第3話 猫好き一家
おかしなことのあった翌日。
あまりに疲れていたせいか、あんなことがあったにも拘らず、恭子はしっかり朝まで眠っていた。
目が覚めると、カーテンを引かずに床に就いたせいで、青い空が目に飛び込んできた。
その眩しさにまた目を瞑る。
そしてつい今しがたまで、あの懐かしいミケの夢を見ていたことを、おぼろげな断片から拾い上げて思い返していた。
なんだか猫の夢を見ると得した気持ちになる。
ちょっとした幸福感に包まれて、恭子は早速朝からいい気分だった。
なんだか得しちゃった。ミケを抱いてる夢みちゃったし。
「ん?」
夢の中でミケを抱いた。なのに今も何故だか胸の上にずしりとした感覚がある。しかも温かい。
この感触は……。
布団をめくってみると、あの昨晩の猫が、仰向けに寝ていた恭子の胸の上で、全体重を預けてだらしなく寝ていた。
「夢じゃなかったのね……」
そう呟いて気持ち良さそうに眠っている猫を観察する。
白とグレーの縞模様の、いわゆる「ハチワレ」と呼ばれる顔の模様。
ハチワレは、漢字で「鉢割れ」と書き、昔は武士の頭を守る兜が割れることを連想させ、ハチワレの猫は縁起が悪いと言われたらしい。だが現代では、逆に額から鼻にかけて「八」の字に見えるので、末広がりの「八」として縁起がいい猫とも言わているそうだ。
猫好きが高じて、恭子は猫雑学にはいささか長けていた。
ミケよりちょっと大きいかな。
ずっしりとしたその重さは、恭子にとって忘れられない懐かしい感覚だった。
昨日の夜とは違い、驚きよりも心地良さを覚えてしまい、なんとなく布団の中で頭や体を撫でながらその柔らかさを愉しんでいた。
首輪をしていない。野良猫なのだろうか?
そんなことを考えながら、その前にペラペラおしゃべりしていたことを何と解釈したらいいのかをまた悩み始めた。
そんな恭子の顎を、グーッと伸ばしてきた肉球が押し上げる。
どうやら伸びをしたみたいだ。
「んー」
にゃーではなく、人間臭い声で伸びあがると、大きく口を開けて欠伸をした。
「おはよう。キョウコ」
「おはよう。ってなんで私の名前知ってるわけ?」
口を利いたことには突っ込まず、名前のことを不思議に思い、訊いてみた。
「ちょっとは落ち着いたみたいだな。さあ、学校行くかー」
やはり普通にしゃべっている。どういうわけか名前も知っていて、おまけに学校へ行くと言い出した。
どう考えても納得できない。恭子は眉をしかめて胸の上の毛の塊に聞き返した。
「待って。学校行くのはあんたじゃなくって私よね」
「そうだよ。学校行くのはキョウコだ。おれは同伴するだけ」
「えっと、ちょっと待ってね。私は中学生だから学校に行く。あんたは猫だから学校には用はないわけよね」
「そうだよ。おれは猫だから学校に用はない」
「だよね」
話している相手が猫だということを差し引いても、この会話はどこかおかしい。
元々猫なので話しをまともにできる相手ではない。
そんな相手とこのまま不毛な会話を続けていいものだろうか。
「じゃあ、どいてくれる? 準備しないといけないんで」
「ああ、俺も準備しようかな。何でもいいから朝飯頼むよ。あと、昼飯もキョウコの弁当ちょっとくれよな」
「今、学校には用は無いって言ったよね」
「言った」
「でも弁当くれって」
「腹がすくからな」
やっぱり噛み合わない。
そりゃまあ、よく猫の額ほどのと形容される額の狭さだ。脳味噌もそんなに詰まってる感じじゃない。
つまりは会話できたとしても、まともな話が出来るわけではないということか。
「そうね。お腹はすくよね。じゃあ、そゆことで」
「今、たかが猫だと適当にあしらっただろ」
鋭い。そのとおりだった。
「まあ、その辺りのことはあんまし時間も無いし、いいんじゃない。じゃあまたね」
窓を少し開けてやり、出て行けるようにしてやると、恭子は猫を置いてそそくさと部屋を出た。
「おはよう」
リビングで朝ご飯を用意してくれていた母が、恭子の顔を見て声を掛けてきた。
食卓にはいつものインスタントコーヒーの匂い。
トーストの焼けた匂いとコーヒーの匂い、これが片瀬家の朝の定番だ。
先に家を出る父は、もうこの時間には朝食を食べ終わっている。
テーブルに着いた恭子の後ろを、慌ただしくバタバタと父が通りがかった。
「おはよう恭子」
「おはようお父さん」
いつもこの時間に出て行く父を、恭子は一度席を立って玄関まで見送る。
母が父に鞄を手渡し、父はいつものように玄関を出ようとする。
「行ってきます……」
母娘に見送られながら父の視線は二人の後ろに注がれていた。
「どうして家の中に猫が?」
父の言葉に振り向いた母娘は、廊下に鎮座している蒼い目の猫に気付いた。
部屋の扉は閉めてきたはず。いったいどうやってここまで来たのだろう。
「あら、可愛い」
猫好きの母は早速指先を猫に近づけて臭いをかがせた。
急いでいた筈の父も、靴を脱いで猫を触りに来た。
ミケがいなくなってから、猫に飢えていた我が家には堪らない好機だった。
そこに何故猫がいるのかなど、どうでもいい。
とにかく猫に触って、スリスリしたいのだ。
「にゃー」
恭子の前ではペラペラ饒舌だった猫だが、両親の前ではにゃーと可愛く鳴いて見せた。
猫を被っているというのは、まさにこのことなのだろう。
父も母も一匹を取り合うかのように撫でまわしている。
確かに可愛い。それは認めるが、完全に手玉に取られているのが見て取れた。
「恭子? ひょっとしてあんたが拾って来たの?」
なんだか嬉しそうに母に言われて、何と応えていいのか分からない。
この雰囲気は、もう我が家に迎える準備は出来ている感じだった。
「いいわよ。ねえ、お父さん」
「ああ。可愛い猫だし、人懐こいし、いいんじゃないかな」
つまり私が連れ帰ったことになっていて、父と母は飼うことを承諾した。
恭子は一言も話していなかったが、あっという間に家族会議は終わった。
父は名残惜しそうに、最後に猫をひと撫でしてから、再び鞄を手に取った。
「じゃあ行って来る」
「行ってらっしゃい」
今日、父はきっと早く帰ってくるだろう。恐らく猫のおやつを買って。
こうしておしゃべりで、両親の前では寡黙な猫は、我が家の家族となったのだった。




