第20話 猫と海
海の綺麗な漁港の町。
山口県の日本海側に位置する萩市には恭子の祖母が住んでおり、毎年夏休みには帰省し、数日間泊まっていた。
今年は、しばらく体調を壊して入院していた祖母の様子を見がてら、この連休中に泊りに行くこととなった。
恭子も結構気に入っていたおばあちゃんの家。
新幹線と電車を乗り継いで、やっと着いた。
いつもは夏休みに入ってから来る祖母の家、この時期に来ると、なんだか少し雰囲気が違う印象を恭子は感じていた。
海のすぐそばにある祖母の家は、窓を開ければ潮風が舞い込んできた。
恭子はこの潮風の匂いが好きだった。
歩いてでもいける透明度の高い海水浴場。
夏場、恭子はここへ来るたびに必ずそこへ行って泳いだ。
もう亡くなってしまったが、おじいちゃんからずいぶん泳ぎを教えてもらった。
恭子が水泳部に入ったのは、おじいちゃんに泳ぎの楽しさを教わっていたからだった。
入部したという報告もできないまま逝ってしまった祖父の写真に、ありがとうと手を合わせた。
「にゃー」
仏壇の前で手を合わせる恭子に、ミースケがすり寄って来た。
祖母の家に来る前に家族で猫をどうするかと話し合った。
ペットホテルに入ってもらうかと議論し、決まりかけたが、ミースケは断固拒否した。
恭子から離れることなどあり得ない。
ミースケは選択肢など無いのだと恭子を説得し、家族と共にここへと来ることになった。
着いてすぐミースケは、おばあちゃんに愛想をして可愛がられていた。
なかなかあざとい猫だった。
今は何も動物を飼っていないが、祖母は昔、猫を飼っていたらしい。
ミースケを撫でるおばあちゃんは、なんだか懐かしいものに触れているみたいに優しい顔をしていた。
穏やかな日差しの降り注ぐ午後。
散歩してくるとミースケを連れ出し、歩いてでも来れる海水浴場までやって来た。
何処までも広い白砂のビーチ。
夏の間、大勢の海水浴客で賑わうこのビーチも、オフシーズンのこの時期には散歩している人ぐらいしかいなかった。
「キョウコ、ちょっと走っていいか?」
「あ、うん。砂浜で遊びたいんだね」
腕に抱いていたミースケを降ろしてやると、勢いよく駆け出した。
人間でなくとも広い所に出れば、駆け出したくなるものなのだろう。
駆け回るその姿を恭子は目で追う。
嫌がって首輪をしていないミースケは、一見すると野良猫のようだ。
可愛い首輪を買ってやろうと、以前どんな色がいいか聞いた時に、ミースケは首輪はいらないとはっきり拒絶した。
あんなものを付けられたら、首のあたりが四六時中痒そうだと言い、このままでいいと押し切られた。
きっと首輪をした方が可愛いのに。その時はそう思って落胆した。
だが今は、自由気ままなミースケに首輪は似合わない。そう思っている。
砂の上を器用に駆け回るミースケの後を追って、恭子も駆けだした。
「待って、ミースケ」
「にゃー」
砂に足を取られて、すぐに疲れてきた恭子は、白砂の上に腰を下ろして息を整える。
ミースケは、まだしばらく恭子の見ている先で駆け回っていたが、やがて戻って来た。
そのまま恭子の膝の上に乗ってくる。
「元気だね。まるで犬みたい」
「よせよ。犬なんかと比べて欲しく無いな」
「猫はあんな風に、はしゃいだりし無さそうだけど」
「俺は特別。水はあんましだけど、海のこの雰囲気は好きなんだ」
「ふーん。前は海の近くに住んでたの?」
「そう言う訳じゃないけど、キョウコだって好きだろ」
「うん。大好き。泳げたらもっといいんだけど、流石にこの時期冷たそうだし、誰も泳いでないしね」
「そうだな。大人しくしてることをお勧めするよ」
青く高い空。
ミースケは透き通るようなきらめく水面に、その蒼い目を向ける。
「綺麗だな。これが世界ってやつだ。スマホの中にはない本物の世界だ」
「そうね。ミースケの言うとおり」
「キョウコはこの世界が好きか?」
唐突にそう訊かれて恭子はミースケに視線を移した。
「なあに? 猫らしからぬ質問ね」
「まあね。で、好きなのか嫌いなのか?」
「そうね……」
恭子は空ときらめく水平線の境界に目を向ける。
それははっきりと明確に区別されていなくて、水であり空ともとれた。
「自然は好き。この世界って言われたら答えにくいけど、私のそんなに広くない世界はまあまあ普通かな。いいこともあるし悪いことだってある。私はまだ中学生で、これから色々知らないといけないのだろうから、今はミースケに言えるのはこれぐらいかな」
「今は……か」
「ずっと先にまた私に聞いてよ。その時に、もう少しましなことを言えるように精進しとくからさ。だからミースケも長生きするんだぞ」
「ああ。頑張るよ」
「ねえ、今晩はご馳走だよ。お刺身いっぱい食べられるよ」
「フフフフ。実は期待してたんだ」
顔を上げてぺろりと舌なめずりをするミースケは、哲学的な猫から、ただの猫に戻ったみたいだった。
「ねえミースケ、もう少し散歩しようか」
「うん。じゃあ抱いてもらおうかな」
「歩きたいんじゃなかったの?」
「目線がさ、抱いてもらった方が遠くまで見渡せるんだ」
「そういうことか」
恭子は立ちあがってお尻についた砂を払うと、ミースケを抱き上げた。
ほんの少し風が出て来た。
恭子は潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「なんだか楽しい。ミースケと旅行してるって感じ」
「ああ、そうだ。キョウコの言うとおりだ」
恭子はミースケを抱いて波打ち際を歩く。
いつもは少しおしゃべりな腕の中の猫。
今日は大人しく腕の中で体を丸め、水平線のまだ遠く先を見つめていた。




