第53話 途切れる世界
激しい衝撃音は怪物の手から放たれたものだった。
波動を全身にまとったミースケが、背後にいた恭子の目の前でその波動につかまり、宙を舞った。
「ミースケ!」
恭子は廊下に弾き飛ばされていったミースケに駆け寄った。
ピクリとも動かないミースケを恭子は助け起こした。
腕に抱いて呼吸をしているのかどうかを確かめる。
恐らく波動をまともに食らったはず。
全身に波動を纏っていたミースケは、何とか息をしていた。
「ミースケ! ミースケ!」
「う、うう……」
苦し気な呻き声を上げながら、ミースケは蒼い目をやっと開いた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「すまない。気を失ってしまったみたいだ。あいつは?」
「いま、トラオが必死で盾になってくれてる」
「そうか……」
ミースケは恭子の腕の中からぴょんと床に飛び降りた。
そして蒼い目を輝かせて構えを作った。
いつもの構えと違う。両手を前に突き出した初めて見せる構えだった。
「今から必殺の一撃を撃つ。忠雄、おまえはキョウコを連れて学校を出ろ」
忠雄はミースケの真剣さを受け止めたのか、それを承諾した。
「分かった。片瀬さんは僕に任せて」
「ああ。頼んだ」
忠雄と話しながらも、ミースケは波動を集めていく。
ミースケが何らかの覚悟を決めたことを悟って、恭子は必死で止めた。
「駄目。駄目だよ。ねえミースケ、一緒に逃げよう。お願いだから私と一緒に……」
「すまないキョウコ」
ミースケは波動を充満させた蒼い瞳で恭子を振り返った。
月光に照らされたその姿は、凛々しく、とても美しかった。
「きっとまた会える。今は俺の言うことを聞いてくれ」
「ミースケ……」
恭子はその覚悟がゆるぎないものであることを思い知った。
そしてミースケが叫んだ。
「トラオ!」
ミースケが叫んだ瞬間に、怪物と対峙していたトラオが、跳躍して窓の外に飛び出した。
怪物との距離はおおよそ七メートル。
ミースケは両手から練り上げた波動を撃ち出した。
ドオオオオ!
空気を震わせる激しい爆発音とともに、巨大な波動の塊が、らせんの帯を引きながら怪物に吸い込まれていった。
衝突と同時に怪物の体は四散した。
「やった!」
恭子が声を上げると、ミースケはその場でバタリと倒れ込んだ。
波動を出し尽くして倒れ込んだミースケを、恭子は抱え込む。
「ミースケ。やったよ。あいつは消し飛んじゃったよ」
「キョウコ……」
ミースケは苦し気に半開きの蒼い目を恭子に向けた。
「逃げろ。今すぐ」
「どうして? だってあいつは……」
その先を言おうとしたとき、ミースケは恭子の腕からするりと抜け出していた。
もう一度抱き上げようとした恭子の腕を、忠雄が掴んだ。
「片瀬さん!」
「野村君、待って、ミースケが」
「駄目だ! 走るんだ!」
思いがけないくらいの強い力だった。
恭子は駆けだそうとした忠雄に必死で抵抗した。
「待って! ミースケを置いていけない。お願いだから待って」
「駄目だ! 今逃げないと君が危ないんだ!」
そして恭子は振り返った。
四散したはずの怪物。しかし廊下の隅にただ一つ残っているものがあった。
あのメドューサさながらの怪物の首が、うねうねと触手を動かしながらこちらににじり寄って来ていた。
そして猛烈な速さで触手を恭子に伸ばしてきた。
咄嗟に忠雄は、伸びてきた触手から恭子を庇うように体を割り込ませて突き飛ばした。
「う、うううう」
恭子は見た。
目の前で自分を庇った少年が触手に貫かれるのを。
「野村君!」
鋭い真っ黒な触手が、忠雄の脇腹を貫いていた。
突き飛ばされた恭子は、床にお尻をついたまま、呆然と刺し貫かれた少年を見上げていた。
「キョウコ! 早く逃げろ!」
窓から再び戻ってきたトラオが怪物の頭に飛び掛かって行った。
忠雄を貫いていた触手は、トラオが割り込んできたことでズルリと抜けた。
そのまま立ち尽くす忠雄に、起きあがった恭子は駆け寄った。
「野村君! 野村君!」
「片瀬さん、僕は大丈夫だよ。さあ、ここから逃げよう」
忠雄は恭子の手を取って怪物に背を向けて歩き出した。
忠雄に手を引かれながら恭子はミースケを振り返った。
「ミースケ……」
頬を涙が伝った。
一度流れ出した涙は、ポロポロととめどもなく後に続いていく。
「忠雄。キョウコを頼んだ」
「分かった……」
振り返らず忠雄はそう言い残して、恭子の手を引い歩く。
忠雄の後に続いていく恭子の靴裏に、ぬるりとした感触がある。
床に血の跡を残しながら忠雄は必死で恭子の手を引いていた。
「野村君、野村君……」
恭子はもう名前を呼ぶことしか出来なくなっていた。
二匹の猫を置き去りにし、大怪我を負った少年に手を引かれている自分が惨めで情けなかった。
ただ涙が止まらなかった。
「片瀬さん」
いつもの優しい声だった。
背を向けたまま手を引いてくれる少年は、普段と変わらない優しい声で恭子のことだけを想ってくれていた。
「校舎を出たら、真っすぐ校門を出て、自転車で全速力で走るんだ」
「うん。野村君も一緒だよ」
「そうだね……」
そして二人は、ようやく校舎から出た。
月明りの下、いつもとは違う暗い校庭を二人は進んでいく。
忠雄の足取りがはっきりと分かるほど、重くなり始めた。
「片瀬さん、僕さ……」
「うん」
「自転車……こぐの……遅いんだ……」
「そんなことない。そんなことないよ」
「だから先に行って……後で君に追いつくから。きっと君に……」
そして忠雄はその場に崩れ落ちた。
「野村君!」
恭子は倒れ込んだ忠雄の体を必死で起こした。
呼吸が浅い。
大量に出血した忠雄の体は、もう一歩も歩ける状態ではなかった。
「私が付いてるから。野村君を病院まで自転車で乗せていくから」
「片瀬さん」
忠雄の声はとても優しかった。
「自転車に乗って走るんだ……」
「駄目だよ。野村君と一緒じゃないと駄目だよ」
「明後日約束してるじゃないか……待ち合わせ場所でまた会えるよ……」
「いやだ。いやだ……」
「またね……片瀬さん……」
声が途切れた。
少年の浅かった呼吸が聴こえなくなった。
「いやー!」
恭子は半狂乱になって泣き叫んだ。
大声で泣き叫び両手の拳を握りしめ、地面を何度も叩いた。
そして、恭子はゆらりと立ち上がった。
「あんただけは許さない……」
振り返った恭子の前に、あの怪物の首があった。
恭子は構えを作り、波動を集め始めた。
体の中に流れる幾筋もの波動の奔流をまとめていく。
今自分に出来る最大限の力を掌に集めた。
ドン!
波動はらせんの帯を引きながら、真っすぐに怪物へと吸い込まれていった。
しかし怪物にぶつかった瞬間に、恭子の放った波動は四散していった。
「おおおおお」
その音が声なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
ただ、この怪物が自分に向かって波動を撃とうとしていることだけは、感じ取れた。
恐怖は無かった。
これで終わりなのだという敗北感と、大切なものを失ってしまった悲しみだけがあった。
立ち尽くす恭子に向かって怪物が波動を撃ち出そうとした時だった。
「フーッ!」
校舎の二階の窓を割って、ミースケが怪物に襲い掛かった。
その姿を目にして、恭子は喪失しかけていた意識を取り戻した。
「ミースケ!」
ミースケは怪物に飛び掛かり、至近距離で波動を撃ち出した。
怪物の撃ち出そうとしていた波動とミースケの波動が激しく衝突した。
ドオオオオン!
地響きのような音がして、ミースケと怪物はお互いに跳ね飛ばされていった。
「ミースケ!」
恭子はミースケの飛ばされていった植え込みに駆け寄ろうとした。
「来るな!」
ミースケの声だった。
「もうすぐだ。もうすぐ時間になる。いいか、キョウコ、逃げろ。俺やトラオのために。そして忠雄のために!」
「野村君のために……」
「俺を信じろ! キョウコ!」
踵を返した恭子は校門を目指した。
校庭を駆け抜けて、門を出ると、自転車に跨った。
「ミースケ、あなたを信じるわ」
恭子はそう呟いて、ペダルを踏みしめた。
月明りの河川敷の道を、恭子の自転車は風を切って疾走する。
もう涙は乾いていた。
汗だくになって、ただ夢中でペダルをこいでいた。
今が何時なのかは分からない。
しかしミースケは午前零時まで生き延びろと言っていた。
それが何を意味するのか、必死でペダルをこぐ恭子には考えも及ばなかった。
それでも恭子には確信があった。
ミースケがそういうのなら、絶対に何かが起こるのだと。
そして今、恭子の背後には十羽ほどのカラスが迫って来ていた。
あの怪物の頭の部分が分裂して擬態したに違いない。
恭子は何度か振り返りながらも、ペダルを必死でこぎ続けた。
そして背中に激しい衝撃が加わって、恭子は自転車から投げ出された。
河川敷の短く刈られた草の上を、恭子の体は転がっていった。
背中に激痛が走ったが恭子はすぐに起きあがった。
そのまま、恭子は草の上を駆けだした。
上空のカラスが恭子を狙って降下してくる。
肩に激痛が走った。
そして背中にも。
倒れ込んだ恭子の体に、カラスの群れは容赦なく襲い掛かって来た。
髪が引きちぎられ、体のあちこちに鋭いくちばしが突き刺さった。
「ごめん。ミースケ……」
見上げた空から一羽のカラスが、恭子の心臓をめがけて急降下してきていた。
その禍々しいものが間近に迫った時、ミースケの言っていた何かが起こった。




