第4話 昼食と猫
生前ミケの食べていたキャットフードが台所に余っていたので、それを茶碗に入れてやると、おしゃべりな猫はカリカリ音を鳴らせながら残さず食べた。
父と娘が出て行ってから猫を独占できる期待感からか、いつもより機嫌よく母は娘を送り出した。
今朝、あの猫は学校へ行くと言っていたが、母にしっかりと抱きかかえられ、恭子が家を出るのを、にゃーと鳴いて見送ってくれた。
それでいい。
学校に付いて来ては面倒に違いないし、お弁当を猫と分けたら家に帰るまでお腹が持たない。
トントン拍子で二代目うちの猫の席に収まったおしゃべりな猫。
おしゃべりする以外は普通の猫みたいだし、ま、いいか。
そのおしゃべりすることが大問題なのだが、恭子も両親と同じく、我が家に猫が来たことを歓迎していたのであった。
授業は退屈。
いつもちょっと寝ぐせのついている三十代前半の数学教師は、数字ではなくエックスだとかワイだとか、英語の先生の畑にまで入ってくる。
何とかついては行っているものの、はっきり言ってつまらなかった。
黒板を写す手を止めて、ノートにあのおしゃべりな猫の絵を描いてみる。
模様の感じを思い出しながら丁寧に描いていくと、自分でも唸るほどそっくりに描けた。
最高傑作じゃない?
自画自賛し、ニヤニヤしていると、背後に嫌な気配がした。
「ほう。上手じゃないか」
夢中で描いていて、先生がノートを覗き込んでいたのに気付かなかった。
苦笑いで嫌味を言った数学教師が、サッと恭子のノートを手に取った。
皮肉に取れる言葉にも、多少は褒め言葉が含まれていたのかも知れない。
しばらく眺めた後、数学教師は赤面する恭子にノートを返した。
「才能あり。だが時と場所を考えてな」
ドッと湧いた教室に居心地の悪さを感じつつ、注意されながらも褒められた恭子は、ちょっといい気分だった。
昼食の時間になってすぐ、母の作ってくれたお弁当を机の上に置いた。
とにかくお腹がすく年頃。
食べ過ぎて太りだした友達もいる。
本当はもうちょっと食べたいのだが、母にそのことを言わずにこのサイズでいいんだと自分に言い聞かせていた。
向かい合わせに座る、肩を揉むのだけは上手い美樹が、昨日の話をまたし始めた。
朝からそのことで話題の人になっていた恭子は、いい加減そこから離れて落ち着いて食べかった。
「車が空を、こんな感じで回転しながら飛んでったのよね」
指先をくるくると回しながら、また事故のことを美樹は話しだした。
美樹はこういった語り口が異様に上手い。言葉を操り、人を惹きつける才覚を自然と持ち合わせているようだ。
周りで弁当を広げていた生徒達も、美樹の語り口に注目しだす。
「恭子死んだーって思ってたら、猫を抱えてキョトンとしてるし、特撮かなんかみたいに、車は派手な音を立てて転がっていくし、世の中に奇跡ってもんがあるのをこの目で見たっていうか」
周りの生徒たちの関心を集め出した美樹は、調子よく抑揚をつけて話を盛り上げる。
恭子は盛り上がりを見せる生徒の輪には入らず、ため息混じりにお弁当の蓋を開けた。
一口卵焼きを齧った時だった。
視界の隅に蠢くもの。
窓側の席に座る、恭子の視界に入ってきた窓の外の二つの尖ったもの。それが猫の耳であることにすぐに気付いた。
三階よ!
紛れもなくあのおしゃべりな猫だった。
どうやってここまで上って来たのかは分からないが、心の中で飛び上がったあと、慌てて窓を開けた。
覗き込むと、手を窓枠の縁にかけて器用にぶら下がっていた。
大慌てで身を乗り出し、猫の胴体を両手で掴む。
「なにしてるのよ!」
小声でそう言うと、猫は片目を閉じた。
今ウインクした?
妙な所に感心しつつ、猫を教室に引き入れようとした。
「弁当持って中庭に来てよ」
「え?」
そうひと言を残して、おしゃべりな猫は身をよじって恭子の手を放れた。
猫は落下して行くのかと思いきや、ぴょんと跳んで、向かいにあった楓の樹まで跳躍した。
そして器用に下まで降りて行った。
「ねえ、何してんの?」
背中から美樹に声を掛けられて、しどろもどろになりながら、弁当を持って教室を出たのだった。
「何しに来たのよ」
ハラハラさせられてちょっと腹を立てながら、中庭で恭子は猫に弁当を分けてやっていた。
質問に応えず、分けてもらった弁当を、黙々と猫は食べ続ける。
鮭のほぐし身が白米の上に振り掛けられていたので、猫の昼ご飯に丁度いい感じだった。
「ただでさえ足りないのに、あんたと半分こだなんて……」
「卵焼きも一個おくれよ」
「もう、なんだっていうのよ……」
渋々卵焼きを分けてやり、不満を呟きつつ、恭子も貴重な弁当を頬張る。
先に食べ終わった猫は、その蒼い目で恭子の顔を見上げた。
「ご馳走さま」
普通にそう言った。人間らしく、言い換えれば猫らしからぬ行儀の良さだった。
恭子も足りない弁当を平らげて、ご馳走様と手を合わす。
予告していたとおり、こうして猫はやって来た。
お弁当も予告どおりきっちり食べて、食後の毛づくろいを丹念にし始めた猫に、聞きたいことがたくさんあった。
「さっきの話なんだけど、何しに来たの?」
「説明している時間は多分ないよ」
「どうゆうこと?」
ピクピクと猫が耳を動かした。
気配を探る時、猫の耳は驚くような動きをする。
僅かな音を手掛かりに、微妙に角度を変えながら、その尖った耳は音のする方向からの情報を収集し始める。
何かが起こっている。口にしなくとも猫はそう告げていた。