第9話 猫? そういえば
帰宅するなり、少年は階段を駆け上がり自分の部屋へと急いだ。
そして部屋に入ってドアを閉めると、鞄を投げ出して天を仰ぎ叫んだ。
「おおおお!」
そしてガッツポース。
「やった。とうとうやった。片瀬さんと話せた。しかも二人っきりで!」
叫んだ少年の名は、野村忠雄。
憧れの片瀬恭子と昨年同じクラスだった中学二年生だ。
忠雄は敷きっぱなしの布団に飛び込むと、掛け布団を丸めて抱き締めながらゴロゴロと布団の上を何度か往復した。
「恐れ多くも、片瀬さんをあんなに近くで見てしまった。人生で最高の日だ」
分かり易い恋心を抱く少年は、恭子に対してもうかれこれ一年ほど恋焦がれていた。
中学に入って同じクラスになった斜め前に座る恭子を、可愛い子だなといきなり気になっていた。
いつも明るく、誰に対しても態度を変えない恭子は、やや暗めな忠雄に対しても笑顔をいつも見せてくれた。
忠雄はいつも、そんな恭子を目で追いかけ幸せを感じていた。
雨の続いた六月のある日、些細な事からクラスの不良に目を付けられた。
前の席に座る金髪の不良。池田という名で、いつもふざけている札付きの輩だった。
それは英語の授業中、教師が黒板に書いた単語の意味を、席の順番で答えていた時だった。
あまり普段話もしない金髪が振り向いて、忠雄に話しかけてきた。
「なあ、あの単語意味わかるか?」
池田は教養の欠片も無い奴だった。授業をまともに受けていないので当然だった。
分からなければ分からないと答えればいいのに、どういう訳か正解を答えようと訊いてきたのだった。
忠雄は黒板に書いてある単語の意味を全て知っていた。
取り立てて英語が得意という訳ではないが、普通に授業を聞いていれば分かる程度の簡単なものばかりだった。
「なあ、知ってんなら教えろよ」
人にものを尋ねるのに、偉そうな態度も気に入らなかったが、それ以上に斜め前に座る少女に、こんな奴の片棒を担いだと思われるのがたまらなく嫌だった。
「ごめん。分からない」
「チッ」
舌打ちをして前を向く。
そして先生に答えてみろと言われて、金髪はあてずっぽうで答えた。当然のことながら間違っていた。
「分からないか。じゃあ次、野村」
当てられて、分かりませんといえば、ことを荒立てずに済んだのだろうが、忠雄はあっさりと答えてしまった。
「正解。じゃあ次」
ただ問題を順番に答えただけ。
だが、金髪の不良は後ろを向いて、鋭い目つきで睨みつけてきたのだった。
その日の掃除の時間、教室の床に箒を掛けていた忠雄に、池田は因縁をつけてきた。
「てめえ、分かってて教えなかっただろ。てめえのせいで恥かいたじゃねえか」
今その台詞を吐いているのが恥ずかしいことに気付かず、池田は詰め寄って来た。
「困ってる奴を見捨てて、自分だけ良けりゃあいいってのか? くだらねえ奴だ」
困る原因を作った奴に言われたくなかった。
無視してそのまま背を向けると、ドンと背中を突き飛ばされた。
ぶつかった机が倒れて、大きな音を立てる。
周囲が何事かと注目し始めた。
「ざけんなってんだよ!」
池田は忠雄の胸ぐらを掴んだ。
「勉強できるからって偉そうにしやがって、なに見下してくれてんだよ」
いつの間にか池田の連れが二人寄ってきて、忠雄にじりじりと圧をかけ始めた。
「調子に乗ってたら痛い目に会うってこと、教えてやるよ」
いきなり腹部に激痛が走った。
池田が忠雄の腹を殴ったのだった。
「すみませんでしたって謝れ」
痛みで体をくの字に曲げながら歯を食いしばった。
「もう一発食らいたいか」
脇腹に激痛が走った。今度は横から蹴り上げられていた。
「おい、お前ら、こいつの鞄取ってこい」
取り巻きの一人が忠雄の鞄を手に戻って来た。
「申し訳ありませんでした。そう言って謝れ。そしたら許してやる」
忠雄は臆病な性格だったが、理不尽なことには我慢できない性格でもあった。
「いやだ」
「何だと」
池田は取り巻きから鞄を受取ると、窓の方へと歩いて行った。
「じゃあ、こいつをこっから捨ててやる。てめえが謝るまで、毎日投げ捨ててやるからな」
「やめろ!」
振りかぶった池田の手が、窓の外に振り下ろされた。
鞄は教室から放り出され、校庭へと落下していった。
校庭に落ちた鞄を忠雄が探すと、そこにこちらを見上げる少女がいた。
ずっと憧れを抱いていた片瀬恭子だった。
情けない姿を、一番見られたくない人に見られてしまい、忠雄は呆然としていた。
「さあ、拾って来いよ。また捨ててやるからさ」
馬鹿にしたように笑い声をあげる池田のことより、忠雄は恭子に見られたことにショックを受けていた。
池田が取り巻きと一緒に自分を笑っていた。
周囲のクラスメートも遠目に様子を見ている。
止めに入る者もなく、悔しさと恥ずかしさ、何もできない自分に憤りを感じながらただ立ち尽くしていた。
その時だった。
颯爽と、遠巻きに見ていた生徒たちを割って、鞄を持った一人の少女が教室に現れた。
その姿は凛としていて、薄暗い教室に光が射し込んだみたいだった。
そして少女はまっすぐに金髪に歩み寄ると、鞄を持ったままの右手を振り上げた。
「落としたわよ!」
教室に激しい音が響いた。
横っ面を思い切り、硬い皮の鞄で張り倒された金髪は、その場に呆然とへたりこんだ。
そのやり取りを忠雄は目を丸くして見ていた。
張り倒した鞄を持ち換えて、恭子はパンパンとはたいた。
そして誰にでも変わらない、あの笑顔を忠雄に向けた。
「ごめんね。借りちゃった」
この時、忠雄は運命を感じた。
憧れてずっと見続けていた少女。
気高く優しい、勇敢な少女に完全に恋に落ちてしまったのだった。
今回不良たちに囲まれたのは、根に持っていた池田がクラス替えで恭子を気にしなくても良くなったからだった。
恭子に対してというよりも、恭子の親友の島津美樹に恐れを抱いていたという方が正しいと言える。
恭子がさっぱりした性格なのに対し、美樹は怒らせたら何時までも根に持つタイプだった。
あらゆる手を使ってやられたらやり返し、勝つまでやめない人だった。
恭子に手出ししたら美樹が黙ってない。不良たちは力のバランスについては良く分かっていたのだった。
しつこく根に持っていた池田たちに囲まれた時、情けないことなのだが、また恭子に助けられた。
まあ、今回は恭子というよりも、飼い猫がいい仕事をした。
はっきり言って、一年も前から恭子に想いを寄せ続けていた忠雄は、意中の少女があの場に現れてから、最後まで彼女のことしか見ていなかった。
つまりは、マシンガンキャットブローを繰り出したミースケは視界の隅でしか見ておらず、目に焼き付けようと恭子だけを凝視していたのだ。
そして、お礼を言うという建前が出来たことを神に感謝し、今日渾身の手紙を靴に入れて待ったのだった。
そして、一年間恭子がクラスメートたちと話す内容に聞き耳を立て続けていたおかげで、好物の翔風堂の栗饅頭のことも調査済みだった。
日曜日、眠たげな妹を連れて、朝一番に並んでゲットした。
美味しそうに食べていた姿は天使だった。いや、女神と言った方がいいか。
という感じで少年の興奮は未だ収まるところを知らない。
一歩間違えばストーカー的なこの少年だったが、肝心なところで腰抜けで、今日も自分の気持ちを何一つ口にしなかった。
そのことが、意中の少女をモヤモヤさせているというのに気付かず、少年は今日、間近で見た初恋の少女を延々と回想するのだった。




