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恋を知らない沼男とアジサイ

作者: 葉霧星

 沼の真ん中にある一軒家。そこが私の主人の家だった。

 だった、というのは主人はもう死んでいるからだ。

 そして、その家を守るのが私の使命だった。

 だった、というのはやはり、主人がもう死んでしまったからだ。


「アジサイ。お前はまた村に行ったのか」

 私が家の庭のハンモックでゆらゆら揺れてくつろいでいると、沼の向こうからチュニックドレスを着た泥の女がスキップをして楽しげに歩いてきた。

 アジサイ。それが彼女の名前だ。……とはいえ、その名前は私達の主人が付けた名前ではない。主人が死んだ後、彼女が自分自身で付けた名前だ。

「いいもの買っちゃった」

 アジサイはそう言いながら、沼の上の橋を渡ってこちらへやって来る。

 持ってきたのは皮の表紙で綴られた本のようだった。

「お前が本? 珍しいな」

「恋愛小説だよ。ドラゴンの鱗と交換したの」

 にこっと笑って見せるアジサイ。

「なるほど……。まあ、いつもお前が交換してくる服やら小物やらに比べれば、ずいぶんマシな買い物か。それにしても意外だ。お前に読み書きが出来るなんて」

「できないよ」

 アジサイは満面の笑みをして私に言った。

「……お前、本が読めないのに本を買ってきてどうするつもりだ?」

「沼男が読んでくれると思って」

「断る」

「なんで?」

「私は泥人間とはいえ、マインドセットは男なのだぞ。その私が、なぜ男女の恋愛話をお前に読んで聞かせないといけないのだ」

 私は辟易としながら言った。すると、アジサイは笑みを崩さず返す。

「私が文字を読めないからだよね?」

 私はうなだれた。アジサイは首をかしげる。

 どうして私の主人は、自分の家の防衛者である泥人間に、アジサイのような脳天気な女の人格を付与したのだろうか。アジサイほど防衛という言葉が似つかわしくない泥人間もそうはいまい。

 しかし、主人が死んでしまった今となってはそれを確認する方法はない。

「……まあ、いいだろう。私は読んでやらんが、代わりにお前に文字を教えてやろう。文字を勉強して自分で読むといい」

「えー」

「えー、ではない。……それから一つだけ条件がある」

「なあに?」

 アジサイは不思議そうな顔をして聞き返した。

「文字を教える代わりに、この沼を離れて村に行くのは週に一度だけにしろ」

「えー」

「えー、ではない。前にも言っただろう。私達は魔力を泥でつないで出来た泥人間だ。今はなき主人がこの沼に残した魔力が尽きれば私達は泥にかえる。この沼を離れて遠出をするということは、大変に危険があることなのだ」

 アジサイはとても嫌そうな顔をする。

「週に二度!」

「交渉はしない。返答は、はい、か、いいえ、しか認めない」

 私が言うと、アジサイは少しだけ眉をしかめて考えた。やがて、

「……はい」

 仕方なさそうな顔をして、こくんとうなずいた。

「そのかわり沼男。私が上手くおぼえられたら頭をなでてね」

「頭? その行為に何の意味がある?」

 アジサイは私に微笑んだ。

「私が嬉しい!」


 魔法使いである私達の主人は、魔法の道具を集めた宝物庫と言ってもいい自分の家を守るために、沼の泥に魔力を与えて私達をつくった。

 しかし、魔法使いといえど、ただの人間。数年前、主人は寿命で一人孤独に死んだ。

 残された私は、主人に与えられた『家を守る』という使命を遂行しつつ、いずれ沼の魔力が尽きるその時まで、穏やかに暮らしていこうと考えた。

 だが、もう一体の防衛者であるアジサイは、私とは考えが違うようだった。

 彼女は主人の残した道具を持って近くの村に行き、それを、村に滞在している商人達の品物と交換した。

 防衛者としてあるまじき行為ではあるが、主人は死んだのだから、彼の持ち物がどうなろうと誰も文句は言うまい。そう考えて私は黙認した。

 アジサイが交換してくるものは、本当に他愛もない、子供や村娘が喜びそうな玩具や服、雑貨などばかりだ。

 彼女は残された一生を楽しんで生きていこうと考えているようだった。

 私は彼女のそんな生き方を尊重している。

 そして、そんな彼女の生き方が死に行くだけだった私の日々に、彩りを添えてくれていることもまた否定はできない。私にとって彼女は、ちょうどこの沼のほとりに咲いているアジサイのような存在だった。

 それを意図して自分の名前を付けたのかと思い、ある日、私は彼女に尋ねた。

 すると、彼女はこう答えた。

「それは、内緒!」

 そう言った彼女の表情は、いつものように笑んでいた。



   *   *   *



 文字を覚えたアジサイは、恋愛小説を読みふけることが多くなり、前よりずっと行動が落ち着きはじめていた。

 苦労して文字を教えたかいがあった。庭の椅子にじっと座って、小説を読みふけるアジサイを眺めながら私は思った。

 その時、アジサイは私の姿を見つけ、笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。

「ねえ、沼男! 沼男は恋をしたことはある?」

「恋……?」

 大きくうなずくアジサイ。どうやら本気で聞いているらしい。

「ない。私は沼人間だ。そんなものは必要ない」

「沼人間は恋をしない?」

「知らん。その答えを知っているのは、私達に命を与えた死んだ主人だけだ」

 と、私は言ってみたが、おそらくその答えは主人も知らなかっただろう。

 もし知っていたのなら、強大な魔力を持っていたにもかかわらず、一人孤独に死んでいくなんてことはしなかったはずだ

「そうか。困ったなぁ……」

 アジサイは珍しく自分の頭を使って、何かを深く考え込んでいるようだった。

「困った? 何が」

「うん。それがね、私は自分でも恋愛小説を書いてみたいの。私みたいな泥人間が主人公の。でも、泥人間の恋愛事情なんて誰も知らないじゃない?」

「それは……まあ、そうだろうな」

「だから困った。私は沼男に恋をしているけれど、沼男が恋をしないなら、話がうまくつながらない」

 ん? 私はアジサイの言った言葉に、思わず首をひねった。

「お前が俺に恋をしている?」

 アジサイは笑った。

「うん! 私は沼男のことが大好きだと思う! だって、沼男が私の頭をなでてくれたらすごく嬉しいし、これからもずっと沼男と一緒に居たいって思うもの!」

 そんなアジサイの突然の告白に、私は困った。……いや、弱った。

「……前言撤回だ。私達の人格は借り物だ。私達は人間ではない。ゆえに、人間のように恋愛をすることはない。お前のその感情は偽りだ。無機物である泥同士の恋愛などありえない」

「そんなことない! 私の沼男が好きだって気持ちは、私には本当だもの! どうして私の気持ちが嘘だって沼男にわかるの? 証明してみせてよ!」

 証明……? そんな言葉をとっさに使えるようになったのは、本を読めるようになった影響だろうか。

 私はアジサイをどうやって説きふせようかと考え始めた。

 しかし、当のアジサイはそんな私にかまうことなく、ぽん、と手をついて何かに納得してから、私の方へと振り返った。

「そっか! 私が沼男に私を好きにさせればいいんだ!」

「ん?」

 私はアジサイの方を見た。すると彼女は、私の眼前に人差し指を突き出し、暗示をかけるようにぐるぐると回し始めた。

「好きになーれ。好きになろう。好きにならねば。好きになった……、なった?」

「ならない」

 ちぇー、とわざとらしくすねてみせるアジサイ。

「でも、そのうち絶対、私のことを好きにさせてみせるから。そして、私は絶対、自分の恋愛経験を元にした恋愛小説を書くの!」

 アジサイは両手をにぎって、私に微笑んだ。

 こうなった彼女は、もう私には止められない。とはいえ、私と一緒に居てくれるなら、彼女が村に行く頻度も減り、彼女が寿命を前に消える危険も少なくなろうと考えた。

(まあ……、しばらくは好きにやらせてみるか)

 私は溜め息をついてから振り返り、私を恋に落とす算段を立て始めたアジサイを残して、家の中へと入った。


 それからアジサイは様々な手段で、私を好きにさせようと迫ってきた。

 ある日、彼女は手料理と称して、私に泥団子を振る舞った。

 別の日には、私の気を引くために、自分で下手くそな詩を書いて私にうたった。

 最近ではだんだんと行動が増長してきていて、寝る時ですら彼女は私から離れようとしなくなり始めた。

 ――が、私がアジサイに恋をするということは全くなかった。

 しかし、アジサイが恋愛感情に興味を持ってからというもの、私は自分自身の感情と生き方について少し疑問を抱くようになり始めた。

 というのは、私は自らが造られた存在であるということに、少しこだわりすぎていたのではないかと思い始めたのだ。

 私にもアジサイを大事にしたいという感情がたしかにある。でなければ、私がこれほどアジサイに世話を焼くことなどありえないはずだ。だが、私のこの感情が嘘であるなどと誰が証明できようか。それを証明できる唯一の人間、創造主はすでに死んでいる。

 そして、それはアジサイの感情も同じだ。

 彼女の感情が嘘であるなどとは誰にも証明できない。私にも、無論人間にもだ。

 ならば私も、もう少しアジサイのように、自分の感情のおもむくままに生きてみてもよいのではなかろうか――。


「沼男、何をしているの?」

 机に向かう私に、アジサイは声をかけた。

「木を彫っている」

「なんで?」

 アジサイが私の隣に座って尋ねた。

「小説を書きたいというお前を見習って、私もせっかく生まれてきたのだから、この世界に何かを残してみたいと思った。それで木を彫っている」

「へー……。これ、花?」

 私の彫ったものを見て、眉をしかめて首をかしげるアジサイ。

「アジサイだ。下手だろう。笑っていいぞ」

「笑わないよ! 沼男が頑張って彫ったものだもの!」

 律儀なやつだ、と思い、沼男は笑った。

 アジサイも笑った。

「ねえ、沼男。これ、出来たらどうするの?」

「どうもしない。ただ、どこかに置いておくだけだろう」

「だったら私にちょうだい! 置いておくだけなら、別にいいでしょ?」

「ああ……。まあ、そうだな。欲しいと言うならやろう」

 私がそう答えた瞬間、アジサイは跳ね上がって喜んだ。

 そんなアジサイを見て、私は私の中で何かが昂ぶるのを感じた。

 翌日、私は出来上がった木彫りに懐中時計のチェーンを通して首飾りにし、それをアジサイに手渡した。アジサイは装飾品が好きだから、きっとこうした方が喜ぶと思ったのだ。

 案の定、アジサイはひどく喜んだ。

 喜びすぎて、彼女は受け取った瞬間、震えながら私に抱きついた。

「どうしよう……。なんだろう、この気持ち。これが、幸せって気持ちなの?」

「私に聞くな。私は知らん」

 いつものようにそっけなく返事をした私に、アジサイは笑った。

 けれど、たしかに私の中にもいつもと違う感情があふれていた。

 このままずっとアジサイと一緒に生きていきたい。

 この気持ちが、幸せという気持ちなんだろうか。

 私にはそれがわからなかった。



   *   *   *



 いつもと変わらない、何の変哲もないただの朝だった。

 起きて木を彫り始める私。私の横で文章を書く練習を始めるアジサイ。人間と違い、空腹を感じず、肉体疲労が起きないのが泥人間の良いところだ。私達はただひたすら、静寂の中で互いの作業に没頭した。

 いつもなら先に口を開くのは必ずアジサイだった。アジサイが自分の練習に飽きて、私のところへやって来る。

 しかしその日は、静寂を解いたのは私だった。

「あっ」

 ただ一言つぶやいて、私は作業を止めた。

「どうしたの、沼男……あっ」

 私のところへやってきたアジサイは、私と全く同じ言葉をつぶやいた。

 何のことはない、木を彫っていたノミが折れたのだ。ただそれだけだった。

「沼男、他にノミは?」

「ない。これ一本で終わりだ。元は修理道具で使っていたものだからな」

「どうするの?」

「どうもしない。ただ掘るのを止める。それだけだ」

 そう言って家を出た私は、庭のハンモックでゆらゆらと揺れ始める。

 沼のほとりのアジサイを見ると、もうすぐ夏も終わるのか、花が少しずつ枯れ始めていた。

 しばらくアジサイを眺めていると、やがて家の中からアジサイが出てきた。

 彼女は手に、魔法の水晶の欠片が入った小袋を持っていた。

「アジサイ、村に行く気か?」

 私が尋ねると、アジサイは笑顔でうなずいた。

「今週はまだ村に行っていなかったから。ついでにノミを買ってきてあげるね」

「ダメだ。ノミを買いに行くなら私が行く。私のために、お前が危険をおかすことはない」

 私は言った。しかし、アジサイは首を横に振った。

「これはネックレスのお礼。私はまた泥男につくって欲しいから、だから私が行くの」

 そう言って、アジサイは泥男の言葉も待たずに、橋を渡って村の方へとかけていった。

 少し胸騒ぎがした。

 だが、アジサイが村に行くのは毎週のことだ。そして、いつもアジサイは何事もなく帰ってきて、笑顔で交換してきた品物を私に見せる。それが私達の日常だった。

 しかしその日、アジサイは沼に帰ってこなかった。

 私は不安のあまり、胸が張り裂けそうになった。

 主人の家を守るのは私の使命だ。そして、それは私が命を与えられた理由であり、私の存在意義でもある。

 主人の家の防衛を放棄して、自分の役目を放棄したアジサイの様子を確かめに行くなど絶対にあってはならなかった。

 私は一晩だけ、アジサイの帰りを待ってみることにした。

 彼女はやはり帰ってこなかった。

 彼女の身に何かが起こったことは明白だった。

 愚直に主人の家を守り続けるか、それともアジサイを助けに行くか、私は葛藤した。

 ――そして、私は橋を渡って、村の方へと走った。

 ただひたすらアジサイの名前を呼びながら、私は走り続けた。

 あの性格とはいえ、彼女も私と同じ主人の強大な魔力を与えられて生まれた沼人間である。人間に襲われてやられるということは考えにくい。考えられるとすれば、途中で何か事故が起こり、沼に帰れなくなってしまったという可能性だ。

 私は与えられた力の全てを使い、アジサイを探すことに集中した。

 そうして、近くの村から立ちのぼる、かまどか何かの煙が見え始めた頃、私は崖下にアジサイが着ていたチュニックドレスがあるのを見つけた。

 私は急いで崖を駆け下り、彼女のドレスを拾い上げた。

 すると、ドレスの中から砂がざりざりとこぼれ落ち、地面に私が彫ったアジサイの木彫りが、乾いた音を立てて転がった。

「……アジサイ」

 ドレスの下には、小さな砂の山が出来ていた。

 それは、間違いなくアジサイだったものだった。

 彼女は死んだ。

 私は持っていたドレスを握りしめ、崩れ落ちて、彼女だった砂に顔をうずめた。

「……アジサイ……、どうして……、どうしてなんだ……」

 私は無心で、砂の山を握った。

 しかし、彼女だった形跡は何一つ残っていなかった。

 私があの時、彼女を止めなかったからか。

 それとも、私が彫刻などを始めてしまったからか。

 私はただひたすら、後悔の念に包まれていた。

 そんな時、砂の山の中から、一本のノミと、アジサイが小説を書くために買ったペンやインク、紙……そして、一枚の手紙があらわれた。

 私はすぐに手紙を開いた。

 それは自分の死を悟ったアジサイが、最後に私に書き残した手紙だった。

『ごめんなさい、沼男。帰る途中、崖から落ちてしまい、足が壊れて帰れなくなってしまいました。たぶん私はこれから死にます。でも、恐くはありません、私はあなたと一緒にいられて幸せでした。一緒にいてくれてありがとう。私に文字を教えてくれてありがとう。

 ……それから昔、沼男は私に、なんでアジサイって名前にしたのか聞いたよね。あの時、私が答えられなかったのは、私にも理由がわからなかったからなんだ。でも、今なら自信を持って言えるよ。

 私がこの名前にしたのは、沼男がいつも沼のほとりのアジサイを見ていたから。沼男はあのアジサイが好きなんだと思っていたから。私もあのアジサイみたいに、沼男に私のことを好きになって欲しいと思ったからなんだよ。私はこの名前をつけた時から、ずっとあなたのことが好きだったんだよ。

 私に恋することを教えてくれてありがとう。さようなら、沼男』

 私は手紙を握りしめ、しばらくその場にたたずんだ。

 やがて日は暮れ始め、私は自分の中の魔力が残り少なくなっているのを感じた。

 仕方なく、私はアジサイのドレスと、ノミや手紙などを抱えて沼へと帰る。

 戻った私の視界に入ってきたのは、沼のほとりのアジサイだった。

 その瞬間、私は膝を地面に落として涙を流した。

「すまない……アジサイ……。私は……、私はずっとお前のことが好きだったんだな……。私は……いつまでもお前にそばにいてほしかった……。本当にすまない……、もっと早くに気付いていれば……、この気持ちを伝えられたのに……」

 私はその場にうずくまり、ただただアジサイへの謝罪の言葉をつぶやいた。

 私は造られた存在だ。

 この感情も、もしかしたら造られた嘘の感情なのかもしれない。

 だとしても、私はそれを認めない。

 ――私はアジサイが好きだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 「なぜ自分にアジサイという名前をつけたか」の理由だけでもヒロインが可愛い。 泥人間の死に方が砂になるというのはリアルで、また物悲しい。 泥が泥を愛するのは本当に泥自身の感情なのかとか、する…
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