実録、恐怖の300日問題!
「今日ねー、クロとかーちゃんとカラオケ行ってきたー!」
全ては、五歳になる俺の息子のその一言から始まった。
「は? カラオケ? お義父さんトコ行ってたんじゃねーの?」
日曜日の夜である。
だが俺は仕事で、その日、妻と息子は妻の実家の方へ遊びに行く、という話になっていた。
しかし息子の言葉を聞くと、そんな気配は感じられず、
「コラッ、なに言ってるの!」
洗濯物を畳んでいた妻が、慌てた様子で息子を叱る。
「ダチとカラオケでも行ってきたン?」
「ん、そんな感じ。お父さん、忙しいからって」
「ふーん」
そのとき、俺は妻のその言葉を大して気にしていなかった。
まぁ、翌日も仕事だったし、すでにリラックスモードに入っていたから、仕方なかったのかもしれない。
だがしの記憶が薄れるよりも早く、事態は急転する。
青天の霹靂っつーか、超展開っつーか。
「あのね……」
と、妻が日曜日、その日は仕事も休みだった俺に切り出してきた。
年末も近く、今年は妻の実家で年越しかなー、などという話を数日前辺りからしてた頃のことだ。
「好きな人ができたの」
「………………はぁ」
いきなりすぎて、俺はそんな生返事を返すことしかできなかった。
そしてこのタイミングで、当然俺は、息子の言葉が頭に蘇ったワケで、
「え、じゃあ、クロって、その、クロ?」
「う、うん……、もう、付き合ってるの」
早ェーよ。
こっちに言う前に息子との面通し終わってるってなんだよ。
おまけに交際してるってどゆことよ。
なんでもじもじしてんだよ。
いい年ブッこいたオバさんが見せるツラじゃねーだろ。乙女か。
「え、何、俺にどうしてほしいの?」
「……別れよっか」
おう待てや。
なんでその言い方なわけよ。
なんでその、『二人とも話し合った結果、これしかないよね』みたいな言い方するん?
「あー……、マジで」
「……うん」
その後、もちろん、話し合った。
話し合って、おれで、結局別れることになった。俺は別れたくないとは伝えたが、相手の意思が固すぎて、どうしようもなかった。
その日、自室に帰った俺は、ひっそり泣いた。
年末を妻の実家で過ごした。
年始を俺の実家で過ごした。
その両方で俺と妻は、それぞれの両親に別れることを伝えた。
もちろん、色々と言われた。どちらの両親にもだ。離婚の理由をしつこく聞かれた。
妻が、浮気のことは言わないでほしいと言っていたので、それは隠した。
こんな女でも十年近く一緒にいた。だから、と、俺は感情に流されてしまったのだろう。
そしてどちらの両親にも泣かれた。
俺の両親を泣かせてしまったことが、何よりも辛かった。
こんなにも気の重い年末年始は、きっと、俺の人生でもこれっきりだろう。
いや、これっきりにしてくれよ。もう一回とかあったら俺の心がデッドエンドだよ。
そして翌日に家に帰ろう、帰って、離婚の期日とかを詰めよう、という話になっていた中で、
「あ、ちょっと明日はその子の世話よろしくね」
「は? 明日って、お前どこ行くのよ」
「クロに会いに行ってくる」
おまえアホか。
「……何言ってるの? さすがに、何言ってるの?」
「え、だって……」
頬赤くしてんじゃねーよ。
「いや、だって、まだ三が日も終わってないでしょ? おまけに、今日お前、ここで何話したか覚えてる? ねぇ?」
ちなみにここは俺の実家。
そして数時間前、俺は両親に泣かれました。
俺も泣きました。
妻も泣きました。
息子ももらい泣きしました。つくづくすまん!
「だって……」
と、妻、何かを抵抗しようとする。
「だって? だって、何よ?」
俺、イライライライライライライライラ。
「だって、仕方がないじゃない。会いたいんだもん!」
うっわ、この理由……!
俺、さすがに戦慄。
しかし妻、潤む瞳に涙を浮かべ、聞いたこともないような色艶のある声で、頬を赤く染めて訴えてくるのである。
「気持ちが、止められないんだもん! 仕方がないじゃない!」
もん! じゃねーわ!?
1クールの恋愛モノのドラマの佳境(10~11話辺り)で出てくるヒロインのセリフか?
君ね、年と常識を考えろ?
純然たる事実として、君は浮気をしてて、それを感情だけで正当化してるんやで?
「さすがにねーべ……。さすがにねーよ……」
ドンビキしつつも首を横に振る俺に、妻の言葉はあくまでも熱烈であった。
「会えないと、死んじゃうの!」
何だこいつ。
自分を人魚姫か何かと勘違いしてるのか?
悲劇のヒロインヅラがとってもよくお似合いですこと。醒めるわー。
まぁそんなわけで、翌日、妻は浮気相手に会いに行きましたとさ。
俺は息子と一緒に家でゲームしてました。
何で五歳なのにそんなに格ゲ上手ェんだよ!?
「とーちゃん、下手くそ~」
行動による蹂躙のあとに言論でトドメ刺すのやめてェ!?
と、結局それが、最後の、本当に最後の、平和な一幕だったワケで。
それからは、トントン拍子にコトが進んでいった。
離婚調停。
息子の親権についての話し合い。
離婚届への署名と捺印、そして、届け出。
慰謝料はきっともらえる条件が整っていた。だが俺は、もらわないことを選択した。
もう、疲れていた。
この短い数か月の間に、俺の精神は、凄まじい勢いですり切れていったんだと思う。
一分一秒絶え間なく、心が目の粗いやすりで削られ続ける。そんな感じ。
早く終わってほしい。
そればかりを望むようになっていた。
今にして思えば、吹っ掛けてやればよかったと思うんだけどねー。
でもそのときはそんなことすら考えられないくらい、疲弊しきっていたのだ。
息子の親権は妻の方に移ることとなった。
俺が男手一人で育てられる自信がなかったのと、浮気相手が裕福だったこともあった。
ただ、条件として年に何回か、息子に会う、という条件は取り付けた。
離婚はしてやる。でも、俺はこの子の、父親だ。そんなことを、俺は思っていた。
子供一人養えない情けない父親、という事実から、目をそらして。
「さようなら」
「ああ、さようなら」
離婚届を提出して、俺と妻は役所の前で別れた。
またな、なんて言葉は、もう一度会いたい人間に向かって使うものだ。
そのとき、二人とも別れの言葉を選んだのは、つまり、そういうことだった。
ともあれ、これで俺は晴れてバツイチになったワケである。
花の独身貴族。
しかもバツイチという、ちょっとアダルティな経歴の持ち主だ。
まぁ、仕事があることに変わりはなくて、休日の過ごし方に悩んでしまうんだが。
そして帰って、俺はゲームを始める。
選んだソフトは格闘ゲーム。
あの日、息子と一緒に遊んだゲームだ。
ストーリーモードを遊んでも、これが全く、勝てない勝てない。
「ったく、強ェーなー……」
鼻声になっているのが、自分でもわかった。
そんな、離婚した日の、夜だった。
そして――四か月が過ぎた。
そろそろ一人での生活にも慣れてきた頃、一本の電話がかかってきたのだ。
「はい、もしもし?」
「もしもし、私、弁護士事務所の者なのですが」
「………………はぁ」
全く身に覚えのない、弁護士からの電話。
俺はいつしか以来の生返事を返してしまう。
「えーっと、なんでしょうか……?」
と、恐る恐る尋ねると、その弁護士、別れた元嫁の代理人だたのだという。
はて、離婚調停はつつがなく終了して他に話し合うことなどなかったはずだが?
「実はですね、元奥さんが妊娠なさいまして」
「早ッ!?」
受話器に向かって、思わずそうツッコんでしまった。
え、妊娠? え?
別れてからほんの四か月で?
え? 早くね?
何それ、光陰矢の如し? 疾風迅雷のごとく? 動かざるのは山だっけ?
動転、全くの動転である。
しかし弁護士は、そんな俺に、さらなる衝撃を突きつけてきやがるのだった!
「実は、離婚後300日問題という問題がありましてですね――」
「え、何ですか、それ」
なかなか初耳な単語であった。
「離婚後、300日以内に元奥さんの方が子供を出産した場合、その子供は離婚前の配偶者の子供として扱われるんです」
「ヤッてもいねーのにですか!?」
「…………」
動転から叫んでしまった俺に返ってきたのは、重苦しい沈黙だった。
これは恥ずかしい。
「ンッ、ッンー!」
俺、何度か誤魔化しの咳払い。
っつーか、去年の秋辺りにキスしよーって言ったらビンタされてんですけどね、俺!
「よろしいでしょうか」
「あ、はい」
「とにかくですね。そういった問題がありまして、これを回避するには旦那様側からの届け出が必要になるのです」
つまり、元嫁としてもその届け出がほしくて、弁護士に相談した、という話らしい。
「あの……」
「はい?」
「その、元妻の妊娠なんですが、何か月めなんですか?」
この俺の問いに、弁護士はしばしの沈黙ののち、
「四~五か月目辺りと、聞いています」
うわー! これ絶対年始のあのとき仕込んだヤツだー! うわー!
「あ、はい、分かりました……。えっと、何日に、どこにいけば、いいですかね……」
「それでは……、って、あの、声が随分小さくなっていますが、大丈夫ですか……?」
「ヘッヘッヘ、元気百倍だぜ、べいびぃ~……」
「もしもし! もしもーし!?」
そりゃあ心も死ぬってもんだわ。
で、指定された日に、俺は裁判所に赴き、そこで元妻と数か月ぶりの再会を果たした。
「あ、久しぶり。ねぇ、まだ時間あるし、一緒にご飯食べてかない?」
と、のたまう妻は、そこそこおなかが大きくなっていた。
そして、現在の旦那であるクロと手を繋いで大層朗らかな笑顔でした。
ブッ飛ばすぞ、ホント。
散々、自分の都合でこっち振り回しておいて、よくメシ一緒に食べない、とか誘えるな。
あー、天罰落ちねーかなコイツラ。
合法的にむごたらしく怪死遂げてくれねーかなー、息子ちゃん除いて。
とんでもないことを考えているようだが、これまでの経緯を鑑みれば、思うくらいはいいでしょ。
だってこっちは、浮気されるわ、離婚前に子供作られるわ、されてるんですよッ!
「……さすがに、それはねーだろ」
しかし、俺は鉄の自制心をもってそう告げて、二人から離れた。
もうねー、同じ場所の空気吸いたくない。同じ日本国民とすら思いたくないモン。
どっか、まだ人類が発見してない未踏の地の住人じゃねーのか、こいつら。
って、そう思いたいよ。精神構造にそれだけの差異を感じてるしね。
だってよー、ここまで一回の謝罪もないんだぜ、信じられる? 俺は無理です!
その後。
届け出はすぐに受理されて、今度こそ正真正銘、俺の離婚問題は全て決着した。
こんなことなら、親権主張しておけばよかったわ……。
「神様、俺、まともな彼女が欲しいです……」
そんなことを天に願う、無神論者の俺だった。