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睡蓮の微笑み

作者: 三香

 青く、ひたすら青く染めあげられた昼の空には、赤いガーベラの炎のような太陽が輝いていたが、夜になると天の簪のような星星煌めいて、夜空を夢のように美しく飾っていた。


 私は夜会に行く前に義姉に挨拶をしよう、と水の上に建つ優美な廊下を歩いていた。

 この屋敷は、大きな湖の上に特殊な構造と骨組みと莫大な資金によって建築され、その水に浮かぶ異国的な外観もあって幻想的なまでに美しかった。


 もともとは大叔父が異国の花嫁のために建てたものであったが、誰一人として花嫁の姿を見た者はなく、そしてーー大叔父が亡くなるその夜。


 その夜は、湖一面に睡蓮が咲いていた。

 朝に花開き夕方には閉じる花であるのに、夜になっても咲き誇ったままの、不思議な夜だった。


 大叔父は最後まで睡蓮を見たいと願い、親族である私と兄と両親は湖面を眺めながら枕元に立っていた。


 それは突然だった。

 湖が淡くゆうらりと輝き。

 月が湖に降り立ち照らしているような。

 ポーンポンポンと睡蓮がひとつひとつ花咲く幻の音が聞こえ。

 ポーンと幽けき音は波紋のように響きあい。


 睡蓮が天女の羽衣を纏うがごとく儚く玉響の光をはなち、その時をむかえた。


 水面に、花の精霊のように美しい女性が立っていた。


 大叔父が手を伸ばすと、女性は水面上を歩いて枕元まできて大叔父の手を握り、真珠の涙を流した。


 目覚めるのが遅くなってしまった、と。


 女性は人間ではなかった。

 水底の国の姫君で、貿易商である大叔父が異国で溺れた時、姫君に助けられ二人は恋におちた。

 しかし姫君の父王に許されず、父王の目を欺くため睡蓮の花に身をかえた姫君をつれて、この国に大叔父は帰ってきたのだという。


 そして大叔父は姫君のために、湖を買い屋敷を建て睡蓮を咲かせた。だが、異国の水が合わなかった姫君は眠り続け、睡蓮のまま50年間かけて水を体に馴染ませ、ようやく目覚めることができたのだった。


 はらはらと真珠の涙をおとす姫君に、もう一度会えただけでも幸せだ、と大叔父は胸が痛くなるような静かな微笑を浮かべた。


 50年も待って、待ち続けた、たった一夜の花嫁。


 大叔父を亡くし打ちひしがれた姫君は、謗りを覚悟で水底の国に帰ろうとしたが、兄が全身全霊で引き留めた。


 兄は姫君に一目惚れをしていた。

 どうやら大叔父は兄を自分の商会の後継ぎとして、そして老いた自身のかわりに姫君を守る者として兄を教育していたらしく、兄は姫君の心をこいねがって魔王のごとく暗中飛躍した。


 姫君は知らないが、私は知っている。

 兄が何をしたのか。

 兄の、オソロシサを。


 だから姫君が兄を受け入れてくれた時には、どれだけの人間が涙を流して喜んだことか。

 兄の執着と執念をわかっていながら結婚してくれた姫君に、自分ならば無理と思いつつ全員が心から感謝を捧げたものだ。


「お義姉様」

 私は美しくやさしい義姉が大好きだった。義姉も私をとても可愛いがってくれていた。

「まあ、綺麗よ、ユリリア。今夜はロザム公爵家の夜会だったわね」

「はい。婚約者のアイザックの家の。たぶん今夜ですべてが終わると思います」

 少し俯く私に、義姉が手を握って励ましてくれる。

「私の水占いでも今夜が分かれ目とででいるわ」


 今夜、私は婚約破棄される予定なのだ。義姉の使い魔の水妖が婚約者と浮気相手の計画を聞いてきて、私の家族を激怒させていた。


「さあ、私の花をあげましょうね。きっとユリリアを守ってくれるわ」

 義姉は私の髪に可憐な睡蓮を飾ってくれた。


 私ユリリア・クライスタとアイザック・ロザム公爵令息は父親が友人であることから幼馴染みの関係で、かつ3年前から婚約関係にあった。

 クライスタ家は貿易によって王国有数の資産を所有し、その通商網の価値は物流面でも情報面でも計り知れないほど高い。爵位は子爵であったが、クライスタ家と縁故を結ぶことは、ロザム公爵家の派閥に力を与えた。

 しかしアイザックは、婚約者が子爵の娘であることも自分より優秀であることも気に入らなかったようだ。しぶしぶ父親の決めた婚約を受け入れたものの、政略なのだからと、いずれ嫌でも結婚するのだからと、私を大切にする必要性も感じず心を繋ぐ努力もしなかった。

 しかも他の貴公子たちもしているのだからと、不誠実なふるまいで令嬢たちと遊んで私を存分に傷つけた。


 その結果が今夜なのだ。


「ユリリア・クライスタ。おまえとの婚約を破棄する」

 私を見下すように冷たく睥睨しながら、アイザックの片手は私に対して勝ち誇った微笑の金髪の女性の腰にまわされていた。


 レースで花を模った華やかなドレスの裾を優雅に持ち上げ、私は淑女の礼をする。

「ええ、よろこんで。これにて両家合意となり、今夜にて婚約は破棄されました」

 嬉しげに微笑んで言った私の言葉はアイザックの予想外だったのだろう。

 ひゅっと喉を鳴らして一瞬アイザックは呼吸を止めた。

「最後のプレゼントよ」

 驚愕の表情を浮かべるアイザックに、私は渾身の力を込めて平手打ちをした。

「嫌だわ。泣いてすがるとでも思っていましたの?」

 さらによろめくアイザックの局部を蹴りあげる。

「3年間の恨み!」


 崩れるアイザックを見下ろして、私は女王のようにホホホと笑った。


 場所はロザム公爵家の夜会である。

 着飾った紳士淑女の視線が刺さるほどに私に集中しているが、

「もう一発いいですか?」

「うーん、アイザックは一人息子じゃから種なしになったら困るのじゃけど」

「大丈夫。まだ潰れていませんよ」

「いやいやユリリアちゃん。潰れては本当に困るのじゃ」

 とロザム公爵と私の会話に、紳士方はさりげなく前を庇いつつ一歩下がり、淑女方は扇で口元を隠しながら美しく笑っている。

 アイザックの浮気は社交界では有名なことであったし、ましてや婚約者に恥をかかす目的での見せ物のような婚約破棄は、女性の嫌悪を催した。


 水揚げされた魚のごとく息を荒げながら、アイザックが声を張り上げる。

「よくもユリリア!俺にこんなことをして許されるとでも……!!」

「だってロザムのおじ様の公認ですもの、ね?」

「わしが許したのじゃ。文句あるか、バカ息子」

 ねーっ、と私とロザム公爵は顔を見合せ頷きあう。そこへ父であるクライスタ子爵もくわわる。

「婚約は破棄されましたが、ロザム家と結ばれた友誼はかわりなく。これからもクライスタ家はロザム公爵家を支持いたします」

「うむ、よろしく頼む」


 両家のかわらぬ蜜月をアピールするために、人々の前でかたく握手する父とロザム公爵。それを見て顔色をかえるアイザック。


「ち、父上! 婚約破棄とは!?」

「たった今おまえがしたじゃろ?」

「そんな! 俺は最近冷たくなったユリリアに嫉妬させようとしただけで!!」

 その言葉に、今までの出来事に茫然としていた金髪の女性が我にかえって叫ぶ。

「アイザック様!? 私と婚約して下さるとお約束したではありませんか!」

「うるさい! おまえなど面倒なく遊べる相手にすぎない!」


 アイザックは公爵筆頭の家に生まれ、頭を下げるのは父親と王族のみとして育った。

 継嗣としての能力も十分あり容姿も整い、他者は自身に従い自分の都合に合わせることが当然であった。

 しかし私と婚約して。

 自分は公爵家の一人息子ゆえに当主となるが、その優秀さゆえに自分の父親に望まれて公爵夫人になる私との差に、はじめて妬むという感情と劣等感をもった。

 そして、それらを認めたくないがために私を嫌った。


 アイザックは私の初恋が彼であることを知っていたから、冷たい態度や貶める言葉を私に浴びせても、自分がその気になれば何時でも愛というやさしい手に包まれると思っていた。


 愚かなこと。

 あなたが私の心に咲いた恋という名前の花を枯らしたのに。

 あなたが花びらを、一枚ずつ剥いで一枚ずつ毟って一枚ずつもぎ取って、残ったものは無惨な姿の一本の削りとられた緑の茎だけなのに。


 散ってしまった花は枯れるだけなのに。


「政略だから結婚は必然だろう!? こんな婚約破棄なんて一時的な、ユリリアの気持ちを試すためのお遊びで、必ず結婚するものと! それにそれにクライスタ家との繋がりはなくせないものだから、俺とユリリアの結婚は何があっても成立するものと!」

「バカめが。自分で壊しておきながら、つくづく浅慮よな。ユリリアちゃんがロザム家にきてくれれば、家は安泰じゃったのに残念じゃ。じゃがクライスタ家とはお互いに協力関係のままじゃ、ユリリアちゃんを不幸にするおまえとの結婚は必要ない」

 父親にバッサリ切られ、アイザックは青くなった顔を私に向けた。

「ユリリア、俺のこと愛しているよな!? 俺と結婚するだろう!?」

「自分の心を満たすために、私を傷つけるあなたを愛し続けられるとでも? 私にも心があるのです」


 アイザックの胸に言葉の槍がぐさりと突き刺さり心臓が悲鳴をあげる。口はカラカラに乾ききり、引きつりながら唾を喉に落として声を絞り出した。

「ユリリア……! 本気なのか、本気で俺と!?」

「あなたが望んだことです」

「違う! 違う! 俺はおまえを愛しているんだ! 綺麗でやさしくて賢くて、強いおまえが好きなんだ! でも最初に酷い態度をしてしまったから、どうしていいかわからなくて、おまえの気を引きたくて……! それに必ず結婚できると安心していたし、口説かなくても大切にしなくてもどんなことをしても、おまえは初恋の相手である俺を愛してくれると……うぬぼれて……」

 喉を詰まらせアイザックがぼろりと涙を落とす。

「愛しているんだ。ユリリアを愛しているんだ。だって全てユリリアなんだ。好きで好きで、眠る夜も目覚める朝も彼処の燭台の炎も此方の花瓶の花も窓の影も奏でられる音楽も、目に映るもの耳で聞くもの全部全部ユリリアに繋がって溢れて……。ユリリアがいないと、俺は狂う」

 すがりつく目のその奥には、ゆっくりと地上に這い出てきた熔岩が流れることなく固化したような情念が、熱を湛えたまま狂気を纏って燃えていた。


 私はぞっと身を震わせた。

 アイザックは兄と同じ目をしていたのだ。

 アイザックの本質は粘着と執念の、兄と同じく究極の病みの極みだった。

 義姉の運命を知っている私は、義姉が何故お守りに睡蓮をくれたのか理解した。


 泣きながら暗く光る目をして、ジリジリと亡者のように迫るアイザックに私は瞬時に決断した。


 ベソベソ泣いているうちにお尻に敷くべし!

 兄のように鬼畜ヤンデレに覚醒した後では手遅れになるわ。お義姉様は無限の水のような心で兄を受け入れたけど、私には絶対に無理だもの。兄レベルに進化したアイザックなんて、私の人生が闇色一色まちがいなしよ!


 私は覚悟を決めて微笑んだ。

 髪から睡蓮をはずして、アイザックの耳を擽るように囁く。

「この睡蓮の花びらの数の愛を誓ってくれるならば、婚約破棄をしないわ」

 アイザックは歓喜に震え何度も頷く。

「誓う!!」

 にっこりと蜂蜜を溶かしたように私は笑った。

「私の心を思って」

「酷い言葉を言わないで」

「浮気はダメよ」

 八重咲きの睡蓮の花びらが、私の言葉とともに一枚ずつ儚く散って消えていく。

 強力な誓約ではなく、おまじない程度の約束だが、アイザックの心に決して忘れぬように刻みこまれるもの。

 花びらの数だけ、いくつもいくつも約束事をお願いした。


 そして最後の花びらの一枚は、私の心に新たな花が咲くことを願った。


 数日後、私に婚約の申し込みがあった。

 どうやら私が婚約破棄されたと勘違いした若い伯爵からの縁談だったが。


 調べてみると、伯爵には恋人がいるのだが、本家筋の侯爵令嬢から熱烈に付きまとわれ、私を恋人の盾にするつもりだったらしい。つまり侯爵令嬢の意識を私に向かわせ、その間に恋人と逢瀬。くわえて侯爵令嬢を煽って私に対して刃傷沙汰に及ばせ令嬢を潰し、私をポイな計画だったらしく、身分は下の子爵だし婚約破棄された傷モノだし、私を利用して粗末に扱っていいと考えたようだ。

 クライスタ家のことも知らない、家を継いだばかりの愚かな伯爵だった。


「俺のユリリアに申し込んだだけでも許しがたいのに、恋人の身代わりで危険なめにあわせようなどと! 百回死ね!!」

 大激怒したアイザックが、伯爵を言葉通りに百度の命乞いをするまですり潰した。


 あの夜からアイザックは180度の角度でかわった。


「お義姉様、睡蓮が綺麗ですね」

 私はアイザックの膝の上にすわってお茶を飲んでいた。

 本当はずっとこうしたかった、というアイザックは溺愛スパダリコースに突入して、数日前とは顔が同じでも違う人物ではないかと皆が疑うほど、私にべったりくっついて甘い。

 正面にすわる義姉も兄の膝の上だ。

 兄は蕩ける眼差しで、義姉を愛おしくてたまらないと見つめている。

「ええ、綺麗ね。はい、ユリリア、お茶に入れてごらんなさい。甘くなるわ」

 義姉は、トロリとした花蜜のはいった睡蓮の花弁を私にくれた。

「甘くてお茶が美味しくなりました」


 水に浮かぶ絵から抜け出たような艷美な館の。

 白色を中心に、赤の淡紅の紫の黄の色取り取りの睡蓮が咲きこぼれる綺麗な湖の水辺で。

 目の前の、この世のものとは思えぬほど美しい義姉と目を見合せ、たおやかに微笑みあい。

 私は、やさしくなったアイザックを信じてみようか、と思った。


 あの睡蓮の最後の一枚が私の心の中で蕾となる。

 アイザック、あなたは大叔父や兄のように美しい睡蓮の花を咲かせることができるのかしら?





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[良い点] 婚約者のいる男性を奪う女性も女性だし、 生涯をかけて償いという名の献身と愛を捧げるチャンスを 与えるのもひとつの断罪なのかなと。 [一言] コメさせて頂いた感想に多忙な中返信を下さり …
[一言] 「アイザック様!? 私と婚約して下さるとお約束したではありませんか!」 「うるさい! おまえなど面倒なく遊べる相手にすぎない!」 浮気はどっちも悪いのに女性の方だけが割を食う不条理…(´;…
[気になる点] 鬼畜ヤンデレな兄が義姉に何をしたのかとても気になります。 そして義姉を手に入れるために何をやらかしたのかも気になります。 [一言] こういう粘着力と執着力に塗れた男っていいですよね。 …
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