第46話 夏の到来
七月に入って最初のプールの授業。
気象庁が梅雨明けを宣言し、太陽の陽射しがまた一段と強くなった。
本格的な夏の到来を、水着に着替えた生徒一人一人が肌で感じていた。
早速ポツポツと蝉の鳴き声が、恭子のいるプールの周りの樹々から聴こえてきていた。
水泳部の恭子と美樹は、息を弾ませているクラスメートの中で、余裕を見せて泳いでいた。
こういった水泳の授業において、普段から泳いでいる者とそうでない者とでは、歴然とした差が出てしまう。
先頭グループでクロールを泳ぎ切った二人は、未だ奮闘中のクラスメートを、ちょっとした優越感を顔に浮かべつつ、プールサイドから眺めていた。
「ねえ恭子、あれってどうよ」
「んー、そうね……」
いたずらっ子のようにニヤついて、美樹が指さしたのは、あの如月カトリーヌ。
余程苦手なのか、ちょっと泳いでは足をついて顔を拭っている。
そして、息継ぎの時の顔が半端ない。
言い方は良くないが、普段のエレガントなカトリーヌとは別人と思えるくらい、凄い表情だった。
この姿を見たら、カトリーヌに憧れている多くの男子たちが、少なからず減滅してしまうだろう。
美樹は別にカトリーヌを嫌っているわけではなく、純粋にそのあまりの変貌ぶりを愉しんでいる感じだった。
「完璧美少女も、弱点があったわけね。いやー、いいもん見させてもらったわー」
「ちょっと美樹、如月さんに聴こえるよ。そのくらいにしときなよ」
恭子はそう窘めつつも、実はカトリーヌのことより、更衣室の屋根の上の方が気になっていた。
屋根の上には、例によってミースケがこちらに蒼い目を向けていて、おまけにキジトラも並んで見物していた。
ボディーガードをしてくれるのはありがたいのだけれども、流石に目立っていた。
プールから上がった女生徒たちが屋根の上を見上げて、黄色い声を上げている。
「かわいいー。また片瀬さんのとこの猫がいるわよ」
「今日は友達の野良猫もいるみたいね」
大勢の猫好き女子に指さされる中、キジトラは野良猫といわれて癪に障ったのか、鋭い目でJCを睨んでいた。
「ちょっと触らせてくれないかな」
「ねえ、片瀬さん、ミースケ君呼んでみてよ」
ミースケはあの講堂での一件以来、女子から人気がある。
可愛いのは認めるが、あまり目立っておかしなところを目撃されてもいけないので、できるだけ大人しくしていて欲しかった。
授業中ということもあって、流石に恭子もミースケに声を掛けなかったが、人気者のミースケの足元には水着女子が集まって来ていた。
「ミースケちゃん。おいでー」
「にゃー」
ミースケが愛想良く返事をした。
「きゃー、可愛い。見た? 私に返事したよ」
あざとい奴だわ。完全に手玉に取ってる。
人気のあるミースケに、トラオは嫉妬して不貞腐れているみたいだ。鋭くJCにガンを飛ばすトラオを観察していて、恭子はそう推察した。
「ねえ、片瀬さん、あの隣のシマシマの猫って名前あるの?」
「うん。トラオっていうの」
「へえ、そのまんまだね。ちょっとおっさん臭い感じ」
トラオはよほど腹が立ったのか、さらに鋭く睨みを利かせると、ペッと唾を吐いて去って行った。
「なあに、感じ悪い猫ね」
「見たまんまの、どら猫って感じだわ」
一般的にこの年頃の女子というのは、見た目で対象の良し悪しを決めるものだ。
いかにもザ野良猫という風体のトラオは、模様の可愛いミースケと比べられると見劣りしてしまうのは仕方のないことなのだろう。
ならば、トラオも外見を擬態すればいいのに、あのキジトラが気に入っているのか、頑なにあの模様を貫き通している。
帰ったら、せめて私だけでもトラオを誉めてやろう。
拗ねてそのまま去って行ったトラオを気の毒に思い、恭子はそう決めたのだった。
そうしているうちに、ゼイゼイ肩で息をしながら、カトリーヌがプールから這い上がって来た。
恭子の隣にへたり込んだカトリーヌには、いつもの余裕が全くない。
恭子はカトリーヌの肩に手を当てて、その様子を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「もう無理。今すぐここを出ていきたい」
悲壮感が半端ない。本当に出て行きたそうなカトリーヌが、なんだか気の毒になってしまった。
「あのさ、お節介かもだけど、取り敢えず腕と足の回数を半分くらいにしてみたら?」
「え? そんなことしたら進まないじゃない」
何言ってんのと、余裕のない顔で聞き返してきたカトリーヌに、美樹がちょっとスマートに解説してくれた。
「如月さんはあれなのよ。手と足の基本的な動きができていないのに、やたらと頑張るから進まないし疲れるわけ。取り敢えず水平姿勢を保つようにして、その姿勢が崩れない程度に手と足を動かせばいい。恭子はそう言いたいんでしょ」
すばらしい。美樹の解説したとおりだった。
「今美樹の言ったとおりだよ。そうすれば息継ぎだって楽になるよ」
プライドの高いカトリーヌは、少し面白くなさそうな顔で聞いていたが、この地獄を抜け出せるならと思ったようで、次の順番が回ってきた時にアドバイスに沿った泳ぎをしていた。
美樹はジタバタしなくなったカトリーヌの泳ぎを眺めて、うんうんと頷いた。
「ましになったじゃない。これでもう変顔が見れなくなったわ」
「やめなさいよ。聴こえるわよ」
水から上がって隣に座ったカトリーヌは、やはり肩で息はしていたものの、さっきとは違い余裕があった。
「死なないで済みそう。助かったわ」
「そう。良かったね」
恭子とカトリーヌの間に、美樹は顔をグイと挟んで不満げな顔を見せた。
「私だって、如月さんに教えたんだけど」
「そうだったね。島津さんもありがとね」
三人で楽し気にお喋りする声が、プールサイドに広がる。
遠く高い空に伸びる飛行機雲を背景に、ミースケはただ恭子の姿を、その蒼い目で追いかけていた。




