務める門之園グループというのは、ホテルや食品や文房具などを扱う、いくつもの企業を擁する世界的な企業グループなのだ。友衛ちゃんの言うマルカドのホットケーキというのは、門之園グループの食品会社が販売しているホットケーキミックスのことだろう。丸印の中に「門」の字のマークの、ちょっと高級なやつ。ちなみに、俺は食べたことがない。高級品だから。

「実は、学校の調理室でこっそり焼いて食べたりするんだ」

 内緒だよ、と友衛ちゃんは人差し指を立てて言った。梢子も佐和子も、リラックスしたように笑っている。友衛ちゃんの醸し出す空気は、高虎のそれとは違い、とてもやわらかい。

「友衛ちゃん、生徒会副会長なのですのね。驚きましたわ」

 俺が尋ねると、

「うん。ちょっと興味があって。こういうことを経験しておいてもいいかなと思ったんだ。生徒会というのは学生の時しか経験できないし、大学受験にも有利だと聞くしね」

 友衛ちゃんは言った。そして、「じゃあ、ぼくはまだもう少しやることがあるから」と話を切り上げ、

「ぼくの携帯番号とメールアドレス。なにかあったら連絡してね。なにもなくても連絡していいから」

 俺の手を取り、どこから出したのか油性マジックで掌にさらさらと番号とアルファベットを書いた。

「梢子ちゃん、佐和子ちゃん。志信くんのこと、よろしくね」

 最後に友衛ちゃんはそう言って、たかたかと教師陣のいる隅の方へ駆けて行った。

「高虎さまも友衛さまも、素敵な方ですわねえ」

 佐和子がその後ろ姿を見ながら呟いた。

「わたくし、ひとりっ子ですから、今日はなんだかおふたりが羨ましくなってしまいました」

「あら、わたくしもひとりっ子ですわよ」

 俺が笑ってみせると、

「そうでした。友衛さまは従兄さんでいらっしゃいましたわね」

 佐和子も笑う。

「おそろいですわね」

 佐和子が言うのを、

「佐和子さまは、おそろいがお好きですのね」

 梢子がからかうように言う。

「もう」

 佐和子が拗ねたように言い、俺たちは三人で、うふふ、と笑い合った。

 もう言い逃れはできない。俺はこの女子部に、めちゃくちゃ馴染んでしまっている。

「ところで、志信さまは、友衛さまには『志信くん』と呼ばれているのですね。どうしてですの?」

 佐和子さまが無邪気に問うてきた。やはり気付いていたらしい。おっとりしているようで、なかなか鋭い。

「実は……お恥ずかしい話ですが、幼いころのわたくしはとてもヤンチャで、男の子みたいだったんです。なので、それをからかって、親しい人たちは『志信くん』と呼んでいるのです」

「まあ、そうなんですか。志信さまがヤンチャ……とても信じられませんわ」

 佐和子は驚いたように俺を見て、やわらかく微笑む。梢子のほうを見ると、顔の中心にくしゃっとしわをよせ、舌を出して見せた。やめろ。美人が台無しだ。



 梢子の兄、高虎に再び出会ったのは、全校集会の三日後のことだ。

 それは放課後、梢子が茶道部へ行ってしまってからのことだった。ちなみに、佐和子も合気道部に入っているため、放課後はいっしょには遊べない。

 俺はひとりで鞄を持って、ぶらぶらと中庭を歩いていた。寮に帰っても勉強以外にすることがないので、校舎の周りを少し散歩してから帰ろうと思ったのだ。時折すれ違う顔見知りの女生徒や教師に挨拶をしながら、ふと真正面を向くと、濃紺の学生服が目に入った。男だ。そう思い、身体を固くする。なぜ、ここに男が。ここは安全で平和な女子部のはずだ。下を向き、ビクビクしながら通り過ぎようとすると、

「浮島志信さんではありませんか?」

 男が言った。ビクッと肩が跳ねる。この声は、つい先日聞いたばかり。そして、まだ目線を上げてもいないのに感じる、この威圧感。

「ま、まあ、梢子さまのお兄さま」

 俺は言って、

「ごきげんよう。先日は失礼をして、申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げる。梢子が懸念していたのはこれか、と思う。高虎がここにいるのは、たぶん生徒会関係の用事か何かなのだろうが、案内役が同行せずとも自由に女子部内を歩き回られたら、たまったものではない。梢子は、こんなふうに高虎に女子部内でばったり会ってしまうことを恐れていたのだろう。ちょうど今、俺だってばったり出くわしてしまい、しかも呼び止められてしまったのだ。常に梢子のことを念頭に置いているだろう高虎の目に、梢子が見つからないはずはない。いつ出くわすかわからないというのは、やはり結構嫌なものだ。後で梢子に報告しよう。用心するように言わなくてはいけない。

 それにしても、と俺は思う。このような特権を与えられているという事実が、生徒会会長、副会長に選ばれた人物への学校側からの信頼度が窺える。改めて、高虎はすごいやつなのだと思う。相変わらず、威圧感もすごいし。

「気にしないでください。それに、僕のことは高虎でいいですよ」

 高虎は言い、

「志信さん。もし、よければあちらで少し話しませんか」

 芝生に設置されたベンチを示す。

「え」

 俺が戸惑っていると、

「梢子の、ここでの様子も聞きたいですし。ええと、会話だけなら平気でしたよね。またご気分が悪くなるようでしたら、遠慮させていただきますが……」

 高虎は、そう言った。男性恐怖症というのを覚えていてくれたらしい。ここまで気遣われているのに、断るのも変だろう。

「ええ、よろこんで」

 俺は笑顔を作り、頷いた。

 高虎は俺を先にベンチへ座らせ、人ひとりぶんくらいの間を空けて自分も座った。やはり、気遣ってくれているらしい。悪いやつではないのだろう。それどころか、かなり紳士的だ。威圧感はすごいけど。

「浮島友衛は大丈夫なんですね」

 高虎が口を開いた。

「はい?」

 なんのことですか、と首を傾げると、

「全校集会の時、手をさわっても大丈夫そうだったので」

 高虎の言葉に、あれを見られていたのか、と苦い気持ちになる。友衛ちゃんの番号とアドレスを教えてもらった時のことだ。まあ、梢子を目で追っていたのだろうから、嫌でも視界に入る。友衛ちゃんは本当は女ですから、とは言えない。そもそも男性恐怖症ということ自体が大嘘なので、もう何をどう言い訳すればいいのかよくわからなくなってきた。しかし、友衛ちゃんは身内だ、という根本的なことに気付いて、

「友衛ちゃんは、いとこですので」

 俺は自信満々に言い訳をする。

「身内は大丈夫ですの」

「そうですか」

 高虎はほっとしたように薄く笑った。その顔は、やはり梢子によく似ている。

「浮島という姓は、このあたりでは珍しくないのでしょうか。志信さんのご親戚以外にもいらっしゃいますか?」

 高虎がふいにそんなことを言う。

「珍しいかどうかはわかりませんが、浮島姓の方はだいたい親戚かもしれませんね。近いか遠いかの違いです」

 俺の返事に、

「では同性同名というのもあり得ますか? 志信さん以外にも、同じ名前のご親戚がいらっしゃるとか」

「志信という名前ですか? わたくしと同じ名前の者を実際には知りませんが、男女問わず、親戚で同性同名は珍しくはないです。わたくし以外にも志信という名前の者がいてもおかしくはありません」

「なるほど」

 なんせ、浮島家には男女共用の名前という縛りがあるのだ。自然と名付けの選択肢は狭くなる。

「どうですか、梢子は」

 高虎は唐突に話題を変え、ふわっとした質問を投げかけてきた。さっきまでの同性同名云々の話はなんだったのだろうか。もしかして、高虎は男の姿の俺を知っているのだろうか。一瞬、そんな不安に襲われる。しかし、中学時代に俺は高虎に会ったという記憶はない。会えば絶対覚えているはずだ。とにかく、今は目の前の「どうですか、梢子は」に答えることを優先する。どうって、どう答えよう。

「梢子さまは、おやさしくて賢い方ですわ」

 俺は梢子が不利にならないように、考え考え言葉を口にする。

「わたくし、いつもお勉強を教えていただいております」

「そうですか。梢子が」

 高虎はうれしそうにしている。実際、妹が褒められてうれしいのだろう。表情が兄貴のそれになっている。

「お恥ずかしながら、わたくしはあまり賢くありませんので、授業でわからないところがある度に梢子さまのお世話になっておりますの。本当に、梢子さまにはいつも頼りきりで、申し訳ないくらいですわ」

「いや、女性はそのくらいのほうがいいですよ。あまり賢くない方が可愛げがあります。梢子は少し出来すぎる。あれと比べてはいけません」

 高虎のその言葉に、梢子をあんなふうに完璧超人にしたのはおまえだろう、と思わず心の中でツッコむ。それと同時に、なんだかムッとしてしまった。こいつ、今ものすごく差別的なことを言わなかったか。しかも上から目線で。男の俺だってムカつくような、こんなことをこいつは実際女性に言うのだろうか。今、俺に言ったのと同じように。ていうか、妹を下げるふりしてさりげなく上げているところはさすがと言うべきか、このシスコン野郎。俺は心の中で、「ジェンダー!」と吠えた。

「ずいぶんと女性を下に見ていらっしゃるのですね」

 思ったよりも冷たい声が出てしまう。俺の態度の変化に戸惑ったのだろう、こちらを見た高虎の目が見開いた。俺は、その目を睨みつける。

「女性が賢くて、なにが悪いんです。女性がかわいくなくちゃいけないって、誰が決めたんです。賢い女性にだって、かわいい人はたくさんいます。賢くなりたくてがんばっている人もいます。他のことに秀でている人だっています。いろんな人がいるのに、そんなふうに一括りにして。かわいげがないというのなら、それはあなたがかわいいげのある態度をとりたくなるような男性ではないということでしょう。梢子さまは、かわいいかたですわ。少なくとも、わたくしはそう思います」

「いや、志信さん、僕はそういう意味で言ったのでは……」

「なにをなさっているの」

 焦ったような高虎の言葉に被さるように、凛とした声が聞こえた。

 声のした方向を見ると、女子部の生徒会会長である、新堂珠美さまが立っている。彼女は彼女で、また高虎とは違った気高いオーラを纏っていた。彼女は、固い表情でこちらに近付いてくる。そのオーラから、なんとなく怒られることを覚悟していたのだが、

「うちの大事な生徒を怖がらせないでいただけますか」

 実際に怒られたのは高虎のほうだった。珠美は、俺と高虎の間に身体を捻じ込むようにようにして座り、俺の肩を安心させるように優しく抱き、「あなた、大丈夫?」と労わりの言葉をかけてくれる。俺はこわごわと頷いた。

「遅いと思って迎えに来てみれば。いくら許可なく女子部に出入りできるからといって、勝手に歩き回られては困ります。しかも、一般生徒に絡んで泣かせるなんて。規則違反です。懲罰ものですよ」

 やはり、高虎は生徒会の用事で来ていたらしい。ていうか、珠美さま、俺泣いてません。珠美さまのプンスカ怒ったような口調とは裏腹に、俺の肩をさする手は優しい。

 その優しさに、高ぶっていた気持ちが急激に醒めていき、その温度差からか安心感からか、本当に涙が出てきた。俺は慌てて制服の袖で涙を拭い、

「珠美さま、すみません。わたくしもわるかったんです。ちょっとした意見の食い違いに、ついカッとなってしまって。高虎さまは、友人のお兄さまなんです。それで、あの、お話していて……」

 わたくし「が」わるかったとは言ってやらない。ちょっとした抵抗である。

「いえ、僕がわるかったんです。志信さん、申し訳ない。そういうつもりではなかったのですが、誤解させるような言い方をしてしまいました」

 今までポカンとしていた高虎が慌てて頭を下げる。高虎は、いともあっさりと自分「が」わるかったと認めた。なんだか負けたような気がする。人間としての器的に。

「つまり、ご友人同士の、ちょっとした喧嘩、ということでしょうか?」

 珠美さまが、俺と高虎に確認するように言う。俺は頷く。見ると、高虎も頷いていた。

「それは……」

 珠美さまは、言葉尻をしぼませてしまう。

「それは、申し訳ありませんでした、恵庭くん。わたし、一方的にあなたを責めてしまいました」

 俺の肩に優しく手を置いたまま、素直に謝る珠美さまのことを、俺は、かっこいいと思った。自分の勘違いを認めてさらに謝るというのは、ちょっとばつが悪いというか、なんというか、少しばかり気まずいものだ。それなのに、珠美さまはしっかりとした声で、きちんと高虎に謝罪をした。さすが、生徒会長に選ばれただけのことはある。この一瞬で、俺は珠美さまを尊敬してしまった。佐和子がファンだと言うのも頷ける。そして、先程の自分の言動を振り返り、俺は恥ずかしくなってしまった。

 さっきの、高虎の言葉を思い出す。

 そういうつもりではなかった。誤解させるような言い方をしてしまった。

 高虎は、そう言った。つまり、俺はもしかしたら勘違いで高虎に怒りをぶつけてしまったのかもしれない。もっと、ちゃんと高虎の話を聞くべきだったのではないだろうか。頭の中で、もんもんと自問自答を繰り返していると、

「いけません」

 珠美さまが少し焦ったような声を発した。

「恵庭くん。そろそろ時間です。会議が始まってしまいます」

「あ」

 高虎も、自分の腕時計を確認して小さく声を上げた。

「ごめんなさい。私たち、そろそろ行かなくてはならないの。あなたは、ひとりで大丈夫?」

 珠美さまが、心配そうに俺の顔を覗き込む。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 俺は慌てて言う。

「高虎さま」

 慌ただしく挨拶をして、珠美さまと並んで歩く高虎の背中に声をかける。高虎が、少し驚いたように振り向いた。

「高虎さま。今日は申し訳ありませんでした。また、お話ししていただけますか?」

 俺の問いに、

「ええ」

 高虎は、梢子によく似た、完璧な笑顔で頷いた。

「もちろんです」



 高虎から女子寮に郵送で手紙が届いたのは、それから数日後のことだった。学校から帰って手紙を受け取った俺は、差出人の名前を見て、すぐに封を切るのが怖くなり、梢子の帰りを待った。帰ってきた梢子に封筒を見せると、「なに考えてんだ、あいつ」と訝しげな様子だった。梢子が部屋着に着替えるのを待ってから、俺はやっと封筒を開けた。白い上質そうな便箋には、先日の謝罪の言葉と、あの時は、自分のことを賢くないと言い恥じ入っている様子だった俺のことを、「そんなこと気にすることはない」と励ますつもりだったのだが言葉の選び方を間違えた、という遠慮がちな言い訳が、堅苦しい文章とカッチリとした力強い字でしたためられていた。

「お詫びと言ってはなんですが、もしよろしければ、今度の日曜日に水族館にでもごいっしょしませんか。お返事をお待ちしています」

 机で読んでいる俺の横から手紙を覗きこんでいた梢子が、問題の部分を声に出して読み上げた。手紙には、高虎の携帯電話の番号とメールアドレスが書かれている。

「なんだ、これ」

 梢子が、ふすふすと鼻を鳴らしながら言う。笑おうかどうしようか迷っているのだ。

「女子にこんな手紙を送りつけるなんて、我が兄ながら浮かれているな。まるで、デートの誘いみたいだ」

「なに言ってんだ、梢子。そんなわけあるか」

「まあ、いいんじゃないか。男女が学外で会うということは特に禁止されているわけでもない。水族館か。楽しそうじゃないか」

「本当にそう思うか? おまえの兄ちゃんとだぞ? あの兄ちゃんとふたりで水族館て」

 なんの冗談だ。

 ははは、と渇いた笑い声を上げた梢子と俺はふと顔を見合わせて、お互いの思考を確認し合う。

「まさか。まさか、本当にデートの誘いなのか?」

 梢子が、おそるおそるといった感じで疑問を声に出す。

「ということは、この手紙は恋文か? 恋文なのか?」

 俺の頭の中は真っ白になってしまい、言葉すら口にすることができない。

「兄は、気軽に女性を誘うような性格ではなかったはずだ」

 梢子が堅い調子で言う。

「志信、おまえ、兄になにをした。なにを言った」

「俺はなにも。ただ、この手紙にも書いてあるけど、この間俺、中庭で兄ちゃんに会ったって言ったろ? その時に、少し誤解があって、食ってかかっちゃって」

「あの兄に食ってかかっただと?」

 梢子の声が真剣味を増す。

「志信。私でもやらないぞ、そんなこと」

 俺は、あの日の高虎とのやり取りを梢子に説明した。

「後悔してるよ」

 俺は、心底そう思っていた。

「なるほど。おまえは気に入られたんだ。兄に『おもしれー女』だと思われたんだ。兄は、自分の意見をしっかりと持った、勇敢で優しい女が好きだからな」

「『おもしれー女』って」

 梢子の言いように思わず笑ってしまう。おもしれー女、と、ふたりで笑いながら連発し、自分の性別が男だという事実に今更ながら思いあたる。

「そもそも俺、男なんだよなあ」

「だが兄は、志信のことを女だと思っている。おまえはロックオンされたんだ」

 きゅう、と俺の咽喉が鳴った。不安と恐怖でだ。

「奴は本気だぞ」

 梢子は俺を脅す。顔が笑いそうになっているので、面白半分なのだろうが、俺の不安と恐怖は全く消えない。

「ふたりきりでなんて会ってみろ。あいつ、本気でおまえを落としにかかるぞ。どうするんだ、志信」

「うわあ、ど、どうしましょう、梢子さま」

 俺は弱々しく言う。

「俺、男性恐怖症だつってんのに。嘘だけど」

「それだ」

 梢子が膝を打たんばかりにして明るい声を上げる。

「それを理由に、私も日曜のデートに同行しよう」

 梢子の提案に、俺の不安と恐怖は少しだけ薄らぐ。なんて頼りがいのあるやつなんだ。

「本当か。いいのか」

「ああ」

 梢子は嬉々として頷き、

「おまえには悪いが、正直おもしろそうだ。それに、私も水族館へ行ってみたい」

 舌舐めずりをせんばかりの様子でそう言って、にんまりと楽しそうな笑みを浮かべたのだ。そっちか、と思うものの、それでも梢子が付いてきてくれるのならば心強い。

「よし、志信。おまえの電源落としっぱなしのガラケーを起動させて、さっさと返信をしろ」

「了解!」

 後で思えば、男性恐怖症を理由に誘いを断れば良かったのだ。どうして、素直に高虎にメールを送り、のこのこと出かけて行ってしまったのかわからない。

ありがとうございました。

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