甲斐国編・第七話
甲斐国編・第七話投稿します。
拙作を読んで下さり、ありがとうございます。今回は難産でした。詳しくはあとがきで。
天文十八年(1549年)五月、甲斐国、躑躅ヶ崎館、武田二郎――
「そうか、砥石城攻めは一旦中断したのか」
「横田殿が討ち死になされました。御屋形様も仕切り直して、攻め方を変えるべきかとお考えのようです」
「まあ、そうだよな。馬鹿正直に守りの堅い城を攻めても被害は甚大だ。なら弱点を攻めるか、兵糧や水を断つか。或いは内応させるか、そんな所だろうな」
たしか史実では砥石崩れという出来事で、重臣が討ち死にしたんだよな?名前までは憶えていないが、それぐらいは知っている。それを機に真田幸隆が仕官して、調略で一日で砥石城を落とす、というのが俺の知る歴史だ。俺は歴史については広く浅くだが、その程度の事なら知っている。
「武田には勘助と真田という知恵者がおるのだ。心配はいらぬだろうよ」
「何を申されますか。二郎様とて、そうでございましょうに」
「俺はまだガキだぞ」
苦笑した俺に、虎盛が豪快に笑う。今回、虎盛は留守居役であり、先に使いの者からの報告を受けていたのであった。
俺がガキであるのは事実だ。ただ俺には前世の記憶があり、転生したという自覚が有るのも事実。だから精神年齢だけで言えば、信玄パパよりも年上の自覚はある。
それを口にしたところで、碌な結果にならないのは分かり切っている事だけどな。
「そういえば駿河でも動きがあったそうだ。治部大輔(今川義元)が、馬鹿をやったわ」
「何がありましたので?」
「例の澄酒よ。あれを治部大輔は今川で全て買い占める事を命じてきたそうだ。馬鹿な男だ、一部始終、全て信虎御祖父様から山科様や三条御祖父様経由で朝廷に伝わっている事も知らずにな。のこのこ献上品を持っていけば馬鹿にされよう。かといって持っていかなければ献上品を独り占めしたと罵られるだろうな」
「では武田家としては傍観なされるのですか?」
「まさか。父上が代わりの品を用意している」
そう、年明けに父上にバレてしまった芋飴、すなわち水飴の事だ。
澄酒も喜ばれたが、水飴だって喜ばれるのは間違いない。戦国時代において甘味は貴重だからだ。特に日本には、砂糖の原料となる植物がほとんど自生しておらず、砂糖が貴重品であったという歴史的事実がある。
だから日本以外の国はミネラル分を補給するのに砂糖を摂取してきたのに、日本人だけは海水から作った塩からミネラル分を摂取してきたのだ。
「虎盛、俺の作った芋飴は食べたであろう?あれを献上する」
「確かに甘味は貴重ですが、澄酒の代わりになるほどなので?」
「なる。芋飴は水飴の一種でな、材料が芋か米かの違いでしかない。そして水飴は神武の帝が作ったと言われる代物だ」
驚いたのだろう。絶句した雰囲気が虎盛から伝わってきた。
俺もそんな歴史があったなんて、全く知らなかった。それを知ったのは、三条ママのおかげだ。
三条ママは貴族の御姫様と言う出自。だから記紀についてもしっかり目を通している。そのおかげで、三条ママは俺に色々な話を聞かせてくれるのだ。
まあ、源氏物語や伊勢物語は勘弁してほしいんだが。恋愛小説は趣味じゃないんだよ。
「本当だぞ?奈良の時代に作成された日本書紀に書かれている事だ。故に、その事を用いつつ献上するのだ。ところで、どうだ?」
虎盛に隠し持っていた芋飴を手渡す。虎盛がどうしようか?食べて良いのか?返した方が良いのでは?と悩んでいる気配が伝わってくる。申し訳ないが噴出しそうになった。
そんなに難しく考えなくても良いのに。これから先、サツマイモの生産量が増えれば、水飴の生産量も増えていく。なにせサツマイモの欠点は、保存性の低さにあるからだ。それを解決するにはどうするべきか?答えは干芋にするか、或いは飴にするか。手軽さなら干芋だが、飴なら干芋以上に長持ちするという強味もある。生産量は増えるのは自明の理だ。
「神武の帝は、水飴が皆に行き渡れば争いは無くなるだろうに、そう仰せられたそうだ。俺も同感だ」
「甲斐国は貧しいですからな」
「だからその貧しさを俺が断ち切る。父上に献策した農業の改善案を実行に移せば、少なくとも今よりは暮らしが楽になる。そうしたら次は、あの業病だ。アレを甲斐から駆逐しないとな」
日本住血吸虫。あれを投薬で治すのは無理だ。やるなら土木工事、その為に必要なのはローマン・コンクリート。
ローマン・コンクリートは西暦二千年代においても、その全てが検証された訳では無い。だから問題はあるかもしれないが、その辺りは補修作業も含めてフォローしていけば十分に実用レベルにまで持っていけるだろう。
「父上が建築中の堤防。あれが完成した所から用水路を作成するのだ。そうなれば業病の巣である池や沼を潰して犠牲者を減らす事も可能になる」
「先は長いですな」
「だが誰かがやらねばならん。武田家が強くなることも大切だが、国の足腰に当たる民が弱ければ簡単に転ぶだろう?足腰の大切さ、戦場で長く生きてきた虎盛なら、良く分かっている筈だ」
転ぶだけで済めばよい。下手をすれば再起不能になることもあり得るのだ。千里の道も一歩から。まずは土台作りを入念にしないとな。
内政をしっかり行い、最低でも餓死者を無くすことが最低ラインだ。
それと同時に、海を手に入れる為の準備も進めないといけない。
目標は今川家――静岡県への進出。
今川がこちらの計画通りに動き出しているのは確定だ。事実、酒屋に忍ばせている三つ者からも、特別に変化が起きたという報告は来ていない。こちらが予想した澄酒独り占め計画のままに進んでいるのだろう。
まちがいなく、義元は『仕込まれた』澄酒の魅力に憑りつかれたのだ。澄酒には灰が必要となる。だがその灰は秘伝の調合の下に作られており、いくつかの材料は『武田領でしか入手できない』事になっている。
そして武田領から運ばれてくる『今川義元用献上酒』に仕込む予定の木灰は特別製なのだ。一回二回程度なら濃度が低いからまだ何とかなるが、毎日常飲していれば話は別だ。
そして義元は、俺が謁見した時にはすでに澄酒を飲んでいた。あれから約一年。もうすぐ駿河は武田の物になる。
「父上の事だ。恐らく忍びを駿河だけではなく、遠江や伊豆にも派遣して周囲の動向を調べてはいるだろう。信虎御祖父様が仰っていたが、今川で注意すべきは雪斎以外に岡部、由比、朝比奈だそうだ。そいつらだけは、俺を嘲笑わなかったそうだからな。朝比奈は普段は遠江の掛川城にいるから、すぐに駆け付ける事も出来ん。となれば岡部と由比だな。こいつらも潰れてしまえば楽なんだが」
「こればかりはどうしようもありませぬな。運を天に任せる他ありますまい」
「まあ、それを運任せにしてはいけないのだろうがな」
当たり前の事だ。自分に何とか出来ないから、諦める。そんな事は上に立つ者として決して許される事ではない。最後まで足掻くべきなのだ。
方法は、策。これ以外にあり得ない。
「まずは朝比奈が後詰で来ないように、策を仕掛けるべきだろう……そうだな、例えばだが三河に対して尾張の織田家が岡崎城侵攻の準備をしているという噂を流すのも手だろうな。噂に聞いたが、春に三河松平家の当主、松平広忠が死んでいる。そのドサクサに紛れて、治部大輔は雪斎と兵一万を使い三河を制しようとした。だが、岡崎城までを制するので精一杯だったそうだ。そして三河安城城に三河支配の拠点を持つ織田家としては、これ以上、西に来て貰いたくはない。信憑性はあるだろう?」
「確かに。織田による東三河侵攻の際の後詰として、遠江勢を待機させておきたいところですな。であれば、朝比奈は釘付けとなる」
「そうだ。これで重臣一人を無力化できた」
まずは一人。あとは残る二人をどうするか、だ。岡部と由比。姓からして分かるが、この二名は駿府城の東西を守る盾。この二人が所領を離れる事は、まずあり得ないだろう。
ならばどうする?
「まずは由比だな。仮にだが、北条が東駿河の兵を増やしたら、今川はどうする?」
「……まずは使者を送るでしょうな。確か左京大夫(北条氏康)殿の息子の一人が質に入っていた筈です。であれば、確認ぐらいは取るでしょう」
「ああ、それがあったか。であれば、この案は駄目だな。安房の里見と北条が手打ちをしたという情報を流そうと思ったのだが」
しまったな。そういえば徳川家康と仲の良かった奴がいたんだっけな。それじゃあ、確認ぐらいはする事を考えておくべきだな。問答無用で一触即発とはいかんか。
であれば、発想の転換だ。
遠くへ追いやるのが不可能なら、そもそも兵を用意させなければ良い。
「……奇襲はどうだ?武田家の襲来を悟られなければ、いや、悟られるのが一日でも遅れれば、それだけで十分だ。百姓兵を集めるのには刻がかかる。僅か一日遅れただけでも、駿府の守備兵は減る事になる。兵を持たぬ将に存在価値は無いだろう」
「確かに仰る通りですが、難しくは有りませぬか?」
「二つほど考えはある。父上の求心力と、甲斐の黒駒、それから勘助の差配があれば不可能では無いと思うのだが」
一つ目は武田の兵を偽装させて、ばらばらに進軍させて今川領内で待機させておく。そして日時を決めて信玄パパが機動力重視で、今川の物見の報告よりも早く進軍。今川領内で兵を纏め上げて、一気に駿府城に攻め込むという物だ。
二つ目は秋の収穫時期に攻め込むという諸刃の剣の策。幸い、武田家には銭が幾らかある。故に兵を出した百姓には年貢の減免を約束し、減った分の年貢は武田家の銭で補う。収穫時期に攻め込まれれば、岡部や由比としても即時行動とはいかぬだろう。恐らくは僅かにいるであろう常備兵を頼りに、時間を稼ぎながら百姓兵を集めようとする筈。
問題は、治部大輔が無力化にまでは至っていない点だな。秋に間に合わなければ、春の田植え時期にずらすのも手だ。この辺りは臨機応変に対応しないといけない。
だが最大の問題が残っている。
それは臨済寺の生臭坊主だ。これを無力化する必要がある。やはり向こうが兵を率いる事が出来ない内に、首を獲るのが最適だろうな。
暗殺という手段もあるが、それは禁じ手だ。暗殺なんてやってしまえば、周囲から警戒されるのは間違いない。何よりも、信玄パパが俺に危険を感じた結果、ズンバラリンなんて御免被る。
更に考えてみるか。より良い案が浮かぶかもしれん。
天文十八年(1549年)八月、駿河国、臨済寺、太原崇孚雪斎――
「全く、治部大輔(今川義元)様にも困ったものだわ」
軽い頭痛を感じて、こめかみをグリグリと押す。治部大輔様の母である寿恵尼様に相談があると言われて足を延ばしたのだが、内容を聞いて困ったものだと思ってしまった。
最近、治部大輔様の酒が過ぎると言うのだ。
確かに酒の飲み過ぎは毒である。酒毒という言葉もある様に、飲み過ぎは決して良くない物だ。
何事も適量と言うべきものがある。儂は酒を嗜まぬが、だからと言って酒という存在その物を否定するつもりは欠片も無い。
ただ実際に謁見して思ったが、確かに呑み過ぎだ。
「何とかしないといかんだろうな。節制無くして天下は……いや、いかんな」
頭を振りながら、自室へ戻る。それにしても暑さが厳しいわ。冷たい井戸水で渇きを癒すとするか。
「岡部殿や由比殿にも協力を願わねば。北の方様には、甲斐の御実家へしばらくは文を出さぬよう協力をお願い申し上げる必要がある。無いとは思うが、万が一、という事もあり得るからな。これ幸いと、甲斐に情報を流されては堪ったものでは無いわ」
天文十九年(1550年)二月、甲斐国、躑躅ヶ崎館、武田晴信――
「そうか、砥石城は落ちたか」
「真田殿の調略に応じ、僅か一日で落城したとのことにございます」
「うむ。真田が戻ってきたら、旧領復帰を伝えねばならぬな。そうなると後は村上の動向が問題だ。これ以上、締め付けるのは今後の戦略に悪影響を与える……うむ、真田には砥石城に入って兵馬を休めよ、と伝えよ。村上は敢えて生かさず殺さずで行くとな。これ以上は北が煩くなってしまうわ」
周辺の国人衆も、砥石城がある小県郡は武田に靡いた。飛騨への経路上の国人衆も武田に着いている。これ以上、武田に引き付けると村上が弱くなりすぎてしまう。ここは国人衆から寝返りが来ても突き放していくか。
砥石城攻めの使者に下がって休むように指示を出す。そこへ弟の典厩信繁が姿を見せた。
「御屋形様、坊主の件で」
「分かった。皆、席をはずせ」
家臣達が姿を消す。これから受ける報告は、誰にも聞かせてはならぬことだ。
今川家には武田家の耳目が入っている。だが逆が無いとは断言できない。だからこそ、念には念を、という事だ。
「太原崇孚雪斎、先月末から出仕を取りやめている、との事。駿府城で何やらあったように御座います」
「そうか。分かった。この情報、知らぬふりを通せ」
「心得まして御座います」
三つ者からの報告、実に良い仕事をしてくれる。今川の軍師、雪斎は義元の師でもある。恐らくは酒毒にやられた義元に対して、師として厳しく接したのだろう。結果、不興を買ったのであろうな。であれば、いよいよ駿河侵攻の時が来たと言える。
まあこちらが三つ者を使って、臨済寺の小坊主に噂話を吹き込んでやったのだが。
『今川義元は酒に溺れている』
小坊主からその事を報告された雪斎は、当然、危機感を感じただろう。噂になっている以上、放置は出来ぬ、と。こちらの目論見通りにいってくれたわ。
今川の頭脳が行動を封じられたのであれば、確実に今川の行動は一手遅れる。
田植え時期にも重なるのだ、実に都合が良い。
「北条が嘴を突っ込んでこないよう、手は回してあるな?」
「は、北条は里見を警戒しております」
「ならばよい。これで駿河は我がもの」
治部大輔(今川義元)は二郎の策に見事にハマった。姉、於豊から急に文が来なくなったのだ。情報漏洩を恐れているのだろう。だが、それは遅い。あの澄酒の追加生産を急かしている事が全てを教えてくれる。
そうだ。あの義元用の澄酒生産には、特別な処理をしたケシを混ぜた灰が必要不可欠なのだからな。
二郎が言うには、ケシは摂取を繰り返すと、やがてケシを求めるようになってしまうそうだ。それと澄酒を組み合わせれば、澄酒を浴びるように飲み続ける事になる。やがては酒毒によって、体を、そして心を壊す。
「典厩、念のために姉上に文を送ろうと思う。最近、母上が体調を崩しがちだ。齢が齢なので、久しぶりに顔を見せに躑躅ヶ崎へ来ないか?と」
「良き案かと。理由をつけて断ってくれば、義元は終わったと見て宜しいかと。あとは念には念を入れて、武田は砥石城を落とした事、信濃統一も目前、と姉上に流しましょう。漏らせば今川に武田の目は信濃に向いていると伝わりましょう」
「良い案だ」
早速、文を送るか。そして春になっても文が来なければ動くだけだ。
「御屋形様。ケシですが、三つ者が鎮痛剤として使いたい、と申しております。いかがいたしますか?」
「ふむ、今回の策で使い終えたら燃やすつもりだったが……二郎の忠告もある……俺の栽培地は燃やす。代わりに人里離れた所に小さな畑を作らせよう。ただし俺とは無関係とするのだ。良いな?」
頷く弟。二郎が燃やせという理由は分からぬでもない。万が一にでも、証拠を残しておきたくないのだろう。人の心を壊す薬を有する者を、誰が信用すると言うのか。
清濁併せ呑むとは言うが、それでも越えてはならぬ一線、表沙汰になってはならぬ一線という物はあるのだから。
「ここまで長かったわ」
もはや義元は役に立たんだろう。後継ぎの龍王丸はまだ十二。軍師の雪斎は謹慎中。重臣の朝比奈は遠江。戦となれば岡部と由比しかおらぬ。不意を突けば蹴散らす事は容易。龍王丸には傀儡となってもらおうか。
姉上には辛い思いをさせる事にはなるが、武田家の為に耐えて貰おう。だが龍王丸は粗略にはせぬと約束する。他の子らも同じだ。武田の血を入れ、武田の血族とする。そうすれば今川の重臣達も下手に動けまい。
「やっと海を手に入れられる。ここまで長かったな」
「はい」
「田植え時期に合わせて進軍を開始する。兵の募集に応じた者には、年貢を減免してやる事を約束するのだ」
天文十九年(1550年)四月、駿河国、駿府城、武田晴信――
「何度見ても見飽きぬ!海は良い!」
好機。そう判断した俺は駿河へ奇襲攻撃を仕掛けた。
田植え時期に合わせて、募兵に応じた農民や商人、流民のフリをさせた者達を予め先行して駿河に送っておいた。そして直属の騎馬兵二千で駿河へ侵攻。駿河侵入後に兵は合流し、一気に五千まで膨れ上がった。
同時に全ての国人衆へ文を送った。
今川治部大輔義元は酒毒に侵され、まともに物事の判断もつけられなくなった。太原崇孚雪斎も謹慎中。今川は存亡の時を迎えている。我、武田大膳大夫晴信は姉である於豊方、甥にあたる龍王丸やその弟妹達を守る為に駿府へ向かう、と。
道中の国人衆はアッサリ降伏した。田植え時期で兵を集められない所に、いきなり五千の軍勢が現れたからであろう。
国人衆の処置は後続に任せ、ひたすらに進軍していく。
駿府城は急報を受けた岡部や由比、出仕を禁じられていたにも関わらず、急報を受けて登城した雪斎の指揮する兵によって守られていた。が、率いる兵は少数であった為に多勢に無勢。周辺の国人衆も今川に分が悪いと判断し、様子見を決め込んでしまった。だがそうなった一番の理由は、義元の酒毒にあるだろう。
酒毒にやられた男に、自分の命を預けられるか?
出来る訳が無い。見限るのは当然だ。
そして義元を始めとした今川上層部の者達の安堵を条件に、助けが来ない事を理解した岡部と由比が降伏したのである。一方で雪斎は、弟子であり主であった男を守れなかった責任をとって、自決を選んでいた。
義元は予想通り、酒毒にかかっていた。その情けない有様に、ケシがどれだけ恐ろしい物か、嫌と言うほど理解させられた。
目の焦点は有っておらず、常に酒を手にしている。酒の飲み過ぎで頬はこけ、顔色も悪い。酒ばかり飲んで、食事を疎かにしていたのであろうな。
恐ろしい。俺が最も警戒していた最大の敵手が、こうも落ちぶれるとはな。
「あのようにはなるまい。贅沢も過ぎれば毒となる。戒めねばならぬ」
義元は甲斐国で好きなだけ酒を飲ませてやる。それが本人にとっても幸福だろう。
実母である寿桂尼は息子に付き添うことを選んだ。詫び代わりに寺を建てる事を約束した。そこで息子とともに静かに暮らすのだろう。
姉は精神的に参っていたのか、夫にはついていかなかった。夫の酒毒に伴い、色々とあったらしい。目の下に隈もできていた。それでも、背に子供達を庇っていた。きっと、我が身に換えてでも守りたいのだろう。甥や姪については身の安全を保証し、一族と同等に扱う事を約束した。
もう少ししたら、母の大井の方が駿府へ来ると伝えたら喜んでいた。姉には心の支えが必要だ。これはせめてもの償いだ。姉の幸せを壊したのだ、それぐらいはせねばならん。
同時に周囲への配慮も進めた。
まず対北条だ。伊豆や箱根に対する抑えとして善光寺城。後詰として蒲原城を選んだ。この辺り一帯は今川と北条、武田の間で激戦となった地。勘助に命じて防御を強化しなければならん、とりあえず香坂宗重を城主に命じた。勘助の強化した城を使えば、十分に北条に対する備えとなる。
西はとりあえず安倍川を堀に見立てて敵をくい止める事を考えている。と言うのも、遠江は調略を繰り返して取っていく為だ。もし攻めてきたら追い返せばよい。
しかし田植え時期に攻めるのは、想像以上に効果がある。敵兵が激減し、敵将が有能であっても実力を発揮できなくなるのが大きいわ。だがこちらも百姓兵である為、こちらばかりが有利という訳では無い。特に年貢の減少は痛い。なんとかしたい所だな。
あとは拠点の問題だ。
俺自身は駿府城ではなく、もっと海に近い場所を拠点にするつもりだ。候補地としては江尻か久能山。後は水軍も必要だ。義元も考えてはいただろうが、さて、どうしたものか。
そして甲斐だが、俺は思い切った事を考えている。吉と出るか、凶と出るか。それは分からぬ。だが勘助は賛同していた。ならば少しぐらいは期待しても良いだろう。
天文十九年(1550年)六月、駿河国、駿府城、武田二郎――
俺は今、駿府城にいる。御祖母ちゃんである大井の方、通称、御北様による、於豊伯母さんの御見舞いにお付き合いする為だ。
信玄パパ曰く『二郎、駿府に来い。姉上とは面識があるであろう』と。
そういう意味だと、間違いなく適役ではある。だが、俺にとっては罰ゲームも同然だ。伯母さん、俺の策の為に不幸になったんだぞ?どの面下げて会いに行けと言うのか。俺はそこまで厚顔無恥じゃない。
だからと言って、馬鹿正直に真実を暴露するほど、俺も馬鹿ではないのだが。
仕方ないので、十日に一度は行っていた愛への挨拶も一時ストップし、梅雨の中、俺は祖母ちゃんと同じ輿に乗って駿河へ向かった。
護衛兼御供は守役の虎盛さんと、その息子の昌盛さん。あとは配下の兵の人達。小雨とは言え、雨に打たれていれば体も冷える。申し訳なかったが、虎盛さんには笑って受け流されてしまった。
移動する事、約十日。
信玄パパの統治はひとまず受け入れられたらしく、トラブルに見舞われる事も無かった。恐らくは義元が酒毒にかかった事により信用を失った事、後継者である龍王丸を殺そうとする気配が無いからだと思う。
信玄パパなら、きっと龍王丸を殺さずに生かして利用するだろう。それによって、旧・今川家家臣団を取り込むつもりだと見ている。
とりあえず駿府城ではパパに挨拶し、その後に伯母さんに面会したのだが……
「久しぶりですね、大きくなりましたか?」
「虎盛に言わせれば、大きくなったそうです。自分では分かりませぬが」
「二郎はちゃんと大きくなっていますよ」
伯母さん、声に元気が無いわ。やっぱり、旦那さんの事があるんだろうな。御祖母ちゃんが励ましているようだが、一朝一夕で持ち直すとはいかんだろう。
評判を聞く限り、夫婦仲はそれなりに良かったみたいだしな。
そもそも子供が三人もいるんだ。夫婦仲が悪いなど、考えられん。
「こちら、甲斐から持ってきた土産になります。どうかご賞味ください」
「あら?何かしら?」
「飴に御座います。量はありますので、皆様で楽しんでください」
持ってきたのは芋飴だ。一応、パパに挨拶した時に許可は貰っておいた。建前上は道中で購入した事にしてある。
「ありがとうね。龍王丸、松、福。皆で戴きましょう」
「「はい!」」
甲高い声、多分、松姫と福姫だろうな。龍王丸――多分、今川氏真の事だと思うんだが、彼に関しては返事が聞こえてこなかった。まあ、色々と思う所はあるのかもしれないな。
やっぱり、早めに退席したいんだが。いっそ、雪斎禅師の墓前参りという名目で抜け出す事も考えるか?
「甘いです!」
「母上、とっても甘いですよ!」
子供達の素直な反応に、伯母さんも喜んでいるみたいだ。お祖母ちゃんもやっと笑顔を見せてくれたわね、と声に出して喜んでいる。
少しは雰囲気が和らいだのが良く分かる。
「ところで母上、お尋ねしたい事があるのですが」
「私に答えられる事かしら?」
「太郎(武田晴信)は子供達を一族として遇する事を約束してくれました。ですが、周りがそれに同調するかどうかは分かりませぬ。先走る者もおるやもしれません」
まあ、言われてみれば伯母さんの言う通りだよな。子供達を守れるのは己のみ。となれば、用心に用心を重ねるのは重要な事だ。
俺からすれば、信玄パパが龍王丸を殺す事なんてありえないとは思うんだけど、今の伯母さんにその理屈は通用しないだろう。
特に家臣の暴走となれば、猶更だな。
「そこで、母上から太郎に働きかけて欲しいのです。松か福、どちらかを二郎の嫁にできないか、と?」
「はあ!?」
思わず声を上げてしまった。いや、何でそうなる?俺に宛がうより、龍王丸に武田の姫を宛がうようにお願いしろよ!
いや、普通に考えればそうだろう!?
俺を婿に入れても、デメリットしかないじゃないか!
「二郎は嫌ですか?」
「嫌とは言いませぬが、意味が無いと思います」
「それは、どうして?」
「まず、私は終生、妻を娶るつもりはございませぬ」
伯母さんも御祖母ちゃんも、絶句したようだな。まあ十歳の子供に、独身宣言されたら言葉を失うのも分かる気はするが。
でも仕方ないんだよ。武田家を内部分裂させる訳にはいかないんだから。
「御祖母様は御存知でしょうが、私は甲斐で四百石相当の所領の差配を父上から許されております。そして結果も出す事が叶いました。ですが、だからこそ、許されぬのです。武田家中に、私には内政の才がある事が広まりつつあります。この評価が更に広まれば……兄上の立場を脅かす事になりかねませぬ」
「ですが、二郎。それは考えすぎだと思いますよ?」
「私も正直、考えすぎだとは思います。ですが武田家中を二つに割るような火種を燻らせる事は、私には出来ませぬ。だからこそ、私は生涯、妻を娶らぬ事を考えました。子がおらねば、私を担ごうとする者も出ては来ぬでしょう」
二人揃って静まり返ってしまった。従兄妹達も言葉を挟む事も出来ず、静かにしている。ただ飴を舐める音が聞こえてくるあたり、本能には忠実なんだなと思うと、笑いがこみ上げてきそうになった。
何というか、この従妹姫たちは可愛いわ。なんかあったら助けてあげないとな。
「伯母上。龍王丸殿を守りたいのであれば、龍王丸殿に武田の姫との婚儀を行わせるべきです。その方が、龍王丸殿の身を守りやすくなります」
「……そうなのかしら?」
「はい。大変、失礼な物言いをする事をお許し下さい。龍王丸殿に武田の姫が嫁げば、武田と龍王丸殿、双方に利が御座います。武田家にとっては、今川家を血で取り込み、争う事無く武田家に吸収出来る事。龍王丸殿にとっては、考えの足りない連中に対して、『父上の娘婿に手を出すのか?』と暗に父上の存在を匂わせる事によって、身を守る事が可能になる事。父上の深謀遠慮を台無しにしたら、いかなる理由があろうとも切腹は免れんぞ?と」
普通に考えれば、この方法が一番だと思うんだけどね。
松や福を俺に嫁がせるのも手ではあるが、大きなデメリットがある。その事もしっかり説明すれば、間違いなく龍王丸に嫁を貰う、という方向へ傾いてくれるだろう。
「それと伯母上。仮に松殿か福殿を私に嫁がせて、子が生まれたと致します。ですがその場合、その子は武田と今川双方の血を引く事になります。加えて父である私は次期当主の弟であり、内政に長けている。であれば、父上の中に今川家当主の座を継がせるか。そんな考えが芽生えたとしてもおかしくは有りませぬ。そしてそれが実行されれば……」
わざと一息つく。伯母上の不安を刺激して、方針を変更させる為だ。そうしなければ、龍王丸の立場は無くなる。いや、下手をすれば始末されるだろう。
それが分かったのだろう。伯母さんと御祖母ちゃんが『確かに』と応じてくれた。
「だからこそ、私に嫁がせるのではなく、龍王丸殿に嫁を貰う事を考えるべきなのです。御祖母様から父上に働きかけていただければ、動いてくれるでしょう。あとは可能であれば、太郎兄上の正室として、松殿か福殿を迎えさせるのも良いかもしれません。武田家次期当主と、今川家次期当主が互いに嫁を迎え合う。これにより今川家家臣団の不穏分子を刺激せずに取り込めるとなれば、父上にとっても損は御座いません」
「確かに二郎の申す通りに思えます。於豊、私に任せてくれるかしら?この子達は祖母として、私が守ります」
「お願いいたします、お母様!」
まあ、こんな所か。伯母上の幸せを壊した、せめてもの罪滅ぼしだ。あとは俺の事は黙っておくように、お祖母様達に釘を刺しておくか……いや、意味無いな。間違いなく、松や福といった従兄妹達から情報は洩れる。
なら、開き直るか。訊ねられたら、素直に答えればよい。別に武田家に敵対した訳でもないんだから。
しかし……分が悪い。ホッとした事で、気が緩んだせいだろうか?いや、違うな。これは自分に対する嫌悪感だ。
どうやら、西暦二千年代の日本人としての道徳観や倫理観と言った物が、俺の中に残っていたみたいだ。
麻薬を使って、一つの家族を崩壊。更に大義名分を盾に政略結婚を進める。どう考えても悪党のやる事だよ。
従兄妹達は純粋な被害者だ。俺が生きている間だけでも、困っていたら手助けしてやらないとな。
それが従兄妹達に対する償いだ。
天文十九年(1550年)十月、駿河国、駿府城、武田晴信――
「皆、今年は良く励んでくれた。信濃も思惑通りに事が進み、そして駿河も手に入れた。遠江も来年中には戦をする事無く、物に出来るであろう。本当によくやってくれた。感謝するぞ」
俺の言葉に、家臣達が口々に祝いの言葉を述べる。念願の海だ、喜ぶのは当然。そして何名かは領地替えによって、駿河へ移動が決まっている。
それもこれから口にする事が理由だ。
「さて、今後についてだが、俺はある事を決めた。俺は今後、この駿河を拠点に西に向かって手を伸ばす。そこで問題になるのは信濃・甲斐の処遇だ。まず信濃だが、ここは砥石城の功績を鑑みて、真田幸隆、その方に信濃国内に合計五万石を与え、信濃における責任者とする。与力もつける故、励むがよい」
「有難き幸せにございます!」
「うむ。いずれ朝廷に奏上し、信濃守の職を授与して頂く予定だ。今後は村上以外の信濃の勢力を完全制圧しつつ、飛騨に調略を仕掛けて物にするのだ」
皆が真田を祝福する。それも当然だ。実績も然ることながら、何よりも苦労してきた男なのだから。
真田の実力はよく理解出来た。この男を使いこなせば、武田家が更なる飛躍を約束される事になるだろう。
「そして甲斐についてだが、非公式ではあるが二郎を抜擢する」
俺の言葉に家臣達が言葉を失った。二郎が天神様の寵愛を受けた神童なのは誰もが知っている。だが、その実績を知っている者は非常に少ない。
だが、あれには期待しているのだ。その期待が正しかったかどうか、数年後に判明する事になるだろう。
「これより申すは武田家秘中の秘と心得よ。此度の駿河侵略、全ての絵図面を描いたのは武田二郎。つまり我が息子だ」
「御屋形様!?何をご冗談を申されるのですか!」
「事実だ。お前達も覚えておるな?二郎が天神様の試練を受けた、そう告げた日の事を。山城守に連れられて地獄を見てきたアレは、五日後の夜に俺に告げた。地獄から民を救う為に、俺に悪鬼と呼ばれる覚悟はあるか?とな」
シーンと静まり返る。当時、まだ五つの幼子が口にできる台詞ではない。だが、それを平然と受け止める者達もいた。
「勘助、典厩。其方ら、知っておったのか?」
「薄々、そうではないかと考えておりました。あの頃、御屋形様が二郎様に惚れ込んだ山城守殿に対して、己の目を信じろ、と申された時の事です」
「某も気になりまして、勘助殿と話し合ったのです。結果、もしかして?という考えに至りました」
なるほどな。よく気づいたものだ。正直、驚いたぞ。
さすがは俺の軍師と、俺の信頼する副将だ。頼もしいわ。
「二人とも、大したものだ。話を戻すが、駿河を取る為に越後と和し、村上を緩衝地帯と取り決めておく。村上は好きなだけ長尾が引き付ければよい。代わりに武田は米子鉱山と飛騨への道を確保する。そして策略を持って駿河を物にする。献上酒を造ったのも、あれが臨済寺で写本三昧の日々を送ったのも、親父と京まで出向いたのも、全てがアレが立てた策。名将、今川義元に盤面の存在その物を気付かせぬ為の策だったのよ」
「まこと、で、ございますか?」
「美濃守(原虎胤)も信じられまい。だが、二郎の知恵は恐るべき物だ。そうだな?」
俺の言葉に、勘助と典厩が頷いてみせた。
二郎の内政の才。それは俺を越えてもおかしくないほどの物だ。例え戦ができずとも、二郎が後方から武田家を支えていれば、武田家は不屈の御家と化すだろう。
「御屋形様の申す通りに御座います。美濃守殿にお尋ね申す。もし二百石の領地を与えられたら、美濃守殿はどうなされますか?」
「俺なら、まず兵の確保だな。二百石、確か四百貫相当の土地であった筈。であれば、せいぜい五人だが」
「でしょうな。ですが二郎様なら十五人は確保できましょうな。あの方の二百石の領地は、今や四百石を超えようとしておりますので」
あの鬼美濃が驚いておるわ。それはそうだ、どこにそんな真似のできる童がいるというのだ。俺の方が聞きたいぐらいだ。
ただ流石に言えんわ。二郎に芋飴を許していれば、それ以上の兵を集める事が可能であった、とはな。
「更に申すなら、御屋形様によって追加で二百石与えられております。都合八百石、兵三十人はいきましょう」
「そ、そんな事が出来るのか!?」
「今すぐ、はさすがに無理でしょう。ですがあと五年すれば、二郎様が集めた孤児達は成人し、山城守殿に鍛えられた侍集団へと変じるでしょうな。某も兵法の基本を教えておりますが、なかなか筋が良いですぞ」
鬼美濃が山城守に無言で顔を向ける。対する山城守も無言で頷くのみ。これには鬼美濃も何も言えなくなったのか、素直に引き下がった。
「某からも一つ。二郎様は太郎(武田義信)様を武田家次期当主として立てております。それ故に、これまでは功績を伏す事を望んでおりました。ですが今回の駿河占領もあり、御屋形様はこの場にいる者達だけの秘密として、二郎様に甲斐を任せる事を決断なされたのだと推測致します」
「表向きは俺の直轄地だが、甲斐は二郎の好きにさせるつもりだ。お主等も知る、あの業病も、アレには解決策があるようだ。竜王堤も含めて任せようと思っておる。まだ二郎は幼い故に表には出せぬが、いずれは武田家筆頭軍師となり得るかもな」
今回もお読み下さり、ありがとうございます。
今回は駿河侵攻編になります。感想で書かれた方がおりましたが、酒毒を用いた策で正解で御座います。
元ネタになりますが、中国である飲食店の主人が食事に『とある禁止薬物の原材料』を混ぜ込みました。目的は薬物の習慣性を悪用する事。客は店での食事に拘る様になりました。そんな客の一人が、偶然に行われていた警察による麻薬の抜き打ち検査で引っかかり、捜査の末に事件が明るみになった、という物です。
次に雪斎について。作中では雪斎は流言工作と酒毒による離間の計で謹慎処分になっておりますが、当初のプロットでは暗殺するつもりでした。
その為に暗殺のネタというか、実行方法も毒物まで吟味して考えたのですが・・・ヤバすぎたので取りやめました。いや、本気で。この作品読んで試したくなった、なんて口にされたら堪った物では無いですから。
ヒントとしては今川家にはお抱えの忍び衆が居ない事。あとは策中における雪斎の行動と、簡単に手に入ってしまう材料。答え合わせはしませんのでご了承下さい。
それでは、また次回も宜しくお願いいたします。次回は一気に年月が飛びます。




