①疑惑のプランC
ジェイミーとシェリルがデートするお話です。
ジェイミーとシェリル、二人の恋は国軍騎士と秘密諜報組織の一員という立場に長らく縛られていた。しかし数年にわたる紆余曲折を経た現在、なんと結婚の約束まで交わした間柄である。
王城では週に一度、残業絶対禁止の曜日が定められていて、騎士隊の人々にも月に数日は必ず早く帰宅できる日があった。そんな夜に約束通り二人で落ち合ってレストランに入り、料理を存分に楽しんだ後のデザートをうきうきと待っているこの時間も、何一つ問題ないのである。
シェリルはもちろん、ジェイミーが好む食事の傾向を完璧に掴もうと大張り切りだった。各店の味つけや食糧調達先、シェフの受賞歴から修行時代にお世話になった師匠まで、もれなく網羅したつもりであった。
ところが当のジェイミーは、ここは内装が良いよね、と席に案内されながら、はにかんだ笑顔を浮かべたのである。雰囲気重視とは盲点だった、とシェリルは食事にばかり囚われていた己の反省をしながら、メニュー表を眺めたのであった。
経緯はともかく、シェリルにとっては楽しい時間の始まりである。大好きなジェイミーの、きらきらとしたやわらかい髪や青い瞳の穏やかな眼差しを、好きなだけ独り占めできるのだから。
お品書きには芸術品さながらに、優雅な二つ名を与えられた食事がずらりと並んでいた。シェリルはその中からデザートを、一つずつ順番に注文していた。ずっとこの関係が続く前提でなければ、決してできない贅沢な選び方である。
「ねえジェイミー、ティラミスはチーズケーキの仲間なの?」
「……なかなか難しいところに気がついたじゃないか」
というわけで仕事も食事も終わってくつろいだ雰囲気のジェイミーも素敵、とうっとりしていると矢のように時間が過ぎて行く。シェリルは前回までにチーズスフレとベイクドチーズケーキを制覇した後だったので、ティラミスについての穏やかながら熱い議論を交わした。
食べ終えた時の気持ちが大切だというジェイミーらしい優しい結論に至ったところで、彼が話を切り出した。
「今度のお休み、どこへ行こうか?」
二人はジェイミーが持って来た観光名所の載った地図から、候補地をいくつか出し合った。時折指が触れては慌てて引っ込めそうになった手をそっと握られたり、目が合うだけでふふふ、なんて笑ってみたり。それだけで十二分に楽しいひと時を二人で過ごしたのだが、それはまた別の話である。
というわけで、次回のデートは動物園に決定した。次の日から、シェリルは動物園で飼育されている愉快な仲間達について、徹底的に調べ上げた。展示スペースの奥をうろうろしている動物をジェイミーに見てもらうだけでは物足りない。彼らの習性や、飼育員の方々とどのように関わっているのかを分析すれば愛しい人に、面白い姿を見せてあげられるかもしれない。
ジェイミーは動物が好きだからきっと喜んでくれるに違いない。シェリルのやる気はジェイミーの笑顔と幸せのためにある。そういうわけで、調査はものすごい勢いで進んだ。
さて、フクロテナガザル、という真っ黒で腕の長い、樹上で暮らす猿が園内にいる。これがなかなかユニークな鳴き声を発するのだ。遊びに行く動物園においては、話題に事欠かない宣伝隊長のような存在である。人間の成人男性が気合いを入れているかのような叫び声はなかなか特徴的で、シェリルはジェイミーに涙が出るくらい笑ってもらうつもりでいた。これで最初のつかみは完璧である。
その近くにはイケメンゴリラとして、巷では有名な人気者もいる。まずはここから攻める緻密な計画を、シェリルは立てたつもりだった。
ところが当日、張り切って動物園に来てみると、入り口の看板には信じがたい文字が躍っていた。
「り、臨時休業……」
そう言えば昨夜は雷がゴロゴロと不穏に鳴っていた。当日のデートに響きやしないかとひやひやしていたのが、天気は回復したのですっかり油断していた。落雷は併設されている植物園で起き、安全確認のために本日は誠に申し訳ありませんと記載されていた。
開園した直後は混雑するというジェイミーの気遣いで到着時間を少し遅らせたせいか、周囲には誰の姿もない。他にも入園できなかった人々がいればともかく、自分達しかいないと虚しい気分も二倍である。
更に、広大な施設のため入り口が複数設けられている中、件のサルに一番近い入り口を予め指定しておいた己の手際の良さが恨めしい。
オアアアア、とフクロテナガザルが人間のおじさんみたいな叫び声を遠くから発しているのを聞くしかない。笑うつもりが、まるでこちらが嘲笑されている気分である。
シェリルは災厄を呼ぶために考え出したかっこいい呪文を、虚ろな目でぶつぶつと呟くほかなかった。
「うん、まあこういう事もあるさ。こればっかりは仕方がないよ」
「……ジェイミー」
きっとがっかりしているだろうに、なんてことのない口調を装う、愛しい恋人ジェイミーの完璧な笑顔が眩しい。青空を背景にした絵画のような光景にシェリルが思わず目を奪われていると、彼はさりげなくこちらを腕の中に閉じ込めた。
そんなジェイミー、まだデートは始まったばかりなのにこんな……とシェリルは花も恥じらう乙女に見えるように身を捩る。しかし振り解くのはもったいないので、悲劇のヒロインのような顔でそのまま堂々と居座った。
「どうしても行ってみたいお店があるんだけど、そこへ一緒に行くのはどうかな?」
「……たあっ!」
シェリルが文献と実施調査を経て編み出した完璧な猫じゃらし捌きにより、店中の猫が我先にと殺到した。二人はジェイミーの提案で、いわゆる猫カフェと呼ばれるお店を訪れていた。
ここには茶色、白にぶち模様にハチワレに三毛などの猫スタッフ達が所属している。愛らしい姿と鳴き声とで来客そっちのけでくつろぐ様子を座って眺めるのに、入場料金を支払う決まりだ。更に追加料金で、おやつや猫じゃらしも投入できる人気店である。運が良ければ猫スタッフ達が相手をしてくれるらしい。
「すごい、かっこいいよシェリル!」
ジェイミーはシェリルが、猫の大軍を操る姿にいたく感動したらしい。席についたままこちらに手を振っている。
誇らしげな心境で賞賛の眼差しと歓声に応じたシェリルだが、とんでもない事実に気が付いた。なんと黒と茶色のまだら模様の地味な色合いの猫が、あろうことかジェイミーの脇に顔を埋めたままじっとしているのである。一体何をしているんだあの猫は、と驚愕した。
人間だったら変態寄りの不審者として咎められる行いであるはずなのに、猫なのでジェイミーも気にした様子はない。二人きりの時ならばともかく、恋人のシェリルですら公衆の面前であのような親密な距離まで近づけた事はなかった。
なんてうらやましい、とシェリルは抑えようのない嫉妬に駆られながらも、ジェイミーの声援に応えようと猫じゃらしを全力で振った。
そこへ、悠々と近づく黒い影があった。
「……長続きした事がないだけでまあまあ経験値のあるお前と違って、相手はシェリルちゃんなんだから、もしもの時のデートプランの立て直しくらいしてやるんだぞ」
「わかっているよ、そんなの」
不穏な雷の音に顔を顰めつつも、翌日予定されているデートに浮かれているジェイミーである。
そこへニックがジェイミーの、恋人と時間を共有しているという事実だけでおおむね満足してしまう欠点を指摘した。横で書き物をしているウィルまで同意するようにあー、と呟いたので、地味に傷ついた。
「……あれ、でもジェイミーって正式に結婚の申し込みをしたじゃないか。何を今さら、デートプランの一つや二つで悩んでいるだろう?」
「しっ。今まで恋愛に全力を出さなかったジェイミーだぞ。悩んでいる方が面白いんだから、そのままにしておこうぜ」
横でひそひそやり取りしている親友達を横目に、ジェイミーはあれこれと悩みの種は尽きる事はなかった。
今まではお互いの立場や距離の制約があった。それが晴れて自由の身になり、シェリルの親代わり、カルロが見届ける前で結婚の約束まで取り付けた仲である。
しかし、しがらみの消えた今になって、ジェイミーが毎回女性に愛想をつかされるつまらない人間である事が彼女に露見したら非常にまずい。シェリルに幻滅されたら何を心の支えにすればいいのかわからなくなってしまうだろう。
ジェイミーは万が一にも動物園デートが中止になった場合のプランBからZまで、大真面目に検討したのであった。
さて、当日取り入れたプランC(Cat)である。たあっ、とシェリルが気合いの声とともに猫じゃらしを動かすと、十匹近い猫が我先にと殺到していた。彼女の動かし方は何か秘密があるのか、先ほどからずっとこの調子である。猫じゃらしを小刻みに振って猫達の興味を誘い、タイミングを見計らって大胆に振り回す。彼女は猫達のマドンナと化していた。
「ジェイミー、ちゃんとかわいい猫ちゃんを楽しんでいる!?」
「ああ、すごく、とても!」
ジェイミーはシェリルに向かって声援とともに猫じゃらしを振りながら応じた。
向かいの席について一緒にお茶を楽しむだけでなく、愉快で予想のつかない可愛い恋人の姿に、日々の疲れも心労も浄化される心地であった。
ところがいたく平和な光景は、一匹の猫の鋭い鳴き声によって中断された。店の奥から姿を現した大柄なボスらしき黒猫の姿に、他の猫スタッフ達がさっとその場を明け渡したのだ。ジェイミーの脇に挟まっていた、シェリルの髪や瞳の色と同じ焦げ茶の小柄な猫までが、そそくさと立ち去ってしまった。
「ジェイミー! 黒猫の体毛の一部が異なる色をしている部分はエンジェルマークと言って幸せの……」
猫じゃらしを振る手を止めて豆知識を披露するシェリルに相槌を打ちつつ、ジェイミーは遅れて現れた黒猫をまじまじと観察した。彼はシェリルが猫の挨拶作法として差し出した人差し指の匂いを確かめた後、すりすりと全身を寄せながら甘えた声を発し始めた。
光沢のある美しい毛並みは尻尾の先まで優雅に、鋭い目つきに堂々とした体躯。そして何よりふてぶてしい表情。
なんとなく、最近同じ王城で仕事をするようになったとある人物を連想させる見た目である。その相手はシェリルの親代わりにも等しい。するとジェイミーの横で、追加の飲み物を持って来た人間のスタッフが驚いたような声を上げた。
「まあ、カルロまでお客様方に興味を示すなんて。彼は人見知りですけど、一度気に入った相手にはとってもおしゃべりなんですよ」
「カ、カルロ?」
「はい、この子はカルロって名前なんです。最近この店に来て、あっという間にボスの座に」
壁には猫スタッフ達の情報が記載されたポスターが貼られている。それを見る限りはほかの猫はシロやクッキーやたぬきなどの無難な名前であるにも関わらず、よりによって黒猫で名前がカルロ、である。思わず身構えずにはいられなかった。
「ふふふジェイミー、いくら何でも心配要らないわ。さすがにカルロさんだって猫に化けるなんてできっこないんだから」
こちらの考えをなんとなく察したらしい彼女が笑っている。ところがその時、シェリルにしきりに魅力を振りまいている黒猫がそれまでとは違う短い鳴き声を発した。まるで、異論があるとでも言いたげに聞こえた。さらにぶるぶると、首どころか全身を左右に振った。
「……カルロちゃん、どうかしたの? まさか、本物のカルロさんだなんて言わないでしょう?」
シェリルがまさか、と冗談交じりの問いかけに、黒猫カルロは正解だ、と言わんばかりに次は満足げにのどをゴロゴロと鳴らし始める。肉球をぽん、と彼女の膝あたりに伸ばした。
「んん?」
「え、……まさか本当にカルロさんなの?」
黒猫はにゃーにゃーと何かを訴え、本物のカルロなのかと尋ねると、その時だけ明らかに違う反応を見せる。二人は思わず顔を見合わせた。
ジェイミーの脳裏を、実はカルロ・スプリングが秘密の呪文で黒猫に変身し、二人のデートの妨害をしに来た可能性がよぎった。しかし今日はたまたまここを訪れたのである。その線は薄い。
そうなるとこの猫カフェは悪の組織のアジトであり、秘密裏に潜入していたカルロが猫の姿に変えられ、従業員としてこき使われているというまさかの展開が浮かんだ。そのくらいにこの黒猫はなんだか独特の雰囲気がある。
傲慢な人物が本来の姿を失い放浪した後、清貧な人物に心の正しき在り方を学んで元の姿に戻る。歌劇や本で見た事のある筋書きだ。段々と、たまたま遭遇した二人に希望を見出し何とかここから連れ出してくれと懇願しているようにしか見えなくなった。
ゆっくりと顔を見合わせた二人の目の前で、人間のスタッフが意味ありげな笑みを浮かべ見せた。そうしてポケットから取り出した鈴を、見せつけるようにちりちりと鳴らした。
「……はい、名残惜しいですがお時間ここまでとなりまーす!」
「あの、もう少しだけどうか……」
「すみません、やっぱり猫スタッフ達に負担がかかりますので、お時間厳守という方向で。またのお越しをお待ちしています」
黒猫は名残惜し気にシェリルに縋りつく。それは頼むから置いていかないでくれ、自分は人間なのだと懇願しているように見えなくもない。ジェイミーは食い下がったが、猫を盾にされると強く出られず、店の出口まで来てしまった。
お店の入り口付近はガラス張りになっていて、黒猫カルロはそこまで追いかけてきて、二人を名残惜しそうな表情で見ながらにゃーにゃー鳴いている。
「ねえシェリル、まさかとは思うけど人間のカルロさんに最後に会ったのはいつ?」
「……数日前。ウィルに頼まれたとかで、仕事をして来るってそれっきり」
思わず言葉を失うジェイミーとシェリルは、黒猫にすっかり注意を奪われていた。そのため背後からそっと近づく人影に肩を叩かれるまで、さっぱり気が付かなかった。
「やあやあ、そんなところで騒ぐと往来の人々に迷惑だぞ、そこの二人」
カルロ・スプリングは、たまたま通りがかった猫カフェの前でおなじみの顔を発見した。今日は動物園に行くのだと、数日前にシェリルがうきうきと言っていたのを思い出した。偶然を装ってイケメンゴリラのご尊顔を拝むついでに、たまたま遭遇する企みをしていたところである。だからどうしてこんなところにいるのかと不思議に思い、声を掛けた。
すると振り返った二人は数秒固まった後、まるで幽霊でも見たような顔で悲鳴を上げた。更に猫カフェの中の黒猫と、カルロの顔を二度見して増えた!影分身だ! などと謎の発言をしている。
「大丈夫よジェイミー、ここは私に任せてあなたは先に逃げて!」
「いやいやシェリル、そういうわけにはいかないだろ!」
カルロの前で、二人はひし、と抱き合い小芝居みたいなやり取りを大真面目に繰り広げている。そんな恋人達を無情にもぽいっと引き剥がしてから、冷静に事情を尋ねた。
その後、カルロは涙が出るくらいに笑った。そのまま猫カフェに入店し、自分の名前と一緒の黒猫を思い切り構い倒したほどであった。名前を呼ばれるのが好きらしい、とても可愛い黒猫であった。
ところが翌日、王城に顔を出す頃には、スプリング家に猫に変身する魔法があるという噂がまことしやかに広がっていて、訂正するのに大変苦労する羽目になってしまった。
更にカルロの雇い主の兄にして不倶戴天の宿敵、根も葉もない噂が大好物のローリー。彼の元に噂がたどり着く頃には追加で尾ひれが付きまくり、カルロ・スプリングは休みの日に猫カフェで、若い女性にしか懐かない猫スタッフとして働いている事になっていた。
そうして目の前で涙が出るまで笑われる事になるのは、また別のお話である。