今荀彧編・第一話
今荀彧編・第一話投稿します。
①まずはブックマーク2000突破、有難うございます。今後も宜しくお願い致します。評価も是非、お願い致します。
②当初は遠江国編にするつもりでしたが、諸事情により変更。と言うのも話の流れを検討したのですが、遠江国編の話数が思ったよりも少なかった為。なのでサブタイトルを変えて、その後の話も繋げて纏めるようにしました。
もしかしたら、中には『遠慮なく遠江国編の話を増やしてくれても良いのよ?』と温かい言葉をかけてくれる方もいるかもしれませんが、流石に4話文の追加は厳しそうです。
そんな戯言を考えながら推敲していて気づいてしまいました。
『2万文字突破してるやん』
とりあえず今荀彧編、スタートします。
天文二十三年(1554年)九月、遠江国、井伊谷城、武田信親――
もうすぐ秋だ。稲の穂が垂れ、収穫が終われば、信玄パパは西三河への侵攻、もとい行軍を開始する。目的は武田家への帰属意識と忠誠を改めて刻み込む事だ。竹千代、いや晴康君なら上手く立ち回ってくれるだろう。
ただ常備兵の配備が思うように進まず、若干だが苛立ちを募らせていたようだ。家臣からも反発の声が上がっている事も聞いた。俺のやり方は既得権益者にとっては面白くないのだから当然なんだけどな。
常備兵には俸禄と言う名の費用がかかる。一方で百姓兵は乱取り自由とすれば、一切の費用がかからない。文句を言う連中は、その費用が勿体ない、と考える連中だ。
武士が銭に拘るなど、と口にするくせに、常備兵の雇用費は払いたくないという。これが矛盾している事にも気付かないのだ。この事にどうして気づかないのか。
常備兵は年中戦えるし、訓練によって練度を引き上げる事も出来る。俺の部隊をその目で見て、それでも強味を理解出来ないのだ。もはや、将としての能力に疑念を持たざるを得ない。
ならば連中には手柄を立てて貰えばよい。昔のやり方で手柄を立てられたなら、言い分を聞いてやる。
話は変わるが、甲斐についてだ。案の定、藤吉郎がやってくれた。
俺も知っている、藤吉郎の清洲城石垣修理の逸話。作業員を組み分けし、担当エリアを決め、褒美を出して競争意識を煽り、短期間で修理を完了させたという奴だ。あれを堤防相手に実行したのだ。
ああ、見事だった。藤吉郎は俺の期待に応えてくれた。
堤防工事を完了させた暁には褒美を与えると明言した。まず提案者の藤吉郎個人に対しては、嫁を紹介する事を約束した。周囲からも祝福されていた。俺の部下は元・孤児が多いから、百姓出身の藤吉郎が見下される事も無い、良い事だ。
次に各エリアの責任者を務める足軽大将は全て侍大将に昇格させると約束した。
皆、嬉しがっていた。現場の労働者には酒を褒美として振舞った。こちらも好評だった。
この分なら堤防工事はこちらの予想より早く終わるだろう。藤吉郎のおかげで五年に短縮できるという報告を受けたが、どれぐらい早く終わるか楽しみだ。
飛騨国についてはチート爺ちゃんこと真田幸隆さんが夏の半ばに南半分を制圧した。今は民の慰撫を優先しつつ、来年までには残り北半分も制圧するそうだ。同時に常備兵への切り替えも進めると聞いた。
飛騨は山岳地帯。田畑には限りがある。だからこそ田畑を持てぬ者達を兵として雇う事に決めたそうだ。
俸禄を貯めれば、信濃で田畑を買う事も出来る。そう説明したら若者達が乗り気になったらしい。成功してくれることを願うばかりだ。せめてもの応援として、遠江で採れた塩をお祝いとして送っておいた。塩百俵だ、飛騨・信濃にとっては有難い事だろう。
「さて、意識を切り替えねばならんな。ゆき、先触は出してあるな?」
「はい。すでにお待ちとの事でございます」
俺がここ、井伊谷城へ来たのは、いわゆる青田買いだ。俺は歴史に関しては、それほど詳しくはない。ハッキリ言って有名どころぐらいしか知らん。
そんな少数として覚えていたのが、井伊の赤備えで有名な井伊直政だ。まだ十年以上かかるだろうが、今のうちに井伊家を手なずけておけば囲う事が出来る、と考えたのである。
確かこの時期だと、追放された実父が嫁さん連れて戻ってきて、婚約していた直虎こと次郎法師が婚期を逃がす、といったぐらいの筈。直政はまだ当分先だ。下手すれば種にすらなっていないかもしれんな。
門番に来た事を告げると、すぐに中からドタドタと走る音が聞こえてきた。
「ようこそおいで下さいました、武田二郎信親様。某、城主の井伊直親と申します」
「うむ、少し用があって寄らせてもらった。ところで直親殿は城主となって長いのかな?」
「跡を継いで二年ほどになります。まだ今川家に従っていた頃、今川の与力の讒言で国を追われました。ですが御屋形様が今川家を下したおかげで、妻とともに帰国が叶ったのです」
そうか。となると直政の実父がこの人で確定だな。となると、嫁さん連れて帰ってきてるから、直虎さんは出家したまま、と言う事になるな。
実に都合が良い。
もし直虎さんと復縁していたら、いきなり目的が潰れる所だった。
「どうぞ中へお入り下さい」
「分かった、邪魔するぞ」
城内は戦、というか秋の行軍に向けての準備で慌ただしい。そんな中、俺に気づいた者達が緊張する気配が伝わってきた。
明らかに俺の東三河での評判を思い出したのだろう。
囁き声が聞こえてくる。だが有難い事だ。俺は敵には恐怖、味方には畏怖を、という考えの持ち主だ。味方から畏怖されるのであれば、それは望む所。
飴を与える役目は信玄パパや義信兄ちゃんの役目なのだ。
「如何されましたか?」
「気にするな、ゆき。今は仕事だ」
案内され、上座を譲られる。
俺の方が立場としては上になる為、断る事も出来ないので素直に受けておいた。
座った感触は畳。間違いなく上座だろう。
「さて、では用件に入ろうか。直親殿、私はこれから遠江の仕置に入る。そして井伊家にもそれに協力をしてもらいたい」
「心得まして御座います。憎き今川家を滅ぼして下さった武田家の為ならば、粉骨砕身の覚悟を持ってお仕え致します」
「頼もしい限りよ。これならば仕置に不安もない」
よし、まずは表向きの用件は済んだ。
だが真の目的はここからだ。俺しか知らぬ真の目的。
藤吉郎に斡旋する嫁さん捜しの件だ。
「ところで話は変わるのだが……直親殿。私は家臣の一人に所帯を持たせたいと考えている。名は木下藤吉郎。尾張中村の出身で年は十七。百姓の出ではあるが、持って生まれた才が非常に高くてな。今は私の下で足軽大将として釜無川の堤防工事の責任者を務めさせておる」
「なんと。百姓の出で、それほどとは」
「それほどに優秀な男なのだ。少し前まで、ここから南にある頭陀寺城城主、松下加兵衛殿の下で中間として奉公しておった男だ。ただ出自故に妬まれておってな、私が才を惜しんで譲り受けたのだ。藤吉郎は堤防施工の完了を以て、侍大将に引き上げる予定。それでな誰か娶せようと考えていたのだ」
直親が目を見張る。ここへ来た目的、白羽の矢が立った娘に思い至ったのだろう。
井伊家としても、直虎が出家したまま、と言うのは心苦しい筈だ。別に誰が悪い訳でもないのに、彼女だけが貧乏籤を引かされたような物だからな。
「こちらに同じ年頃の娘御が出家されていると聞いてな。本人が嫌でなければ、還俗して貰えぬかと思ったのだ。嫌なら嫌で構わん。素直な返事を聞きたいのだ」
「分かりました。すぐに寺まで確認して参ります。しばらくお待ち戴いても宜しゅう御座いますか?」
「分かった。朗報を期待しておる」
ドタドタと直親殿が走り去る。遠くから『父上!次郎法師に縁談の話が!』と聞こえてきた。
おいおい、俺は本人の意思を聞いてほしかったんだがなあ。まあ戦国時代じゃ関係ないか。女性の立場を認めている俺の方が例外なんだ。
「二郎様?」
「いやまあ、俺の方がおかしいだけだ、気にするな。だがこの縁談、上手く行ってほしい物だがな」
上手くいけば、井伊家は俺の重臣(予定)の藤吉郎と縁戚になる。俺は武田家の一門だ。間違いなく直政は俺に仕えるだろう。
そして藤吉郎にとっても、直虎さんは良縁になりうる。直虎さんは一途なあまりに出家した女性だ。その上、直政の養育や井伊谷の統治も行っている。藤吉郎にとって得難い妻になるだろう。
ねねさん、北政所は……どうしようか。なんか考えとかんと。
そしてゆきと他愛無い雑談を半刻ほどしていると、再び足音が聞こえてきた。
「お待たせ致しました。次郎法師を連れて参りました」
「うむ。俺が武田二郎信親だ。わざわざ呼び立ててしまって済まぬな」
「武田二郎様、お初にお目にかかります。私、次郎法師と申す尼僧にございます。この度、私に縁談と伺ったのですが」
「その通りだ。正確には直親殿に『嫌なら嫌で構わん。素直な返事を聞きたいのだ』と言ったのだがな」
瞬間『直親様?』というドスの聞いたハスキーボイスが響いた。やっぱり本人の意思を確認せずに動いていたか。
直虎にしてみれば、元・婚約者にそんな事をされれば激怒しても仕方ないだろうに。
どうやら井伊直親という男は些か短慮らしいな。まあ本人も心苦しさを感じてはいたんだろうけど。
「ま。待ってくれ!次郎法師殿!折角の良縁」
「私は生涯未婚を決めたのです!それなのに、どうして私の元・許嫁である貴方がそのような真似をなされるのですか!」
あ、やっぱり怒ったな。まあ少し自由にしておいてやるか。火山は爆発させた方が良い。
ゆきを呼び、耳打ちする。
「ゆき、父親も同席しておるな?」
「はい」
「火山の爆発が収まるまで待つように伝えろ。その方が彼女も受け容れやすい。直親殿には先走った罪によって生贄となって戴こう、と」
ゆきは俺の指示をしっかり伝えたようだ。父親である直盛殿から『申し訳御座いませぬ』という伝言を預かって帰ってきた。
直盛殿が気を利かせてくれたのか、冷たい井戸水を用意してくれる。まだまだ暑い季節だ。冷たい水ほどありがたい物はない。
そして一息ついている内に、口喧嘩、と言うには一方的なやり取りは終わったらしい。
「二郎様、御見苦しい所をお見せして申し訳ございませぬ」
「気にする事は無い。次郎法師殿が一途な女性と言う事は良く分かった。それ故に激昂した事も分かる。そこまで一途であれば、次郎法師殿を娶る事が出来た男は、さぞや幸せになれるだろうな」
「そこまで仰って戴けるとは……有難き幸せに御座います」
頭を下げた気配が伝わってくる。
でも、これは俺の本音だ。リップサービスとかじゃない。
「しかしながら私は尼僧。この度の件は御辞退致したく願います」
「むう、それは困った。先ほどのやり取りを聞いて、次郎法師殿なら藤吉郎を託せるとますます思うようになってしまった。藤吉郎はいずれは私を支える重臣となりうる男だ。それを支えるという事は、遠江を仕置する私を支える事でもあり、ひいてはこの井伊家の御家の安定にも繋がってくるのだ。井伊家の親戚に、遠江を差配する私の重臣がおれば?その強味は理解出来るであろう?」
どうやら困惑したように直虎さんが沈黙した。高評価ゆえに相手は引く事が出来ない、それが理解出来たのだろう。加えて自分の誇りも理解しているように感じている筈だ。
個人としての評価に加え、御家の利にもなる話。
これを本心から断る事は出来ないだろう。
「藤吉郎には支えが必要なのだ。真の意味で心の強い妻がな。どうしても駄目かな?今夜一晩で良い、真剣に考えては貰えぬか?それで駄目なら縁が無かったと諦めよう」
「分かりました。明日、御返事を致します」
「感謝する。しっかり考えてくれ」
よし、これで何とかなる。井伊直虎という女性は一途であると同時に、御家存続を強く願う女性だ。だからこそ未婚でありながら、己の血を継がぬ直政を育て上げたのだ。
井伊家の為に。その大義名分があるなら、彼女は受け容れるだろう。
「ところで直親殿。まだ話を聞く気力はおありかな?」
「だ、大丈夫にございます」
「そうか。ならば問いたい事がある。この井伊家の動員兵力はどれぐらいかな?」
後の流れは松下加兵衛の時と同じだ。ただ違うのは、銭獲得の手段が砂糖ではなく、酒である事だ。つまりサツマイモから作った焼酎を提案したのである。
井伊谷は山の麓の為、農業に向いている土地だ。サツマイモも十分に栽培できる余地はある。
これで後は俺が曳馬城、後の浜松城を拠点とすれば、北に井伊、南に松下が配される形になる。三河方面からの敵軍進軍を想定した時に、強固な守りを発揮できるだろう。
そして浜名湖には港を作る。黒砂糖、焼酎はそこから出荷するのだ。
俺自身は直轄領内で別の換金作物を作る。本命はお茶だ。静岡は茶所として有名な場所だ。十分に対応できる。そこまでの繋ぎとしてアブラナと木綿で凌ぐ。
お茶の問題は霜対策だが、これも腹案はある。問題はない。
その為にも、三河には早く安定して貰いたいものだ。俺には曳馬城改め、浜松城城下町の拡大や新しい施設、上下水道についても考えなければならない。理想としては民の為に銭湯を作りたい所だ。寺院がやっているサウナだけでは、これから足りなくなるだろう。本当に、楽しい悩みだ。内政は遣り甲斐がある。
翌日、直虎さんから婚姻を受けるという意思表示を受け取った。実にありがたい。直虎さんはこの時代としてはオールドミスに分類され始める年だ。早めに結婚を挙げさせてやりたいので、全力でバックアップしてやらんとな。
仲人は加兵衛に頼むとしよう。俺の両翼として遠江の仕置に入るのだ。二家の仲が良い事をアピールしておくに越した事は無い。
今は秋だから、収穫が終わったら結婚。そして藤吉郎は今後は井伊姓を名乗る事になる。井伊藤吉郎の誕生だ。その後、直虎さんとともに甲斐へ向かう。向こうの仕事が完了したら、再びこちらへ戻ってくる事になるだろう。
二人に幸運が訪れる事を願う。
天文二十四年(1555年)一月、駿河国、久能山城、ゆき――
毎年恒例となった新年の御挨拶。今回も私は特例として、二郎(武田信親)様のお傍に控える事を御屋形様直々に許されました。
なんでも御裏方様も率先して賛同なされたと聞きました。私は何かしたのだろうか?心当たりは無いのですが。
御二人だけでは御座いませんでした。典厩(武田信繁)様、道鬼先生、弾正(真田幸隆)様、太郎(武田義信)様、他にも何名もの御方がニコニコ笑っておられます。
山城守(小畠虎盛)様にお尋ねしましたが『日頃の忠勤が評価されたのだろう』とそっぽを向きながら説明されました。分からない、一体、何があったのでしょうか?
仕方ないので二郎様に相談致しました。二郎様も気になったのか、直接、新年の宴の中で御屋形様にお尋ねされたのです。
御屋形様曰く。
『二郎。武田家当主として命じる。そのゆきという娘、其方の側室とせい』
穴が有ったら入りたい。顔をあげられませんでした。嬉しいのは間違いありませんが、御裏方様が直々に私の手を取って『二郎を支えてあげて下さいね』とお声を掛けてこられたのです。はい、とか細い声で返事をするので精一杯でした。
側室入りは春四月。そして私の義父として選ばれたのは、私の手習いの先生でもあった道鬼先生こと山本道鬼斎勘助様でした。
ただ私が完全に側室入りすると、二郎様の補佐役がいなくなってしまいます。その為、苦肉の策ではありましたが、私は側室入り後も今まで通り二郎様の補佐を続ける事になりました。
話は変わりますが、昨年秋の西三河侵攻は問題一つ無く終了しておりました。松平宗家が分家全てを率いて、武田家への忠誠を改めて誓ったからで御座います。
新年の挨拶にも顔を出しに来る、当然、誰もがそう思っておりました。当たり前の事だからです。
だが宴が終わる頃になっても誰も来ない、代理も来ない。
さすがに訝しみ始めた頃、飛び込んできたのは凶報で御座いました。
『暮れに三河国で一揆が発生。岡崎城城主松平晴康殿、生死不明に御座います』
宴は即時終了。急遽、軍議が開かれる事になりました。
まさかの新年早々の凶事で御座います。
「二郎。其方はどう見る?」
「明らかにこちらが新年の挨拶で手薄になる事を予想していたのでしょう。加えて、一揆が起きた、というのがおかしい。松平宗家家臣一同は誰よりも唯一の跡取りである次郎三郎(松平晴康)殿の帰還を願っていました。それは民も同じです。にも拘らず一揆が発生し、次郎三郎殿は生死不明。これは何者かによって煽られていると考えた方が宜しいかと」
二郎様は腕を組み、思索に耽っておられます。知恵働きに優れた道鬼先生、弾正様も同じ考えに至ったのか、『御尤も』と頷いておられました。
御屋形様も同じ御考えなのか、何度も頷いておられます。
次郎三郎殿は人質時代に苦労をしてきた御方。そのような御方が、民を苦しめるような愚行をするとも考えにくく御座います。それならば、やはり二郎様の扇動されている、という御考えが正しいように感じられます。
「そうなると斎藤か織田、恐らくは蝮か」
「証拠はありませぬが、最も怪しく見えます……ゆき、三郎太を護衛として、すぐに風に確認を取るのだ。三河の一揆についての情報を集めさせろ。分かる限りで良い」
「仰せのままに」
二郎様の事は山城守様にお願いして、私は兄とともに城下町へ向かいました。駿府の城下町の中にはいくつもの店があります。その内の一つである『富士屋』という穀物商は、二郎様に仕える風の表向きの顔で御座います。
富士屋の上の者達は、離れてはいても同じ御方を主と仰ぐ同胞。
普段は外面を取り繕う必要もありますが、緊急事態となれば話は別です。
「誰かいる!緊急事態よ!」
「お?ゆきじゃねえか、どうした?」
出てきたのは達吉。この富士屋で表向きは番頭を務める男。私や兄の同期で御座います。
達吉が出て来たのに、雑用係の丁稚が出てこないのは、里帰りしている為なのでしょう。
「三河で一揆が起きたわ。何か知らないかしら?」
「待て。すぐに聞き出す。囲炉裏で暖まりながら待ってな」
待つこと、半刻ほどだろうか。風の所属員らしい者が達吉に付き添われてきました。
まだ若く、私にも兄にも見覚えが無い。という事は、三期生以降の孤児なのでしょう。
「ゆき、連れてきたぜ」
「ありがとう、で、三河の一揆について知っている事を教えてくれるかしら?」
「あくまでも暮れに聞いた噂です。どっかの寺に、揉め事を起こした奴が飛び込んで騒ぎになった、って話です。他には騒ぎになるような話は……」
どう聞いても大した情報ではありませんね。
そうなると、三河で何が起きたのやら。
「他には何か?」
「いや、こいつだけだ。とりあえず手の空いてる奴を向かわせる。何か分かり次第、報告する」
「ありがとう。助かるわ」
神屋や友野屋にも聞こうと思いましたが、事は大事だ。下手に聞きこむと厄介な事になりかねません。しかも平日ならともかく、元日早々に噂を聞きこむなんて、有り得ない話です。
それに三河には港が無い。直近の情報となると、あまり期待も出来ないでしょう。寧ろ、風で一人とは言え噂を聞いていた事が幸運だったと言えるかもしれません。
仕方ありません、二郎様に報告に戻りましょう。
「寺で騒ぎ、だと?」
二郎様の顔色が変わりました。明らかに顔色が悪う御座います。
何かお心当たりでもあるのでしょうか?
「勘助、弾正殿、私の予想が当たっていると思いますか?」
「……守護不入、ですな?」
「三河侍は直情傾向な者達が多い。咎人を追って何が悪い、といった所でしょう。もし予想通りなら、この一揆、面倒な事になります」
二郎様の仰る意味が分かりません。それは家臣の皆様も同じようです。
それとなく見回せば、多くの方々が首を傾げておられます。
「道鬼先生、守護不入とは何でしょうか?」
「室町の定めた決まり事。特定の寺社に対して、守護や役人は咎人の捕縛や徴税を目的として立ち入ってはならん、という特例よ。二郎様はその騒ぎの起きた寺が、特定の寺社ではないか?と疑っておられるのだ。そんな寺に三河侍が押し入れば、分かるであろう?」
そういう事で御座いますか。家臣の皆様も納得したのか、互いに頷きあっておられます。
それが発端となって、一揆にまで発展したという事なのですね。
「ゆき、風は追加調査に入っているな?」
「はい。手の空いていた者が向かう、と」
「分かった。追加連絡を待つ。外回りの風が情報を掴んでくるかもしれんからな。御屋形様、当面は身動きが取れませぬ。故に、東三河及び遠江は警戒態勢に入らせるべきかと。不意打ちだけは防がねばなりませぬ」
うむ、と御屋形様が重々しく頷く。
それにしても、こちらから身動きが取れない、と言うのは厳しい物で御座います。それとなく二郎様に目を向ければ、堅く握り締められた拳が小刻みに震えているのが分かりました。
「松下、井伊、両名は明日の早朝、富士屋の船で城へ戻って警戒態勢に入れ。ついでに浜松城の留守居役の美濃守(原虎胤)にも警戒態勢に入る様に伝えろ。それが一番早い」
「心得ました」
「……最悪、東三河まで放棄した後、再侵攻で取り返す事を考慮すべきか。いや、それは無駄が多すぎるな。東三河の国人衆の事もある。これは俺も戻るべきか……御屋形様、今更ではありますが、やはり私も明日、浜松城へ戻ります。もし出陣する必要があれば、使いを送りますので後詰を御願い致します」
「良かろう、気をつけろよ」
天文二十四年(1555年)一月、遠江国、ゆき――
翌日の夕方。富士屋の船で浜名湖近辺へ到着した私達は、まだ港が未完成だった為に小舟に乗り換えて上陸。それぞれの居城へ向かいました。
松下・井伊両家は百姓兵を集め、浜松城到着は五日後になるとの事。これは仕方ない為、二郎様はその待ち時間を情報収集に充てられました。
そして出発当日までには、噂話ではありますが、幾つかの情報が集まり始めておりました。
『松平晴康は昨年暮れに暗殺された』
『一揆は一向宗が先導している』
『松平家からも離反者が出ている』
『織田家が煽っている』
『西三河の松平家は全滅した』
情報の正確さは不明。頭が痛くなるような状況です。
風も情報収集に当たっているが、帰還までまだ刻が必要との事。こればかりは仕方御座いません。
「今回の件は教訓にしないといかんな。諜報拠点は、領地に組み込まれる前から作らねばならんという事が理解出来た。生き延びたら、すぐに手を付けるか」
「二郎様、そのような不吉な事は……」
「相手の情報が何も分かっていないのだ。最悪の事態は十分に考えられる。だからと言って
動かなければ、武田家の名に傷をつける事になる。武田は困っていても助けてくれんかった、とな。それは今後の統治に悪影響しか及ばさない」
そして松下・井伊両家の軍勢が到着。
火部隊二千、常備兵二千、陰部隊百、松下・井伊家の軍勢五百。浜松城には都合四千六百名の兵が集まったので御座います。
「二郎様、どうされますか?」
「向かうしかないだろうな。恐らく一揆なら、横一列の単純な突撃しかしてこないだろう。ならば頭を使うのみ。弓騎兵隊には爆裂筒を用意させろ。今回は初手から切り札を使っていく事も考えねば」
戦闘は必至。そう判断されたのでしょう。前回の戦で使わなかった爆裂筒の使用を宣言されたのですから間違い御座いません。
敵兵力が不明な以上、出し惜しみは悪手、という事で御座いましょうか?
「いいか、必ず物見を先行させろ。敵の不意打ちだけは必ず避けるのだ。数の差で押し切られるからな。物見は二人一組で本隊の一里先を先行。本隊は見通しの良い平野を進軍する。敵を確認したら狼煙を上げろ」
「ははっ!」
「虎盛。緊急事態の際には、俺の指示を仰ぐ必要は無い。最善と思う判断を実行に移すのだ」
「お任せ有れ!必ずや二郎様の御身はお守り致します!」
一揆に対する為、遠江勢は進軍を開始。翌日夕方には弁天島を越えた先まで来たのです。
そして龍谷寺と本果寺、隣海院に分かれて夜営に入った頃、待ちに待った風の続報が届きました。
それは三河で起きた事の経緯について。
岡崎城にいた次郎三郎(松平晴康)殿が刺客に襲われたとの事。犯人は三河侍に追われて、一向宗の寺に逃げ込んだというのです。そして追跡者と僧の間で揉め事になり、騒ぎとなりました。そして気が付くと、寺に火が点いていたそうです。
結果、寺は全焼。犯人は行方不明。晴康殿も生死不明のまま続報無し。寺は守護不入の原則に反した、火を点けられたとして、三河松平家を宗敵として宣言。結果として一向一揆が起きたそうです。すると松平家分家の中からも同調者が現れ、一揆は拡大の一途を辿った、との事。幸い、岡崎城より西側だけらしく、東三河は一向宗が弱いせいで影響が及んでいないようです。
「ゆき、御屋形様にこの報せを送れ。それと物資の補給路だが、ここからは安全を確認できた城を後方に連絡して、そこ経由で運ぶように命じるのだ」
「心得ました」
「それと風に命じて、西三河に噂を流せ。俺が進軍を開始した、とな。東三河と同じ目に遭うぞ、と」
敵には一切、容赦のない暴君。それが三河での二郎様に対する評価で御座います。その悪名がどれだけ効果を挙げるか、こればかりはやってみるまで分かりません。
一揆が運良く解散すれば有難いのですが……
「東三河国人衆への声掛けは如何致しますか?」
「不要だ。この行軍を目の当たりしてなお、駆け付けてこないような連中であれば捨てておけばよい。それに相手が多いなら、それを活かす事ができないような戦い方をすればよい。その為の物見であり策だ」
翌朝、二郎様は進軍を再開。やがて西三河に近づくにつれ、より詳細な情報が手に入りました。
まず残念な情報で御座います。次郎三郎殿は亡くなられました。三河侍が激怒して寺に突撃したのも当然でしょう。これで松平宗家は断絶。どこからか養子を取るか、それとも武田家への吸収を望むかは分かりません。それは分家や家臣達で決めるべき事だからです。
その報告を聞いた時、二郎様は項垂れておられました。二郎様にとって、次郎三郎殿は可愛い弟分だったのです。それが亡くなったと聞けば、意気消沈するのも仕方がない事でしょう。だが二郎様が、ここで折れる訳がありません。間違いなく、仇を討つ為により冷酷になられるでしょう。
次に敵の情報です。まず主力は一向衆。西三河一向衆は勢力が大きい事で有名です。しかし門徒全てが戦に参加する訳ではありません。女子供まで参加を余儀なくされるほど、追い込まれている訳ではないのですから。物見の情報によれば、兵力は三万前後との事で御座いました。
そして裏切り者について。まず桜井松平、大草松平、吉良氏、荒川氏。この辺りが主になるとの事。彼らの兵力は合計一万には届かないそうで御座いますが、それでもかなりの兵力では御座います。彼らの支配領域の石高の合計が十六万石を超えるほどらしいので、妥当な数字では御座いますが。それを聞いた二郎様は『甲斐と互角か』と苦笑いされておられました。
結論。敵兵力は四万。こちらの約十倍になります。
更に味方の情報――松平宗家家臣達は、主の仇討ちという形で一致団結。岡崎城に籠って籠城戦を展開中。つまり岡崎城は四万の兵力に囲まれている危険な状況に陥っております。
他の松平分家は宗家に与したいようですが、足元で一揆勢が騒ぎを起こされて動きづらいらしく、宗家救援どころか身を守るので手一杯という有様。ここまで来ると、やはり煽動する者がいたとしても不思議は御座いませんね。
最後に東三河国人衆の参戦状況。西郷正勝殿、設楽貞通殿、菅沼定盈殿の三名が、途中で参加を志願して参りました。三名とも以前の東三河攻略戦で中立を表明して、僻地へ追いやられた方々。それでも一族郎党引き連れて、汚名返上の戦いに乗り出してきたので御座います。
二郎様はこれを承諾。戦いの後には酬いる事を約束した。というのも二郎様の差配できる領域は遠江であり、東三河は外れているからです。故に御屋形様に報告して、褒美を与えて戴く事になるので御座います。
曰く『西三河に十六万石の領地が空くからな。其方ら三名の領地を捻りだすぐらいは容易い事だ』との事。つまり裏切り者全滅宣言という訳です。
彼らの参戦は二郎様にとっても有難い事だった、と後から教えて戴きました。失策を犯しても、名誉を挽回できる機会と、その後に得られる褒賞を実際に示す事が可能になるからだ、と。
それから数日後。ついに岡崎城を目視できる距離まで辿り着きました。
物見によれば状況は変わらず。時折、中から決死の突撃隊が出て損害を与えている、との事。それでも包囲側が優勢なのは変わらないそうですが。
物見が城の周辺の地の利に関しても情報を集めて参りました。それが一通り揃った所で、二郎様は思案に入られました。
「盤面……岡崎城に松平宗家籠城……周囲は敵四万の包囲……こちらは四千六百……後詰はあるが時期は未確定……今は冬……敵はこちらの接近を知らない……」
しばらく考え込まれた後、二郎様が決断されました。
「全軍に通達。旗を全て伏せろ。奇襲攻撃で一気に終わらせる。それと軍議を行う」
二郎様の下知に、主要な方々が勢揃いされました。
「まず基本方針は奇襲だ。一撃で終わらせる。まず夜まで待つ。今は冬。包囲側は必ず火を起こして暖を取るだろう。その焚火目掛けて弓騎兵部隊が爆裂筒を撃ち込んで誘爆させる。ただし足を止めるな。城の正門前から右回りで走り抜けるように城をぐるっと回りながら撃ち込み続ける。一周したら離脱だ。ただし、一周しても中から松平宗家の連中が打って出てこなければもう一周繰り返せ。その後、離脱だ」
「部隊を率いるのは?」
「孫次郎(小畠昌盛)。其方に任せる。良いな?」
孫次郎様が『仰せのままに』と返されます。
大して父親である山城守様が『励めよ』と短く激励されながら、肩を軽く叩いておられました。
「次に爆裂筒で混乱している所へ風が走りこんで、混乱を悪化させる。『松平の援軍が来た』『誰それが裏切った』『逃げろ』、まあやり方は任せる。ただしその場に止まるな。弓騎兵部隊の混乱の後ろに続くように移動しながらやって貰う。そして城の正門に辿り着く前に包囲側から離脱しろ。この役目は風を束ねる長次郎の役目だ」
私や兄と同じ同期の者。腕っぷしは弱いが、足の速さと頭の回転の早さから、足軽大将待遇、風の副将格として抜擢された男です。
年は兄と同じで、正反対の特徴を持ちながらも仲は良いという間柄。
今でもたまに、一緒に酒を飲む程度には親しいと聞いております。
「分かりました。こちらに損害が出る前に離脱するように行動します」
「話が早くて助かるわ。こちらが外から攻撃すれば、中の連中がこれ幸いと動くはず。復讐鬼の怒りに触れぬように立ち回れ」
その説明で納得がいったのか、兄が『ああ、そういう事か』と声に出しました……兄さん、せめて声には出さないでほしかったです。少し恥ずかしい。
「ゆき、人には適材適所がある。そういう事だ」
「も、申し訳ございません」
「気にするな。それから、美濃守(原虎胤)には常備兵、虎盛は火部隊の内、弓矢を持っている連中を率いて、混乱している所に弓矢で追い打ちをかけさせる。大盾は防衛戦力として使え。種子島部隊は残念だが、今回は留守番だ。火縄の明かりで、こちらの配置がバレるからな。松下・井伊両家には、美濃守や虎盛と同様に夜闇の中から弓矢で追い打ちをして貰う。ただし狙いは吉良の陣だ。吉良が逃げ出したら、狙いは変更。美濃守や虎盛と同じく、他の一揆勢に矢を降らせよ」
皆様が揃って、重々しい声で『お任せ有れ』と応じる。聞いた方が安心するほどだ。
ただ気になったのは、ここまで山城守様や美濃守様が何も異論を口にされない事で御座います。
戦には素人である私からすれば二郎様の策は素晴らしいと思えるのですが、山城守様や美濃守様は御不安を感じられないのでしょうか?
「最後に設楽、菅沼、西郷。其方達には、悪いが汚れ役をやって貰う。少数でもできる役目だ」
「いかなる内容でございましょうか」
「混乱すれば、恐らく吉良は逃げ出すだろう。自分が狙われている、とな。そのまま自分の領地へ帰ろうとする筈。それは非常に困るな。奴には一揆の中で不慮の死を遂げて貰えば有難いのだ。あくまでも願望に過ぎんがな」
「心得ました」
西郷殿が即座に了承されました。続いて設楽殿、菅沼殿も了承されます。
吉良は確かに邪魔で御座います。まず吉良は足利家に連なる一門。家格としては武田家より上。それを武田家が殺したとなれば面倒くさい事になります。だから一揆の中で死んだ事にされたいのでしょう。
かと言って生きていられると、別の問題が起こります
。
もし武田が匿ったり、或いは助命すれば、松平家の怒りの矛先が武田家に向けられるからで御座います。
しかも領地へ逃がせば、最悪、将軍家が仲裁に入る可能性もあります。そうなれば怒りの矛先がどう動くか全く分かりません。
これ以上に厄介な男はいません。まさしく疫病神と申せましょう。
「策は以上だ。主戦力はあくまで岡崎城に籠もっている、復讐鬼と化した三河侍。俺達は補助役として動くのだ。何か異論や質問はあるか?」
「御座いませぬ。二郎様の御下知に従います」
「よし、ならば携帯食で腹を満たせ。その後、交代制で仮眠だ。夜が更けたら行動開始するぞ」
天文二十四年(1555年)一月、三河国、原虎胤――
「山城守(小畠虎盛)殿、少々宜しいかな?」
「美濃守(原虎胤)殿、何か御座いましたかな?」
「いやいや、少々、驚きましてな。二郎(武田信親)様があそこまで策を立てられるとは思ってもみませんでしたわ。二郎様は御目が悪い。だからこそ、山城守殿に軍配を預けるほどに頼りにされておられる」
それは間違いない事だ。目が見えず、とっさの判断を下せぬからこそ、信頼する山城守殿に軍配を預けられたのであろう。
決して軍略の知識が無い訳では無いのだがな。
「それが、まさか物見からの報告を聞いただけで、あのような策を講じられるとは。儂も奇襲ありきで考えてはおったのですが」
「恐らく、二郎様は混乱からの同士討ちも目論んでおられましょう。だからこそ、目印になる明かり――種子島の種火も消して、こちらの存在を隠されようと目論んだので御座いましょうな」
「主役は三河侍。ならば我らは三河侍が出てきたら、連中がおらぬ方へ弓矢を射るように致しましょう」
小畠殿が『御尤も』と頷く。
存在を気取られて、逆襲に転じられては堪った物ではない。数の上では、こちらが圧倒的に不利なのだからな。
「話は変わりますが、吉良家への対応には驚きを覚えました。確かに吉良に逃げられては、後々、面倒な事になる。だが、それをあのような思い切った方法で解決されるとは」
「某も驚きましたな。二郎様は思い切った御決断の出来る御方。ですが、まさか吉良家に対しても同じように対応されるとは」
吉良家は足利将軍家の血筋が絶えた時に、後を継ぐ事のできる御家、名門中の名門だ。そこに刃を向けるなど、あってはならぬ事。だからこそ、儂が総大将であれば気付いても見逃す選択を採っていたかもしれん。いや、悩みながら決断しきれず、流れに任せていたであろうな。
だが二郎様は違った。
意図的に殺す事を決意されたのだ。戦場で討ち死、と言う言い訳で。
「あと、問題は一向衆ですな。こうなった以上、覚悟は決めなければなりませぬが」
「加賀や長島の噂ぐらいしか聞いた事は無いが、油断は出来ぬ相手。しかし主が決断なされた以上、家臣として付き従い、武功を挙げるまで。それが出来れば、日ノ本中に名を轟かせる事が出来ましょう」
「全くもって、その通り!いや、楽しくなってきましたわ!」
一向衆を撃滅できれば、間違いなく勇名を馳せる事になる。敵軍は四万。こちらのおよそ十倍だ。
間違いなく日ノ本の歴史に名を刻む事になる。
こうして考えると、かつての名将を思い出すわ。
「朝倉宗滴殿の再来。二郎様はそう呼ばれるようになるかもしれませぬな」
「三十倍の一向衆を蹴散らした、朝倉家の名将ですな。お亡くなりになるまで、二郎様が文を交わされておられましたな。最後の文を読ませて戴いた事が御座いました。『あと数年生きたい。二郎殿の成長を見たかった』そう締めくくられておりました」
「あの御仁にそこまで言われたとは。やはり天神様の寵児なのですな」
朝倉家を支え続けてきた名将。その御方ですら、二郎様の才を認めておられたという事か。
故あって御屋形様と距離を取ったが、これは幸運だったのかもしれぬ。頼もしき主にお仕えするのも良いが、これからの成長が期待できる若君様にお仕えするのも心が躍る。
御屋形様には申し訳ないが、是非とも二郎様の御成長を傍らで見届けたい物だ。
「さて、ではお互いに気張ると致しましょうか」
「お互いに励みましょうぞ」
天文二十四年(1555年)一月、三河国、ゆき――
時刻はそろそろ子の刻が近い頃合い。岡崎城を取り囲むように、多数の焚火が目に付く。おかげで吉良の陣も丸分かりで御座います。
おまけに冷たい風も吹き、外にいるのが辛い。一揆勢も焚火から離れる事なんて、欠片ほどにも考えないでしょう。
すでに半刻ほど前には、各隊は作戦行動地点に移動済。あとは弓騎兵部隊が動き出すのを待つだけです。
そして、最初の爆音が轟きました。それを皮切りに、次々に爆音が連続して夜闇を切り裂いていきます。
同時に焚火の明かりがいくつか消滅。包囲陣で混乱が起き始めます。恐らく、呼吸を合わせて山城守(小畠虎盛)様達が遠距離攻撃を始めたので御座いましょう。
「吉良の陣の様子は?」
「騒がしくなってきたようです。弓騎兵部隊の爆音で、馬が興奮しているのではないのでしょうか?」
ここから包囲陣まで、およそ五町。こちらは明かりを持っていない為、何とか露見せずに済んでおります。
本当なら、ここで本隊突入により勝利を掴み取るのでしょうが、それをやると被害は甚大で御座います。特に三河侍は私達の事も関係なく攻撃してくるでしょう。それはごめん被りたいというのが二郎様の意見で御座いました。
「二郎様。岡崎城に変化が。松明を手にした人影が増えつつあります」
「よし、中には外の異変が伝わった。三河侍は戦慣れしている、今が逆襲の時だと理解出来る筈」
そのまま二郎様は岡崎城がある方角に顔を向けておられます。目では捉えられずとも、騒ぎでおおよその位置は理解出来ているのでしょう。
「二郎様、城門が開きました!騎馬武者です!」
「よし!策は成った!吉良の様子は!?」
「陣幕に火が点いております!」
「火消に動いている様子があるかどうか、しばらく見てから報告してくれ」
二郎様の仰る通り、しばらくそちらを見張りました。
ですが弓騎兵部隊が正門前で離脱して、しばらくしても陣幕の火が消える様子はありません。
それどころか、火の手は増すばかりです。
「二郎様。火消の様子は確認できません」
「吉良は逃げたな。何か異変が起これば教えてくれ」
しばらくして包囲側が崩れだしました。
恐らくは宗家の三河侍が、獲物に襲いかかる狼のように食らいついたのでしょう。瞬く間に裏切り者達が食い荒らされていく光景が目に浮かびます。実際、夜闇の中で三つ葉葵の陣幕が燃えておりました。多分、裏切った分家の陣だったのでしょう。
「あとは油断さえしなければ良いだろう。全く、我ながら不本意な戦いだ。二度とやらんぞ、こんな無様な戦」
「そうなのですか?」
「理想は戦わずして勝つ、だ。だが理想と現実は違う。現実はこうして戦わねばならん。それは分かっている。しかしな、軍を率いる者として味方の損害は極力減らさねばならんのだ。それには情報が必要だった。その為には情報収集拠点をもっと早くに構築しておくべきだった。確かに今回は味方の損害は軽微だ。だがそれはあくまでも結果に過ぎん。単に運が良かっただけだ」
しばらくして山城守様が戻ってこられた。その隣に懐かしい顔を連れて。
年の頃は三十前。温厚そうな雰囲気を纏った三河侍。
駿府城で良く見かけた御方で御座いました。
「二郎様、松平家家臣、酒井小五郎忠次に御座います」
「一年ぶりだな。まず援軍が遅くなってすまなかったな。もっと早く来られれば良かったのだが」
「いえ、助けて戴いただけでも十分に御座います。我ら一同、決死の切込みを覚悟しておりました」
酒井殿は全身が薄汚れていた。主である次郎三郎殿が亡くなられてから、身なりなど気にする暇も無かったのだろう。
それほどまでに、思いつめておられたのでしょうね。
忠義心篤い三河侍の一人である事が、その事からも良く分かります。
「酒井殿。生き残りはどれほどいる?糧食を分けよう。何、こちらの事は気にするな。補給部隊が後から来るのでな」
「真に忝う御座います。生き残りは五百になります。それもこの戦でどれだけ生き残れるか」
それはそうだ。例え生き残っても、主を守れなかったという罪の意識が三河侍の矜持を激しく傷つけるのだろう。それならいっそ死ぬまで暴れてやる、と考えても不思議ではない。
次郎三郎殿という存在は、三河侍にとってそれほどの大きな存在だったのですから。
「だが酒井殿。其方は死んではならぬ。三河国には三河侍を頼りとする者達も多かろう。特に今川の圧政に耐えていた者達はな」
「しかし……」
「次郎三郎殿の事も聞いている。せめて次郎三郎殿を、ただの竹千代として母御の傍らで眠らせて差し上げよう。それぐらいは許される筈だ」
「お待ち下さいませ。殿は御健在に御座います。死んだという噂は、某の一存で流した流言に御座います」
驚いた。まさか、そう来るとは。酒井殿の事を実直な御方だと思っていたが、どうやら過小評価だったようです。
二郎様もこれには驚かれたようでした。
「どうして殿が狙われたのか。その目的が分からず、念の為に死んだフリをして戴いたのです」
「そうか、無事だったか」
「二郎様。どうか殿にお会い下さい。殿を御救い出来るのは、この世でただ一人、二郎様だけなのです」
何があったというのでしょうか?次郎三郎殿は無事では無かったのでしょうか?
天文二十四年(1555年)一月、三河国、岡崎城、ゆき――
岡崎城の中は勝利の喜びに満ち溢れておりました。そして二郎(武田信親)様の来城を知った三河侍達が一斉に膝をついて頭を下げてきたので御座います。
彼等も、二郎様の援軍のおかげで助かったことを理解しているのでしょう。加えて二郎様は立場上、年始は御屋形様の元、つまり駿河にいないといけません。そこから報せを受けて短期間でここまで軍を引き連れて来たのです。彼らは心の底から二郎様に感謝しているのでしょう。
「殿、二郎様をお連れ致しました」
そこに次郎三郎殿がおられました。
だが様子がおかしい?……よく見れば、すぐに分かりました。足が片方無いのです。
「二郎様、お助け戴き、感謝の言葉も御座いませぬ」
「いや、構わぬ。俺にとって次郎三郎殿、いや、竹千代殿は可愛い弟のような存在だ。助けるのは当たり前よ」
「真に……勿体なき御言葉……」
少し前まで己の名前であった幼名を呼ばれた次郎三郎殿が、感極まったのか手で目を覆われました。
そして、必死に片足で立ち上がろうとされます。それを鍋之介殿が肩を支えて、立ち上がらせました。
「次郎三郎殿、何があった?この盲いた目では分からんのだ」
「片足を失いました。暮れに忍びと思しき者に、城内で襲われたのです。最初は掠り傷と思っていたのですが、その日の晩から熱と痛みが出まして。加えて壊死の症状まで出てきました。最早、生き延びる為には、こうする他ありませなんだ」
「そうか、よく頑張ったな」
二郎様の言葉に、次郎三郎殿が頭を下げられました。
きっと悔しいのでしょうね。片足では、もう武者働きは出来ないのですから。武士としては致命的で御座います。
「次郎三郎殿。其方はどうする?ここで折れるのか?」
「しかし、この足では、もう……」
「馬鹿者。お前の前にいる男の欠陥を口に出してみろ」
瞬間、次郎三郎殿が『あ』と声を上げました。
そう、二郎様は今の次郎三郎殿とは比べ物にならないほどの状態で戦っておられるので御座います。
確かに一介の武者としては働けないでしょう。だが上に立つ者として戦い続けておられるのは事実なのです。
「鍋之介、其方を育ててくれた者は誰だ?」
「叔父上に御座います」
「ならば伝えよ。鍋之介が元服したら、忠勝と名乗らせよと。主に忠義を誓い、主の為に勝利を齎す男になる事を願っての名だ。いずれ次郎三郎の矛となって戦うがよい」
「は、はい!」
鍋之介殿は嬉しそうです。近くにいた三河侍達も、それぞれに鍋之介殿を祝福しておられました。
とても仲が良う御座います。同族意識が強い事がよく分かります。
まるで孤児同士で語らっている時の事を思い出します。
「其方にも四書五経をくれてやる、しっかり学べ」
鍋之介殿が意気消沈されました。どうやら勉強は嫌いなようです。それは周囲も分かったのか、一斉に笑い声が上がりました。
ですが勉学はきっと力になります。鍋之介殿が成長される事を願ってやみません。
「ところで次郎三郎殿、今夜一晩、こちらの兵も城に泊めさせてくれ。兵に休息を与えたいのでな」
「勿論で御座います。好きなだけ、この岡崎城でお過ごし下さい」
翌日以降は領内の火消しに奔走しました。
まず御屋形様への報告。一連の説明と、これから三河でやってくる事を書き留めた代物で御座います。内容を知っているからこそ言えるのですが、御屋形様の胃の腑が心配です。二郎様は御屋形様に対して、何か思う所でもあるのでしょうか?
それから分家の救出。一揆勢に取り囲まれている者達を助ける為、とにかく蹴散らして回りました。分家はそれなりに数が有るので、次から次へと走り回らなければなりません。この一連の作業だけで一月ほどはかかりました。
裏切り者は、予想通り一族郎党全滅となりました。分かっていた事とは言え、二郎様の悪名は間違いなく高まったでしょう。一方で三河侍達からは妙に評価が高くなりましたが。
吉良家についてですが、何と二郎様は大義名分をこじつけて乗り込まれました。
『吉良家当主が一揆に参加される事などありえない。つまり一揆に参加していた当主は偽者である。すなわち偽者の一族郎党もまた、吉良家の名を騙る偽者である。足利将軍家に仕える者として、不貞な輩を皆殺しとする』
城中は阿鼻叫喚の地獄絵図でありました。更に二郎様は、この一件を三河中にバラまかせたのです。
その上、城門には一族郎党の首が、老若男女を問わずにズラリと並び『武田二郎信親が吉良家の名を騙る不埒者を誅伐した』という高札まで立てさせたので御座います。
『これで今回の黒幕が手を完全に引けば良いがな』とは二郎様の独り言である。
二郎様を敵に回すと家格等関係ない。敵対者は問答無用で皆殺し。東三河に偽りなし。そんな評判が広まるのに時間はかかりませんでした。
その状態で、二郎様は殊更にゆっくりと本證寺へと向かわれたのです。
今回の騒ぎ、その発端となった寺。宗派は一向宗。そして蓮如の孫、空誓のいる寺。
同行するのは遠江勢と三河松平勢。総兵力六千。
「武田家がな」
『に用だ!』と言い終える前に、予め二郎様が指示していた通りに種子島が放たれました。対応に出てきた坊主の首から上が一瞬で消し飛びます。
この事態に、野次馬が慌てて逃げ出しました。何が起こるのかをハッキリと悟ったからでしょう。
「火矢を放て。女子供関係なく皆殺しにしろ」
二郎様は問答無用で攻撃に出ました。
降伏勧告も批難もせず、いきなり火矢が放たれ、瞬く間に寺が炎に包まれていきます。
「よく聞け!この世に仏などおらぬ!もしおるというのなら、この私に仏罰を与えてみよ!それが無いのは、仏などこの世におらぬという絶対的な真実だけだ!炎に焼かれ、のたうち苦しみながら、己の蛮行を悔やみ続けるがよい!」
兄上が凄い真剣な眼差しで二郎様を見つめています。あれは間違いなく『二郎様すげえ』と思っている顔です。間違いない、断言できます。
他の人達はどうだろうか?と思ってこっそり見てみましたが、皆様、似たり寄ったりで御座いました。特に三河の皆様方は、ある意味、私達以上に興奮されております。
そこへ逃げようとした女性が正門から飛び出てきて、即座に矢で射抜かれて殺されました。
誰の目にも明らかな全滅させる、という意思表示。今の二郎様は間違いなく、荒魂と言うべき存在でしょう。一切の容赦無し、この一言に尽きます。
そしてその報告が二郎様に伝わり、微かに眉を顰めた後に『よくやった』と口にされました。
数刻し、夕暮れになるとやっと火は消えた。文字通り全焼だ。
「一向宗に帰依する者達に告げる。改宗しろ、等と寝惚けた事を抜かすつもりはない。敵は皆殺しにするだけだ。殺されたい奴だけ敵になれ」
そう言い残すと、二郎様は本證寺に背を向けられました。
その日の深夜――
「……どうした、何かあったか?」
「魘されておいででした。悪い夢でもご覧になられましたか?」
隣の部屋で寝ていた私の耳に届いた呻き声に、私は咄嗟にお傍へ駆けつけました。
月明かりに照らし出された二郎(武田信親)様は全身に汗をかき、顔色も悪う御座いました。
「そうか、心配をかけたようだな。もう大丈夫だ」
「汗をかいておられます。水を」
「ああ、ありがとう」
枕元の水差しから、椀に水を注いで差し出します。それを受け取った二郎様は、一気に呷ると大きく息を吐かれました。
「もう大丈夫だ。迷惑をかけたな」
「いえ、そのような事はお気になさらずに。それより余計な事やもしれませぬが、本證寺での事が気にかかっておられるのでは御座いませぬか?二郎様はお優しい御方で御座いますから」
「……まあな。敵には幾らでも冷酷非情になれるが、戦う意思の無い民を、必要な事とは言え殺した、となるとな。どうやら、心のどこかで割り切れんかったらしい」
罪悪感。そういった物でしょうか?
二郎様は苦しんでいる民を救いたい、という大願をお持ちで御座います。昼間に寺で殺した女子も、仏に救いを求めていた筈。それを救う事無く殺したとなれば、気に病むのも仕方がない事かもしれません。
「まあ俺も人間という事だろうな。それに、これから敵として相まみえる兵は百姓兵だ。多くが望んでもいないのに兵として戦う事を強制されている。彼らを殺す度に、こうなっていては武士として生きてはいけぬ。だからと言って、殺すという行為に慣れ切ってしまうのも問題ではあるのだろうがな」
「そうなのですか?勝たねばならぬと思いますが」
「賢い生き方をするのなら、慣れてしまうのが正解なのだろう。ただ淡々と、作業のように殺す事を繰り返すだけになる。それが一番楽であるし、罪悪感の隙を突かれて不覚をとる事も無くなる。だが、どうやら俺は、その選択肢を選びたくないらしい。犠牲となった者達を忘れてはならぬ。そう思うのだ」
私にはよく分からぬお考えです。ですが、もしかしたら犠牲となった女子に、御自身で気付かぬままに『愛』の事を見てしまったのかもしれません。
犠牲となった者達を忘れない。そういう意味では、共通点があるのですから。
「二郎様」
「どうした?」
「私は何処までも御供致します」
「……ならば、ゆき。其方には特権として、どこまでも俺の隣を歩き続ける事を許す……明日も忙しい、其方も休め」
天文二十四年(1555年)四月、駿河国、久能山城、武田晴信――
西三河動乱は終わった。実際には一月ほどだったが、後始末と帰還の為に論功行賞がこの日にまでずれ込んだのである。
まず東三河国人衆の設楽、菅沼、西郷は色をつけて本領復帰させた。元々は親・今川な国人衆の領地。くれてやったところで、俺には痛くない。それどころかこの三名を東三河の安定に使えるのだ。褒美ぐらい奮発するのは当然だ。
生きていた晴康には、改めて見舞いの使者を送っておいた。帰ってきた使者からは丁重な御礼の言葉を戴いた、という報告を受けた。晴康の心底に不審は感じられない。とりあえずは問題ないだろう。
二郎(武田信親)に倒された者達の領土については半分は見舞いとして晴康にくれてやった。残りはこちらで管理だ。尾張進出の拠点として使わせて貰う腹積もりでいる。
そして最大の問題は、我が息子である。吉良家当主の暗殺は良い。一揆の中で命を落とした。見事な物だ。生きていたら、さぞや頭痛の種となっていただろう。
当主の家族や郎党の処置。これもまあ、良いだろう。多少、言い分に無理はあるが、無理矢理押し通せぬことも無い。二郎の言葉を借りれば『文句があるならかかってこい』という所だ。
問題は本證寺。さすがの俺も頭を抱えたわ。行軍中に届けられた文に目を通した時、思わず悲鳴を上げてしまった。しかも周囲から丸見えの状態で。
何事かと家臣達が問うので文を見せてやった。
案の定、だ。皆が絶叫しておった。だが唯一人だけ平然、いや笑っていたのか?あれは。ともあれ、落ち着いていたのは勘助しかおらんかった。
当たり前だ、まさかの一向衆を皆殺しだぞ!?
『ここまでやれば、誰もが二郎様を敵に回す事を躊躇うでしょうな』
十倍に及ぶ一向一揆勢を夜襲で蹴散らし、本拠地を焼き討ちかつ皆殺し。あれの悪名は日ノ本全土に鳴り響くだろう。そしてそれに反するかのように、俺や太郎(武田義信)は慈悲に満ち溢れた御大将と呼ばれるのだ。そこまで計算した息子をどう評価しろ、と?
「……見事だ」
褒める以外の選択肢が無いわ!正直、もっと自分を大事にしろと思わなくもないが。何となく暴君と仇名された親父を思い出してしまう。
……いかん。あの親父が溺愛している唯一の孫が二郎ではないか……
そんな二郎の手柄を論功行賞の場で取り上げたのだが。
「それで二郎よ、何か望む物はあるか?領地を与えても良いが……」
「今は遠江の仕置で精一杯で御座います。褒美は御辞退致します」
「そうか、ならば仕置に専念せよ。それと仕置の為に銭を用意する。二万貫だ、好きに使うがよい」
はは、と二郎が首を垂れる。本当に欲の少ない息子だ。
決めた。俺も親として、地獄の果てまで付き合ってやるわ。
「二郎よ、これは武田家当主としての言葉と心得よ。非公式ではあるが、其方を武田家筆頭軍師とする」
「御屋形様?」
「その智謀、冷徹さ、そして厳しさ、見事という他あるまい。かつて漢の国が三国に分かれていた頃、覇王・曹操を支えた軍師・荀彧がいた。二郎よ、其方こそ我が荀彧よ。王佐の才と呼ばれし男、まさに其方はその再来だ。今後も頼むぞ」
天文二十四年(1555年)四月、駿河国、久能山城、三条の方――
「御屋形様。二郎(武田信親)で御座いますが」
「心配するのは当然よ。俺は父親、其方は母親なのだ。そうであろう?」
コクコクと頷く事しか出来ません。事の大きさを理解出来ない子供達は、無邪気に二郎の手柄を喜んでいた事を思い出します。
二郎も無事な姿を見せた後は、弟妹達と仲良く遊んでいました。そこには普段と一切、変わらぬ笑みが浮かんでいた。あの子は仏罰も気にしてはいないのでしょう。
普段から神仏の存在を否定する子ではあったが、母である私にも、この点だけは理解出来ずにおります。
「二郎は一向衆の恐ろしさを理解出来ておらぬので御座いましょうか?」
「そのような訳があるまい。あれは知っていてなお、強行したのだ。父親として出来る事があるとすれば、あれを最後まで信じてやる事だけよ」
灯し油の揺らめく炎が、御屋形様の顔を照らす。その瞳には、炎が揺らめいていた。
「一向衆だけではない。吉良家すらも滅ぼした事を、皆が察するであろう。武田二郎信親は敵対者には一切の容赦はしない。その評判が、二郎だけではなく、武田家全てを守る矛となり盾となる事を理解しておるのだ。二郎はただの暴君ではない、暴君の真似をする智将であり……優しい男よ。皆の為に、汚れ役を進んで引き受けておるのだ」
「御屋形様、あの子の為に何かできる事は無いのでしょうか?」
「……難しい所よな。其方の母としての思いは正しいと断言できる。だが二郎に出来る事があるかとなるとな……まあ顔をあわせた時に労ってやると良い。二郎とて人間だ、母親である其方から心配されて悪い気はしないだろう」
それぐらいしか出来ぬとは、我が身の力の無さが歯がゆくて仕方ありません。あの子は盲た身でありながら、誰よりも辛い道を自ら望んで歩いています。それなのに、手助け一つ出来ぬとは、本当に私は母親と言えるのでしょうか?
「三条、あまり思いつめるな。出来る事を見つけたら行動する。そう前向きに考えた方が良い」
「はい、そう致しましょう。あの子の場合、御仏に祈っても喜んではくれぬでしょうし」
「否定できんのが困るわ……のう、三条。俺はな、たまに思う時があるのだ。どうして二郎は嫡男では無かったのだろうか?とな」
武田家次期当主。その座に相応しい実力の持ち主は?間違いなく二郎であろう。太郎も懸命に頑張っているが、二郎は全てにおいて太郎を上回っている。実の母として、それは間違いなく断言出来てしまう。それほどに、あの子の実力は抜きんでています。
「別に太郎に不満がある訳では無いのだ。今の太郎の実力は、同じ年頃だった俺と大差はないと思うている。あくまでも二郎が優秀過ぎるだけよ」
「御屋形様……」
「俺はな、せめて二郎には思う存分、その実力を発揮させてやろうと考えている。二郎を非公式ではあるが、武田家筆頭軍師に据えたのも、その為だ」
武田家筆頭軍師。私の膝の上で無邪気に甘えていた、幼かった二郎を思い出した。開かぬ瞼で私を見上げてきた可愛い我が子。そんな我が子は天神様の寵愛を受け、早くに独り立ちし、そして筆頭軍師へと成長した。
ふと思い出した『母上』という幼い声。
思わず目頭を手で押さえてしまいます。
「……もう少し、甘えさせてやりとう御座いました」
「俺もだ、三条。久しぶりに思い出話でもするか。少し付き合ってくれ」
クイッと飲む仕草をしてみせた御屋形様に、私は口元を隠して笑いながら、喜んで応じました。
今回もお読み下さり、有難うございます。
まずはまさかの2万文字突破。暇が有ったら、チョコチョコ書いていたのですが、まさかここまで増えるとは思いませんでした。脇役にスポット当てたりしてただけなんですが、意外に増える物なんですね。我ながら驚きました。
そして重要な点。
①戦国期最狂集団、一向宗との全面衝突になります。史実と違い、一向宗と敵対を選んだ(と言うより主人公によってドナドナされた)武田家の行く末を、今後もご覧ください。
②女地頭さんケコーン。ねねさん、ごめん。悪気は無いんだけどね、話の流れ的にこうなるのが自然かなあ、と。ともあれ、藤吉郎さん家はカカア天下となります。嫁の尻に敷かれて、それでも夫婦仲は良いんじゃないか、と妄想したり。
それではまた次回も宜しくお願い致します。