第5話 世界最強猫
猫のセンサーが何かを捉えた。
尖った二つの耳も、その大きく見開かれた目も、何かに関心を惹きつけられた時に見せる猫独特の反応だった。
「何かあるのね」
座っていた中庭のベンチから腰を上げて、恭子は猫が耳を向けている方向に向かった。
校舎の裏側。
日中でも少し薄暗い狭い場所で、一塊の男子生徒たちが何かに群がっていた。
恭子はすぐに気付いた。
二年の不良グループ。
五人程の髪を染めた少年たちが、一人の少年を取り囲んでいた。
あの子、また……。
恭子は取り囲まれて固まっている少年を知っていた。
昨年同じクラスだった目立たない男子生徒。
大人しい子であまり話をしたことも無いが、前に一度、関わりを持ったことがある。
昨年の六月にそれは起こった。
窓から投げ捨てられた少年の鞄。
校庭にいた恭子の足元にそれは落ちてきた。
見上げた教室の窓から、悔しそうに投げ落とされた鞄を見下ろす少年の姿に、どうしても黙っていられなかった。
鞄を手に取って校舎に入り階段を駆け上がった。
教室で高笑いを上げていた不良たちに、恭子はつかつかと歩み寄り腕を振り上げた。
「落としたわよ!」
力いっぱい硬い皮の鞄で不良の顔面を張り倒した。
衝撃的な女子の鞄ビンタは一時話題になった。
不良はやり返そうとしたが、口達者な美樹がいたお陰で助かった。
色々と女子の間で噂されるのを恐れて、踏みとどまったみたいだった。
そしてまた奇妙な巡り会わせで、こうして緊張感のある場面に出くわしてしまった。
見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうことも出来た。
しかし恭子にはそれが出来なかった。
「またあんたたちなの? いい加減にしなさいよ!」
少年を取り囲んでいた不良たちが一斉に振り向いた。
「片瀬……」
少年の胸ぐらを掴んでいた不良が、苦々しげにそう言った。
昨年、恭子が鞄でひっぱたいたあいつだった。
「またお前か。いいから引っ込んでろよ」
ずい分凄む練習をしたのだろう。いかにもという感じで凄んで見せた。
取り囲まれていた少年は突然現れた少女に気付き、そうと分かるほどオロオロし始めた。
不良は一旦少年から手を放し、あまり居合わせて欲しくなかった少女を、先に何とかしようとした。
「女に手えだしたら、ややこしくなる。見逃がしてやるからとっとと消えろ」
「その子を放したら私も引っ込むわ」
「調子こいてんじゃねえ!」
怒声が響いた。
怒りを滲ませて不良がこちらに近づいてくる。
口喧嘩なら分があるが、力では男子に到底敵わない。
ズカズカと近づいてくる不良の迫力に恭子は一歩後ずさった。
「やめろ!」
そう叫んだのは囲まれていた少年だった。
声が震えている。いや、声だけじゃなく足もガタガタと震えていた。
恭子に向かっていた怒りの矛先が、再び少年に向けられる。
不良は上目づかいで少年を睨みつけ、鼻にしわを寄せて怒りの表情をむき出しにした。
「なんだ? てめえ今なんつった!」
不良は少年の胸ぐらを再び掴んで、腕を振り上げた。
にゃー。
なんの緊張感もない鳴き声。
この場に最もふさわしくない、のほほんとした小動物が恭子の前にスッと現れた。
「猫?」
少年に殴りかかろうとしていた不良は手を止めて、その場違いな動物に目を向けた。
そして少年の胸ぐらから手を放すと、猫に向かって一歩踏み出した。
咄嗟に恭子は猫を庇おうと前に出た。その体を不良は突き飛ばした。
手を出してくると思っていなかった恭子は、バランスを崩して尻もちをついた。
そして不良はそのまま猫の首根っこを掴んで、自分の顔の高さまで持ち上げた。
「やめて!」
制止に耳を貸さず、不良は猫を掴んだまま恭子に冷笑を浴びせた。
「お前の猫か? ちょうどいいや」
不良がいやらしい笑いを顔に浮かべた時だった。
「フーッ!」
穏やかだったその姿が豹変した。
背中の毛を逆立て、蒼い目を爛々と輝かせて怒りの声を上げた猫は、俗に言う猫パンチを繰り出した。
その眼にもとまらぬ猫パンチは、不良の顔面に綺麗に吸い込まれた。
ドン!
その小さな手のいったいどこにそんな威力を秘めているのか、仲間たちの見ている前で、猫を掴んでいた不良は吹っ飛ばされていった。
あまりに不思議な光景に、恭子は開いた口が塞がらない。
吹っ飛ばされていった不良の手を放れた猫は、スッと二本足で音も無く着地した。
そして絶対に猫がしない表情を、その小さな顔に浮かべた。
ニヤリ。恐らくその猫は笑った。
そして目にも止まらぬ速さで、残りの四人の不良たちに猫パンチを食らわせていく。
とてつもない速さとその破壊力に、ものの数秒で不良たちは、地に這わされていた。
「てめえ」
最初に吹っ飛ばされた不良が起き上がった。手には拳大くらいの石を握っている。それで殴りつけてやろうとしているみたいだ。
二本足で立つ猫に向かって、手に持った石を振り上げながら不良は突進した。
そして恭子は見た。
スッと跳躍した猫が不良の鼻面に一瞬で近づく。
その瞬間、目にも止まらぬ速さの猫パンチが連続で繰り出された。
「ニャニャニャニャニャニャニャニャ!」
バシバシバシバシバシバシバシバシ!
まるでマシンガンのように繰り出された肉球に袋叩きにされ、不良はその場で膝をついて撃沈した。
車が飛んで行った時の様に、殴り終えた猫の両手の肉球からは、白い湯気のようなものが立ち昇っていた。
地に這ったまま気絶している五人の不良と、呆然と立ちすくむ少年。
そして昨日に引き続き、信じられ無いものを見てしまった少女。
二本足で立ったまま、綺麗な蒼い目を光らせる猫を、ただ恭子は唖然とした表情で見つめていた。