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世界最強猫と私  作者: ひなたひより
36/55

第35話 六月の恋

 六月に入った。

 あと十日くらいで梅雨入りだと、気象予報士がテレビで言っていた。

 恭子は梅雨入りのことで憂鬱な気分になる。

 六月に入ると、恭子の所属している水泳部は、本格的に活動を開始する。

 あの抹茶色だったプールの水は、すっかりまっさらで透明な水に入れ替わり、部員はやがて来る夏に向けて気運を高める。

 晴れているときはまだいい。日差しのある時は六月でも水温が上がる。

 しかし水泳部はよっぽどの悪天候でない限り練習がある。

 曇っている日や小雨の日も当然ながら練習はあり、気温と同じく水温は一気に下がってしまう。

 去年は六月に最低気温16度という日があった。

 練習中ターンをした瞬間、目の前が真っ白になったのを覚えている。

 筋肉が寒さのせいで過剰に強張ると、血流が滞って酸素が脳に行きにくくなり酸欠に陥る。

 16度というのは喜んでプールに入れる水温ではない。

 そんな日はみんな何かしらの理由をつけて練習に来ない。

 しかし昨年の恭子は死に物狂いで頑張った。

 そして今年も意地だけは健在だ。

 これからひと月、毎朝空を見上げて一喜一憂しなければならない。そんな季節の始まりだった。



「よーい、セイッ」


 マネージャーの掛け声で恭子は勢いよく壁を蹴って飛び出す。

 シューッという、炭酸の泡が弾けるような音。

 恭子はこの音がけっこう気に入っていた。

 恭子はキックで姿勢を安定させてから腕を搔き始める。

 久しぶりの水を掻く感覚。

 息継ぎの度、肺いっぱいに空気を吸い込む。

 身の引き締まるような水の冷たさの中で、恭子の胸は昂っていた。

 水泳というのは完全に自分だけの競技だ。

 ときどき恭子は泳いでいてそう思う。

 他の競技には、多少なりとも他者との駆け引きがあったりするのだろう。

 水泳は純粋に自分を高めることこそが結果に直結する。

 一瞬のスタートへの反応。飛び込んだ後の深さ。呼吸のコントロール。

 常に自分の状態を把握しながら、最良のキックを打ち、効率のいい腕の掻きをする。

 たった百メートル。

 時間にすれば一分数十秒。

 その間に自分の全てを研ぎ澄ましタイムを出す。

 試合の時、一瞬だけでも輝けるように、こうして練習で足掻き続けるのだ。

 一本泳ぎ終えた恭子は大きく肩で息をする。

 プールでしか嗅ぐことの出来ない独特の匂い。

 そしてプールサイドのペースクロックが、再びスタートのタイミングを指し示す。


「よーい、セイッ」


 マネージャーの掛け声に送り出されて、恭子はまたシューッという音の中にその体を伸ばしていくのだった。



 練習後に温水のシャワーをしっかり浴びると、少しは唇の色が戻って来た。

 時間を気にしながらしっかり髪を拭いていると、美樹がまた例の話を振って来た。


「早くしないと誰かさんが待ってるんじゃなかった?」

「もう、からかわないで」


 美樹の言った誰かさんとは勿論あの少年のことだった。

 あの蛙騒動から一週間、忠雄は恭子を心配して必ず校門の前で待ってくれていた。

 いいからと言っても、忠雄は絶対に譲らなかった。

 気弱で口下手な少年は、恭子を守るために一切の妥協をしなかった。

 校門を出て家に着くまで、忠雄は恭子の少し後ろをついて来てくれた。

 朝の通学の時も、今までは七メートルくらい後ろを歩いていたが今は五メートルくらいに接近して見守っていた。

 休み時間も気が付くと窓の外から恭子を見守っていた。

 そして不思議なことに、忠雄は恭子にミースケのことも、あの大蛙のことも聞いてこようとしなかった。

 普通なら、あれほどおかしなものと遭遇したのなら、何か一つくらい聞いてきてもおかしくない。

 それに無関心というよりは、それを聞くことを忠雄は当たり前のように避けている。そんな印象を恭子は感じていた。

 ミースケが以前言っていたこと、あの少年は恭子が困ることを決してしないだろう。そう聞かされたとおりだった。

 そして、忠雄にとって一番の優先事項であり関心ごとなのは、やはり恭子だけのようで、ミースケのあの強さを目にしたはずなのに、恭子を守るのに頼り甲斐があって丁度いいくらいに思っている感じだった。

 ひたむきに恭子を守ろうとする少年に、恭子は日に日に惹かれていく一方、忠雄を巻き込んでしまうことを恐れていた。

 そして間違いなく自分が恋をしてしまっていることを、今は自覚していた。


「付き合ってるんでしょ。認めなさいよ」

「いや、そういうんじゃないかな……」


 実際恭子はそういう感じで忠雄に告白されたわけでは無い。

 好きって言われた方が、きっとやり易かっただろう。

 しかし告白以上のことを言っておきながら、頑なに忠雄ははっきりしたひと言を言わない。

 そういったものを溢れ出しつつ、必ず下校時に現れる忠雄に、そろそろ恭子も根負けしそうになっていた。

 そして忠雄はやはり校門で恭子を待っていた。


「野村君……」

「ごめん、また勝手なことして。迷惑かもしれないけど今日も家までついて行っていいかな」

「迷惑なんかじゃないよ……」


 ひたむきな少年の様子に、とうとう恭子は心の内を見せてしまった。


「迷惑をかけているのは私のほうだよ。でも、もうこんな風に待ったりしないで欲しいの。私のことで、もし野村君が巻き込まれでもしたら私……」


 恭子の言葉を忠雄は遮った。


「片瀬さんのためだったら僕はなんだってする。そう決めたんだ。たとえしつこいって君に嫌われたとしても」

「嫌ったりなんて、しないよ……」


 言葉が震えた。恭子は涙が出てきそうになるのをぐっとこらえた。

 そして恭子は言いたかったひと言を言ってしまった。


「一緒に帰ろう……」

「え? いいの?」

「うん……」


 二人は校門を並んで出ていく。

 下校する他の生徒の目には、自分たちはどう映っているのだろうか。

 恭子は、ふと横に並ぶ少年の横顔を見上げる。

 そして彼はサッと目を逸らす。

 ようやく並んで歩いているというのに、少年は相変わらずだ。


「か、片瀬さんは今日からプールだったんだね」

「うん。久しぶりで楽しかった。水は冷たかったけど」

「すごいね片瀬さんは」

「え?」

「いつも前向きで颯爽としてる。カッコいいなって思って」

「そんなことないよ。雨が降ったら寒すぎてへこたれてるよ」

「そうか、それは辛いね。風邪ひかないか心配だな……」


 恭子は真面目に心配し始めた忠雄に、可笑しくなってクスクス笑い出した。


「野村君、そこは心配しなくっていいよ。みんなそうだし、気合で何とかするし」

「そうだね。片瀬さんは僕なんかと違ってずっと勢いがあるもんね」

「野村君、それってあんまし誉め言葉になってないんだけど」

「あ、そうか。ごめんなさい」

「いいのよ。気にしないでね」


 ほんの少し肩の力が抜けて来た帰り道。

 はっきりとした告白を、恭子はどうしても期待してしまっていた。


 あれ?


 少年の告白を、ずっと待っていただけの自分に、恭子は突然気付いた。


 もし私が好きって言ったら、どんな顔するのかな。


 恭子はまた隣を歩く少年の横顔を見上げる。

 急にまた胸がどきどきしてきた。


「あのね、野村くん……」


 告白するのってこんな気持ちになるんだ……。


 少年がこちらを向いてまた目を逸らす。


「うん、な、なに?」

「私ね……」


 その次を言いかけて恭子は気付いた。

 高い塀の上をバランスを取りながら、立派な体格のキジトラがこちらと同じペースで悠々と歩いているのを。


 トラオ!


 恐らくミースケに言われて、おかしな奴が現れないか見張ってくれているのだろう。

 絶妙なタイミングでトラオに気付いた恭子は、その後言おうとしていた言葉を吞み込んだ。

 一生に一度しか言わない初めての告白を、目つき鋭いトラジマに絶対に聞かせるわけにはいかなかったのだった。

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