第47話 ドラマは突然に
七月十日。テスト期間に入った恭子は、ひたすら机に向かって集中していた。
あの波動の練習を頑張ったせいで、前回の定期テストの順位を下げてしまったのを取り返さなければいけなかった。
また、最近いつも一緒に帰っている忠雄が頭脳明晰すぎるので、自分もせめて恥ずかしい点数を取らないようにと気合を入れていた。
恭子が机に向かう一方で、ミースケは部屋の中央に掛けられたカレンダーを見上げていた。
ミースケにしては珍しい行動だった。日にちも時間もあんまし関係なく、寝ては食べ、気ままに散歩をしては気に入らない犬たちを殴っている猫が、何やら予定を確認しているような様子を見せていた。
恭子はノートに走らせていた手を止めて、そんなミースケにからかい半分に声を掛ける。
「なあに、真面目な顔しちゃって。あんたにも予定とかあるわけ?」
「まあな。俺だって色々あるんだよ」
「トラオと遊びに行く約束をしてるとか?」
「よせよ。なわけないだろ」
「そんなこと言って。実は意外と仲良しなくせに」
ちょっとからかってみたが、ミースケは乗ってこなかった。
ぴょんと跳んで机の上に乗って来ると、その蒼い目を窓の外に向けた。
「ちょっと出かけてくる」
「うん。行ってらっしゃい」
窓を少し開けてやると、ミースケは軽く跳び上がってエアコンの効いた部屋からスッと出て行った。
「ヘンなの」
恭子はそう呟いて、蝉の声がやかましくなってきた夏の景色に目をやったあと、ゆっくりと窓を閉めた。
定期テストが無事終わると、いよいよ本格的に夏の様相が色濃くなりだした。
もうしばらくで夏休みに入る。
恭子には夏休みに入る前に、どうしてもしておかなければならないことがあった。
部活の終わった帰り道。いつものように肩を並べて帰路を辿る忠雄の横顔を、落ち着きなく恭子はチラチラと見ていた。
周囲を見回してみると、今日に限ってトラオとミースケの姿はない。
どこかに潜んではいるのだろうが、取り敢えず近くにはいないようだ。
チャンスが到来した。恭子は躊躇いを振り払って行動に出た。
「あ、あの」
声を上げたのは恭子だけではなかった。
全く同じタイミングで忠雄も恭子に話しかけてきていた。
お互いにハッとして頬を染め合う。
いわゆる、こういった場面に起こりうる絶妙な瞬間だった。
「な、なに? 野村君」
「え、いやその……」
いつもならここで目を泳がせる忠雄が、今日に限っては真剣に恭子の顔を見つめたままだ。気迫さえ感じさせる少年の眼差しに、恭子は注目してしまう。
「あの、もうすぐ夏休みだよね」
「うん……」
「片瀬さんは部活とか、友達と遊んだりとか、きっと色々忙しいよね」
「いえ、そこまで忙しくないよ……」
「あの、もし片瀬さんさえ良ければ……」
恭子の心臓はドキドキし始めた。これは絶対誘われる。もう間違いない。
夏休みの予定。本当は奥手な少年を恭子の方から誘おうと計画していた。
しかし、今まさに少年の方から恭子はお誘いを受けようとしていた。
「部活がなくって、友達とも会う予定がなくって、何にもすることがない暇なときにでも、僕と……」
きっともう忠雄は限界を超えている。夏の暑さのせいだけではなく、おかしなくらい、顔が真っ赤になっていた。
少年の次の言葉を待っている恭子も、心臓の音が聴こえてしまいそうなくらい胸が高なっていた。
お互いの視線から目が離せない。こんなに見つめ合ったことなど今まで一度だってなかった。
そして、このあと時間が止まった。
「片瀬さんが好きなんだ」
唐突だった。
夏休みに会おうという約束をしたかった恭子の待っていた言葉ではなく、それ以上のことが今起こった。
自分は今何をしようとしていたのだろう。
夏の暑さも、五月蠅かった蝉の声も感じなくなり、真っ赤になって立ち尽くす忠雄の顔を、恭子はただぼんやりと見つめていた。
十秒、いやもっと長かったかも知れない。
恭子は自分の目から涙がこぼれていることにようやく気が付いた。
「ありがとう……」
恭子は両手で顔を押さえて、その場で嗚咽し始めた。
泣きだした恭子に、忠雄は顔色を変えて、あたふたし始めた。
「ごめん。突然こんなこと言って。片瀬さんを困らせるつもりは無かったんだ」
恭子は涙を流しながら、必死で首を横に振った。
「違うの。私、嬉しいの。こんなに嬉しいだなんて……」
恭子は涙を拭って顔を上げた。そして心配そうな顔をしたままの忠雄にその想いを伝えた。
「私も、野村君が好き」
忠雄の顔色が一気に真っ赤になった。
足元がままならないのか、よろよろと電柱に寄りかかり、何とか立っている状態だ。
気を失う一歩手前といった感じだった。
「ぼ、僕の、聞き間違いかな……今、片瀬さん……」
そして、ふらつく少年の手を、恭子は自分から握った。
「あなたが好き。そう言ったんだよ」
高い空には夏の入道雲。
強い陽射しの照り付ける通学路で小さなドラマが起こった。
やかましい蝉の声が耳に戻ってきた後、ようやく息をすることを思い出した二人は、手をつないだまま再び歩き出した。




