甲斐国編・第二話
甲斐国編、第二話投稿します。
①ブックマーク登録数300越えました。想像以上に読んでくれる人がいるのは有難いです。正直言うと、ブックマーク一週間で100いけばラッキーと思ってたぐらいでした。
②主人公の瞼を、眼瞼下垂と推測した方がおりましたが、正確には違います。『指で瞼を開こうとしても開かない』『脇差で切り開くしかない』という表現をしている通り、瞼の可動域が狭いのです。設定上の理由は、目頭と目尻の距離が短いという物。つまり瞼を開く筋力はあっても、瞼の可動域が狭い、となります。
天文十五年(1546年)十月、躑躅ヶ崎館、武田二郎――
宴は終わった。ささやかと聞いていたが、俺の目にはどんちゃん騒ぎしていたようにしか見えなかったぞ。
目通りする家臣全てが『ようございました』『おめでとうございます』を繰り返すんだ。
正直、苦痛の時間だった。俺は我慢してお行儀良くしていないといけなかったんだからな。
ただ、俺の目は完全ではない。瞼が開かないのだから当然だ。
だから『顔を覚えたいです』と言いながら至近距離まで顔を近付けてじっくり見させてもらった。
みんな喜んで対応してくれたのだが。よくよく考えれば失礼極まりない行為ではある。だが俺の目は弱いのだ。誰も不快には思わないだろう。
兄の太郎兄ちゃん――恐らくは武田義信だろう――も顔を近付けてくれた。本当に喜んでくれていた。
こんな優しいお兄ちゃんを、死なせる訳にはいかん。何とかして助けてあげないと。
そんな事を考えていた所に、信玄パパが声を掛けてきた。
「さて。二郎よ、昨日約束した件だ」
空気を察したのか、兄や母、女房達が席を外した。事前に言い含められていたのだろう。そして信玄パパが居住まいを正した気配がする。その気配を家臣全てが察したのか、室内が静まり返った。
「まず其方等に申し付ける。これは武田家の秘中の秘である。決して他言は許さぬ」
いつになく厳しい物言いに、家臣達が『ハッ』と声を揃えた。
「我が息子、二郎に神のお告げがあった。良き事、悪き事だ」
ゴクッと唾を飲みこむ音が聞こえた。
「まず悪き事からだ。今より四十年後、武田家は滅ぶ。長篠の地において、だ」
「御屋形様!?何を不吉なことを!」
「落ち着け、美濃守。鬼美濃らしくない。それに話には続きがあるのだ」
『失礼致しました』と素直に引き下がる気配。鬼美濃、と言われていたから、恐らく馬場信春だろう。長篠で討ち死にする、武田家五名臣筆頭格。武田家を代表する名将の一人と言っても過言じゃない人だ。
歴史ゲームを遊んでいた俺でも覚えているぐらいには、有名な人だ。
……あれ?馬場さんって、そんなに長生きした人だっけ?
「良き事は、それを避ける術があるという事だ。それは二郎に課せられた試練。すなわち甲斐の抱える地獄、現実を見て乗り越えろ、というものだ」
「それは……あまりにも酷では御座いませぬか?二郎様はまだ五つ。受け止めるにはあまりにも幼すぎます」
「三八郎。其方の心配はありがたい。だが神仏が課した試練とあらば、致し方あるまい。父として、そして武田家当主として、この子を信じてやらねばならん」
三八郎。いや、凄い名前だな。一体、誰だ?良くある姓と名前の間の呼ばれ方なのかな?それだと俺、誰なのか分からんよ。信玄パパ、もう少し分かりやすく家来の皆さんを呼んでくれないかな。
「この子は天神様に見込まれたのだ。ならば応えねばなるまいよ」
驚いたのか、家臣達が騒めく。天神様、いわゆる雷神様の事だが、そこから菅公まで結び付けられる人はどれだけいるんだろうか?
「さて、小畠山城守虎盛。前に出よ」
「はっ」
「其方に命じる。明日、二郎を連れて甲斐の地獄をこの子に教えるのだ。其方ならば、正しく伝える事が出来るだろう」
「一命に代えましても!」
小畠?山城守虎盛さんか。声からして、少し年がいってそうだが。俺が知ってる小畠さんって、勝頼に最後まで付き合えずに、日本住血吸虫で亡くなった人だからなあ。その人の親父さんといった所か?
「二郎様、改めて宜しくお願い申し上げますぞ」
「宜しく頼みます」
「ははっ」
恐らく頭を下げたのだろう。こちらがお願いする立場なんだが、封建主義の世界じゃ、こうなっちゃうんだよな。ちょっと心苦しい。
けど、逃げる訳にはいかん。
確かに知識として、俺は甲斐の地獄を知っている。
だがそれだけでは駄目なんだろう。この身で体験する。それには必ず意味がある筈だ。
少なくとも、俺が武田信親として生きていくなら、だ。
その想い、それに間違いは無かった。
しいて誤算が有ったとすれば、
それは俺の思いが『甘かった』という事だ。
天文十五年(1546年)十月、甲斐国、武田二郎――
俺は虎盛さんが操る馬に乗せられていた。ちょうど鞍の前に俺、後ろに虎盛さんが乗っている感じだ。
道すがら訊ねてみたのだが、虎盛さんには息子がいるらしい。最近元服したばかりらしいので、年齢的には間違いなく日本住血吸虫の被害者になる人なのだろう。
「馬に乗るって気持ち良いのですね。初めて知りました」
「二郎様は御屋形様に乗せて頂いた事は無かったのですか?」
「はい。というか、馬というのがどんな物なのか。それすら知りませんでした」
口籠もってしまう虎盛さん。いや、ごめん。思わず嘘吐いちゃった。でも俺の知ってる馬って、今乗ってる道産子みたいのじゃなくて、サラブレッドなんだよ。いや、ホントごめん。そこまで過剰に反応するとは思わんかったよ。
……まてまて、よくよく考えてみれば反応してもおかしくないわ。俺が虎盛さんだったら、間違いなく潤んでたわ。
今後は発言に注意しよう。
「山城守殿、この甲府にはどれぐらいの人が住んでるんですか?」
「二郎様、某の事は虎盛と呼び捨てで構いませんぞ。それと御下問についてですが、某は知りませぬ。御屋形様ならばご存知かもしれませぬが」
「そうか。ありがとう」
確か、どっかで見た事があるんだが、明治の頃にやっと甲府の人口が三万突破したぐらいなんだよな。
そもそも武田家の武将が率いる兵だって少なかった覚えがある。あの馬場さんが長篠の戦いでも僅か百二十しか率いていないってどういう事?って首を傾げた記憶があるわ。
だからこそ、甲斐の兵は質と気合に特化した最強軍団になったんだろうが。
やっぱり兵を増やさにゃどうにもならんわ。その為には食料が必須。でも甲斐は貧しい。
どうしたもんか。泣きそうだよ。
「ならば虎盛。この辺りには大きな商いをしている者はおるのか?」
「それでしたら……たまに駿河から足を伸ばす者がいると聞き及んでおります」
それなら友野とかいう名前の商人か。確か今川に出入りが許されていた大商人だった記憶がある。教科書ではなく歴史ゲームの知識だが。
「……常在の商人がおらんとは不便だな。やはり海が無いのが問題か」
「驚きましたな。二郎様も御屋形様のように海を欲するのですな」
「うむ。塩も大事だが、船で大量の荷を運ぶ。その利は大きいと思う。例えば馬一頭で米を六俵運ぶとする。六百俵運ぶには馬が百頭必要だ。だが船であれば、六百俵程度は容易かろう。おまけに早く到着できる。虎盛も戦で兵糧を使うのだ。その確保には頭を悩ませたのではないのか?」
返事が無い。おや?と思って振り返る。目の弱い俺には分からなかったが、どうやら虎盛さんは慌てていたようだった。
「驚きましたな。二郎様はそこまでお考えで」
「いずれは父上、兄上を盛り立てていかねばならんのだ。それに先生に教わった。古来より、飢え以上に恐れる敵は存在せぬ。それは歴史を紐解けば理解出来る、と。過去の失敗の原因を調べ、対策を講じ、成功へと繋げる。それが出来るのは人間だけであり、それこそが人間の武器であり強さなのだ、と」
補給路の確保は戦争の常識だ。空きっ腹抱えて戦なんて出来る訳がない。精神論なんざクソくらえ。強制する馬鹿がいたら手本を示させてやる。
「虎盛。其方は戦の経験が豊富なのだろう?空きっ腹で槍働きが出来るか?思う存分、という条件で」
「さすがにきつくは御座いますな。同じ全力であっても、腹一杯と空きっ腹では込められる力が異なります故」
「そうであろうな。それは民も同じ。食う物が無ければ待つのは地獄だ。何とか解決しないといかんのだが」
『民は何も悪くないのにな』と思わず呟いてしまう。自分の知る知識で解決できれば良いのだが。何とかして友野屋とコンタクトを取って、サツマイモの入手を頼む必要がある。信玄パパは有能だから、サツマイモの性能を理解すれば間違いなく導入するだろう。
あとは保存食。この時代、当たり前だが冷蔵庫も冷凍庫も無い。保存食と言えば塩漬けや燻製だ。だが、俺にはもう一つ考えがある。ここが日本であり、更に甲斐国だからこそ可能な手段。
幸い、武田家は上から下までの統制は完璧だ。トップダウン方式で導入は可能だろう。
千里の道も一歩から。まずは出来る所から始めようか。
天文十五年(1546年)十月、甲斐国、小畠虎盛――
正直、驚きで言葉を失ったわ。まさかこれほど知恵が回るとは思わなかった。
目の前の小さな頭を見て、素直にそう思った。
一昨日の事だ、急に御屋形様から呼び出しを受けた。
二郎様の事は城内で噂になっていた。俺もめでたい事だと思っていたのだが、御屋形様から告げられた事には目を丸くする事しかできなかった。寧ろ、半信半疑だった。それが嘘偽りない本音である。
宴の後で皆に知らされた事。だが俺だけは事前に御屋形様に聞かされていた。
何故か?理由はただ一つ。
『二郎の事を調べよ』と。
確かに天神様の庇護を受けたのだろう。だが武田家当主としては、二郎様を調査する義務がある。それは支配者として当然の事だ。信じる信じない、それらは全て調べた後で判断すべき事なのだから。
そして思った。
二郎様は頭が良い。間違いなく天神様の御加護をお持ちだ。
元服したての息子が、同じ年の頃はどうだった?思い出してみるが、二郎様ほど出来は良くなかった。鼻水垂らして、遊び回っていた気がする。
それと比較しても、まさか和算まで?いくら何でも有り得ぬ。この年で和算を行うなど、聞いた事が無い。
これは警戒するように御屋形様に報告すべきかと思ったが、気が変わった。
『民は何も悪くないのにな』
……ああ、二郎様はお優しい。考えてみれば、二郎様は今まで暗闇の中で生きてこられたのだ。ある意味、この武田家の中で、最も民に近いのかもしれない。
暗闇故に未来が無い。
食う物が無い故に未来が無い。
皮肉な事だ。
この甲斐国で最も恵まれた境遇にある御方と、最も恵まれない者達が同じ苦しみを共有しているとは。
この事は報告せねばならぬ。少なくとも、二郎様が民の事を案じておられる点については、御屋形様もご理解下さるだろう。
二郎様は、甲斐の希望になるかもしれぬな。
天文十五年(1546年)十月、甲斐国、武田二郎――
躑躅ヶ崎の城下町から離れる事、約一刻。そろそろお天道様が天頂に差し掛かったのか、体中が日光を浴びてポカポカしてきた頃だった。
「この辺りですかな」
虎盛が馬を止めたのだろう。馬が軽くいななく。
俺の弱い目ではよく分からないが、耳に入ってくる水の音は、川が傍にある事を教えてくれた。そして鼻孔を擽る青臭い匂いは、まだ枯れる前の雑草が青々と生い茂っている事を感じさせてくれる。
今更だが、目が使えない事がとてつもないハンデである事を実感せざるを得ない。
「ここは甲府から少し離れた村にございます。甲斐の地獄、その一端は甲斐の中心である甲府から、この程度の距離しか離れていない所でも存在しているのです」
虎盛が後ろから、俺の頭部を優しく包み込み、少し斜めの方へ顔を向けてくれる。
「耳をお澄まし下され」
言われた通り、耳に集中する。聞こえてきたのは微かな声。
「せめて、生まれ変わるなら、こんな所に生まれてくるんじゃないよ」
「俺がやる。お前はアッチでも向いてろ」
「……ぎゃ」
今のは、赤ちゃんの声、だよな?ひょっとして間引き……いや、間違いない。今、間引かれたんだ。こんな甲府から近い場所で。
「虎盛、間引き、か?」
「はい、その通りにございます。あの夫婦は、赤子を育てられる程、余裕が無いのでしょうな。丁度、川に沈めた所に御座います」
バシャバシャと音を立てながら、去っていく気配。その時、ふと気付いた。
「虎盛、あの夫婦は泣いていたか?どんな表情だったか分かったか?」
「泣いてなどおりませぬ。あれは諦め。どうしようもない。泣いても疲れるだけ。そんな無駄な事をしていたら、生きる事などできん。だから諦めればよい。そんな境地なのでしょう。この甲斐の国に生まれた者であれば、多かれ少なかれ、見る事になります」
「あの夫婦。詫びの言葉も無かったのか」
「仕方ありますまい。謝って、どうにかなるのですか?そう、無駄なのです。謝って罪の意識に苛まれるぐらいなら、いっそ無かった事にした方が良い。そういうものなのでしょう」
「……下ろしてくれ」
聞こえてくる川の流れ。その中で僅かに違う音。
ああ、そうだ。多分、この音がそうなのだろう。
虎盛は俺を馬から降ろしてくれた。
「そこで待っていてくれ。すぐに戻る」
「二郎様。本来なら、某は二郎様を止めるべきなのでしょう。二郎様が何を為されようとしているのか、それが分からぬほど愚かではありませぬ。ですが、一言だけ言わせて下さい。弔った所で、あの赤子は戻ってこない。無駄なのです」
「……其方の言う事は正しい。きっと私は愚かなのだ」
そうだ、俺は馬鹿なんだ。見知らぬ赤子の遺体をずぶ濡れになってまで拾い上げる。どう見ても大馬鹿者だよ。でもな、仕方ないだろ。
親にすら見捨てられ、弔われる事も無い赤ちゃん。
せめて弔ってあげたい。冷たい水じゃなく、小さな花の咲く地面の下で眠らせてあげたい。
ジャバジャバと川に入る。足元を確認できないからゆっくり進む。川のコケで足を滑らせないよう、ゆっくり確実に。
そして辿り着いた。
橋桁に引っかかっていた、小さな、そして消されてしまった命の炎に。
抱きかかえて、指先で優しく突いた。
頬っぺたなのだろう。水で冷え切った頬っぺたは、まだ柔らかかった。
そうか、これが現実なんだ。
眦に、浮かんでくる物があった。
「お前の名前は愛だ。今度こそ、御両親から愛されて生まれてくるように。祝福されて生まれてくるように。そんな願いを込めて、愛、お前を弔ってあげるよ」
この世に神も仏もいない。いれば、愛のような悲惨な子供を許す訳がない。こんな世界を許す訳が無い。
ああ、本当に腸が煮えくり返る。
こんな世界、ぶっ壊してやる。こんな地獄、俺にはいらん。
「二郎様。近くに某と縁のある寺がございます。そこで弔いを頼みましょう。某が住職に掛け合います」
「いや、仏は役に立たん。私が弔う。私がこの手で穴を掘り、花を供える。自己満足かもしれん、いや、自己満足に違いない。だが、約束する。愛、お前のお陰で、私の歩む道は決まった」
手探りで板切れを拾い、川べりの柔らかい土を掘る。虎盛は黙って、俺の好きにさせてくれた。ああ、良い奴だ。俺の決断を尊重し、黙って見守ってくれるんだから。
「虎盛」
「はい」
「ありがとう」
「……はっ」
土に埋め、そこらに咲いていた花を一輪、土饅頭の上に植える。どうか毎年、咲き続けてくれ。俺もまた、顔を見せに来るからな。
お前は独りじゃないんだ、愛。
俺がずっと覚えているからな。
「いこう、虎盛。やるべき事がある。立ち止まってはいられないんだ。問題が山積みなんだ」
「心得まして御座います。躑躅ヶ崎に戻りましょう」
「こんな地獄、ぶっ壊してやる。その為なら……」
俺の呟きは風に掻き消された。
天文十五年(1546年)十月、躑躅ヶ崎館、武田晴信――
虎盛からの報告を聞き終えた俺は、溜め息を吐く事しかできなかった。
甲斐の国では、ありふれた光景。それに対して、そこまで憤っていては、身が保たん。そういうものだと諦めるのが賢い生き方なのだ。
そもそも、全ての命を背負うなど、不可能なのだから。
「山城守、俺はアレに期待し過ぎたのかもな。もう少し賢いと思っていたのだが」
「確かに賢い生き方をするならば、妥協は必要かと。某も否定致しませぬ。ですが、某は二郎様の在り方を好ましく思いました」
「ほう?どうしてだ?」
小畠山城守虎盛。もう五十を越えた老将。親父の頃から仕えてくれる忠臣。甲斐の地獄に揉まれた男ならば、余分な荷を背負わぬ冷徹な判断力を有すると思っていたのだが。
「二郎様の思いは、某の心に訴えてくるものがございました。御屋形様、どうか一つ、我が儘をお許し戴きとう御座います」
「なんだ?」
「いずれ、二郎様の守役になりとう御座います」
そこまで二郎を買ったか……まあ良いだろう。だが太郎の事もあるからな。表立っては守役をつける訳にもいかん。
「まずは太郎の守役をつけてからだな。二郎はそれからだ。それに小畠家の事もある。守役を望むなら、まずは家をしっかりせねばならん。さすがに元服したばかりの息子に、全て丸投げするのは拙かろう?」
「心得ました。では明日より、孫次郎を厳しく仕上げて参りましょう。一年で物にしてみせます」
「おいおい。あまり息子を苛め過ぎるでないぞ?」
瞬間、豪快な笑い声を虎盛が上げた。老いてますます盛んとは、良く言ったものだ。親父の代から戦働きしてきた豪傑とはいえ、まだ二十年はくたばりそうもない。
「ところで山城守。お前が二郎の事を買っているのはよく分かった。その上で訊こう。二郎は試練を乗り越えられそうか?」
「……不可能ではありますまい。二郎様は決められました。御屋形様の血は、間違いなく受け継がれております。民を救う為なら、二郎様は鬼になるでしょう」
『私は望んで地獄に落ちてやる』
ゾクッとした。背筋に走った寒気。あの時、分かってしまったのだ。
「二郎様は幼いながらも、虎として目覚めようとしております。こちらへ戻る際にも、様々な事を訊かれました。甲斐の地を襲い続ける業病の事、信濃の支配状況の事、今川、北条との関係、とにかく多くの事を訊ねてこられました」
「待て。二郎があの病の事を知っていたと?」
「はい。あの病の事については、知識として教わった、と。原因も理解出来たが、治療する術が無い。自分は無力だ、と」
一度発症すると、二度と治らない死の病。徳本ですら諦めざるを得ない、あの病を二郎が知っていた?まさか菅公から?確かに、有り得ないとは言い切れぬが。
「原因は目に見えないほど小さな虫。それが淀んだ水の中から人の体内に入り込み、血を吸って体内に卵を産む。その卵が徐々に肝に繋がる血脈に詰まっていく。そうなると段々と血が行き場を失い、腹の中で膨張し始める。そして限界を超えた時……」
「……それが事実だとすれば、確かに手の打ちようは無いだろうな。人は腹を裂いて生きていられるようにはできておらん」
「御屋形様の申す通りです。二郎様もお悩みのようでした。いずれは御屋形様にご相談されると思うのですが」
こちらから二郎に確認すべきかもしれん。治療は出来ずとも、発症を防ぐ方法があるかもしれんからな。
「まあ暫くは二郎を見守ってやるとするか。帰ってきてからも、色々と動いておるようだったからな」
「はい。実に楽しみに御座います」
天文十五年(1546年)十月、躑躅ヶ崎館、武田晴信――
二郎は戻ってきてから、とにかく家中の者達に話を聞いて回っていた。家臣達も二郎の態度が好ましかったのか、聞かれた事には懇切丁寧に教えていたようである。特に老臣達は孫のように感じたのか、わざわざ俺の所に来て笑顔で報告する始末である。
……二郎はお前等の孫じゃない。俺の子供だ。そこの所を間違えるんじゃない。
そして、夜遅く。俺が行燈に火を灯して仕事をしていると、廊下から声が聞こえてきた。
「父上、少し宜しいでしょうか?」
「うむ、入るがよい」
二郎が部屋に入ってきた。普通の子供なら寝ておる時間だというのに、何をしてたのやら。いや、違うか。この時間を待っていたのかもしれんな。
「さて。色々とお前なりに考えて動いていたようだが、どうだ?試練は乗り越えられそうか?」
「試練は乗り越えます。そうしなければならないのですから」
閉じられた両の瞳。今こそ、その瞳を直に見たいと思った事は無い。二郎の覚悟は、武田家当主としても父親としても非常に好ましい。これほどの気概、もし嫡男であればどれだけ嬉しかったか。いや、せめて両目が無事であれば。心の底からそう思う。
「では訊ねる。具体的に、どう乗り越える?」
「……父上。地獄に落ちる覚悟を求めます。民の為、文字通り悪鬼と呼ばれる覚悟です」
「面白い。俺を試すか?」
幼い息子の閉じられた目。その瞳を想像しながらニヤリと笑う。俺を試す。その度胸、それだけでも評価に値する。そして、ここからどれだけ俺の予想の上を行くか。実に楽しみだ。
「具体的手段は駿河侵攻。その為に越後と秘密裏に和す。その条件として、北信濃村上家の領地を両国の緩衝地帯と致します。こちらの条件は飛騨への経路確保と米子鉱山の確保。越後には村上を好きなだけ長尾家に引き寄せて貰って構わない、と伝えます。なんなら従属関係を結んでも構わない、と」
「確かに我が武田家にとって海は悲願と言ってよい。正直、駿河が欲しいのは俺も同じだ。だが今川は甘くはない。武田が総兵力を投じても、今川治部大輔には勝てん。彼奴は戦を始める前に、勝利を確定させておく男だからな」
「確かに父上の仰る通りです。ですが勝てぬ道理はありません。なぜなら、今川義元という男は、必ず戦になる前に勝利を確定させる名将だからです。故に、武田は兵をぶつけません。盤面という名の戦場の存在その物を、名将の目から隠して勝負します」
ほう?一体、どんな事を考えてきた?さすがに期待し過ぎかもしれんが、それでも期待してしまう。俺も親馬鹿なのかもしれん。
「まず父上に協力して戴きたい事が三つあります。一つ目、駿河、できれば府中の領内に存在している酒造りを生業とする店を買い取る事。出来ればそれなりに評判の高い酒蔵が良いです。二つ目、友野屋に命じて、津軽よりケシの実を入手させる事。三つ目、御祖父様を私に協力して貰えるように説得して戴きたいのです」
「奴に親父を接近させるつもりか?三つ者の真似事でもさせろ、と?」
「違います。御祖父様には私と京へ向かって戴くのです。私一人では、色々と問題がありますから」
本気で二郎は何を考えておる!?最初は毒殺か?と思ったがそうでもなさそうだ。親の欲目もあるかもしれんが、二郎の思惑が読めん。少し楽しくなってきたわ。
「父上、耳をお貸し下さい。これから申すのは、先生が教えて下さった知識。その中でも特に危険とされ、悪用を懸念される知識です」
ゴクッと唾を飲み込む。あの菅公、直々の知識。それも物騒な知識のようだ。これは気を引き締めて掛からねばならん。
そして少し後。二郎の提案を聞き終えた俺は、天井を仰ぎながら唸り声を上げていた。
認めよう。二郎は俺の期待を大きく超えた。確かに地獄に落ちる覚悟を求めます、と挑発してくるだけの内容である。
同時に断言出来た。
この策、あの東海一の弓取りと呼ばれる名将であろうとも、決して見抜けまい。それどころか、嵌められた事すら理解出来んだろう。
「見事だ、二郎。俺にはケチのつけようもない、良くできた策よ。親父に連絡を取るなら典厩(武田信繁)に言えば連絡は取れるし、助力もしてくれよう。だが越後と和す理由は何だ?村上を滅ぼしてからでも問題はあるまい。寧ろ後顧の憂いを残すのは下策であろう?」
「それは越後の警戒心を刺激しない為です。我が武田家は、他国から見れば貪欲な侵略国家。その理由が民の救済にある事を、どの国も知らないし、理解や共感もしてくれないでしょう。それは越後も同じです」
確かにそうだ。二郎の申す通り、甲斐の苦しみなど、他国にとってはどうでもよい事だろう。
「そして越後にとっては、村上が滅びれば、次は越後と警戒します。何故なら、山を一つ越えれば春日山城が至近にあるからです。つまり北信濃占領は、喉元に刃を突き付けられた事を意味します」
「越後が率先して敵対する、か」
「はい。そうなれば武田と長尾の争いは長期化します。長尾は自国の安全確保の為に。武田は奪った土地を守る為に。どちらも退けない為に、争いは長期化する。そうなれば、駿河侵攻は諦める必要も出てきます」
欲張り過ぎは首を絞める、と言う事か。
「ならば飛騨への経路確保と米子鉱山確保の理由はなんだ?」
「飛騨は将来の布石。飛騨は鉄を始めとした資源が豊富と聞いております。今すぐはともかく、長い目で見て必要になるでしょう。それまでは、駿河から塩を持ち込んで搾り取るのです。それから米子鉱山は硫黄の確保が目的です」
「硫黄?確か明との貿易に使われているという、アレの事か」
硫黄?あの臭いだけの黄色い石を一体、何に使うつもりだ?売ると言うのか?確かに明になら売れるようだが。
「硫黄は保存食に使えます。水菓子を硫黄で燻す事により、半年ほどの保存が可能になるのです」
「真か!?嘘ではあるまいな!」
「先生はそう仰っておられました。葡萄や柿なら問題ない、と」
これは、何としてでも米子鉱山を確保せねばならん。まさか硫黄にそのような使い道があったとは。
水菓子は日持ちがしないのが最大の欠点なのだ。それを解決できるのならば、確保するのは甲斐にとって最優先事項と言える。
「だがこの策、成功させるにはそれなりの時間はかかろうな」
「少なくとも三年は見ておくべきかと。特にあちらには太原雪斎という知恵袋がおります。その目を掻い潜る布石も考えれば、三年を割るのは無理と考えます」
「仕方あるまい。ならばそれまでは、首を絞め過ぎない程度に村上を絞りつつ、それ以外を取るか。村上を緩衝地帯とするなら、ある程度は削っておかんとな」
「同時に食料対策も進めておけば良いと思います。友野屋に命じて、南方の呂栄にあるヤムという紫色の皮の芋の入手は必須になります。後は明の国で栽培されている冬の葉物―ほうれん草と白菜は、民にとって冬に収穫できる野菜として命綱になります」
全く、菅公の知識量は凄まじいとしか言えぬ。まあ良い、こちらから手配を命じるだけの価値はありそうだ。
「他にも何かあるか?有るなら言ってみるが良い」
「主に甲府の北側で栽培されている葡萄ですが、これをもっと傾斜地で栽培するべきです。かつて奈良の時代に活躍した行基大僧正が民を救う為に用意した葡萄。これを増やせば飢えで苦しむ者も減っていくでしょう」
「良いだろう。明日にでも皆に伝えて実行していこう。それと其方の案である事は、まだ伏せておく。代わりと言ってはなんだが、何か望む物はあるか?」
「それなら二つ。まず日ノ本の実力者との文の遣り取りをお許し下さい。事前に内容を父上に御覧になって頂いた上で、遣り取りを行います。もう一つは一反程度の土地が欲しいです。先生から教わった知識を試してみたいのです」
まあ土地は問題無いな。それと文。中身を確認できるのなら、こちらも問題は無い。寧ろ有益だ。
「ただ相手が文を交わす事に同意してくれるかどうかは分からんぞ?」
「構いませぬ。目が見えぬと言う立場を最大限利用して、同情心を刺激しつつ立ち回ってみようと思います」
「良いだろう。それと手習いが必要になるな。先生から習ってはおるのか?」
「少しだけ教わりましたが足りませぬ。教えてほしいです」
「分かった、師を手配してやる」
とりあえず文を確認してみてからだな。読めそうになければ俺の祐筆に代書させればよい。さて、どうなる事か。
「土地については十反くれてやる。それだけあれば、其方が一人二人直接召し抱える事も出来るだろう。好きなようにやるがよい」
「ありがとうございます、父上」
退室する二郎。戸を閉め、足音が離れていく。
「くっくっく、楽しくなってきたわ。駿河の国、物にしてくれるわ」
今回も拙作を読んでくださり、ありがとうございます。
内容は読まれた方なら分かるでしょうが、知識と経験(体験)は違うよ、と言う事です。
ぶっちゃけるなら主人公は舐めていた、と言った所でしょうか。
あと硫黄を用いたドライフルーツは、割と歴史のある作り方です。アメリカのレーズン作りに使われていた方法が日本へ導入され、あんぽ柿を作る方法として使われています。
長々と話を続けるのもどうかと思うので、この辺りで締めさせていただきます。
今後も宜しくお願いいたします。