今荀彧編・第二話
今荀彧編・第二話投稿します。
ブックマーク、評価、両方有難うございます。鼻先にぶら下がった人参を追いかける馬の如く、テンションは上向きです。今後もお願いします。
それでは今回も宜しくお願いします。
天文二十四年(1555年)四月、駿河国、久能山城、武田義信――
評定の間。武田家の方針を決定する為、我が武田家の者達が集まっていた。
最上位の上座には、我が父武田大膳大夫晴信。その隣に後継ぎである私がいる。
そして反対側には、やや下座寄りに実弟である二郎(武田信親)が筆頭軍師として座っていた。父から聞いた時には驚いたが、それでも十分すぎる実績を挙げていると思う。性格も無欲で真面目な一方、厳しい面を併せ持つ。この厳しさは、俺が持ちえない物だ。父上の懐刀である道鬼斎(山本勘助)も筆頭軍師に相応しい、と頷いていた。
二郎の後ろには典厩(武田信繁)叔父上が座られている。父上が仰るには、叔父上には二郎を筆頭軍師に相応しい男へと成長させてほしいと頼んだのだそうだ。叔父上も承知しているという。
更に下座には、武田家四天王、道鬼斎、そして私の守役である兵部少輔(飯富虎昌)が着座していた。
「其方達にはすでに通達済みだが、二郎を非公式ではあるが武田家筆頭軍師に据えた。二郎、早速だが我ら武田家の今後採るべき基本方針について説明せよ」
「心得ました、御屋形様。まず武田家は西進、京を目指します。その為に、尾張・美濃という障害を粉砕します。攻める時期は来年の春先。最初に武田家が相手をする尾張国は清州の織田信長、岩倉の織田信安、信長に庇護されている守護・斯波義銀の三名が主要な敵となります。ですがこの三名は必ずしも仲が良好とは言えませぬ。また信長が当主である事に対して、実弟信勝と生母である土田御前は不満を持っております」
父上が重々しく頷かれる。明らかに狙い目だ。内紛状態にして各個撃破を狙うつもりなのだろうな。
「まず信勝・土田御前には信長への謀反を起させます。このままでは武田家に踏み潰される、そう危機感を煽れば自ずと立ち上がるでしょう。同時に信長は武田に対抗する為に、戦準備を進めているという噂も流します」
「他の二人はどうする?」
「残りは小細工を弄さずに踏み潰すだけで宜しいかと。特に斯波は、我が身の保身を考えるでしょう。その為には武田に従属するのが最良と考えてもおかしくありませぬ。斯波家は織田の傀儡と化した家系。そのような誇りも気概も無き犬如き、捨扶持を与えて飼い殺しにしておけば宜しい。文句を言ったら首を刎ねましょう」
守護を犬呼ばわりか。
失礼極まりないが、気持ちは何となく分かる。盲いた身で戦い続けてきた二郎にしてみれば、斯波は侮蔑の対象なのだろう。
五体満足で何が不満なのだ、と。
「清州の同盟相手である美濃斎藤家については、同時侵攻で六角が攻めます。つまり美濃は六角、尾張は武田で分かち合います。美濃攻めは失敗しても構いません。引き上げる時に田畑を焼き払えれば十分です。その後、美濃に続く街道を全て封鎖。不破関は六角に封鎖して貰います。この件については私自ら六角家に掛け合い最後の調整を図ります」
「大規模な兵糧攻めですな」
「はい。秋の収穫無しで、どれだけ抵抗できるか、見せて頂きましょう。それと武田家は基本的に美濃へは攻め込みません」
四天王を始めとして、多くの家臣達は物足りなさそうな表情を浮かべている。やはり武に覚えがある以上、戦働きの機会を失いたくないのだろう。
それに手柄を挙げれば、御恩を得られるのだ。それを続けていけば、一国一城の主も不可能ではない。
ならば折角の機会を失いたくない、というのは当然の思いだ。
「理由は美濃の民の恨みを買わぬ為。田畑を焼き尽くせば、それを為した家が恨みを買う事になる。我らは六角に協力したが、美濃の地は荒らしていない、という態度を貫きます。その上で尾張を落とした後、美濃への道を封鎖。長期間の封鎖を前提として、簡素な砦を街道に建築。兵が雨ざらしにならぬように処置を行います。これは飛騨――真田殿にも行って頂きます」
「しかし美濃を占領できぬのは惜しいですな」
「十年ほど六角に貸しておく。そう考えれば宜しいかと。今の六角家は一枚岩。しかしながら主要家臣は現当主である左京大夫(六角義賢)殿より年上。そして雲光寺(六角定頼)殿の下で、鍛えられた者達。焦らずとも時間はこちらの味方です。その間に我ら武田は飛騨経由で北陸から勢力を拡大します。ざっと計算しても加賀、越前、能登だけでも百万石は下らぬでしょう。それだけあれば、六角家も下手に武田を刺激しようとは考えぬ筈。寧ろ、仲を深めようとするでしょう。後継ぎである四郎殿は今年八歳と聞いております」
道鬼斎は面白そうに頷いているな。つまりは二郎の案に賛同しているという事だ。
稲葉山城は堅城として名を馳せているが、米無し塩無しでどれだけ抵抗できるか見物という所だろう。しかもこちらは砦の中にいるだけ。逆襲してきても、こちらは有利な防衛戦となる。
その上で六角家に対しても長期的視野で対応している。場合によっては、後継ぎに武田から姫を嫁がせる事も考慮している。向かうとすれば、私の娘の園が似合いの年頃か。
典厩叔父上も満足そうに頷いている。間違いなく賛同という事だ。
「尾張制圧後の障害である伊勢長島の一向衆についてですが、こちらは既に子飼いの者を潜らせました。現在は地の利に関する情報を調べさせております。その報告を受け次第、攻略案を練ります」
「早いですな、二郎様」
「三河の件で苦い体験をしましたから。同じ轍は踏みませぬ」
道鬼斎、典厩叔父上が満足そうに頷いている。
二郎が三河から戻ってきた時に何を失敗していたのか?それについては聞かせて貰ったのだが、私からすれば、そこまで己に厳しいのか?と心の中で驚いた事を覚えている。
私には無い、己に対する厳しさ。本当に二郎は頼もしい。私も兄として、励まねばならんな。
「ここで御屋形様に進言したき儀がございます。それは本拠を移すべき、という事に御座います」
「ふむ、詳しく説明せよ」
「今後、武田家は京―畿内を戦場に捉えます。ですがその度に駿河から出兵では、負担が大きくなり過ぎます。故に、京へ近い場所に移るべきです」
皆が『異議なし』と頷く。誰もが百戦錬磨の名将だ。二郎の言は、まさしく彼等も考えていた事なのだろう。
尾張を手に入れれば、次は伊勢長島。その後は北陸進出。
確かにいちいち駿河から出兵は刻を要するだけだ。もし千載一遇の機会が訪れた時、本拠地から遠いと、それだけで機会を逸する事も考えられる。
ならば二郎の提案は、受け容れるべきだろう。
「ここで問題となるのは駿河の扱いです。上中下と策を考えました。上策は三郎(武田信之)、四郎(武田勝頼)を元服、三郎は父上と同行。四郎は守役とともに諏訪へ入り、信濃を統括。真田殿が駿河へ移り北条への備えとなる。これの欠点は三郎の扱われ方と四郎の年齢になります」
「確かにな。これでは三郎が軽く扱われてしまうし、四郎は元服にはまだ幼い」
「はい、代わりに背後は万全となります」
これは悩むな。背後の安全は魅力的だが、三郎の事を考えるとなあ。
弟であり、妾腹の四郎は国を任されているのに、兄の三郎は父上付。
傍目に見れば、三郎が軽く見られる事になる。そのまま放置すれば、間違いなく騒動の元になるだろう。
「中策は三郎だけを元服。守役と共に駿河へ入らせる。真田殿は現状のままとなります。欠点を挙げるとすれば、三郎の初陣が遅れる事でございます」
「なるほどな。こちらが隙を見せなければ、北条が攻めてくる事は無いであろうな」
「この場合、四郎が元服したら交代させて三郎を手元に呼ぶべきでしょう」
それなら受け容れやすいな。三郎は初陣を十五ぐらいで迎える事になりそうだ。父上の様子を伺ったが、乗り気に見える。
三郎が軽く見られている事はないし、三郎と四郎を順番に手ずから初陣を迎えさせる事も可能になる。我ら兄弟を慈しんでくれる父上にしてみれば、実に嬉しい提案と言えるだろう。
「下策は四天王の誰かを駿河にいれる事。欠点は戦の主力となりうる方々を、真田殿を含めて二人も背後の守りに回す事です。結果、西進の効率は低下すると考えます」
「つまり安全すぎる、と言う事か」
「御意」
これは決まりだろうな。家臣達も私と同じだろう。悩む事もなく決断出来たようだ。
「俺は中策を採る。異論はあるか?」
全員が首を垂れて『ございませぬ』と返した。私も納得できる案だ。
「もう一つ。新たに補給専門部隊、という物を作る事を提案致します。役割としては兵糧や矢玉、薬などを届ける専門部隊となります」
「小荷駄隊で良いのではないか?」
「いえ、小荷駄隊はあくまでも食料を預かっているだけに過ぎません。それを食いきってしまえば、幾ら優勢であろうと撤退を余儀なくされます。御屋形様、かつてもう少しなのに、と思いながら兵糧が無くて撤退を余儀なくされた苦い経験はございませんか?」
父上は唸り声をあげた。覚えがあるのだろう。四天王や道鬼斎、兵部少輔も何度も頷いていた。やはりこちらも覚えがあるようだ。
家臣達も皆が頷いている。経験した事が無い、そんな男は一人もいない。
そうだろうな。特に武田家譜代の臣であれば、守りの堅い信濃攻めで嫌と言うほど味わっているのだから。
「補給部隊は、常に消耗品を届けるのが役割です。具体的には兵糧や矢玉等の消耗品を集めた拠点から出発し、軍に届ける。その後は拠点へ戻り、再び出発する。これを複数の部隊で行う事により、消耗品が途切れる事が無くなる。勘助、これと常備兵を組み合わせたら、どれほどの脅威となると思われますか?」
「理屈の上では、延々と戦えますな。特に敵が百姓兵であれば、睨み合っているだけで、その年の収穫を激減させることも可能。一方で我ら武田家は百姓兵では無い故に、普通に収穫が可能。長引けば長引くだけ、武田家が有利となる。敵にしたくはありませんな」
「はい、その通りに御座います。他にも物資をどこに集めておくか、どれぐらいの量を用意しておくか、武田家の基本方針に従って計画を立てる事も役割となります。最初は私と私に仕える家臣が行いますので、認めて頂きたく存じます」
「良かろう、其方に任せる。常備兵の能力、思う存分引き出して見せよ」
皆は概ね良い雰囲気だ。兵糧を気にせず戦えるというのは、とても有難い事だ。加えて御役目自体は評価されにくい上に、いかにも頭を使う仕事。それを二郎が率先してやってくれるというのなら、甘えておこうという所か。
「御屋形様。軍事面は以上になりますが、外交面についても献策したき儀がございます」
「申せ」
「彦五郎(今川氏真)殿についてです。現在は捨扶持を与えられておりますが、これを親族衆として京へ送り、御爺様の補佐をさせます」
彦五郎殿の処遇とは、全く、予想もしない案だった。
それは皆も同じだったのか、二郎を見つめていた。ただ一人、道鬼斎だけは納得したように頷いていたが。
「彦五郎殿は蹴鞠や和歌に堪能です。これは御祖父様を補佐するのに十分な能力がある事を意味して御座います。加えて武田家が三条家という伝手を持つように、彦五郎殿は祖母である寿桂尼殿の御実家、中御門家を始めとする伝手を利用出来ます。これを使わぬのは勿体なく御座います」
「それで補佐役、という訳か」
「はい。あくまでも御祖父様が上にございます。御祖父様が出たくない時、或いは出られない時等に、彦五郎殿が出られるのです。功績を挙げれば、無論の事、評価して差し上げれば宜しいかと。朝廷工作はどこの家でも大きな意味を持つ仕事。旧・今川家家臣達も悪くは思わぬでしょう」
これは面白い。確かに彦五郎殿の立場は複雑だ。このままでは一生、日蔭者扱いされかねない。だが自分の得意分野で輝けるのなら、乗り気になるかもしれぬな。
何より、武田家が有していない伝手を使える。これは悪くない。
人脈と言うのは多ければ多いほど、いざと言う時に力を発揮する物だからな。
「仮に万が一、という事態が起きたとしても武田家は全く困りません。京で謀反を起こしたところで、我らが征伐せずとも、周囲に利用されて勝手に潰れるでしょう」
「どちらに転んでも良い、と言う事ですな。御屋形様、儂は二郎様に賛同致します」
「勘助も賛同するか。よかろう、彦五郎には俺から話をしよう」
これもすんなり決まった。誰からも不満は出ない。というより、本音では朝廷工作を担当したくない、という気持ちがあるのだろう。皆、己の武に自信を持っているのだ。
それを彦五郎殿が受け持ってくれる。
こんなに都合が良い事は無いだろうな。
「最後に内政面における献策にございます。一つ目は武田家所領全てでの楽市楽座を提案致します」
「楽市楽座か。何故その考えに至った?」
「関所の存在意義にございます。関所の目的は二つ。通行料の徴収、不審人物の捕縛。以上になります」
二郎の申す通りだ。どちらも関所の重要な役目である。
「通行料は武田家専売品である油、芋飴、それを武田家で買い上げる事で国人衆に銭を齎す事が可能です。特に油は私の手の物が開発した玉絞り機を各地に設置すれば、幾らでも油を作れます。また裏作での綿花も同じく銭になります。であれば、通行料は無くても問題は無くなります」
「ふむ、言われてみれば、穴埋めは可能だな」
「加えて、商人の行き来が増えれば、物資・情報の両面で強みを発揮できます。各地で換金作物を商人が積極的に買っていくでしょう。結果、各地に銭が落ちる事になる。物資や情報の集まる場所は強い、それは堺や尾張を考えればご理解いただけます」
確かにその通りだ。
堺も尾張も領地は狭い。だが銭の力でこの乱世を生き抜いているのだ。それを考えれば、この案は悪くはない。
「不審人物の捕縛ですが、これは意味が無いからです。そもそも他国で罪を犯した者が関所を通過しようとしても、その情報が無ければ素通りを許してしまいます。また他国を調べる忍びであれば、山中突破程度は朝飯前。正直、何の牽制にもなっていないと存じます」
「確かにそうだな」
「代わりに、本当に忍び込まれたくない場所に、その分の力を割り振るべきです。重要な部分を守る事が出来れば、他は問題にすらなりませぬ。それに来ると分かっていれば、こちらも発見し易いかと」
武田は領土が増えた。結果として、目の届かない場所も増えてきているのは事実。であれば、やり方を変えるべきなのかもしれないな。
領土が広がる。単純に良い事だと私は考えていたのだが、こうして指摘されて、初めて悪い部分に気付かされた。
こういう点を誰に言われずとも自覚するのが政なのだろうが、本当に難しいわ。
「二つ目の献策として甲州法度次第を、新たな物へ変化させる事に御座います。これまでの法度は、あくまでも甲斐・信濃を対象としておりました。しかしながら、今後の事を考慮すれば、これも変化させていく必要があると考えます。特に升の基準に御座います。武田家は甲州升を標準としておりますが、他国は違います。また商人達は京升を多用しております。これらの点を鑑みて、将来的に京升へ切り替える事も併せて献策致します」
「確かにな。甲斐の常識が他国の民に通じるとは限らぬか。勘助、後で知恵を貸せ。法度を見直して、将来的にも通じる物へと作り直すぞ」
「心得ました」
私にもよい考えに思える。叔父上も同じようだ。下座を見ると、少し複雑そうだ。やはり従来のやり方を変えるのには、反発も生まれるのだろう。二郎はその事が分かっているのだろうか?
いや、恐らく分かっていてやっているのだろうな。
「二郎よ。其方に訊ねる。ここまで、常備兵の正式採用について言及しなかった理由は何だ?其方が常備兵の強みを理解しておらぬ筈があるまい」
「敢えて口にしませんでした。いずれ、嫌でも常備兵の有用性は知られます。意地を張っていても、認めざるを得なくなる。そう考えておりました」
「……すまぬな」
父上が溜め息を吐かれた。珍しい事だ。対する二郎は黙って頭を下げる。二郎は率先して嫌われ役、汚れ役を引き受けてくれている。ならば……そういう事か。
「いつもすまない。感謝しているぞ、二郎」
自然と頭が下がってしまった。守役の兵部少輔が『太郎様!?』と声を上げた。
良いのだ。二郎の自己犠牲。それに気付かぬままで、兄を名乗れる訳がない。
私の実力は二郎に劣るだろう。だが、誰に対しても恥ずかしくない兄でありたいのだ。
「これからも父上を、そして私を支えてくれ、二郎」
「心得まして御座います」
天文二十四年(1555年)四月、遠江国、浜松城、ゆき――
正直に言うと、少しだけ眠く御座います。というのも、昨夜は初めて側室としての仕事――堂々と口には出しにくい御役目を果たしていたからです。お陰で眠気が残っています。これがこれからも続くのですから、早めに慣れなければいけません。
頭を左右に振りながら、改めて室内を見直します。
上座中央には武田二郎信親様。恐れ多い事ながら、私の主であり夫である御方。そして下座には松下嘉兵衛殿、井伊直親殿、その義父直盛殿が座っておられました。
「三河の論功行賞、遅れてすまなかったな。早速、発表しよう」
軽く咳払いされる二郎様。
一方で下座の三名は、既に満面の笑みです。褒美もかなり期待しているのでしょう。
「まず加兵衛。其方には現在の所領の周辺の土地一万石を与える」
「有難き幸せにございます!」
所領が三倍になったのです。間違いなく嬉しいでしょう。
特に嘉兵衛殿は陪々々臣として、かなり苦しい立場の御方で御座います。色々とお辛い目、理不尽な目にも遭われてきた事で御座いましょう。
だからこそ、普通なら家老格でもおかしくないほどの所領を手に入れた事で、文字通り、見返す事が叶った、という嬉しさもある筈です。
「次に直親殿だが、こちらは転封となる。所領は相良、石高は二万五千石だ」
「有難き事なれど、井伊谷からは離れるのですか」
「それについてだが、少し考えがあってな。まず井伊谷の地は、直盛殿に面倒を看て貰うつもりだ」
直盛殿が小さく頷かれました。
私もその場に居合わせたので知っているのですが、これは事前に二郎様が直盛殿に話を通しておいたからで御座います。
それによる利を理解出来た為、直盛殿は二郎様の御沙汰を受け容れたので御座います。
「直親殿。相良は良い土地だ。相良でな、塩を作るのだ」
「塩、ですか?」
「そうだ、そして秋葉街道を通り、さらに信州街道へと続く。諏訪大社で有名な諏訪を経由し、信濃の纏め役であり、名将と名高い弾正(真田幸隆)殿の本拠地である上田を通る」
直親殿が唾を飲まれたのが分かりました。今回の恩賞の価値に気づき始めたのでしょう。
相良転封。これは単に所領が増えるだけではないのです。
山国に塩を売って銭を稼ぎ、その地を治める真田弾正様とも知己になりうる好機なのですから。
「諏訪はいずれ、俺の弟、四郎が継ぐことになる地だ。そして信州街道から飛騨へ抜ければ、そこでは鉄が手に入る」
そして将来的には、二郎様の弟君、四郎様とも知己になりうる可能性。
更に鉄は大切な財産です。武器防具だけではない、農具だって鉄は必須です。
売るにしても、自分で利用するにしても、間違いなく役に立つでしょう。
「その後は船で天竜川を下るも、歩いて戻るのも自由だ。あとは井伊家分家を相良に作る事により、井伊家と言う御家の存在その物を、より強かにする事も叶う。今回の恩賞の価値、理解して貰えたと思う」
「有難くお受けいたします!」
「うむ、分かって貰えて何よりだ。井伊谷はいずれ、直盛殿から次郎法師殿に受け継がせる事を考えている。故に直盛殿に管理を頼んだのだ」
それにしても、上手い事を考え付かれた物で御座います。若輩者である私から見ても、直親殿には、いささか不安に駆られる部分が見受けられます。若いというのもあるのでしょうが、用心深さに欠ける点が気になるので御座います。
そこで相良という収入、将来の人脈、分家として分かれる事による井伊家存続という三つの餌を見せて切り離したのです。そして井伊谷の地は、直盛殿を経て次郎法師殿が受け継がれます。となれば自然と婿である藤吉郎殿が入る事になります。
結果、浜松城の両翼は知恵者の藤吉郎殿と面倒見の良い嘉兵衛殿が務める事になります。そして両翼の大将二人が、嘗ては主従であり、仲の良い関係性を築いている。となれば、将来的に遠江は盤石の体制となるでしょう。
「直盛殿、悠々自適の隠居生活を中断させてしまって申し訳ないが、井伊谷の代官の役、見事務めてくれ。次郎法師殿が甲斐から戻るまで、あと少しだからな」
「いえ、御恩情、忝く存じます」
「気にするな。井伊一族全体が強くなるのは、俺にとっても喜ばしい事だ。改めて、これからも宜しく頼むぞ」
三名ともに頭を垂れます。その後、三名は下座の横側へ移動されました。
続いて二郎様直属の者達の論功行賞が始まりました。昇進した者達は複数。
私と兄の同期である風の長次郎殿も侍大将へと昇格致しました。併せて家を立てる事も許されたので御座います。本来なら二郎様が家の名前を決められるべきなのですが、長次郎殿に名前を決めてこい、と仰せになられました。それを認めよう、と。長次郎殿は嬉しそうで御座いました。
ちなみに、山城守(小畠虎盛)様の後を継いで小畠家当主を務めている孫次郎(小畠昌盛)様は、立場上は御屋形様の与力で御座います。その為、二郎様ではなく、御屋形(武田晴信)様から褒美を戴いている為、この場での褒美は御座いません。
論功行賞が終ると、次に新しい部署の設立が発表されました。二郎様が名付けた名前は秘書方。長は私が勤める事になります。
どういうことかと言うと、私が側室となった以上、いつかは子を孕む事になります。問題は腹が出た状態で、いつも通りの仕事ができるのか?戦場に出ていけるのか?という当たり前の問題に対応する為なので御座います。
まずは私の下に数人つけて、仕事を覚えさせます。
その後に私の仕事を肩代わりするのが役目。私が不在の場合は、私の代わりも勤める事になります。
定員は五名。内一名は藤吉郎殿の席として確保済。残り四名の内、一人は祐筆を新規雇用、残り三名は風の中から選抜する事も発表されました。
おかげで私の負担も軽くなります。大変、有難い事で御座います。
「では、本日の論功行賞は以上で終わりだ。松の間に祝いの酒を用意してあるから、無礼講で好きなように飲んでくれ。俺の事は気にせず、先に始めているように。それと直盛殿は残ってくれ。相談に乗ってほしい事がある」
「はは!」
皆様が松の間へと向かわれます。
やがて静かになると、二郎様が横の板戸に向けて声をかけられました。
「よし、入ってこい」
「失礼致します」
入ってきたのは、甲斐国にいる筈の藤吉郎殿で御座いました。
これについては、全く説明を受けていなかった舅の直盛様も驚いたのか、眼を丸くしておられました。
「お久しぶりにございます、二郎様。その節は、真に忝うございました。妻も大層な贈り物を戴き、心の底から喜んでおりました」
「うむ。喜んでもらえたなら幸いだ。それでな藤吉郎。先日、其方から文で受けた相談の事についてだ」
相談?
ああ、あれの事ですね。確かに藤吉郎殿にとっては重要な事で御座います。
「其方は尾張中村の出身。故に武田家が尾張に侵攻すれば、其方の家族が戦火に巻き込まれる。最悪、命を落としかねない。そうだな?」
「はい、仰せの通りに御座います」
「藤吉郎、俺なりに解決策を考えた。心して聞け」
藤吉郎殿がいつになく真面目な顔をされました。
以前、二郎様から伺った事があるのですが、藤吉郎殿は女手一つで育ててくれた母親の事を、とても大事に思っているそうです。
それなら母君の事を心配したとしても、何の不思議も御座いません。
「まず其方は駿府へ向かい、富士屋の船で津島に入れ。それから実家へ赴け。流れの商人を装ってな。そして母に会いこう伝えるのだ。戦が始まりそうになったら、津島の富士屋という穀物商に逃げ込め、とな。伝える事はそれだけで良い。後の事は、こちらでやっておく」
「ははっ」
「ただし伝える相手は母御と、もう一人だけに留めておくのだ。織田が忍びを抱えている、という話は聞いた事が無いが、どこから情報が洩れるかもわからん。最悪、小銭欲しさに密告する輩がおるかもしれん。念の為、其方が実家へ泊まるのも我慢した方が良い。今頃、尾張は武田の間者に対して警戒しておる筈だ」
藤吉郎殿が頭を下げる。
藤吉郎殿としては実家に一泊ぐらいはしたいのでしょうけど、それをすれば、織田に目を付けられる可能性が考えられるのです。
ここは我慢をして戴くしか御座いません。
「直盛殿には、逃げて来た藤吉郎殿の母御達を匿ってやってほしいのだ。農民だというのでな、土地を提供して生活の場を与えてやってほしい。頼めるかな?」
「その程度の事は容易い事にございます」
「感謝致します、舅殿」
不安の消えた藤吉郎様は、すっかり上機嫌になられました。
これで藤吉郎殿はますます二郎様に傾倒するようになりましょう。
「藤吉郎、そなたは陸路でそのまま戻ってくれば良い。尾張から東へ出ていく分には、それほど警戒はされんだろう」
「二郎様、感謝致します」
「構わぬ。では向かうがよい」
藤吉郎殿は幾度も頭を下げながら退室されました。
直盛殿も二郎様に感謝しておられます。
これで井伊家はますます二郎様に、そして武田家に対する忠誠心を高める事になりました。本当に二郎様の御知恵には驚くばかりで御座います。
「さて、これで用事は済んだ。直盛殿、酒宴に向かうとするか」
「はは。お付き合いさせて戴きます」
天文二十四年(1555年)五月、尾張国、井伊藤吉郎――
村を出てから、何年になるだろうか?久しぶりの帰郷。とは言っても故郷に錦は飾れない立場だけどな。今の俺は敵側の人間だから。
久しぶりになる、針売りの商人。幸い、津島は物が豊富だったから、商品は簡単に仕入れる事が出来た。
編み笠を被り『針有ります』と書かれた旗と荷物を背負ってノンビリ歩く。流れの商人は急いだりしない。声を出しながら、ノンビリ歩くのだ。それが客を掴むコツ。嘉兵衛様にお仕えする前は、こうして良く旅をした物だ。
津島を出てすでに四日になる。太陽は天高く、その姿を見せている。
懐かしい尾張中村にやっと到着した。針売りの真似をしながら村の中を歩く。ああ、見覚えのある懐かしい家が見えてきた。
相変わらずのボロ家。でもこれが俺が産まれた家なんだ。
かか様、元気なら良いんだけどな。
「誰かおるか?」
「誰じゃい?」
そう言いながら戸を開けてくれたのは若い男、十五ぐらいか。
ならこいつは小竹か。
俺の可愛い弟。よく見れば、どことなく面影が残っているな。
「久しぶりだな、小竹。俺だ、日吉だ」
「……兄い?兄いなのか?久しぶりだなあ。家飛び出てから、かれこれ八年は経ったぞ?」
「近くへ来たのでな、顔見せに寄ったんだ。かか様は元気か?」
小竹に招き入れられ、しばらくぶりの実家へ入る。ああ、懐かしい。
中には見覚えのあるかか様、それから大きくなってしまったが、幼かった弟妹達が仲良う飯を食っている所だった。
それにしても、あさひも大きくなったな。俺が家を飛び出した時は、まだ四歳だったし、大きくなるのも当然か。
「かか様、久しぶりだな。日吉だ」
「あれ、まあ。日吉、随分大きくなったなあ」
「あれから八年だからな。大きくもなるさ。まあ他の連中に比べればチビだけどな」
かか様が俺の軽口に笑い返してくれた。ああ、本当に懐かしい。
妹、あさひは、俺の事が誰か分からんようだ。まあ仕方ない、八年前の事など覚えておらんだろう。小竹ですら七歳。あさひに至っては四つだ。覚えている方がおかしい。
「かか様、小竹、今日は急用が有ってここに寄ったんだ。少しだけ、耳を貸してくれ」
「何だ?」
「よそに漏れちゃなんねえ話だ。耳貸してくれ」
二郎様から教えられた通り、用件だけを伝える。
かか様も小竹も、武田家がもうすぐ尾張に侵攻するという噂は聞いていたのだろう。戦火に巻き込まれそうになったら、必ずそうすると返してくれた。
「日吉、今日は泊っていけ」
「すまねえ、俺の主様から危険だから止めとけ、と忠告されているんだ。流れの商人が見知らぬ家に泊まれば、疑いをもたれるという事だろう。そうなったら」
トントンと自分の首を叩いてみせる。
かか様も小竹も意味を理解出来たのだろう。ウンウンと頷いてくれた。
「その時が来たら必ず説明する。俺の嫁さんも、必ず紹介するからな」
「日吉、お前所帯持ったんだな、おめでとう」
「ありがとな。主様が御紹介して下さったんだ。俺は百姓で無学なのに、それでも武家の御姫様を紹介して下さったんだ。俺は、本当に良い御方にお仕えできたんだよ」
かか様は喜んでくれた、小竹も遅ればせながら祝福してくれた。本当に有難い事だ。
もっと話をしたいが、これ以上は近くの連中に疑われかねない。餞別として持ってきていた一貫文の束を二つ手渡すと俺は家を出た。
見送りも断った。今は疑われる訳にはいかん、そう説明して。
誰からも見送られず、俺は針売りのフリをしながら村を出た。三河へ通じる道を歩く。急いではいかん、あくまでもユックリと、だ。ここで俺が捕まれば、かか様も小竹も助ける事が出来なくなる。
俺は焦りを必死で押し殺しながら、街道を東へゆっくり進んだ。
かか様、来年には気兼ねなく会えるようになるから、もう少しだけ辛抱してくれ。
天文二十四年(1555年)五月、尾張国、なか――
久しぶりに日吉と出会えた。家を飛び出てから八年。あの子の無事と、一生懸命、働いている事も知れて何よりだ。
残念なのは、あの子ともっと話が出来なかった事だ。御嫁さんの事とか、もっと詳しく聞きたかった。
それだけが残念だ。
「かか様、さっきの人は誰?」
「あさひは覚えておらんかったか。お前の兄いで、日吉というんだよ。お前がまだ四つの頃に、家を出て行ったんだ」
「そうなんだ、よく覚えてない」
「仕方ないさ。お前はまだ小さかったからな」
小竹は受け取った銭の束を、床板を外して、地面に掘った穴の中に壺へ入れて隠していた。
あまりこういう事は考えたくないが、油断していれば、どんな目に遭うか分かった物では無いからな。
早く暮らしやすい世の中になってくれれば良いんだけどなあ……
「あさひ、日吉のことは内緒だぞ。誰にも言うてはならん」
「どうして?」
「……日吉を利用しようとする悪い人がいるんだよ。私はね、日吉を虐められたくないんだ。だからあさひにも手伝ってほしい。日吉の事は口に出してはいけないよ?」
『うん!』と頷くあさひ。とりあえずはこれで何とかなるだろう。
それにしても、ついに戦に巻き込まれる事になるのか。相手は強い、と評判の甲斐の武田家。特に次男の暴君の噂は私も聞いた事がある。その刻が来たら、すぐに逃げないと巻き込まれて殺されてしまうだろう。
もし逃げる事になったら、智が嫁に行った弥助んとこには声をかけんとな。あとは妹達や従妹の伊都にも声をかけんと。
でも内緒にしてくれ、と言うとったな。そうなると、今の内に声を掛けておくのは駄目か。バレたら、磔にされちまうかもしれん。
つい考え込みながら、すっかり冷めてしまった粟の味噌煮に口をつける。日吉、しっかりおまんま、食べておるよな?お嫁さん貰うた言うてたし、大丈夫だとは思うけど。
「日吉の嫁さんか、気立ての良い人なら良いんだけどね」
「武家の御姫様を紹介して貰った、って兄いは言ってたよな?俺達を揶揄う為の冗談って事は?」
……無いとは言い切れんな。日吉は昔から悪戯小僧だった。嘘や冗談だって口にした事はあるし。
けど、私は日吉のおっ母なんだ。息子を信じるのは当たり前だ!
「私は日吉を信じるよ。あの子は優しい子だ」
「……そうだな。それに兄い、本当に嬉しそうにしていたもんな」
小竹も椀の中身に口をつける。
それにしても、日吉の主とは、一体どこの御殿様なんだろうか?いつかお会いする事もあるんだろうか?
「あの子の御主人様って、一体、どんな御方なんだろうねえ」
「百姓に姫様紹介するような御人か。さっぱりわかんねえな。ていうか、普通はそんな酔狂な真似はしないだろうし、相手だって断りそうなもんだがな。よほどの醜女で結婚できなかったか、或いは出戻りとかならまだ分かるんだが」
「小竹、悪く言うのはおよし。お前の姉になるんだからね」
そう窘めはしたが、不安は残る。
そもそも日吉は喧嘩も弱い。戦場で手柄を挙げるなんて事、出来るんだろうか?
「あとで仏様にお祈りしておかないと」
私には、それぐらいしか出来る事が無い。
どうか、また会う時まで無事でいておくれ。
今回もお読み下さり、有難う御座います。
今回は次の戦に向けての舞台裏みたいな感じの話にしたつもりです。あとは二郎の軍師デビュー。前回の感想にありましたが、武田家は西進していきます。まずは織田&斎藤。基本方針は今回説明したので、次回で根回しの予定です。
それでは、また次回も宜しくお願い致します。