第2話 おしゃべりな猫
大事故によって大騒ぎになった朝の通学路。
大破した黒いバンの運転手は、あれだけ派手な衝突をしていたにも拘わらず、それほどの大怪我をせずに済んだみたいだった。
道路に飛び出し猫を助けた片瀬恭子は、警察に事情を聴かれ、相当面倒な状態に陥ったものの、事故を引き起こしたのは信号を無視して暴走した車だと、目撃していた大勢が口を揃えて証言したことで、比較的すんなり帰してもらえた。
結局、学校に行けず帰宅した恭子は、湯船に浸かって慌ただしかった一日を振り返っていた。
大破した車に呆然としていた恭子の腕の中から、あの猫はいつの間にやらいなくなっていた。
人間なら恩知らずと、後ろ指をさしてやりたいが、猫ならあれで普通だろう。
あっさりといなくなった猫の感触は、結構しっかりとしたモフモフで、ミケがいなくなって以来の気持ちいい感触だった。
勿論、事故の時にはそう感じる余裕はなく、落ち着いて思い返せばそうだったという程度のものだった。
頭と背中と尻尾が灰色の縞模様で、後は白かったな……。
あの近所で飼われている猫なのだろうか。
そんなことを考えつつ、十分に温まった体でお風呂から上がった。
自室に戻ると、今日学校に行けなかった恭子のスマホに、肩揉み上手の美樹から、明日提出しなければいけない課題の連絡が入っていた。
「うわー」
開いて見てしまったらやるしかない。
連絡をくれた美樹に、軽く不満を呟きながら恭子は机に向かったのだった。
それからおおよそ一時間後。
「だめ。もう起きてらんない」
課題を全て終えた恭子は、半分以上瞼が下がった状態でベッドに倒れ込んだ。
昼間、やり慣れないことをした疲れからだろう、いつもより一時間以上早く、猛烈な眠気が襲って来た。
仰向けになり、手元のリモコンで照明を落とすと、あとは朝まで眠るだけだった。
「ふぁあああー、もうダメ……」
目を閉じようとすると、頭上の窓に見事な満月が浮かんでいた。煌々と蒼い光が部屋に射しこんでいる。
カーテンを引くのを忘れてた。まあいいや……。
顔に当たる月明りを気にせず、そのまま眠りにつこうとした時だった。
なに?
瞼の裏にも明るかった月明りが、何かに遮られた。
何かの気配に再び目を開けるとそこには。
「猫?」
月光を背景に、尖った二つの耳とその丸い柔らかな体のライン。紛れもなく、窓の外でこちらを伺っていそうなのは猫に間違いなかった。
猫好きというものは、どうしてこうもモフモフの毛の塊に惹かれてしまうのだろう。睡魔よりも猫を触りたい欲求が勝った。
恭子は体を起こして、そおっと窓に手を伸ばす。
ゆっくりと窓を開けると、こちらを伺っていた猫は、落ち着いた感じで部屋の中に入ってきた。
ベッドに降り立った二つの目が綺麗に蒼く光った。
丁度月明りの差し込むベッドの上で、こちらを見上げる猫の模様が何となく分かった。
「おまえ、今朝の……」
間違いない。今朝、空から現れた猫だった。
ひょっとして恩返しに来た? おとぎ話の世界に迷い込んでしまったかのような不思議な感覚だった。
「でも、どうして家が分かったの」
そっと猫の鼻先に指を近づける。よくすぐに頭を撫でたがる人がいるが、信頼関係の築けていない猫には嫌がられるだけだ。
長い間、猫と生活を共にしていたおかげで、こういった距離感は自然と分かっていた。
指の匂いを嗅がせて、猫の方から指先にすり寄って来たタイミングで頬や喉を撫でてやると、月明りの下でも分かるほど、気持ち良さげに目を細めた。
「そうか。ここが気持ちいいんだね」
「そう。そこが最高なんだ。もっと頼むよ」
え?
「いま、なんか言った? いやいや、まさか気のせいだよね。やっぱり疲れてんのかな」
「そりゃそうだ。あんなことがあったんだ、疲れるのも無理はないさ」
気持ち良さげに、ゴロゴロと喉を鳴らしている得体の知れない猫の前で恭子は飛び上がった。
「キャー!」
思わず迸った絶叫で、相手も飛び上がった。
勢いよく跳躍して、開いたままの窓から跳び出て行ってしまった。
「なに? 一体何なの?」
落ち着きを取り戻せないまま、猫の出て行った窓から外を覗き込む。
そこは蒼く月明りの広がる見慣れた住宅地。
意外と明るい月明りを頼りに、猫の姿を探すがどこにもいなかった。
狐ならぬ猫につままれた気分だった。
「夢かしら。てことは今は眠っている最中ってことよね」
不可解な出来事をそう解釈して、涼しい風がそよいでくる窓に手をかけた。
「こんなことある訳ない。さあ寝ましょう。いや、夢なんだから寝ている最中か」
まだ胸の動悸が収まらないまま、窓をゆっくりと閉めようとした。
しかし、まだ閉まりきっていない窓の隙間から、再びさっきのやつが跳び込んできた。
「キャー!」
「おい、大声出すな!」
また喋ってる。しつこい夢だわ。そうか、一回目覚めたらいい訳だ。
まずは手元のリモコンで照明を点けた。
六畳の部屋が蛍光灯の明るい光に照らされる。
「眩しいな。俺は暗闇の方が良かったんだけど」
「あんたはそうでも、私は気味悪いのよ。まだこの方がいいわ」
明るくなった部屋で、今朝助けた猫が器用に口を動かして、ちょっとした不満を言っていた。
そしてなんとなくつられて返事を返してしまい、会話が成り立っていることに、またうろたえていた。
恭子は目をしばたかせ、この不可解な状況に合理的な解答を導き出そうとしばらく悩む。
そして自分の中で最も納得のいく結論に到達した。
「そうか、夢の中なら猫と話だってできる訳だ」
「何時まで現実から目を逸らせる気だ? いい加減にして欲しいな」
「照明も点けたし、もうすぐ目が覚めるに違いない。そしたらしゃべる猫の問題は解決する……」
「おーい、なんか呪文のようにブツブツ言ってるみたいだけど、その辺にしといてくれないか? 話が全く進まないし」
猜疑心と警戒心をあからさまに出しつつ、いつまでもしゃべり続ける得体の知れない猫と向かい合う。
落ち着き払った感じのしゃべる猫は、退屈そうに大きな欠伸を一つした。
「待てよ、夢の中で照明を点けたんなら、実際は部屋は暗いままだから目は覚めないわけよね。つまり朝目が覚めるまではこの猫と雑談するってこと?」
頭の中を整理しようと、恭子は眉間にしわを寄せつつしばらく目を閉じる。
「駄目。眠すぎて何も考えられない。あ、眠ってるんだから当然か」
ブツブツ独り言を呟きながら、恭子は猛烈な眠気に抗えずに布団に潜り込んだ。
よほど疲れていたのだろう、そのまましばらくすると、くるまった布団からスースーと寝息が聞こえてきだした。
会話相手のいなくなった猫は、布団からの寝息にしばらく耳を傾けていた。
そして器用に前足を伸ばし、リモコンのスイッチを押して照明を落とした。
「おやすみ、キョウコ」
眠りに落ちた少女を、蒼い目を輝かせてしばらく眺めていた猫は、やがてそおっと布団の中に潜り込んでいった。