第54話 始まる世界
ベッドの上で恭子は目覚めた。
「あれ?」
そう言ったのは、自分が涙を流していることに気付いたからだ。
目元に指を当てて、まだ乾いていない涙を拭う。
「泣くような夢、見てたのかな……」
ベッドから身を起こして時計を見る。
そろそろ目覚まし時計のアラームが鳴るタイミングだった。
カーテンの隙間から射し込む光に、今日という日が快晴であることを期待した。
インスタントコーヒーとトーストの焼ける匂いが充満する食卓で、朝食を摂ったあと、朝の用事を済ませて自分の部屋で制服に着替える。
まだもう少し、家を出るのには早い時間だ。
恭子は充電していたスマホを手に取り、何気ない手つきで、毎朝眺めている猫の画像を画面に出した。
「やっぱり可愛い」
大きな欠伸をした三毛猫の画像を眺めて、恭子はそう呟いた。
それは、今は触れることのできない愛おしい存在だった。
先月の末に逝ってしまった十三年飼っていた猫。
安直につけられた「ミケ」と言う名の雌の三毛猫だった。
恭子は愛猫がいなくなってから喪失感に捉われてしまい、こうして時間があるときにはミケの写真を眺めていた。
いつも気ままにすり寄って来て、ゴロゴロと喉を鳴らした愛らしい存在を、気が付けば探してしまっていた。
「ミケ……」
そう呟いてから、恭子は少し眉をひそめた。
「ミー……」
その先の何かが口をついて出かけた時、階下から母の声がした。
「きょうこー、早くしなさーい」
「はーい、今行くー」
鞄を持って恭子は階段を降りる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関を開けると春の光がこぼれ落ちてきた。
その眩しさに目を細めながら、吸い込んだ空気の冷たさに、また新しい一日が始まったことを恭子は感じた。
春色に揺れる樹々の隙間から降り注いでくる明るい陽射し。
視線を少し上に向けると、少し散り始めた桜の花びらが、すうっと恭子の前を斜めに通り過ぎていく。
この時期以外、あまり普段気にもかけられない通学路は、春の装いに彩られて、通学する生徒たちの前でドラマティックな様相を見せつけていた。
「ね、おはよう」
トン、と背中を軽く叩いて横に並んだのは、同じ水泳部の島津美樹だった。
「ねえ恭子、化学の課題やってきた?」
「えっ、また?」
最近、恭子に頼りきっている感じの美樹は、ノート写しの常習犯だ。
「申し訳ないけど、ご名答。だって葛城先生いっつも平気で難問を押し付けてくるじゃない。解答間違ってたら嫌味言われるし、傷つくわけ。そこであんたの登場って訳よ」
「私を当てにしてサボってるの知ってるんだからね。今日は見せてやんない」
「そう言わずにお願いよ。あ、肩揉んだげる」
美樹は恭子の背後に回ると、首の付け根から肩にかけての部分に手を当て、絶妙な力加減でグイグイやり始めた。
「お客さん、大分こってますねえ」
「真面目に課題やったからよ。美樹みたいにゲームの誘惑に負けずにね」
「なに? 私の私生活覗き見してたの?」
「やっぱり。そうだと思った」
公園のある住宅街を抜けて進んでいくと、やや広めの二車線の県道に出る。
あまり車の通りも多くない横断歩道で、押しボタン式の信号機のボタンを恭子は押す。
しばらくお待ちくださいの表示が出ている間、友人に肩を揉ませる。
「どお? いい感じに解れたんじゃない?」
「そうね。美樹は肩もみだけは上手いよね……」
揉んでもらった肩に手を当てて、心地良く首を上に反らせたときおかしなものが視界に入った。
逆光で目を細めた視線の先の空間に、なんだか見知ったモフモフしたものが飛来していた。
「猫……」
晴天の空を背景に浮かび上がったその姿は、紛れもなく猫のシルエットだった。
それが何故、空を飛んでいるのかは分からない。
それが着地しようとしている場所が、今目の前にある問題だった。
歩行者信号は青に切り替わっているのに、真っ直ぐにスピードを落とさず突っ込んでくる一台の車があった。
よくここを通りがかる悪質な運転をするドライバーだった。
空中の猫は、このままだと横断歩道の中央辺りに着地してしまう。
横断歩道に着地しようとしている猫に向かって、恭子は飛び出した。
ほんの三メートルほど。
右手からキーッというタイヤと路面がこすれる高い音が聴こえてくる。
そちらに顔を向けず、視界に猫だけを捉えて、前かがみのまま恭子は手を伸ばした。
「ミースケ!」
恭子の口から自然と飛び出したその呼び名に、空中の猫が器用に首を回した。
美しい虹彩が際立つ蒼い瞳。
その表情には猫らしからぬ笑みが浮かんでいた。
恭子はそのまま猫を抱え込んだ。
次の瞬間、恭子のすぐ近くで大きな衝撃音がした。
ドン!
空を飛んでいるもの、今日はこれで三つ目だ。
最初は春風に吹かれて舞う桜の花びらを。
次に、青い空を背景にどこからともなく現れた猫を。
そして今、恭子の頭上には縦に回転しながら悪い冗談のように飛んでいく黒い車があった。
放物線を描いて少女の頭上を跳び越えて行った黒いバンは、破壊音を立てながら転がっていき、やがて沈黙した。
腕に抱えた少しずっしりとした猫に目を落として、少女は涙をぽろぽろと流していた。
「ミースケだ……」
少女に抱きしめられ、こぼれ落ちた涙で柔らかな毛を濡らしながら、世界最強猫は「にゃあ」と懐かしい声で鳴いてみせたのだった。
ご読了頂きありがとうございました。
とんでもなく強い、ハチワレ模様の猫ミースケと、中学生の少女、片瀬恭子の冒険はようやくここで前半を終えました。
ただひたすらにミースケに愛情を注ぎ続ける恭子と、同じ様に恭子に親愛の情を傾け続けるミースケ。
異界から来た怪物との決戦に、絶対者のトラオと、恭子に想いを寄せる少年、野村忠雄を巻き込んで、この物語は衝撃的な最後を迎えました。
ミースケが予言していた未来、あるいは過去。それはこれから後半の物語へと続いていきます。
特異点である世界最強猫が、成し遂げようとしていることとは。
恭子に想いを寄せる普通の少年、野村忠雄の正体とは。
全ての謎が一本の糸に繋がっていく後半の物語、「世界最強猫と私 リ・スタート」は少し時間を置いてまた始まりを迎える予定です。
それではまたお会いできることを願って。
ひなたひより




