第44話 ささやかな一歩
そうかなと思っていたが、文句なく忠雄は秀才だった。
化学のテストで満点を取ったと言っていたが、下手をすると学校の先生よりも良く知っているのではないかというくらいの知識量だった。
その全てを短時間で推し量れるわけでは無いが、単純に恭子がそう思ったのは、忠雄が教えてくれる内容がとても理解しやすいように洗練され、まとめ上げられていたからだった。
ここへ来る前、落ち着いて勉強などできないだろうと、高をくくっていたのだが、見事に覆された。
今日教えてもらった教科については、テストでいい点を取れるのではないかと、まだ途中なのに手ごたえを感じていた。
「野村君ってさ」
「うん」
「教えるの上手いね。感心しちゃった」
「えっ? ぼ、僕が? ホントに?」
「うん。そうだよ。先生よりもさらに分かり易いよ。野村君が先生だったらいいなって思った」
「も、勿体ないお言葉、ありがとうございます」
やはりどこかしら硬さがある。この少年が恭子に慣れる日は、いつ来るのだろうか。
ふかふかの座布団で思い切り寝ていたミースケが、ウーンと伸びをした。
「ふぁああ、終わったか?」
「まだだよ。まだ半分ってとこ」
「なんだ、まだそんな所か、なあ少年よ、なんか小腹が空いてきたんだけど」
「なに言ってんのよ、ひとんちで、ちょっとは遠慮しなさいよ」
横柄な態度をとるミースケを、恭子は軽く叱った。
だが、ミースケを尊敬している忠雄は、すぐさま座布団から腰を上げた。
「あ、そうだね、ちょっと休憩しようよ。ちょっと待ってて、冷蔵庫を漁ってくる」
「ああ、頼んだ。それと水くれ。喉乾いた」
「了解です」
少年を顎で使って、自分はまたゴロンと横になった。
忠雄が部屋を出て行ってすぐ、恭子はミースケにきつく言った。
「やめてよ。私が恥ずかしいじゃない」
「気にするな。あいつは喜んでやってるみたいだし」
「あんたはそうやって野村君の親切心につけ入ってるの。自覚しなさいっつーの」
そうこうしているうちにキジトラも目覚めた。
「腹減った。あと喉乾いた」
「あんたも全くおんなじじゃない。態度でかすぎよ」
「いいだろ、俺はあいつに貸しがある。だろ?」
「そうかもだけど、遠慮はしなさい。それが日本人の美徳なのよ」
「じゃあ、猫の俺には関係ないってことだよな」
「ああ言えばこう言う……」
そして襖がサッと開いた。
「ごめんね野村君……」
振り向いた恭子が見たのは、忠雄ではなく忠雄の妹、千尋だった。
当然恭子と二匹の猫は仰天した。
「お兄ちゃんが部屋を出てるのに、なんか話し声がすると思ったら……」
千尋はミースケとトラオに鋭い眼光を注いでいる。
恭子は何とかこの修羅場をどうにかしようとあたふたしている。
「あの、この猫たちはね、その……」
「お姉ちゃんの猫なの?」
「はい、まあ……」
「触っていい?」
「え、ええ」
千尋はササッと部屋に入ってきて、ミースケを触り始めた。
どうやらただ単に、猫に触りたかっただけのようだ。
お喋りしていたのは、ただの独り言だと捉えてくれていそうだ。
「猫、好きなの?」
「好き。前に飼ってたことあって、でも家出しちゃって」
「そう、残念だったね」
ミースケをひととおり撫でまわしてから、今度はトラオを撫でまわし始めた。
あんまし撫で方が良く分かってないようで、トラオはいささか迷惑そうな感じでされるがままになっていた。
「ね、お姉ちゃん。勉強している間、この猫たち私が預かろうか?」
「えっ?」
「その方が勉強もはかどるし、猫も退屈じゃないだろうしさ、ね、いいでしょ」
チラと目をやると、二匹とも首を横にブンブン振っていた。
「どうかなー、二匹ともけっこう気難しくって、千尋ちゃんに悪いっていうか……」
「いいって、いいって。それじゃあ借りてくね」
「あっ、ちょっと……」
千尋は満面の笑みを浮かべつつ、重たそうに二匹を小脇に抱えて部屋を出て行った。
そしてしばらくして戻って来た忠雄は、いなくなった二匹の所在を聞いてきた。
「あれ? あの二匹は?」
「いま、妹さんに拉致されていった。もう問答無用って感じで」
「そうか、まずったな……」
忠雄はなんだか渋い顔をして、その場で腕を組んだ。
「なに? どうしたの?」
「いや、あいつ、ものすごい動物好きなんだ」
「へえ、そうなんだ」
「いや、ちょっとその、妹はホントに動物愛がすごくって、あんまししつこくするから前に飼ってた猫も逃げ出したくらいなんだ」
「そういえばさっき家出したって……」
「あの二匹はタフそうだから大丈夫だとは思うけど、それでもちょっと心配だな……」
そして二人は二匹のいなくなった部屋で、ゆっくりと休憩を取った後、また試験勉強に励んだ。
実は二人とも、猫がいる間はやはりその目を気にしていて、自然と当たり障りない会話しかしていなかった。
こういう機会は滅多にない。
ミースケもトラオも聞き耳を立てていないことなど、金輪際きっとないだろう。
恭子はノートを取りながら、向かいに座る忠雄の顔をちらと見た。
しかしチラ見していたのは忠雄もだった。
お互いに目が合ってしまい、慌ててまたノートに目を落とす。
何も言い出せなくて、また沈黙してしまう。
言葉にするとしたなら、なんと言えばいいのだろうか、その気持ちを言葉にしたなら、彼と私はどう変わってしまうのだろうか。
好きなの。
そう口にしたなら、明日からの二人はきっと幸せになれる。
恭子はそう思い描く。
自分はきっとこの少年を大切にするだろう。そして少年は溢れんばかりの優しさを自分にくれるのだろう。
「野村君」
どんな言葉を紡ごうか迷っているうちに、彼の名を呼んでいた。
「はい」
「あのね、野村君」
その後の言葉が続かない。いざとなったらこうして前に踏み出せなくなるのだと、自分の勇気の無さを思い知った。
自分はこんなんなのに、彼の告白をもどかしい気持ちでただ待っていた。
今、私は彼と同じ気持ちに、やっと並べたのかも知れない。
「野村君は……どうしてそんなに私に優しくしてくれるの」
「そ、それは……」
忠雄の言葉はそこで詰まった。その先の一言は彼にとって、とても大切なもので、とても重いもの。
恭子はペンを置いて、顔を上げた。少女は真っすぐに少年に向き合い、その大切な一瞬を迎えようとしていた。
「ごめんなさい。野村君にばっかり、ずるいよね……」
「か、片瀬さん……」
「聞いてくれる? 私の気持ち……」
「き、気持ちって……」
「私ね……」
胸の鼓動が聴こえてくる。誰のものでもない、確かに自分のものだ。
初めての男の子の部屋で、自分は初めての告白をしようとしている。
この一言を言えたなら、胸の鼓動は収まってくれるのだろうか。
「私……」
「待って!」
少女の言葉を少年は遮った。少年のいつもの気弱な眼差しは、どこかへ行ってしまっていた。
少年はまっすぐに少女だけを見ていた。
「ぼ、僕に、僕の気持ちから、言わせてくれないかな……」
少しかすれたような緊張した声だった。
少年はゴクリと唾を呑み込んだ。そして口を開いた。
「か、片瀬さん、僕は……君のことが……」
フニャー!
隣の部屋辺りから猫の怒り声が聞こえて来た。
そして続いて女の子の鳴き声が聞こえて来た。
「うあーん!」
バタバタと足音がして、襖が勢いよく開けられたかと思うと、妹が泣きながら部屋に入って来た。
そして顔を真っ赤にして抗議した。
「酷いんだよ。あの猫、私のことブッたんだよ!」
そして猛抗議する妹の脇を、スーッと音もなくミースケとトラオは入って来た。
恭子はその二匹の姿を見て目を丸くした。二匹ともなんだかおかしな服を着せられていた。
フリフリのドレスっぽい服だった。誤解のないように補足しておくが、二匹ともオス猫だった。
「千尋……お前何してたんだ……」
「ちょっと、お人形さんみたいに着せ替えごっこしてただけなの。そしたらそっちのトラ猫がいきなり私を叩いたのよ」
「それをやって前の猫が家出したんだろ。いい加減にしろ」
「私じゃなくって叩いた猫を叱ってよ!」
勉強どころではなくなった忠雄の部屋。
ほんの一歩だけ踏み出そうとした二人の勇気は、またしてもお邪魔虫に阻まれた。
その後、げっそりとしたミースケとトラオを連れて、恭子は帰路についたのだった。




